第13話
目覚めた場所はもう教室ではなかった。
俺はベッドの上にいて、周りはピンク色のカーテンで囲まれている。
「保健室か?」
額の妙な感触に手をやると濡れたタオルが掛けられていた。体温ですっかり生暖かかくなったそれを枕元にどける。
「そうか。俺、あのままぶっ倒れて」
ハッとしてスマホを取り出すと、時刻はとっくに正午過ぎ。
俺は一時限目の途中からずっとここで寝ていたと言う事になる。
「ん? 起きた?」
勢いよく白いカーテンが開かれ、その先に立っていたのは赤坂。
どうやら、俺が目を覚ますのを待っていたらしい。
「ほら、朝から食べてないんでしょ?」
放物線を描いて飛んできた物体を、反射的にキャッチ。手の中でくしゃりと潰れたそれは、購買で売られているジャムパンだった。
「いいの?」
「さっさと食べなよ」
俺は袋を開けてかじりつく。
パン生地は飾り気のない酵母の風味しかない。口の中の水分が一気に吸い取られる。と思った矢先、いちごの甘酸っぱさが口内に広がった。
「……!」
ジャムの酸味が忘れていた空腹感を呼び起こし、俺はあっという間に平らげる。
「ただの購買のパンだよ? そんなに幸せそうに食べられるなんて……本当、羨ましい」
どこか呆れ顔の赤坂。しかし、その表情にはどこか暗い物が宿っている、俺にはそう見えた。
しかし、それも束の間。赤坂はいつもの隙の無い表情に戻る。
「一之瀬。本当にご飯抜いてきたの?」
「ああ、昨日の晩と朝。念のために水分も摂らずに来た。トイレに行きたくなかったからね」
気を取り直して尋ねてきた赤坂に、俺はそのまま正直に答えた。
「呆れた。ここまでするなんて」
「悪かったな。俺はくだらない事に躍起になるんだよ」
自分の腹の為なら何だってする、それが俺なのだ。赤坂に見下されようが、ドン引きされようが、できる最善があるなら尽くすだけだ。
「どうかした?」
ふと、赤坂が何も言わなくなっていたのに気づく。彼女は険しい顔で、何故か俯いていた。
「な、なに……まだ呆れ足りない?」
「ううん。別に。そういう訳じゃないけど……」
気まずくなって問いかけたのだが、赤坂は辺りに目を向けた後で、もう一度俺を見る。
「何というか、一之瀬。あのさ」
「何だよ?」
俺の言葉に小さく首を振り、迷うような素振りの赤坂。そして、思いもよらない行動を取る。
「こうなったの多分、私のせいだ。ごめん」
「は?」
突然頭を深く下げられ、俺は呆然とするしかない。
何で?
そんな疑問が顔に出ていたのだろうか。頭を上げた赤坂は、露骨に表情を曇らせる。
「だって、そうじゃない? 私が下らないクラスの噂なんかに拘らなければ……一之瀬だって、ここまでやらなかったでしょ?」
それでも俺は釈然としない。いつもの赤坂は俺を罵倒する言葉を雨あられみたいに飛ばして来る。こんな事で謝りに来るなんて律儀すぎる。
「わざわざ様子を見に来たり、差し入れ持ってきたり……赤坂って、もしかして良いヤツなの?」
「今頃気づいた? こう見えて、私された恩は絶対に忘れないタイプなんだけど」
そこで初めて赤坂はいつもみたいに不敵な顔で笑う。釣られるように、俺も自然と頬が緩む。
「そうだな。おまけに執念深い」
「うっさい」
ベッドから出ると、赤坂は付かず離れずの距離でついてくる。それが何ともむず痒い。
「もう、いい時間だなあ」
壁の時計を見ると、丁度、昼の一時を周った辺りだった。
「付き合わせて悪いな……謝るのは俺の方だよ」
試験期間は午前授業と同じ日程が続く。本来ならば、赤坂も今頃は家で試験勉強をしている筈なのだ。
「何で一之瀬が謝んの」
「だって、俺なんかのせいで、赤坂の貴重な勉強時間無駄にしちゃったし」
答えながら窓辺から外を眺める。広がる校庭は無人。遠くには、山並みが薄っすらと見えた。
「私は別にいいし。それに、明日は理系科目が多いから楽勝。それよりも自分の心配したら?」
そう言って、俺の胸元を人差し指で小突く。
「つーか何。逆に心配されるなんて思わなかったんだけど?」
