第2話 記憶のない同窓


 僕は、辺獄の住宅区域に2LDKの住居を与えられた。一室一室がそう広いわけではないが、トイレと風呂が別の部屋になっているというだけで、かなり嬉しい。軍属だった頃よりも、遥かに待遇がいい。

 辺獄は大きな円形都市の構造をしている。目的に従って、大きく五つの区域に分けられており、僕の住む住宅区域は、東側に位置する。住宅の多くは、アパートやマンションのような集合住宅の構造をしている。辺獄でこなす役割によって、住人の住居も決められているらしい。

 ちなみに、この一帯の家々の材質も、すべて玄武の甲羅でできているのだが、最初に降り立った行政区域と異なり、住宅区域は白の翡翠に似た壁と床でできている。透き通った純白の家々は、気泡の整った氷を固めたような清潔感があり、とても綺麗だ。今の自分を取り巻く総合的な状況はともかく、住居のことだけを言うならば、今現在僕は、人生で一番いい場所に住んでいる。そう、自信を持って言える。

 僕に住宅を手配してくれ、案内し、生活のあれこれを説明してくれたのは、マイッタという御使だった。

 マイッタは、僕のいた世界で、魂の輸送を担当している御使だ。任務が終わった後、僕がヤキゴテつきだったというオッサからの連絡を受けて、僕のもとへ駆けつけたのだった。

「本当に、申し訳ありませんでした」

 かまぼこみたいな眉と目の、愛嬌のある顔をした少年の姿をしているマイッタは、大人顔負けの平謝りを見せた。僕としては、ルーレットを回せないはずなのに回しかけたことくらい、そう気に病むことではないと思うのだが、彼らからすれば大問題なのらしかった。

「ルーレット審判の代役が、ヨーマ先輩とセーレ先輩で助かりました。そうじゃなかったら、今頃、あなたのヤキゴテを見逃して、あなたの魂を損なっていたかもしれません」

 マイッタは、涙ぐみながら言った。

 ヨーマとセーレは、マイッタが来るより少し前に、本来の仕事に戻ると言っていなくなっていた。僕は彼に訊ねた。

「あの二人は、あなたの先輩なんですか」

「はい。とは言っても、輪廻課の所属ではないので、御使としての先輩なのですが」

 見た目だけで言うならば、ヨーマとセーレの方がマイッタより年下に思えるが。

 僕がそう言うと、マイッタは首を横に振った。

「パンゲアでは、幼い姿の者ほど高い霊性を持つんです。大きな霊性をコンパクトにまとめられてこその、御使なんです」

「へえ」

「俺も詳しくは知らないのですが、お二人は御使の中でもそこそこ古株だったかと。人間の平均寿命でたとえるならば、俺よりも五十人ほど年上です」

 爺さんじゃないか。

 僕は、御使の兄弟の容姿を思い返す。どう見ても、十代に届かないくらいの姿にしか見えなかった。

 僕たちは、オッサに見送られながら、行政区域を後にした。

 南の博覧区域で、生活のために必要な買い物をした。博覧区域は、僕の世界の商店街にそっくりだった。碁盤の目のように張り巡らされた道の左右に、店舗や屋台が軒を連ねている。違うのは、商売人の多くが鬼や妖精であり、利用客の種族が雑多であること。それから、空がパンサラサの霧に包まれており、地面が、薄い桜色の甲羅でできていることだった。

 マイッタは、外の世界から持ち込まれたのだろう、不思議な虹色で織られた垂れ幕を下げる屋台で、これまた虹色の泡を吐くソーダを二つ買った。

「喉が渇いてしまって。良ければ、クルスさんもどうですか」

 僕に片方を持たせた傍から、ストローでソーダを啜っている。

 掌に握らされたコップは、氷でできているらしく、冷たい。死んだはずなのに、温度を知覚している。そんな自分を客観的に考えて、奇妙な気分になった。

「死んでも、食事は必要なんですね」

「ええ。義務ではないんですけど」

 マイッタは、彩色豊かな屋台の群れに目移りしながら言う。 

「パンゲアの生物は、構成内容こそ違っても、おおむね肉体を持ちます。肉体を適切に用いるために、五感や第六感も備わります。そういった感覚は本来、肉体に必要なものであって、魂には関係がないもののはずだったのですが。肉体生活が長くなると、五感が魂に擦り込まれてしまうんです」

 ふわふわの毛に触れて、癒される。

 美味しいものを食べて、喜ぶ。

 大きな音を聞いて、驚く。

 そういった感覚が、魂の有り様に密接に関わり、欠かせないものになってしまうのだ。

 マイッタはそう説明した。

「魂に限らず、霊性のものはうつろいやすいです。特に、肉体を一度持ったことのある魂は、物質と接することを喜び、物質を摂取することで健康になる意識がある。だから、あなたのような死者は、食事や入浴、排泄のような、生前の習慣を続けた方が、生活にメリハリを感じやすくて健康な魂でいられやすいそうですよ」

「君にも肉体があるの?」

「俺たち御使は純霊性生物ですから、肉体は要らないんです。でも、パンゲアの生物を理解するために、その習慣を真似るのが、最近の流行りだったりします」

 マイッタは僕と話をしながら、僕の生活必需品を次々買い込んでいった。僕の世界を担当するだけあって、彼は僕の世界の食事情や生理衛生知識に詳しかった。僕の住む国が米を主食としていることは勿論、その品種まで把握しており、膨大な博覧区域の店舗の中から、それを取り扱っている商人が何人いるかまで覚えていた。生きていた頃に接していた他国の人間さえ知らなかったことを、年端のいかなそうな彼が知っている。そんな様子を見ると、改めて、自分と変わらない人間に見える彼が、実際は違う種の生物なのだと認識させられた。

 こうして僕たちは、様々な与太話をしながら、たくさんの買い物を終え、購入品の詰まった大きな袋を抱えて、僕の新しい住まい<あぱるめんと万年床>へとたどり着いたのだった。

「ここは、ヒト型生物のための住居なんです」

 照明や水道が使える状態になり、買ってきた物を然るべき場所に収納しながら、マイッタは辺獄の住居事情についても話してくれた。

「身体に合わせた住まいを意識すると、どうしても、同じような種族が同じ集合住宅に集まった方が、効率がいいという結論に行き着いてしまって。もちろん、異種族同士で生活する楽しみを追い求めるするタイプのアパートもあるんですけれど、色々難しいらしいですよ」

「いろんな身体の構造を持つ生き物がいましたからね」

 今日だけで、かなりの種類の生物を見た。俺の郷里に空想上の生物として伝わる、平たいタケノコのような形をした生物──名をツチノコという──が空を飛んでいるのを見かけた時は、仰天したものだ。

 仮にツチノコと同居することになったら。僕は想像する。少なくとも、水道の蛇口は、今住む家のような捻る形のものじゃあいけないだろう。

 マイッタは結局、僕の家のことを全て手伝ってくれた。それだけでなく、僕のこの世界での、初めての食事まで見守ってくれた。

 僕の初めての食事は、屋台で買った若菜の握り飯と味噌汁、塩焼きにした魚だった。生前の食事量に比べれば少ないが、最初はこのくらいがいいだろうとマイッタが見積もったのだった。

