第35話

 気づけば、俺は美祈さんの家のトイレで用を足していた。


 ――あれ。何でこんな所にいるんだろう。


 ああそうだ。学校帰りに寄って、美祈さん謹製のどどめ色の小豆チャーハンを頂いたんだっけ。

 そこは赤飯じゃないのか。あれ? おかしいな、そこから前の記憶が無いぞ。

 そんな強化人間になってしまったかのような精神状態のまま水栓レバーを引き倒す。


「本当に久しぶりね、夏生」

 小一時間悶絶し、友達になりかけたトイレから出た所で、美祈さんが話しかけてきた。


「最近、来てくれないんだもん。すっごい寂しかったわ」

 案内されるがままリビングに戻る。

 椅子に座ると、美祈さんはどことなく、嬉しそうな顔だった。


「そう言えば、環季ちゃんは?」

 組んだ腕に顎を乗せて微笑む。上目遣いで見られると何か恥ずかしい。


「ていうか、俺が赤坂と一緒に来るの前提みたいに言うのはやめてください」

 冗談みたいなノリで言い返すけど、心は結構辛かった。

 教室の赤坂はクラスの皆と不自然に距離を置いていて、仲が良かった女子と話している時も他人行儀な振る舞いをしている。

 しかし、その素振りは赤坂の素を知る俺には、とても無理をしているように見えるのだ。

 そこまで考えた所で、俺は差し出されたグラスをぐっと握り締めている両手に気づく。


「あの、美祈さん――ちょっと最近の事で話したい事があるんですけど」

「なぁに?」

 俺が切り出すと、美祈さんはいつもと違わぬ抱擁感に溢れた表情で首を傾けた。


「なるほどね。ちょっと会わない間にいろいろな事があったのね」

 感慨深げに何度も頷く美祈さん。

 俺がここ最近の赤坂の様子や、こうなった顛末を話している間も、彼女は文句の一つも言わず聞いてくれていた。


「教室で赤坂が無理矢理作る笑顔を見る度、俺は思うんです。何でこんな事になっちゃったんだろうって」

 一通り話した俺はコップの水を口にする。


「つまり、ナツってやっぱり環季ちゃんの事好きなの?」

「はあっ!?」

 瞬間、むせかけた。

 美祈さんは、そんな俺を見てにやにやしている。


「別に、そういう訳じゃなくて……赤坂と話していると俺は細かい事を気にしなくて済むんです。気兼ねなく話せるっていうか……」

 彼女と話をしていると、俺は素の自分でいられる。それはまるで、何も気にせず友達とやり取りをしていた昔みたいだった。

 小学時代の俺は確かに、いろんな事を言い合えたけど、嫌な事も言われて傷ついたりもした。

 そうやっている間に、俺は本心を言わずに胸の内に押し込めるようになってしまったのだ。


「俺はいつも他人にどう思われるか気にしちゃうんです。だから、一歩引いた接し方をしてしまう。でも、赤坂は俺が一歩引いたところまで勝手に踏み込んできてくれるんだ」

 だから、俺もありのまま接する事が出来たけど、それももう無くなってしまったな。


「嫌われちゃったんだ。俺」

「ナツは優しい子だからね。今も環季ちゃんの事を考えてるんでしょう? 分かるよ」

 美祈さんは静かに言い聞かせてくれるけど、逆に俺の神経をざわつかせる。


「優しい? それは違うよ、美祈さん」 

 咄嗟に出た声は驚くほど低かった。こういう闇が深い設定は俺に無い筈なんだけどな。


「結局、俺は赤坂に自分の感情を押し付けているだけなんだ。今だって、どうしようもなくモヤモヤして美祈さんに愚痴るしかなくなってる」

 あいつが教室で辛そうにしているのを見ると、何故か俺まで辛くなってくるのだ。

 最近はそれこそ、もうずっと胃に穴が空きそうな状態で授業を受けていた。


「そうなんだ。でも――」

 黙って聞いていた美祈さんが、ふと顔を上げる。


