第10話 驚きと戦慄と「球体」少女

 試合の開始前に、杏南あんなは、黄色い開襟シャツのすすきが、制服の日和ひなといっしょに、観覧席の高いところに座っているのを確かめた。

 日和は、ちょっと前屈みになって、これからの試合を楽しみにしている、という様子だった。ほんとうに楽しみなのか、薄を意識してそういう姿をして見せているのかはわからないけど。

 でも、薄はぼんやりしていて、コートを見てもいない。「こんなところに連れて来られて迷惑だ」という気もちがその散漫な座りかたににじみ出ていた。

 まあ。

 しかたないか。

 杏南が薄をめぐる気もちを吹っ切れても切り替えられてもいないうちに試合は始まった。

 ぱん、とボールをはたく激しい音で、杏南はわれに返った。

 いや、「われ」から心が離れていたとは思わない。しかし、それでも「われに返った」と感じた。

 それほどの驚きと戦慄が杏南の身体を走り抜けた。

 やがて杏南に渡ると思っていたボールが大きな球体に巻きこまれ、運ばれて行く。その球体は味方のだれに止められることもなく猛烈な勢いでゴール下に走り込むと、楽々とシュートを決めた。

 なに?

 目を見開いているのは杏南だけではなかった。

 味方の、サンドパイパーズチームの何人もが、その「大きな球体」のほうを見ている。

 何を考えられるわけでもないのに、見ている。

 そんな状態のところにボールが飛んでくる。

 味方の集中力がそがれていたからだろう。途中でそのボールは敵方の背の高い選手に奪われた。味方の選手が二人がかりでそのボールを取りに行く。挟み撃ちのような態勢になる。ボールを取った相手の選手は身動きできない。遠くにパスを出すしかないが、それを受けられる敵の選手はいない。

 そう思ったとたん、またあの巨大な球体が走り抜けた。

 二人の味方の選手のあいだをすり抜ける。すり抜けたときにはボールを取っていた。

 何?

 いちばん近くにいたのは杏南だ。

 杏南の身体が反応する。球体の正体は不明だけど、飛びかかる。

 ぱっ、と手を広げて球体の行く手に半身をさらす。敵にとってかわせない態勢ではない。でも、かわしてきたら、横を併走してボールを奪ってやる。杏南はそういうプレーが得意だ。

 しかし、かわさない。

 このままではぶつかる!

 杏南も譲らない。

 ぶつかったって、かまうものか。

 だが、球体は、杏南のすぐ前まで来て軽くくるんと旋回すると、ボールを敵方の選手にパスした。さっき二人の選手に囲まれて身動きがとれなくなっていた背の高い選手だ。マークが甘くなったところでボールを受け取り、そのままゴール下に走り込もうとする。

 なんとか味方が追いついて進路を遮る。パス。そのパスを受け取ったのはあの球体だった。そのまま走り込んでシュート、と見て味方が防ぎにかかる。ところが球体はふわっと浮いた。「ふわっ」という感じそのままでボールを投げる。ふわっと高い軌道を描いたボールはリングを通った。スリーポイントシュート成功だ。

 猛烈に動くだけではない。身体が風船になったように軽く浮き上がる。

 その球体が自陣に引き返すときに杏南のすぐ横を通り抜けた。

 球体ではない。

 普通の女子。

 背が低い杏南よりも背が低い。しかし、体はがっちりしている。がっちり、というより、太っている。顔の色は白い。広いおでこに前髪をまばらにぱらっと垂らしている。目が小さい。表情はあどけなくさえ見えた。

 そんな小さい子が縦横無尽に駆け回っている。それがコートを転がる球体のように見えたのだ。

 見えた、というより、感じた。

 杏南の体に熱いものが湧いてくる。それを「闘志」というのだろう。

 背が低くて、ボールに機敏に反応し、コートを駆け回って相手のやりたいことを次から次へと打ち破る。

 勢いよく突進すると見せて、高く跳んでふわっとしたボールを投げ、相手のペースを乱す。

 それは杏南。

 杏南のやることだ。

 そのお株を、杏南よりも背が低くて、杏南よりもあどけなくて、しかし身体のパワーとそこから発散される「猛烈さ」は杏南を上回っている、そんな女子が奪おうとしている。

 負けるものか!

 杏南の集中力がギア一つ上にシフトした。

 いまの杏南は、あの「球体」女の存在も計算に入れて、コート全体をその視界のなかにはっきりと収められている。

 行ける、と、杏南は思った。

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