「界層移動をして最初の食事は、お腹に溜まるんです」

 その言葉は、本当だった。

 握り飯と魚を三分の二ほど食べた段階で、腹が八分目に達した。何とか残りを平らげた時には、すっかり満腹になっていた。

 ──マイッタがいてくれて、助かったな。

 僕は、このマイッタという御使に親しみを感じつつあった。最初はルーレットの不手際のこともあって、信用できるものかと様子を見ていたのだが、彼は異なる生活文化で生きてきた生物につきものの分からなさこそあっても、さっぱりとした性分で、気のいい少年のようだった。それに、仕事とはいえ、ここまで細かく親身に面倒を見てくれる付き合いの良さに、感心していた。

 そして僕は、いつしか、彼がずっと自分の傍について面倒を見ていて大丈夫なのだろうかという心配まで抱き始めていた。

「君は、他の仕事で忙しいんじゃないですか」

 僕は、食卓の傍のクッションに腰かけたマイッタに訊ねた。そのクッションもまた、彼が僕の世界にあったのに近いものを、と博覧区域を走り回って見つけてきてくれたものだった。

「今日は、もう上がりだから大丈夫です」

 マイッタは気楽に言った。

「次の仕事は、夜明けの巡回です。それまでは休息を取って、時間が許すならば、相棒の見舞いに行こうと思ってます」

「見舞い?」

 僕が問い返すと、マイッタは丸い眉をへにゃりと動かした。

「はい。本当は、一時勤務のヤキゴテつきの方に、こういうことをお話ししない方がいいのかもしれないですけど。クルスさんには、ルーレットの件で迷惑をかけましたし、その説明も兼ねて、お話しします」

 マイッタは二本指を立てた。

「御使は、コンビ勤務が普通なんです。昔は単独行動を奨励する時期もあったんですが、最近は、原則単独任務は避けるべきとされています」

「そうなんですか」

「理由は、何か起きた時に、異変に気づくのが遅くなるから。あと、ルーレットで揉めた時に、単独担当だと裁判で拗れるから、というのもあります」

「世知辛いですね」

 あの世にも裁判があるのか。

 僕はちょっとがっかりした。幼い子どものように、あの世には綺麗な花畑と悠久の時間、人々の平和な団欒がある、なんて信じてはいなかったが、死者とあの世の住人が損得の落としどころを探る法廷があるとは、知りたくなかった。

「マイッタさんのペアの方も、マイッタさんにそっくりなんですか」

「いや、まさか。全然似てませんよ」

 マイッタは利き手を大きく振った。

「ヨーマさんとセーレさんが似てるのは、二人が双子の兄弟だからです。俺たちには霊性の繋がりはないですから、姿も性格も全然違います」

「御使にも、双子がいるんですね」

「かなり珍しいんですよ」

 マイッタは、リビングの大きな窓の外へ目をやった。夜の霧が立ち込める街は、すっかり暗い。しかし、住人の多くが帰ってきているからか。外は地上に星が落ちてきたように、きらきらとした光が瞬いていた。

「相棒は──メーゲルは、今朝、事故に遭ったんです」

 少年の人の良さそうな面差しに、微かな影が落ちている。

「だから、あなたのルーレットをヨーマ先輩たちにお願いしたんです。本当にすみません」

「もう、全然気にしてませんよ」

 それより僕は、彼の口にしたことの方が、ずっと気になっていた。

「事故って、いったいどんな」

「相棒は、俺と一緒に<絡繰と魔導の世>へ巡回に行こうとした矢先、異界層形質維持転送型生体貨物専門自動魔導機に跳ねられたんです」

「異界層……え、何ですか?」

「異界層形質維持転送型生体貨物専門自動魔導機。略して、異界転生トラックです」

 マイッタは、魔力の灯る指先で空中に絵を描いた。

 その様子を見るに、貨物を運ぶための大きな空間を伴う、四輪駆動の魔道具のようだった。

「転生は自然の摂理で起こるものです。でも中には、世界の霊的資源と生物の状態に合わせて、転生が促される場合もある。それを検知して、転生対象の霊性を損なわないまま転生を引き起こさせるのが、異界転生トラックです」

 異界転生トラックは、世界や時代に合わせた自然な形状を装い、色々な場所に溶け込んでいる。ある世界では馬車、また別の世界では機械、これまた別の世界では異形の怪物──といった具合に、転生すべき者に近寄って転生を促すにふさわしい形に変形できるのだ。

 マイッタはそう説明し、目を伏せた。

「メーゲルを跳ねたのは、転送場に停めてあった、異界転生トラックでした。これから異界に投入する予定だった、新品です。乗っていた人は誰もいなかったし、まだ自動運転機能をオンにもしていなかった。起こるはずのない事故でした」

 確かに異常だ。

 僕は思った。僕の世界にそのような魔導具はないが、同じように人の手で作られ、精霊の力を宿して動く絡繰を日々操っていたから、事の異様さが何となく察せられた。

「恥ずかしながら、輪廻課──いや、辺獄は、慢性的な人手不足でして」

 マイッタは笑った。

「俺の相棒の補填はありませんでした。メーゲルが病院に運ばれた後、担当世界の巡回だけで、てんてこ舞いになってしまって。いつもみたいに二人いれば、半日巡回、半日ルーレット審判ができたんですけれど」

「災難でしたね」

「偶然事故の時に居合わせたヨーマ先輩たちが、ルーレット審判を受け持ってくれたのが、不幸中の幸いでした」

 少年は眉根を寄せた。

「何より、いち早くトラックの暴走に気づいたメーゲルが、俺を突き飛ばしてくれたから。メーゲルが気づいてくれなかったら、俺たちは二人とも動けなくなっていたはずです」

 ──この世界で私が見たものから言わせてもらうと、その多くは偽物だよ。

 オッサの声が蘇った。

 あれは、御使も含んでの言葉だったのだろうか。

 違ったらいいのに。

 僕は、しょげた様子の少年を眺めながらそう考えた。

「原因は、分かったんですか」

 訊ねると、マイッタは首を振った。

「いいえ。まだ」

 暴走トラックは投入を取りやめられることになり、西の研究区画へと運ばれていった。

「今頃、研究区域の技術者たちが、誤動作の原因を調べていると思います。転生トラックの暴走は、輪廻のシステムを揺るがしかねない大問題ですから、最優先で取り組んでいると聞いています」

「そうですか」

 マイッタは、壁にかけた時計を見上げた。

「うわ、もうこんな時間。長居してすみませんでした。そろそろ、お暇します」

 少年が立ち上がる。玄関へと向かう背中を見送るべく、僕も立ち上がった。

「メーゲルさん、早く良くなるといいですね」

「ええ。ありがとうございます」

 マイッタは玄関の前で振り返り、僕に向かって笑ってみせた。

「また、様子を見に来ますね」

 頭を下げ、顔を上げる。

 ──善性の塊みたいな笑顔だな。

 僕は躊躇って、口を開いた。

「最後に一つだけ、聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「あなたたちにとって、僕の──あの世界は、どんな場所に見えましたか」