「そういう、ぐちゃぐちゃして例えようのない気持ちを、っていうんじゃないの?」

「は? 俺が赤坂を好き……だって?」

「そうそう」

 いつもみたいなふんわりした雰囲気を醸し出しながら、肘に顎を乗せてこちらを見る姉貴分。


「いや、違うんだって……赤坂の事とか言いつつ、俺は結局、自分が教室内でモヤモヤしているのが嫌な訳で――」

 赤坂は皆を拒絶し、皆は赤坂を腫物のように扱う。分かり合おうとしない両者。

 別に俺は傍観者であって、赤坂みたいな居心地の悪い立ち位置にいる訳じゃない。

 でも、あの教室にいると、まるで毒の沼に胸まで浸かったような、言いようのない苦痛が身体の奥底から沸き起こってくるのだ。

 赤坂と出会う前の、いつも勝手に一人悩んで腹痛に耐え続けていた頃に戻ったみたいになるのだ。

 そんな自分をどうにかしたい。

 今こうやって美祈さんに愚痴っているのも、それが理由だ。


「分かるよ。悩んでる環季ちゃんを見ていたら、自分の事みたいに考えてしまうんでしょう?」

 しかし、あくまでも美祈さんは俺が善意で赤坂を助けたいと思っているらしかった。


「ナツって昔っから優しいお人好しだったからね」

 懐かしむような優しい目で何度も首肯する美祈さんは、俺を気遣ってくれている。

 でも、俺の心は何故か心は穏やかじゃいられなくなる。


「お人好しなんて。そんなもの、何の役にも立たないし」

「えっ?」

「皆は上手くやってるのに、俺は……全然駄目だし!」

 きょとんとした顔の美祈さんに、俺は行き場の無くなった感情をぶつける。


「例えば、俺のクラスには傲慢を絵に描いたような性格をした奴だっている」

 それでも、あいつ(西崎)は、グループの仲間にリーダーとして認められているんだ。


「我が強いってのは、それだけ人を引っ張っていく力があるって事だから。だから、ついていく友達がいるんだと思う。でも、相手に嫌われてまで強気で動くなんて俺には出来ないし」

 胸奥から迸る激流はまだ終わらない。


「――それに、どんな時でも要領よく何だってこなせる奴だっている」

 諌矢はいつもお茶らけていて言動や行動も奔放だ。悩みとは無縁に見える。


「それでも、クラスどころか学年でも目立つ存在のあいつ(諌矢)なんだから、周囲から浴びせられる羨望も嫉妬も相当の重圧があるに違いないんだ」

 そんな諌矢が気にせず上手くやっていけるのは、それだけ心が強いからなんだと思う。

 小学校、中学校、そして高校。成長していくにつれて心は複雑になって色んな事で悩むようになる。

 それでも皆、乗り越えて成長してきたんだろう。


「でも、俺はそんな風に成長出来なかった。いつも皆にどう思われるか気にして、怯えてばかりだったんだ」

 俺は皆みたいに青春なんてできない。いつか赤坂に言った、泣き言を思い出す。

 人との関わり合いから逃げて勝手に諦め、失望し、落とし所ばかり探る情けない生き方を選んできた。

 それはきっと、周囲の評価やら空気の読み合いやらに振り回されて、いちいち他人の感情を優先して、一人で勝手に気にして尻込みするようになってしまったからだ。


「優しいお人好し? そんなんじゃない。何物からも逃げて、自分に甘くして、それで結局何も成長出来なかった。しようともしなかった意気地なし。それが俺の正体なんだ」

「私はそんな事ないと思うんだけどなぁー」

 俺の言葉に被せるように、間延びした声。


「えっ⁉」

 気づけば、対面の美祈さんが俺の手をぎゅっと握っていた。温かで柔らかな感触が伝わってくる。

「確かに、ナツは自分に甘いとは思うよ? でも、それと同じくらい人にも甘く出来る、そんな優しい子なんだよ。そういう人って、この世界にはすっごく少ないと思うんだよね」

