神里(紙束)文月 / Fumituki Kamizato


 どうしてこうなった。おかしい、と思わず首を捻ってしまう。


 僕は神里かみざとに籍を埋めて、一生を終えるつもりなんてなかった。だから、七瀬さんが神里兄妹に嫉妬を感じていることが契機だって感じた。


 なんのために撹乱したと思っているのだ。七瀬さんに優しい言葉をかけるのは、本来僕だったんだ。


 如月と睦月には、紙束かみさとの他の面子を婚約者として当てがう。僕は政治家となり、日本の政を動かす。そして目的を果たすんだ。七瀬さんは、そんな僕をサポートしてもらう。


 そう思っていたのに――神里は、僕が思う以上に強大だった。与党を顎で使い、今回の件を揉み消した。そんなこと、何ら造作ないと言わんばかりに。


「私は――」


 七瀬さんがボソリと呟く。この際だから、内に隠して気持ちを、全部言っちゃえば?


 そう促したのは、如月きさらぎだった。コイツはいつもこうだ。お嬢様だから、何も分かっちゃいない。内に秘めた感情は、こじ開けられたら反発する。だから僕が。この後ゆっくりと解きほぐす。それは、ガサツな睦月むつきでは到底、無理で――。


「ずっと、みんなに馴染めていないと思っていました。それこそ、ティーカップの底に残る、溶けきらない砂糖のようだって。私はずっと異物だって……」


 七瀬さんは、用意された紅茶に手を当てながら言う。それは、確かに気持ちが悪いなって思う。そして、神里は外部対してに排他的な土地だ。彼女が感じた感情は良く分かる。やっぱり、彼女に相応しいのは僕で――。


「そうか?」


 そう言ったのは睦月だった。コイツは何を言ってるんだ。本当にデリカシーがない。寄り添うとことすらしない。お前はやっぱり、七瀬さんのこと全然分かって――。


「その砂糖、俺が掬って、舐めたら良いじゃん」

「……え?」


 七瀬さんは、目をぱちくりさせていた。いや、僕も。実際、睦月が何を言いたいのか分からない。


「だって、特別に甘そうじゃん。俺だけが、そんな向日葵ヒマを掬って舐められるワケだろ? 甘党としては最高じゃんか」

「え……う、うん。うんっ!」


 あぁ、七瀬さん。どうして、君はそんなに嬉しそうに笑うの? 本当の意味で神里に入る意味を君は分かっていない。

 と、急に思いついたと言わんばかりに、睦月は手を打った。


「そうだった……今日、ホワイトデーだった。まだ、バレンタインのお礼を渡せてなかったよな?」


 睦月が照れながら紙袋を渡す。いや、その時点でもう気色悪い。クッキーは良いとして、狼のぬいぐるみ? それは無しじゃないか? あまりに七瀬さんを子ども扱いしすぎだ。


「……嬉しいっ」


 えぇ? 

 なんで七瀬さん、それを喜べるの?


「あのさ。それはどちらかと言うと、如月きさが提案してくれて――」

「ふふっ。前に遊びに行った時ずっと、釘付けだったでしょう。なんとなく、睦月をイメージしていたのかなぁ、って思っていたんだ」


 悪趣味! 

 そして――やっぱり、嬉しそうに微笑む、七瀬さんの気持ちが分からない。さらに一番意味不明なのが、本命のプレゼントはピアスって。明らかに無縁な子に送る、プレゼントじゃないと思う。


「ひま、欲しがっていたもんね」


 え?

 如月の声に、つい呆然としてしまう。

 ウソでしょ?


「あ、あの……。むつ君?」

「あん?」

「わ、私……初めてだから、その……優しくしてね?」


 言い方!


「バカだね、ひま。勝手にやって化膿したら大変でしょ? そういうのは皮膚科の先生にやってもらうの。うちの嘱託医にお願いするからね。でも、そうだね……一瞬で終わるけど、施術の間は睦月むつに手を握ってもらうの、どう?」

「うん! お願いします!」


 うわぁ、最悪。七瀬さんは今すでに完成しているのに、体に穴を開けなくてもと思ってしまう。


「ねぇ、文君?」


 如月に声をかけられてはっと我に返る。ふんわり笑みながらも、その目はまるで笑っていない。何もかも、見透かされ。何もかも、知っていると言わんばかりの目で、僕を見る。


「ひまちゃんのこと、見すぎ。私のこともちゃんと見てね?」


 ――にしていることと、自由を履き違えないでね?