 少年は、目を瞬かせた。

 思いもがけない質問だったのだろう。少し宙を眺めた後、彼はにこやかに答えた。

「文明の発展した、可能性の塊のような場所でしょうか。それもこれも、あなたのおかげですね!」






 僕に割り振られたのは、楽園に留まり、なかなか来世へ行こうとしない人魂たちの相手だった。

「人型の感性は、人型でないと共感しづらくてね」

 オッサは首を掻きながら言った。

「中には、人でないものと話した方が癒されるという人もいるんだけど、少数派なんだ。自分の世界にいない外見の生物を見ただけで、警戒したり逃げたりする人の方が圧倒的に多いんだよ」

 それもあって、慢性的に人型不足ってわけ。

 オッサは、昨日もどこかで聞いたようなセリフを口にした。

「だから転送場を使って、楽園へ行ってくれるかい。給料もちゃんと払うよ」

 特にすることもない。ダークマターの塊になるのも気が向かない。

 だから僕は、楽園へ行って仕事をすることにした。同じように輪廻課へ集まっていた人型と共に、転送場から楽園へ上った。

 昨日は余裕がなくて気づかなかったが、転送魔法陣から見上げる楽園は、巨大な浮島の形をしていた。ごつごつとした岩塊でできた大陸の上に、こんもりとした緑が乗っているのが分かる。だが、下から見ることしかできないので、まだ全貌は窺えない。

 転送盤は岩の隙間を器用に通り、やがて己の形にくりぬかれた穴へとすっぽり収まった。下りると、辺獄とは全く趣の異なる空間が広がっていた。

 たどりついたのは、白木の一室だった。木目滑らかな壁沿いに、武骨な木をくり抜いたロッカーが並んでいる。どこからか、白檀の香りが漂ってくる。

 ──旅館か?

 そう思ったのは、襖の端正な切子細工や、遠くから聞こえてくる従業員の忙しない会話のためだった。

 僕は、部屋の引き戸の硝子部分から、外を覗いた。推測は当たっていた。ガラスの向こう側には、従業員の行き来する廊下があった。来客の人魂は見かけない。あちらへこちらへ動き回る獣人たちの手には、くしゃくしゃの洗濯物の籠や、空の食器を載せた盆などが乗っている。

「では、この後の動きについて」

 辺獄より来た人型たちは、打ち合わせを始めた。話しぶりを聞くに、どうもこの中の一人──ややふくよかで色の白い中年の女──が正規の輪廻課職員で、それ以外はアルバイトなのらしかった。

「新入りさんは、あたしと一緒に回りましょう」

 中年の女は、メンバーの持ち回りを言う流れで、僕にそう言った。ありがたくついていくことにした。

 打ち合わせ終了後、メンバーはそれぞれのロッカーから羽織を一枚身に着けて、さっさとどこかへ行ってしまった。僕も、女に教えられたロッカーから羽織を一枚拝借し、彼女の招くのに従って控え室を出た。

 女はミケと名乗った。

「あたし、本当は人間じゃないのよ。猫又なの。人に化けられるし、あの人たちの生活に割と近いところで暮らしてるから、この仕事を担当してるってわけ」

 ミケは僕を連れて、楽園を歩いた。 

 楽園は広く、どこもうっすらと乳白色の霧が立ち込めていて、仄かな甘い香りがした。楽園の景色は、おおむね前世で目にした景色に近かった。清澄な小川の流れる玉石の竹林や、一面の花畑といった慎ましやかな景色もあれば、絢爛豪華な宮殿もあった。

 しかし、まだ人魂の姿はなかった。辺りを満たす水底のような光の色合いから察するに、楽園はどうも、朝なのらしかった。

「楽園は、禊のための聖域なんだよ」

 ミケは僕に説明した。

「超パンゲア幻界群で一生を終えた魂は、ここでくつろぐうちに、知らぬ間に禊を済ませる。だから、違和感なくくつろいでもらうために、景色をパンゲアのものに寄せてるんだ」

「ここだけで、すべての魂の禊を行ってるんですか」

 僕は空を見上げた。

 スモッグが立ちこめるために、常に白くけぶっている辺獄の空と違い、楽園の空は青が基本のようだ。たまに、金色の雲や七色の風が吹くこともある。

 僕の世界の魂なら、ここで間違いなくくつろぐことができるだろう。しかし、超パンゲア幻界群の全ての世界が、ここと同じような景色をしているとは限らないのではないだろうか。どのような景色であれ、慣れ親しんでいれば癒されるのが、生物の習性だろう。

「いいや、ここでするのは一部の魂の禊だけだよ。他の楽園も、ここから見えないところにあるのさ」

 ミケは答えた。

「そこでは、辺獄で暮らす他の住人が、あたしたちみたいな仕事をしている。けれど、世界環境の違う者同士は、原則お互いの暮らしに不干渉というのが、パンサラサの暗黙のルールみたいなところがあるんだ。棲み分けだね」

「そうなんですか」

 それからミケは、散策しつつ、人魂と接する心得を教えてくれた。

 もし目の前で転生した魂がいたら、ミケに報告すること。転生させた数と給料は、ほんの少しだけ比例する。

 この場所のことは、何が何でも「楽園」とだけ呼ぶこと。何故なら、訪れた者たちが、自分の理想郷を投影する地だからだ。そのような場所に、明確な名前は要らない。

 自分たちの仕事は、あくまで転生の補助。転生は自然なペースでなされるものだから、無理に親身になろうとしなくていい。合わないと思ったら、笑顔で離れること。

 しつこく執着してくる客がいる場合、名前を控えること。どうしても逃れられそうになくて困ったら、携帯式の小瓶に入った忘却の湯を掛けろ。忘却の湯を顔に掛けてしまえば、大抵の客はぼうっとして眠る。前後のことも忘れてしまう。

 食事はバックヤードで取る。客の差し出した食事は、どんなに好意的な言葉を並べられても、食べてはいけない。

 会話のノルマはない。とにかく、平和に過ごせばいい。ただし、夕方五時前には必ず業務を終え、控室でタイムカードを押して帰るべし。

「今日一日は、あたしの傍を散歩しながら観察するだけでいい。チャンスがあったら、お客と話してもいいけど、無理に言葉を絞り出したり、笑顔を売ろうとするんじゃないよ。これは、仕事ではあるけれど、歓心を得ても意味のない類の仕事だからね」

 就業の時間になった。

 ミケは、まあ見ときな、と先を歩き始めた。素足に履いた下駄が、カランコロンと小気味よい音を立てた。






 楽園に陽光が差し込むと、魂だけの者たちが生者のように闊歩し始めた。

 楽園には、人型の魂がたくさんいた。だがそれ以上に、人型でない異形の魂も数多く見受けられた。

 人型は、同じ姿でない生き物を警戒するんじゃなかったか。

 様子を窺っていたが、特に騒ぎが起こる様子もない。人型の者も、異なる者も、ゆったりとあたりを闊歩したり、くつろいだりしている。どうやら、互いのことが見えていないようだった。

 ミケは、最初に降り立った旅館の周辺を練り歩き、人魂たちに声を掛けた。人魂たちは、普通の人間そのままの外見をしていた。服装は様々で、葬儀の時の服を着ていたり、生前に好んだ衣装を着まわしたりしている。辺獄から来たスタッフは皆和装をしているので、両者を混同することはなかった。

 気にかけるべき、転生のうまくいかない者たちというのも、見分けやすかった。人魂の調子は、魂の周囲に纏う光の色で分かるからだ。調子のいい者は金色に輝いており、逆に不調な者は黒いオーラを発している。贅を尽くした景観に囲まれ、名湯に浸かり、美味しい食事を摂ってもなお、晴れぬ憂鬱というのはあるようだ。