「ううっ……」
俺は思わず顔を背けた。
長い睫毛を瞬かせながら、こちらを凝視する赤みがかった虹彩。彼女の整った顔立ちを間近にすると、鼓動が自然と早まってしまう。
「だって俺、好きな科目の授業とかテストでは腹が痛くなったことがないし」
「一度も?」
まだ怪しんでいる赤坂に俺は強く頷き返した。
実際、好きな科目の時間が苦にならないのは本当の話だ。腹も痛まなければ、時間だってあっという間に過ぎ去る。
「ま、今日の分は追試確定だからな。切り替えていく」
俺は赤坂を差し置いて歩を進めた。このまま保健室にいてもどうにもならない。
「それに、駄目なら他の教科で高得点あげて汚名挽回するだけさ」
去り際にカッコつけるような台詞が飛び出すが、赤坂の反応はない。気まずい。
「……名誉挽回でしょ? 汚名重ねてどうすんのよ。今日の現代文、普通に受けても赤点だったんじゃない?」
そっちかよ。相変わらず歯に衣着せぬ物言いだ。
「悪かったな。国語力が足りない現代の若者で」
俺はそのまま保健室の扉に手を掛け出ていこうとするのだが、
「ちょ、待ってってば」
瞬間、俺の袖を赤坂が掴んだ。華奢な身体つきの癖に結構力がきつい。
「なに、何なの。まだ何かあるの?」
「あのさ。ついでに聞こうか迷ってたんだけどさ……やっぱ、今の内に聞いといていい?」
顔を上げた赤坂が唇を引き締める。
「今更、他に聞く事があるのかよ?」
「……あんたさ。告白されたっしょ?」
一瞬、頭の中が真っ白になる。
脳裏に再生されるのは数日前の校舎裏の風景。クラスの女子に呼びつけられた俺は腹痛に襲われ、何も答えられずに逃げ帰った。
後日、あの告白は無かった事にしてくれと言われて終わった。
しかし何故、赤坂がその出来事を知っているのか。
「何で断ったの?」「何でお前が――」
俺達は同時に言いかけ、そして黙りこくる。
もしかしたら、赤坂は彼女と共謀して悪戯を仕掛けてきたのだろうか。
でも、待て。
そうなると、告白の場からへっぴり腰で逃げ出した俺の醜態は既に女子の間で広まっていて――なんてこった。これじゃあ明日の勉強どころじゃないよ!
「あの手紙入れたの……私だから」
狼狽している所に差し込まれた、思いもよらない一言。
はっとして顔を上げると、赤坂は何とも気前悪そうに表情を曇らせる。
「だから! 私があんたの下駄箱に手紙入れたの!」
「ええ!? ええーっ!?」
俺は二度叫ぶ。
あまりに驚愕の事実。今日一日の疲労感も空腹感もどこかに行ってしまった。
「あの子――渡瀬奏音(わたせ・かのん)は同じ中学の顔見知りだし」
「へ? 同じ中学だって?」
こくんと頷いたきり、赤坂は眼を合わせてくれない。
俺の袖先を摘まんでいた細っこい指先もゆっくりと離れていく。
「まあ、三年の途中で奏音の方が転校しちゃってそれっきりだったんだけど。でも、まさか同じ高校で一緒のクラスになるとは思わなかった」
旧知の仲というやつか。それなら、赤坂が頼まれて俺の下駄箱に手紙を入れるのも納得できるかも。
ていうか、下の名前も知らないままに告白を受けたというのか俺は。我ながら酷い。
「まさかな。赤坂と渡瀬さんが知り合い同士だったなんて」
「だってここ、田舎じゃん。高校で昔なじみと再会なんてよくあることでしょ?」
何か問題があるのかとでも言いたげに、赤坂が腕を組んで睨みつける。
「そうなのか、よくわからん」
「――そんなことよりさ。何で断ったの? 意味わかんないんだけど」
追及しにかかる赤坂。その目の奥には言いようのない迷いとか苛立ちみたいなのが見えた。
渡瀬さんは勇気を出して呼び出したのに俺は答えも言わず背を向けて逃げ出した。
友人として赤坂が俺に怒りや疑念を抱くのも仕方ない。
「俺、腹が痛くてあの場から逃げ出したんだ。彼女ドン引きしてた」
俺は小さく息を吐いて、あの日の事を話す。
「結局、あの後に告白は無かった事にしてくれって言われたんだ。振られたんだよ、俺」