 如月にそう呟かれ、背中がぞわりと粟だった。ぎしぎし首を回し、ゆっくりと視線を向ける。


「私達もキスしちゃう?」

 にっこり笑む。唇が艶やかで。ちろっと、イタズラめかし、舌で唇を舐める。


(呑まれるな、呑まれるな、呑まれ――)


 ガチガチ。歯が震えそうになるのを、なんとか奥歯を噛みしめ耐える。如月が、クスリと笑みを溢し、目を閉じかけた瞬間だった。


 コンコンコン。

 ノックの音。

 着物姿の美人が、僕らを見て微笑んだ。


「お袋?」

「ママ?」


 奥方様はまじまじと、七瀬さんを見る。表情を変えないマネキンのような美貌。その奥方様が笑んだのを、僕は初めて見たかもしれない。


「七瀬さん、睦月? 御館様がお呼びよ。如月、文君。二人も同席しなさい」


 凜とした声は、風に揺れた風鈴のように軽やかなのに――有無を言わさない、重圧感を感じたのだった。








■■■







 御館様。

 つまり神里家家長――神里綱かみざとつなは、茶室で菓子を食みながら僕らを待っていた。本来ならあり得ないことだ。


 大広間、すだれの向こうで、その表情カオを見せない、だいたい、家宰である、睦月の父が取り仕切る。県知事や、内閣総理大臣ならいざしらず。これは異例のことだった。


「楽にしなさい」


 柔和に、親方様が言う。僕は伏礼。だが、それ以外の面子は免除された。睦月と如月は、まぁ分かる。だが、七瀬さんが許されたのは、どういうことか。


「君が、七瀬さんか」


 声しか聞こえない。

 それぞれの息遣い。

 時々、茶を啜る音。

 菓子をむ音が響く。


「なるほど……。最近、睦月が柔らかくなったのは、七瀬さんのお陰か」

「うっせぇ」


 睦月は悪態をつく。この空気の中、そんな言葉を吐けるのは……認めたくないけれど、やっぱりヤツは大物かうつけだ。


 この圧しか感じない空気の中で、軽口を叩ける精神構造アタマが理解できない。


「それで、七瀬さんは儂に話があるんだったのかの?」

「はい」

 物怖じせずに、七瀬さんは頷く。


(な、七瀬さん……?)

 冷や汗がタラリと流れる。その御仁は気軽に物を言って良い人じゃ――。


「睦月君の謹慎を解いていただけませんか? もともとは私が原因なんです」

「ほぅ?」


 沈黙。

 長い。

 誰も言葉を発しない。


 圧がますます強まるのを感じる。

 まるで、首を絞められるような。


 息が、息ができな――。


 と。

 ズズズ。

 茶を啜る音がして、緊張が途切れた。


「……そうじゃのぅ。うちの睦月は、儂が手がつけられない暴れん坊で。正直、手を焼いているのだが」

「そんなことはありません」

「ほぅ?」


 御館様の声が強張る。待って、まって! 七瀬さん、落ち着いて。その人は本当に気易く声をかけちゃダメな人で――。


「睦月君は優しい人です。困っている人を見たら行動ができます。寄り添ってくれます。余所から来た私を、ずっと気にかけてくれました。が言うことは、何一つ当てはまりません」

「ふむ」


 七瀬さん、それ以上はダメだ。それ以上、御館様にたてつくのは――。


 がちがち。

 歯が打ち合う。止まらない。震えが止まらない。。


「名は向日葵か。良き名だ」

「ありがとうございます。お爺さんのお名前は、綱さんとお聞きしました。素敵なお名前だと思います」

「名を褒められるのは久方振りじゃの。これは照れる」


 七瀬さん?


「嬢ちゃん、こんな孫だがの。これらも、よろしくお願いできんか?」

「私の方がお願いしたいです」


「まずは……許嫁からはどうじゃろう?」

「へ?」


 ダメだ! 絶対に頷いちゃダメだ!

 神里に籍を入れることの意味を、君は分かっていない。無知で立ち入って良い領域じゃないんだ――。


「それは、むつ君のお嫁さんになれって、意味ですか?」

「お、おい! ジジィ!」

「お前は黙っておれ。むしろお前の願いであろう?」


 御館様は小さく笑む。


「どうかの、向日葵ひまわりちゃんよ?――無論、こやつが甲斐性無しなら、反故にしてもらって構わぬよ? お主の保護者も、嬢ちゃんの気持ち次第と言ってもらえたからの。だが、少なからず孫を思ってくれているように感じるが。どうじゃろう?」


 ダメ、ダメだ。本当に、引き返せなくなってしまうから――。

 とん。

 指がのびて、畳につく。


 その指先が心なしかあかく熱を宿しているように見えた。

 悔しいけれど、想像できてしまう。


 きっと七瀬さんは、はにかみながら満面の笑顔を浮かべている。


 そして、彼女には帰る場所がないことを僕は知っていた。

 三つ指をつくのが、背中越しに見えた。


 そんな古式なお辞儀を知っているのは、七瀬さんらしい。


 脱力するのを感じる。

 急に圧が抜けたのだ。





「ようこそ、殿へ。睦月、妻を支え、見事、添い遂げろ」

「……当たり前だろ」


「文月、お前はもう少し上手く立ち回れ、興ざめだ」

「も、申し訳ありません……」


「如月、部屋の準備を。成人までは、別室とせよ」

「承知しました」



たんたんたん。

 足音。音を刻む。


 襖が空く。

 そして、閉じられた。


 ガチガチ、歯が鳴る。なんとか、奥歯を噛みしめて。震えを止める。認めない、こんなこと認められない。


 歯を噛みしめながら。

 噛みしめて、血を流れるのも構わず。

 ぐっと、拳を固める。







 ――七瀬さんを、契りを結ぶのは僕なんだ。

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