 ミケが彼らに話しかける間、僕は少し離れた位置で、雑用を片付けるふりをしながら、会話を聞いていた。ミケは、さして積極的に話しかけるわけではなかった。最初こそ文章らしいことを喋るが、その後はおおかた相槌だ。だが、相手はそれで構わないらしい。ミケと話し終えた後は、後光の黒ずみが和らぐ。話しているうちに、気が晴れるのらしかった。

 この日、初めて楽園で転生する人間を見た。その人物は、老婆だった。

 老婆は、アジサイの咲き誇る東屋に腰かけて、鼠色のくすんだ後光を持て余しながら、足湯をしていた。そこをミケに話しかけられて、しばらく生前の話などをした。そのうち、ふと、話題が飼い猫の話になった。

「私は猫が好きでね。昔は、捨て猫をよく拾って飼ったものだったわ」

 老婆は寂しそうに言った。

「年老いてからは、遺していくことになったら可哀想だと思って、飼えなかったけれど……老人一人の生活は、寂しくてねえ。あたしの飼ってた子たちは、ちゃんと天国に行けたかしら、なんて考えたものよ」

「そうだったんですか」

 ミケは話を聞いた後、さりげなく立ち上がった。

 老婆から見えないアジサイの影へしゃがみこむと、自分の毛を一本抜いて、息を吹きかける。途端、毛から三匹の猫が現れて、老婆のもとへと歩いて行った。

 寄って来る猫を見つけた途端、老婆の顔が輝いた。

「あら、あら。まあ! あなたたち」

 老婆は裸足のまま、草の上へ駆け出した。そうして、三匹の猫を膝に乗せ、腕に抱き、一匹一匹に頬ずりをした。

 老婆の後光が白く輝いた。輪郭が、すうっと薄くなる。そのまま、じゃれつく猫と共に消えてしまった。

 これが、僕の初めて見た、パンサラサへの回帰──転生だった。

「綺麗な転生だったね」

 ミケが、見守っていた僕の方へ歩いてきた。

「あのおばあさんは、パンサラサで浄められた後、次の世に行くんだ」

「さっきの猫は?」

 僕が訊ねると、ミケは己の結い上げた髪を指さした。

「あたしのこれは、特別なんだ。死んだ猫の魂に訴えかけることができる」

「なら、幻じゃなくて、本当にあのおばあさんの猫を呼んだんですか」

「ああ。猫たちとの繋がりを、少し強めてね」

 未練を叶えてあげた、ということなのだろう。

 僕は、彼女の能力に羨望の気持ちを抱いた。

「すごい力ですね」

「なあに。使いどころの限られる力だから、そんな目で見るものじゃないよ」

 ミケは笑いかけた。

「とにかく、転生っていうのはこんな感じで起こるものなんだ。少しは参考になったかい」

「はい」

 僕は頷いた。

「じゃあ、他の客の所へ行ってみようか」






 翌日から、僕は一人で客と接するようになった。

 客は、把握しきれないほどにいた。けれど、名前を認識する必要はなかった。僕のすることは、彼らに声を掛けて、その話に耳を傾けることだけだったからだ。

 楽園の死者たちは、己を取り巻く世界のうち、見たいものだけを好んで見られるようだった。

 彼らは、僕のことをまともに見ようとしなかった。客のそういうところを嫌がる同僚もいたが、僕にとってはかえって気が楽だった。閉鎖的な──関心が自分自身だけに向いている相手の方が、付き合いやすかった。






 ある男がいた。彼は、僕を自分の部下だと思いこんでいた。実際、彼に僕の姿がどう見えていたのかは分からない。とにかく彼は、僕を見る度に部下の名を呼んだ。他のスタッフを部下として扱うことは、一度もなかった。

「お前にこんなところで会うとは思わなかった。まあ、なに。一杯どうだ」

 男は必ず、僕を酒に誘った。

 僕は誘われるまま、宝貝の敷き詰められた道に茣蓙ござを敷いて、彼の盃に酒を注いだ。宝貝の道の傍には、満開の桜並木があった。花吹雪を浴びながら、僕は男と共に、青天井に浮かぶ真昼の月を眺めた。

「家族と会社に尽くした一生だったよ」

 男は自分の話をし続けた。彼が話すのは、ほとんどが仕事の苦労話や武勇伝だった。

「仕事にかけた時間と稼ぎと、両方を比べてみて、割にあっていたとは思えん。稼いだ金も、すぐに息子や娘の養育費に回っちまう。僅かな金で酒を飲みに行くっていう、ささやかな趣味しかなくて、良かったよ」

 僕に酒を強いたり、話すよう強制したりしないという点で、男の相手は苦でなかった。男はとにかくよく話したので、相槌さえ打っていれば問題なかった。

 だが一度だけ、妙な頼みをしてきたことがあった。

 ある時、彼はコンパニオンを連れて来いと言った。僕は困った。輪廻課にも楽園スタッフにも、そんな人手の余裕はない。

 だから最初、彼女たちは休みだからと言って諦めてもらった。しかし、その次の日、彼はまた僕に同じ要求をした。そのまた次の日も、彼は同じことを頼んできた。

 誤魔化し続けることも、できないわけではなかった。けれど、僕がはぐらかす度、彼が心細そうな、申し訳なさそうな顔になるのが気にかかった。 

 僕は、その日の仕事を早めに上がり、博覧区域へ行った。博覧区域には、パンゲアのあらゆる素材が集まっているらしい。そこで、イチイの材木、羊毛、絹、人魚の爪の欠片と真珠を買い、家で女の人形を五体作った。女の霊性を持つ、簡単な会話や作業をできる魔導人形が仕上がった。

 翌日、僕は人形を全員連れて彼の所へ行った。彼は、魔導人形を見ると大喜びした。

「綺麗どころが揃ってるじゃないか」

 彼女たちは、彼の指示に従って酒を注いだり歌ったりした。

 男は、それ以上何も望まなかった。彼女らに自分と僕を囲ませ、にこにことしていた。

「お前もそろそろ、結婚を考えてもいい年だからな。接し慣れておいた方がいいだろう」

 以来、男は無茶な頼みをしなくなった。

 そんな彼がパンサラサの海へ還ったのは、それから少ししてからのことだった。

 いつものように人形たちに酒を注いでもらって、真昼の月を眺めていた。桜酒を一口すすった彼が、ぽつりと呟いた。

「頑張ってきてよかったなあ。だって、お前がいて、こんないいところが待ってたんだもんなあ」

「頑張りましたね」

 僕が言うと、男は泣き笑いの顔になった。

「ありがとうな」

 細くなった眦から、一筋涙がこぼれた。雫が顎を伝ったと思ったら、彼の姿はもう無くなっていた。茣蓙に置かれた杯に、宙へ残された一粒の涙が、ぽつりと落ちた。

 人形たちは、いつもバックヤードを使わせてもらっている温泉宿が引き取ってくれた。自律式五人官女バンドとして、利用客や従業員に愛でられている。自我が芽生える日も、近いかもしれない。