告白から逃げる無様な背中は、彼女の熱を冷却するのには十分過ぎた筈だ。
「何よ、その真相。もったいな。ヘタレ過ぎない?」
黙って話を聞いていた赤坂は、その情けなさすぎる真相を知った途端、豹変する。
「あーあ。冴えないあんたでも、彼女できるチャンスだったのに。何やってんだか」
そこまで言った所で、赤坂は俺に向けてこれ見よがしに溜息を吐いて見せた。
「ま、一之瀬って恋愛とか本当わかんなさそうだし、仕方ないか」
畳みかけるように俺を見下すように横目で睨む。終始、馬鹿にされっぱなしだ。
実際にあの場で腹痛に襲われた俺は逃げるしかなかったが、こうも一方的に好き勝手言われるのは、やっぱり腹が立つ。
「そもそも俺、恋愛とかそういうの……無理だし」
気づけば、俺は行き場のないモヤモヤを赤坂へと向けていた。
「はあ?」
彼女を作る作らない以前の問題。それでも、俺にとっては事実なんだからどうしようもない。
「皆は普通に授業して、恋人も作って青春ってヤツも簡単に出来ちゃうんだろうけどさ。俺には皆にとっての普通が恐ろしく難しいんだ。彼女とか恋愛とか、分かる訳ないじゃないか」
床の継ぎ目を見ながら、一人ぼやく。
「今は単位を取るので精いっぱいだし、勉強についていく余裕も無いんだ。恋愛? 彼女を作るチャンス? 好き勝手言うなよ。俺は赤坂みたいに上手くやれる人間じゃない」
ごく普通の授業中ですら、俺にとっては腹痛との戦いだ。勉強どころじゃない。
何事も無く高校生活を楽しんでいる連中には、俺の悩みなんて到底分からないだろう。
その不満を赤坂に感情のまま、ぶつける。
「あんたのそういう根性――本当腹立つ」
暫くの間、赤坂は俺の話を黙って聞いていたのだが、
――ダンッ。
靴を鳴らし、俺に肉薄、
「それ、やっぱり治さねばまいね!」
そのまま胸元を二本指で小突いて来た。
「くっ……痛え。今度は二本かよ」
息も出来ずにうずくまる俺。見上げた先では赤坂が仁王立ちで腕を組んでいた。
「しっかし、何で奏音はこんな男に告白しようと思ったんだろ。見当もつかない」
その顔は苦虫を潰したようで、心底不可解だと言いたげだ。
「そもそも、一之瀬って奏音と会話すらしたことなくない?」
もう一度、バカにするような顔。俺が女子と話すらまともに出来ないと思っているのだろう。
けどな――
「一応……ある」
俺は立ち上がり、赤坂に負けじと言い返す。
「はあ?」
思いもしなかったのだろう。
俺のカウンターに目をぱちくりさせている赤坂。組んでいた腕が自然と落ちていく。
「入学式の朝なんだけどさ。目の前でスマホを落とした女子がいたんだ」
そこで初めて。俺は誰にも言わなかった、言うほどでも無かった些細な出来事を打ち明ける。
「彼女は自分が落とし物をした事すら気づいていなかった。だから、俺はそれを拾って手渡した。今になって思えば、その女子が渡瀬さんだったなあって」
でも、本当にそれだけだ。
だからこそ、あの呼び出しを受けた日には驚いたのだ。
たった一度、そんなやり取りをした相手に告白だなんて非現実的だ。結局振られたけど、それでも俺は、未だに悪戯だったんじゃないかと思う時がある。
「そんなやり取りを今の今まで忘れていたの?」
一通り聞いた所で、赤坂は呆れたような視線をくれる。
「入学式で緊張してたから必死だったんだよ」
他にも受付で先輩の説明を受けたり、教室前では同じクラスになった男子に挨拶をされたり、あまりに初めての事がありすぎて記憶の底に埋もれてしまっていたのだ。
ここで赤坂に馬鹿にされて追及されるまで、口にしようとも思わなかった話だ。
「じゃあ、そういう何気ない親切な行動が印象に残ってたんじゃないの?」
聞いていた赤坂は暫く黙考した後、俺を見て小さく呟く。
「そうなのか?」
「し、知らないから」
俺が詰め寄って確信を求めると、赤坂は糸くずを丸めたような顔をして一歩退く。何故かしどろもどろ。
「適当に言っただけ。何で私に聞くの。ていうか、振られたのに未練タラタラでちょっと引く」
