第12話

 今日は定期試験初日。その一発目は、よりによって大嫌いな現代文だ。

 試験とは、これまで学んだ知識のありったけを、A4の答案紙に叩き込む為の時間を言う。


(参ったなあ。問題が全く頭に入って来ない……)


 だが、皆が必死に問題を解く中、俺は試験内容とは全く別の物に支配されていた。

 問題の内容を脳が理解してくれないのだ。その理由は腹痛のせいでは無い。


(腹減った……)

 俺は用紙前半をびっしり埋める文学問題を流し読みしながら、思い出す。

 それもこれも、全部諌矢の野郎のせいだ。


『出るものが無ければ、腹痛はおろか下痢だって起きない』

 つまりは試験前に胃腸を全て空っぽにしておけばいい――それが諌矢の主張だった。


『成程、いい案だ。天才だよ、お前!』

 俺は諌矢の背中をバンバン叩きながらその作戦に乗った。

 対照的に、赤坂は終始怪訝そうな顔を浮かべていたっけ。


『……そう上手くいくものかしら?』

 彼女はあまり信じていないようだったが、その時の俺は有頂天で気にも留めなかった。

 やはり、赤坂の懸念は正しかった。

 俺は、腹が減ると虫が鳴くという、至極当たり前の生理現象を忘れていたのだ。

 昨夜と今日の朝。二食も抜いてしまったせいか、空腹感だけでなく体全体がフラフラする。

 満を持して水分まで摂らなかったのもいけなかったのかもしれない。

 カロリーを求め続ける生存本能だけが先行していて落ち着かない。幼い頃から慣れ親しんでいる平仮名と漢字の文字列がヴォイニッチ手稿とか解読不能の奇怪な暗号に見えてくる。

 前席では赤坂が背中を丸めて必死に問題を解いている。いつもはきつい物言いの赤坂だが、進学校に入る頭は確かに持っているようだ。

 カリカリ、トントンと刻まれる鉛筆の音。難問を次々と撃破しているのが音だけで分かる。

 きっと、答案用紙は順調に埋まっている事だろう。


「残り、あと五分だ。見直しとけよ~」

 教卓で退屈そうに声を上げたのは試験監督を務める教師だ。

 そこで俺はある事に気づく。


 ――ヤバイ、まだ半分も解答が出ていない。


 焦りながら問題用紙をめくると、何とその先にも文章問題。しかも、先ほどまでの物語形式の文学ではなく、学者の持論がひたすら羅列された評論文だ。

 アレだのソレだの抽象的な言葉ばかりで、結局何が言いたいのか分からない。三行でまとめてくれ。

 一通り目を通すが、さっぱり分からない。空腹と焦燥感で、落ち着いて問題を解く為の判断力が欠如している。

 ええい、こうなったらヤケだ。俺は机の端に置いていた予備の鉛筆を手に取った。

 鉛筆の六面には数字が刻まれている。事前に迷った時の為、鉛筆サイコロを作っておいたのだ。

 長ったらしく似たような選択肢を見ていると、頭が焼ききれそうだ。

 それら、番号を選択して答えるタイプの問題を優先してサイコロで片づける。


 えいっ――そんな風に心の中で叫んで鉛筆を転がす。何度も、何度も。

 殆どの生徒が解答を書き終え静寂に包まれた教室で、机上を転がる鉛筆の音だけが虚しく響いていた。

 視界の端で、隣の女子がこちらの様子を気にしているが、それでも止めない。カランコロンという音は木霊し続ける。

 残り何分だろう。俺はふと、教卓前の時計に目をやった。


 あれ? 何か、おかしいな。


 見上げた先の壁掛け時計は、輪郭を大きく歪ませていた。

 ドラ〇もんでタイムマシンに乗っている時の空間みたいに、歪んだ時計がいくつも浮かんで揺れている。

 極限まで達した空腹感のせいで、とうとう視界が回り始めたのだ。

 まずいと思った時には遅かった。俺の上体は机から転げ落ち、派手な音を立てる。


「そこ、一之瀬……大丈夫か!?」


 ざわめきと急ぐような足音が遠くで聞こえて、俺の意識はそこで途絶えた。




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