 ある女がいた。仄暗い桃色をした、怪しげな光の帯を、いつも自分の身体にまとわりつかせている女だった。

「あら、いい男」

 女は僕とすれ違った時、笑みを零した。

「アタシの部屋で、ちょっとゆっくりしていかない? 結構素敵な場所なのよ」

「遠慮します」

 僕は笑顔で立ち去った。

 女が嫌いなわけじゃない。だが、この女と懇ろになるメリットを見出せなかった。僕は好色な方ではない。何より、色事と仕事の相性は最悪だということを、学生時代からの長い寮生活で、よく学んでいた。

 その後、あの女の姿を見ることはなかった。後でミケから聞いたところによると、彼女は複数の客やスタッフとトラブルを起こし、しまいには担当の御使に怪しげな術を掛けようとして、半殺しにされたらしい。今は、楽園の地下深くで、釜茹でにされているという。






 ある時、暴力騒ぎがあった。客の一人が突然錯乱状態になり、周りの者を、誰かれ構わず殴り始めたのだ。

 僕が騒ぎに気づいたのは、昼食を取ろうといつもの宿へ向かっていた時だった。宿の方から、客が悲鳴を上げながら、蜘蛛の子を散らすように逃げてきた。僕はその流れに逆らうようにして宿へ向かい、そして、暴れる男とスタッフたちの大立ち回りを目にしたのだった。

 男は大柄で、筋肉質だった。タンクトップから露わになった肌のうち、右の首の付け根から指先までが、真っ黒に染まっている。その隆々とした黒い腕で、庭に飾ってあった、人の背丈ほどもある長い松明を、聞き取れない言葉で喚きながら、やけくそのように振り回していた。火の粉と風の唸る音が散るため、従業員らは男を包囲し、取り押さえるタイミングを窺っているらしかった。

 ──魂だけの身体って、怪我するのかな。

 僕は今さら気になった。以前、再び生活の様子を見に来てくれたマイッタが、僕の真似をして料理をしようと試みて、包丁で指を切ったことがあった。だからおそらく、怪我するのだろう。パンゲアでは目に見えない魂の傷も、物質というものが希薄なこのパンサラサでは、具現化されてしまうのではないだろうか。

 騒動を前にして、僕はどう行動すべきか迷った。男は、すでに十五人ほどの従業員に囲まれている。ここに僕が加わっても、大した加勢にはならないのではないか。彼らだけで、十分事足りそうな気がしていた。

 しかし、男は松明を鉈のように振り回して、従業員を五人ほど打ち倒した。その有様を見て、他の従業員は尻込みしてしまった。

「や、やめなさいっ」

 従業員の誰かが、裏返った声を上げた。男は目をぎょろりと剥き、そちらをねめつけた。

 男の白目は血走り、口の端から泡を噴いている。話して場を収めることのできない、正気でない状態なのは明らかだった。

 ──面倒だな。

 男にこちらを警戒される前に、片付けてしまおう。

 僕は足早に歩きだした。スタッフの包囲網を利用して男の死角より迫り、ついに従業員の後ろから飛び出して、男に接近した。

 男は僕に気づいた。長い松明を振りかぶり、僕の頭目掛けてふり振り下ろす。それをクロスした前腕で受け止め、男の動きが止まった隙に、松明を掴んで捻り、奪った。

 背後で驚きの声が上がった。松明をそちらへ投げ渡す。

 誰かが受け取ったかどうかを確認せず、僕は正面から男の頬を殴った。

 一発。二発。男は、耐えきれずに体勢を崩した。そこをすかさず、取り押さえた。

「縛れ、縛れ」

 男が動けなくなったのを確認した従業員たちが、勢いを取り戻した。持っていた縄で男を縛り、宿の中へと連行していく。

「助かったよ。あんた、腕が立つんだね」

 いつから見ていたのだろう。ミケが宿から現れて、僕に声をかけた。

 僕は笑みを浮かべた。

「お役に立てて良かったです」

「知らなかったよ。愛想が良くて礼儀正しいぼっちゃんだと思ってたんだけど、すごいじゃないか」

「そうでもありませんよ」

 それより、気になることがあった。

「ミケさん。さっきの人、腕が真っ黒でした」

「ああ。ヤキゴテが広がってたね」

 やはり、ヤキゴテつきだったか。

 男の首から腕にかけての黒ずみは、皮膚の痣や炎症、そのほかの疾患で見られるような色ではなかった。炭か黒曜のように真っ黒で、人の肌には思えなかった。

「たまにいるんだよ。最初は何もなかったのに、楽園で過ごしている間に、ヤキゴテが出ちゃう客」

「どうしてですか」

「何でなのかねえ。ヤキゴテは、分からないことが多いから」

 ミケは、男の連れていかれた方を眺めた。

「さっきのお客さん、だいぶ広がっちゃってたね。普通なら、発生したことに気づいた段階で、スタッフが声をかけるんだけど」

「気づかれなかったんでしょうか」

「みたいだね。あそこまで広がっても誰も気づかなかったってことは、客自身が隠していたのか。それとも」

 ミケは言いよどんだ。

 他の可能性があるのか。

 ──急激に広がってしまった、ということもあるのかな。

 自分のこめかみが疼いた気がした。

 僕のヤキゴテは、未だ消えていない。

「あの人も、怖かったろうねえ。治せればいいんだけど」

 ミケは溜め息を吐いた。






 混沌の海パンサラサでの日々は、穏やかだった。

 朝起きて、楽園へ行って、転生に踏みきれない死者たちの声に耳を傾ける。

 日が暮れる前に辺獄へ戻り、博覧区域へ足を伸ばす。

 食材を見繕ったり、魔導書や異界のライフハック本を眺めたり、麒麟の尻尾の房やバジリスクの歯石、平均気温百度の世界から来た燃える草などを買うか悩んだりと、気ままに買い物を楽しんで帰宅する。

 食事と入浴を済ませ、買った本を読み、簡単なモノづくりをして楽しみ、ほどほどの時間で眠る。その繰り返しだ。

 ミケの言った通り、辺獄の住人は互いに干渉し合わない主義のようだった。近隣の住人を多少見かけても、会釈を一つするだけで、言葉は交わさない。博覧区域で異種の人々と話をすることもあるが、踏みこんだやりとりはない。僕がまともに会話をするのは、御使のマイッタだけだ。彼はヤキゴテつきの監視で来ているつもりなのか、そうでないのかよく分からない。先日は土産のプリンを買ってきて、僕の部屋で仮眠を取っていった。

「クルスさんのところって、落ち着くんだよね。何でかな」

 そう言って寝転ぶ姿は、ただの無邪気な子どもだった。最近は敬語まで取れてきた。

 屈託のない彼の、度々の来訪と交流は、不快ではなかった。弟がいたらこんなものなのだろうかと思った。

 案外、ここは僕にとって暮らしやすいところかもしれない。

 そのうち、そう考えるようになった。生活のペース、住人との距離、生物としての生理的なこと。どれをとってもちょうどいい。僕が望んでいたのは、こういう単調であっさりとした生活だったのかもしれない。生前より、今の方が断然穏やかな心で暮らせていた。

 その一方で、このままでいたらまずいという予感もしていた。何せ、ヤキゴテが一向に薄れないのだ。毎朝毎晩鏡を確認しているが、こめかみに現れた黒い枝は、依然としてそこに居座っている。