 くん、と首を頷かせながら、美祈さんは続ける。


「だって、ナツの話しぶりからすると、素直にその人達を認めてるって事でしょ? 自分よりも凄い人達だって」

 天使みたいに微笑む姉貴分から目を背けた。


「単に妬んでるだけだって……」

「違うわ。そういう自分とは違う人達を否定しか出来ない人だっているのに。良い所を見つけて羨む、それのどこが悪い事なの?」

「幼稚園の先生みたいな宥め方ですね。それに暴論すぎるよ」

 こんなに温かい言葉を掛けられているのに、励まされているのに、許されているのに。

 それでも俺は、彼女に憎まれ口を叩く事しか出来ない。

 しかし、美祈さんは不貞腐れる俺を言い聞かせようなんて事はしない。


「ねえ、ナツ。冬青に合格してくれて本当にありがとうね」

 立ち上がり、窓の先の庭を見ながら決然と言いきる。その美しい横顔に釘付けになった。


「何を話し出すかと思えば、今更受験の時の話ですか」

「ううん。こんな風に、また昔みたいにお話できて、私は嬉しいよって言いたかったの」

 親戚で昔からの馴染みとは言え、美祈さんは、街ですれ違ったら振り返る男がいないくらいの美人だ。

 こうも直接、褒められたり笑顔を向けられると恥ずかしくなる。


「俺は別に……美祈さんの家がたまたま近くて、それでトイレに寄れるから志望しただけです」

「たまたまでもいいよ」

 そう言って、にこりと頬を緩める。穏やかで優しい、とろんと揺れる鳶色の瞳。


「ナツにとってここが落ち着ける場所なら、トイレ借りるだけじゃなくても遊びに来てよね。それで、また悩みがあったらお姉さんに全部ぶちまけちゃっていいんだよ?」

 あざとく首を傾げる。はらりと、亜麻色の髪が揺れ、夕焼けに煌めいた。

 背後に掛けられた壁の時計は、既に夕方の六時を回ろうとしている。


「たまたま……ね」

 小さく息を吐くと、頭の中で色々な事が巡った。

 高校受験だけの話じゃない。

 例えば、美祈さんがこの界隈に新居を建てていなかったら。

 例えば、たまたま俺が赤坂と校外で会っていなかったら。

 今こうやって話していた事だって無かったのかもしれない。下らない事で悩んだままでも、赤坂の事まで抱え込んで、いっぱいいっぱいになる事も無かったのかもしれない。

 本当に俺は要領が悪い生き方をしているな。


「ナツはいつも他の人を優先して考えてる。それはきっと、環季ちゃんも、他の皆もぜーんぶ。信じたいからなんだと思う。とんでもないお人好しだよ、やっぱ」

 夕陽を蓄えた美祈さんの瞳。俺を捉えて離さない。 


「人を騙したり、傷つけるのを簡単に出来る人はいるわ。けど、誰かを信じ続けられる人って、世の中ではずっと少ないと思うんだ。ナツみたいに環季ちゃんの事まで考えて自分が悩んじゃうとか、誰にでも出来る事じゃないって」

 窓辺から差し込んだ西日は俺の顔をも照らしつける。眩しい光に思わず額を手で覆う。


「そんなお人好しで、いつも人の事ばかり考えてるナツだからさ。たまになら、自分を優先してあげて。環季ちゃんに一度くらい、迷惑かけちゃってもいいんじゃない?」

 太陽を逆光に浴びながら、美祈さんの影をぼんやりと見ていた。

 赤坂とちゃんと向き合って話してみろ。そう言いたいんだろう。


「赤坂はめちゃくちゃキレると思いますよ。どう返されるか想像もつかない」

 川原でやり合ったのを思い出して、俺は身構える。


「大丈夫でしょ」

 しかし、美祈さんは速攻でそれを否定すると、ゆっくりと首を振って見せた。


「ナツのお人好しっぷりを十分知ってる環季ちゃんなら――分かってくれるよ、きっと」

 お前は何を言っているのか。

 そんな風に呆れたような、それでいて、優しさに満ちた表情。

 遠い昔にも彼女はこんな風に励ましてくれたのを俺は思い出した。

 確か、その時の美祈さんは赤坂と同じ冬青の制服に袖を通していたっけ。


「本当に……本当に、姉ちゃんは……」

 昔から変わらない。おっとりしているのに、中は鋼鉄みたいな芯が通っていて熱いんだ。


「北風と太陽で例えるなら、美祈さんは圧倒的に太陽だね」

「でしょう?」

 ぽかぽかするような笑みを浮かべる美祈さんの頬。オレンジ色に染まる。

 やっぱりこの人も、俺を笑えないくらいの性善説で生きているタイプだ。

 旅人が重い服を脱ぎ去ると信じていたから、太陽は旅人を温かく照らし続けた。

 諦めさせようとしない。支え続けようとする。俺とは似ていても圧倒的にその一点で違う。

 でも、俺はこの人の従弟なんだ。美祈さんが出来て俺が無理だなんて理由はない。

 そう思いたくなった。


「分かりましたよ。赤坂と話してみる」 

 肺の隅々から空気をかき集めて出したような、大きな溜息が漏れる。


「ありがとう、美祈さん」

 美祈さんに信じられている。それが分かるからこそ、俺はおだてられるままに頷く。

 これでもう、この話は終わりだ。

 迷いを振り払いたくて、俺は椅子から立ち上がる。


「送るわ」

 すると、美祈さんもスリッパをパタパタさせてついてきた。


「うわあ、いい夕焼けね」

 玄関のドアを開くと、一向に沈みそうにないオレンジ色の塊が俺達を出迎える。

 もしかしたら、俺を元気づけようとしているのかもしれない。そこまで巡らせた所で、やっぱり美祈さんの言う通り、俺は人を信じたいのかと、自嘲が零れる。

 俺はこの姉貴分に頭が上がらない。同時に、一層赤坂とちゃんと話さなくてはと思った。


「ナツ達を見てると、私も冬青に通ってた頃に戻ったみたいになるんだよね。だから、また二人でここに来てね」

 こちらを振り向いた美祈さんと目が合う。

 新しい建材の匂い。芳香剤の石鹸みたいな香り。この空間は優しさと温かさで満ちている。


「じゃあ、今度は赤坂も連れてきますよ。美祈さんのクソまずい料理、食わせまくってやる」

 美祈さんは小さく、頷き返す。肩までのミディアムショートがふんわり揺れるように舞う。


「うん、待ってる」

 料理音痴の従姉をディスる目的の、きつい冗談を言ったつもりだった。

 しかし、美祈さんはそれに一切ツッコミを入れる事無く、天使みたいな笑顔を絶やさない。


「ありがと、美祈姉ちゃん」

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