「投げっぱなしかよ。渡瀬さんとは昔からの友達じゃないのか」
「そもそも、中学の途中で転校してからは連絡も取ってなかったし。私があの子の事を知ってるとか期待されても困る」
普段の隙の無さ、用意周到さに比べると偉く大雑把だ。ぶん投げたような言い方。
「そんなもんなのかよ。女子の友情って」
「一之瀬。あんたってちょっと女子に幻想抱きすぎじゃない?」
もう一度、ぐっと距離を詰めて睨んでくる赤坂。その端正な顔立ちに息を呑む。
「それに、彼女とは顔見知りってだけだし。だからといって、頼まれたら断れないじゃない?」
「つまり、同じ中学の出身ってだけで、手紙を入れるのを赤坂に頼んだのか?」
俺は少しだけ鼓動が早まったけど、悟られないように言い返す。
「いや。それは単に、私が一之瀬の席のすぐ前だったからじゃない? あと下駄箱も近いし」
しかし、俺のそんな心境など分かる訳もなく、赤坂は可愛らしい顔で現実的なジャッジメントを下す。酷いや。
可愛らしい見た目から想像できないドライ過ぎる発言。俺の方こそドン引きだった。
「まあ、どちらにせよ終わった事でしょ? いつまでも気にしてもしょうがないよ?」
そう言って嗜虐心たっぷりに笑みを作る。
やっぱり俺、バカにされてるっぽい。
おまけに、俺に関して言えば相手に呼び出された上での失恋だ。こんなのってないよな。
「ま、でも……」
少しだけ俺に目をくれる赤坂。どことなく口調が穏やかになった。そんな気がした。
「そういう無償で人を助けられる所ってある意味長所なのかも」
何を言うかと思えば……
「褒めてんの? それともフォローしてるつもり?」
「馬鹿にしてんだけど?」
片目を意地悪く細めながら、俺を横目で睨みつける。
「結局、そのふざけた体質を何とかしない限り、一之瀬はいつまでもこんな目に遭うって事じゃない。それ、分かってる?」
赤坂はツーサイドテールに指を通して、鬱陶し気に払った。
「だから、直さないと駄目だよ」
そして、これこそが本来言いたかった事実なのだと俺を見て腕を組む。
「なに、その言い方だと俺にまだ協力するつもりなのか?」
「協力? いいえ、違うわ。一之瀬がこのままだと、私が迷惑被るって言ってるじゃない。昼休みの外出の件はともかく、今日のテストだっていい気持ちがしないのよ」
要は、自分の中で踏ん切りがつかないから俺を何とかしようとしているというのか。
「赤坂って変なところに律儀なんだな」
「う……うっさい。借りを返すってだけの話だし。もういい。帰るね私」
赤坂は要件が終わったのか踵を返す。
ぶつぶつと『もうこんな時間じゃん』とかぼやいているけど、俺に構い続けたのは赤坂なんだよなあ。
「ありがとな、赤坂」
保健室の扉に手を掛ける赤坂。俺はその背中に何気なく声を掛ける。
「明日のテスト、ちゃんと受けなよ」
赤坂は振り返ると、小さく息を零しながら口を開く。
「ああ、お前にあれだけ言われたらな」
そう答えると、赤坂は少しだけ口角を上げる。
「あと、ご飯もちゃんと食べなきゃだめだよ?」
振り返ったままの赤坂はじっとこちらを見ている。まだ出て行かないらしい。
「分かってるって。お前は俺のかーちゃんか」
「うっさい」
ぴしゃりと扉を閉め、赤坂は今度こそ行ってしまった。
俺は、鳩が豆鉄砲を喰らった顔で立ち尽くす。窓の向こうから聞こえてくるのはスズメの鳴き声。
「人の事をお人好しとか言う割に、あいつも相当だよなあ……」
自分でどうにもできないままだった俺の体質。それを赤坂は直してやるんだと豪語してみせた。それ程までに校外で俺と出くわすのが嫌なんだろう。
「帰ったら、試験勉強か」
恐る恐る保健室のドアに手を掛けると、既に赤坂の姿は廊下から消えていた。
腹に何を詰め込んでから勉強しようか。
消化にいい物が良い。明日も腹を壊すなんて事になったら最悪だ。
そんな事を考えながら帰路についた。
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