 楽園で目にしたヤキゴテつきの狂乱ぶりを一度見てしまえば、この黒い印を放っておいていいものとは思えなかった。いつか、僕自身はもちろん、周りまで脅かすかもしれない。

 ある日突然、この印が急激に広がってしまったら、どうなるのだろう。

 もしも気が触れてしまったら、僕は自分の何もかもを手放して、あの男のように暴れるのだろうか。正直、想像しがたい。

 ──辺獄の仕事をしていた方が薄れるって、言ってたはずだけどな。

 僕は輪廻課のオッサの言葉を思い出す。

 本当に薄れるのだろうか。

 不安になる度に、こめかみの黒印が痛む気がした。






 僕が辺獄へやって来てからしばらく経った、ある日のことだった。

 楽園で働いている僕のところへ、マイッタがやって来た。マイッタと楽園で会うのは、初めてだった。

「クルスさん」

 彼は、いつになく真面目な顔をしていた。

「一緒に来てくれませんか。ちょっと、協力をお願いしたいんです」

「どうしたんですか」

 僕は内容を訊ね返した。

 暴漢を取り押さえて以来、僕は楽園の従業員たちから、いざとなったら武力というサービスを提供できるアルバイト──従業員と客が殴り合っても個人同士の問題として認識されるのだが、それはそれとして楽園には腕っぷしの強い従業員が少ないらしい──として認識されるようになっていた。そのため、たまに給料割増しで、荒っぽい客の相手を頼まれている。

 今回もその筋だろうか、と一瞬考え、いや、そもそも御使がそんなことを僕如きに頼まないだろうと思い直した。辺獄には武力行使が得意な課もあると聞く。楽園のちょっとした喧嘩ならともかく、輪廻の仕事で生じた荒事ならば、そちらに頼むはずだ。

 ともかく、内容を聞かずに安請け合いはできない。

「<絡繰と魔導の世>から新しい魂を連れてきたんだけど、何だか様子が変で」

 マイッタの丸っこい眉が、さらに垂れ下がっている。

「ちょっと、会ってくれないかな」

「僕が会って、解決しそうな問題なんですか」

 あの世界のことなら、故郷からまともに出たことのない僕より、マイッタの方が詳しいだろう。僕一人が行ってどうなるとも思えない。

 そう思ったのだが、マイッタは意外なことを言い出した。

「あなたを呼んでるんだ」

「僕を?」

「うん。それ以外、何も喋ってくれなくて」

 誰だ?

 僕は知り合いの可能性を考えた。死してなお、僕に会いたがるような人間が、いただろうか。いなかったように思う。

「人違いじゃありませんか」

「ううん。絶対クルスさんを呼んでる」

 マイッタは断言した。

「とにかく、一目でもいいから会ってみてほしいんだ。彼、あなたの名前を口にしてしゃがみこんでるだけで、動いてくれないんだよ。今日は、他にもやっておきたいルーレット審判が何件かあるんだ。お願いします」

 頷くしかなかった。

 マイッタは楽園の中心、転生タワーへ向かった。転生タワーは、先端が針のように細くとがった、赤い四角錐の尖塔である。正式名称は、異界層形質維持転送式生体受信塔。長いので、皆、転生タワーと呼ぶ。死んだ霊魂が最初に降り立つ場所で、僕も最初はあそこでルーレットを回そうとしていたらしい。

 転生タワーは楽園で一番背の高い建物だから、どこにいてもたどり着くことができる。だが、この場所に慣れた御使が一緒にいると、もっと早くたどり着ける。

 僕は、五分後にはタワーに立っていた。タワーの一階に入る。大理石を組んだ大きな方形の広間には、御使がわらわらしていた。皆幼い外見をしているため、何も知らない人が見れば、あちこちで子どもがせっせと駆け回っているこの景色は、大変微笑ましい光景に思えるだろう。だが、彼らの細腰には、誰がいつどこで亡くなったかが自動筆記される死の冊子がベルトで括りつけてあったり、小さな背中には、極悪な魂をひっ捕らえるための凶悪な棘付きの縄がかけてあったりと、なかなかぞっとしないもので溢れている。様々な魂に向き合うのは生半可なことではないため、御使というのは、おおよそ外見の儚さと反比例して逞しくなる。この世界で一番凶暴なのは御使ではないか、という説も、パンサラサではまことしやかに囁かれているらしい。

 部屋の中央には、紅玉と蒼玉でできた転送盤が、くるくると回りながら並んでいる。僕たちはそのうちの一枚に乗って、上階の転生面会室へ向かった。

 転生面会室は、タワーの上部に浮く光輪のような設備のことである。光輪の内周が回廊、外周は小さな部屋がたくさん連なる形になっており、ここでルーレット審判が行われる。

 僕たちは転送盤に乗り、光の回廊を進む。ステンドグラスに似た扉がずらりと並ぶ光景が、しばらく続いた後。マイッタが、ある一室を指さした。

「今日の俺の部屋は、ここだよ」

 その言葉に合わせるように、転送盤が目的の扉の前で止まった。

 マイッタが扉を開け、先に中へ入っていった。

「お待たせしましたぁ」

 中にいる誰かに声をかけている。いまさら引っ込むわけにはいかず、僕もその後に続いた。

 淡いとりどりの光に満ちた、ステンドグラスの箱の中。奥では、艶やかなレッドカーテンを背景に、例の転生ルーレットが回っているが、中央に佇む人影はそちらを見ようともしない。

 人影が、僕を見た。

 僕は、動けなくなった。

「クルス?」

 その人は、僕と同じ年頃の青年だった。背は僕より少しだけ高く、やや日に焼けており、色味のない軍用のジャケットでもさまになって見える、均整の取れた体躯をしている。下に着こんだシャツの襟は雑に開いてあり、鍛えた胸筋を惜しみなく晒していた。

 やや癖のある黒髪は左右に流され、吊り気味で切れ長の双眸や、通った鼻梁、やや薄く、形の良い唇が露わになっている。その顔立ちを、僕は確かに知っていた。だが、氷の仮面を思わせる彼の整った顔が、泣くのを堪えるように歪むところを見るのは、初めてだった。

「やっぱりそうだ。お前、クルスなんだな」

 男はごく近くにいるのに、ほぼ駆け寄るも同然の速さで近づいてきた。

 動けぬままでいる僕の顔を、両手でおそるおそる触る。その指先は、僕からもはっきりと分かるほどに、震えていた。

 僕は、やっとのことで声を絞り出す。

「シャーロ、か?」

 間近で見たが、間違いない。以前より少しだけ髪が伸びたように思うが、この男はシャーロ・剛真ゴーマ──僕の軍官学校時代の、同級生だった。

「なあ、答えてくれ。お前がクルスなんだよな?」

 シャーロは、縋るような目をしていた。

 僕は、わけが分からなかった。彼とまともに接するのは卒業以来だったから定かではないが、この男はこんな接し方をする人間じゃなかったはずだ。

「そうに決まってるだろ」

 混乱しつつも、僕は無遠慮に顔や肩回りを探る手を掴んだ。

「何の悪ふざけなわけ? お前は、こういう冗談を言わないタイプだと思ってたけど」

 彼が僕の知る笑みを浮かべることを、どこかで期待していた。

 シャーロはあまり感情を露わにしない男だったが、たまに不敵な悪童めいた笑みを浮かべることがあった。彼がいつものその顔をして、お前をからかったんだ、驚いたかざまあみろと言うのを、僕は待った。

 だが、彼は笑ってくれなかった。整った眉の尻を下げ、困った顔をしている。

「シャーロ?」

 ややあって、シャーロは呟いた。

「それが俺の名前なのか」

「え?」

 彼は、頭をゆるゆると振った。

「分からないんだ、クルス。俺は、お前のこと以外──お前の名前と姿を頼りにここへ来たこと以外、何も分からないんだ」






 僕とシャーロは、マイッタに連れられて辺獄へ降りた。

 シャーロの記憶がない件について、中央区域でオッサに報告した後、助言を得るために辺獄の西部を占める研鑽区域へ向かった。研鑽区域は、病院や研究施設などといった、知恵を蓄えるための施設の揃った区画だった。

「パンサラサで忘却の湯に浸かっていないのに、前世の記憶を失くしてる魂なんて、初めてだ」

 マイッタは頭を抱えていた。

 シャーロは、研鑽区域で学者や魔法使い、魔術師などの技術者たちと面会し、検査を受けることになった。その間、マイッタはルーレット業務を終わらせてくると言って飛んで行った。シャーロの付き添いは、僕がすることになった。僕の早退については、オッサがミケに話をつけておいてくれることになっているはずだった。

 シャーロは、本当に記憶喪失らしかった。僕の知るシャーロならば、面会と検査の切れ目の時間、僕のすぐ隣に座ったりしない。本を読む僕の横顔を、まじまじと眺めることもなかったはずだ。

 そんな彼を、見るともなしに窺っていると、こっちまで落ち着かなくなってくる。そもそも、彼がここに来たということは、死んだということだ。死因はもちろん、僕の名前と姿だけを覚えていた理由など、問いただしたい気持ちがないわけじゃない。だが、肝心の本人が記憶喪失なのだから、どうしようもなかった。

 シャーロの最後の検査が始まった頃、やっとマイッタが戻ってきた。蛍石に似たパステルブルーの待合室に合う、群青のソファに座り込み、大きなため息を吐く。

「えらいことになっちゃったね」

「ええ。本当に」

「検査を待つ間、シャーロさんの様子はどうだった?」

「大人しかったです。本当に記憶がないみたいで、なんだか調子が狂います」

 僕の言葉を聞いて、マイッタが顔をこちらへ傾けた。

「お二人は、お友達だったっけ」

「友達というか、学生時代の知り合いです」

「知り合い?」

 マイッタは怪訝な顔をした。

「本当に、ただの知り合いなの?」

「何で、そんなことを気にするんです」

「クルスさんを見た時の、シャーロさんの表情。顔見知りに会ったっていう程度のものじゃなかったでしょ」

 生き別れの家族に会ったかのような、必死さがあった。

 そう言われて、僕は目を逸らした。マイッタが身を乗り出す気配がする。

「それだけじゃない。自分の思い出や、死の記憶すら忘れているのに、ただの顔見知りの名前と姿だけを覚えてるって、おかしくない?」

「誰かにそういう呪いをかけられてる可能性も、ありますよ」

「その可能性も、なくはないだろうけどさ。でも、人生を終えた魂をたくさん見てきた御使の勘的に、あの顔は、呪術で誰かに作らされた顔じゃないと思うんだよね」

 マイッタは僕の顔を覗きこんできた。真ん丸な目は、僕を逃してくれそうになかった。

「クルスさん。何か隠してるでしょ」

「仮にそうだとしても、いいじゃありませんか。秘密の一つや二つ、みんなあるでしょう」

「秘密を持っちゃいけないとは言わないよ。でも俺は、シャーロさんの魂を助けたいんだ。このまま、不自然な記憶喪失で転生していいとは思えない」

「忘却の湯に浸かって転生するのと、同じことじゃないですか」

「違うんだよ」

 少年は、たしなめるような口調で言った。

「クルスさんも楽園で、パンサラサの海へ還り、転生に踏みきった魂を見たよね。パンサラサへの回帰は、記憶を消すことじゃない。積み重ねた思いと時を、パンサラサの海へ託しておくようなものなんだ」

 回帰した魂は、満ち足りた顔をしていた。まるで、長い間波に揺られた真珠のような、安らかな輝きをまとっていた。

 パンサラサへの回帰とは、一生をかけて磨き上げた真珠を、いったん二枚貝に包んで、混沌の海の波間へしまっておくようなものなのだろう。いつかまた、持ち主がパンサラサへ戻ってきて、大事な宝箱を開けるように、しまっておいた真珠を眺めることもあるのかもしれない。

 分かっている。

 だが、それでも。

「人生には、時として忘れておいた方がいいこともあると思いませんか」

 僕は呟いた。

 首を傾げる少年に、微笑みかける。

「輝かしい人生、煌めく思い出……できることなら、そういう素敵なものだけを残しておきたい。特に、他人の人生に影を落としてしまった場合、その影を無かったことにしてしまいたいと思うのです。たとえその影を消すことが、自分自身の存在を消すことに繋がったとしても、僕は構いません」

「分からなくもないけれど」

 マイッタは首を捻る。

「でも、それが本当に影かどうかを知っているのは、本人だけだよね。クルスさんじゃない」

 思いのほか、芯が強い。

 僕は苦笑した。

「分かりました。観念します。正直に白状しますよ」

 正面へ目をやる。

 検査室の上には、未だ、検査中の文字が光っている。

「シャーロは、学生時代の友人でした。いや──友人だと、あの頃の僕は思っていました」






 僕は、十一の時に祖父を亡くした。父は、それよりずっと前からいなかった。母のことは知らない。祖父が唯一の肉親だった。

 祖父が亡くなって、僕はカーライ国の寮に入れられた。この国の寮というのは、孤児ならば誰でも入ることのできるところだった。国寮と呼ばれていたが、内実は孤児院と一緒だった。

 しかし、国寮はただの孤児院ではなかった。この寮に入る者は、成人後、カーライ国軍の一員として兵役をこなすことを義務づけられていた。つまり、国営寮に入ることは、軍の養成学校へエスカレーター入学することと同義だったのだ。カーライ国は、国土も人民も乏しい国だった。だから、こうしないと戦力を賄えない。そんな事情を知ったのは、それよりずっと後のことだった。

 新参者の僕を、寮の先輩たちは歓迎しなかった。彼らは、見慣れない者、自分たちの食事の量を減らさせそうな者、恵まれた者を嫌った。育ち盛りの新参者で、最近まで家族がいた僕は、すべての条件を満たしていた。加えて、自分で言うのもなんだが、僕は学科も運動もできたので、教官の覚えがめでたかった。先輩たちからすれば、さぞ目障りだっただろう。

 寮生たちは、教官や寮母に隠れて、僕をいびった。僕が話しかけるのを無視したり、寮母の見ていない隙を突いて僕の食べているご飯に土をかけたりした。

 だが、僕は彼らを無視していた。祖父を亡くした喪失感で、それどころじゃなかったからだ。加えて、無理にでも友達を作りたいと思うタイプでもなかったから、彼らを相手にするのは、余計な手間としか感じられなかった。

 そんな僕が、余計気に障ったのだろう。寮生たちは、嫌がらせをエスカレートさせることにした。自由時間に起きた不幸な事故を装って、僕に暴力を振るう計画を立てたのだ。

 当時の国立寮の近くには、大人の滅多に寄りつかない廃屋があった。蔦の繁ったその家は、階段で二階のバルコニーへ上がれる構造になっていた。

 寮生たちは僕を鬼ごっこに誘い、僕が階段を上りきってバルコニーへたどりついたところを突き落とすことにした。バルコニーはちょうど寮の建物から見えない位置にあるから、階段落とし計画は完璧に行えるはずだった。

 だが、目論見は失敗した。計画を聞いていたとある子どもが、鬼ごっこに誘われた僕を、無理やり砂場遊びへ連行したからだ。

 その子どもが、シャーロ・剛真だった。

 シャーロは僕より一つ年上で、寮に入ったタイミングも、僕のちょうど一年前だった。僕が入るまで、彼が寮で一番の新参者だったそうだ。

 しかし、寮生たちは彼を一度も虐めなかった。何故なら、シャーロは入寮時点で、先輩の誰よりも体格が良かったからだ。さらに、切れ長の整った双眸は、子どもながらになかなかの眼力を誇っており、その目で睨まれると、寮生たちの身体が縮こまってしまうのだった。

 シャーロは、寮生に何をされても気にしない僕が気になっていたと言った、唯一の人間だった。

 彼は僕を砂場に連れてきて、寮生たちの企んでいた集団暴行計画を話した。その後、僕の顔をまじまじと見て言った。

「お前、何でいつもそんなに無反応なんだよ」

「え?」

「一発かましてやらないと、あいつら、いつまでも調子に乗ってちょっかいをかけてくるぞ。鬱陶しくないのか。大人に言いつけたっていいだろ」

 僕は、手にしたスコップで土をほじくりながら答えた。

「別に大したことじゃないよ。あの子たちも、どうせそのうち飽きるでしょ。それに、大人たちに言いつけたところで、僕に何事もないような形で、うまく収めてくれるとは限らないじゃん」

 シャーロは、目を瞬かせた。

「お前、見かけによらず肝が据わってるんだな」

 それから、僕とシャーロは一緒に行動するようになった。

 いじめっ子たちは、僕に手を出さなくなった。代わりに、シャーロといる僕を、憎らしげにねめつけていた。

 シャーロは、出会ったばかりの頃は、素っ気ない一匹狼に思えた。だが、本当は誰よりも情に厚い子どもだった。具合の悪い寮生に、一番早く気付くのは、いつだってシャーロだった。寮母が生活に焦っているのに気づき、すすんで手伝いをするのも、彼だった。

 さらに彼は、情に厚いだけでなく、道理を見抜く目も持っていた。筋が通らないと思うと、子どもだろうが大人だろうが関係なく、意見を述べた。シャーロは気の利いた言い回しは得意でなかったが、頭ごなしに他人を否定したり、鬱屈した心の吐け口を求めたりすることがなかったので、よく聞き入れられた。

 彼はいつも心の安定している、強い男だった。歪まない自分を持っているから、人の間を取り持つのもうまかった。シャーロがいると、寮の空気が澄むような気がした。

 そんな人間がいて、気を許さないわけがない。僕はいつしか、彼を友人として信頼し、頼もしく思うようになっていた。

 だが、彼が僕と行動する理由は、よく分からなかった。僕が先輩の寮生に虐められていたのは、本当に入寮したての頃だけで、一年も経ってしまえば、彼らは僕が一人で歩いているのを見かけても、何もしないようになっていた。だから、僕が虐められるのを心配して一緒に行動する必要は、もうないのだった。

 何故、僕とよく共に過ごしてくれるのだろう。僕に特別な長所があるとも、一緒にいるメリットがあるとも思えなかった。

 何度か、彼に訊こうかと迷った。だが、結局一度も聞かなかった。そんな話をするのは、何だか気恥ずかしかったからだ。それに、一緒に過ごしていて楽しければ、真意は何だっていいじゃないかと思っていた。

 シャーロと僕は、よくやっていたと思う。

 学科について教え合ったり、手合わせをしたりした。真夜中に二人で寮を抜け出して、街へ夜食を食べに行ったこともあった。新しく入って来た後輩がくだんのいじめっ子に嫌がらせをされているのを見つけ、二人で尻尾を掴み、奴らと殴り合いの喧嘩をしたこともあった。

 僕とシャーロの性格は、どう思い返しても似ていなかったと思う。けれど、物の感じ方がとても良く似ていた気がした。

 だからなのだろう。僕が彼の隣にいるのを心地よく思っているのと同じように、彼も僕と同じことを感じているだろうと信じこんでいた。そして、これから先、変わらぬ友情を築き続けたいという僕の思いを、彼も汲んでいるに違いないと考えていた。

 僕らはずっと隣に居続けるものだと、勝手に思っていた。






 僕もシャーロも、軍に所属することに躊躇いはなかった。

 お互い、親類はいない。僕は学科と魔導術の成績が良く、シャーロは体術と兵器の扱いが得意だった。互いに苦手な部分について教えを乞い、得意な部分を真似しあって、僕らは候補生として成長していった。この先、軍人になっても、こうして仕事をしていくのだろう。僕はやはり、当たり前のようにそう考えていた。

 年度末に卒業を控えた年の、ある日のことだった。

 その日は、ちょうどカーライ国軍の適正審査がある日だった。あの年の審査は、ちょっと特殊だった。翌年から、魔導技師で構成される魔導兵団が編成されるため、候補生全員に、例年より難度の高い三大奇術の実技テストが課され、魔導兵団への入隊意思があるかどうかを訊ねられた。当時、カーライ国では魔導術の発展がめざましく、その技術を用いて、世界へ台頭しようとしていた。

 僕に、魔導術を活かさない選択肢はなかった。僕は以前から魔導兵団への入隊を考えていたから、当然志願した。

 夕食を終えた後の、自由時間。僕は、いつものようにシャーロを探した。彼はこの時間帯、テラスで夜景を眺めていることが多かった。だから、心当たりの場所へ一直線で向かった。

 読みは当たった。シャーロは、賑やかしく談笑する同窓生たちから離れた、テラスのベンチに腰かけていた。そのベンチは宿舎に背を向ける形になっていて、街がよく見下ろせるのだった。

 僕は彼の隣へ腰かけた。シャーロはこちらを一瞥もせず、夜景を眺めていた。疲れているのだろう、と僕は思った。審査は待ち時間が長く、実技審査のリズムも良くなかったので、僕も気疲れを感じていた。

「無事終わったね」

 僕が言うと、やっと彼はああと返した。

「僕たち、どうなるかな。希望が通ればいいけど」

 シャーロもまた、以前から魔導兵団に入ると言っていた。彼の武器の扱いはピカイチだったから、きっと活躍できるだろうと思っていた。

 だが、シャーロは呟いた。

「俺は、銀騎士団に志願した」

 言われた内容が、すぐに頭に入ってこなかった。

 銀騎士団は、奇術を使わない、体術などの物理戦を得意とする戦士の集まりだ。市街戦や住民の護衛などに徹し、奇術同士の防衛前線に出てくることはあまりない。

 シャーロは体術が強い。だから、適正は高いだろう。殺傷力の高い魔導兵器の脅威に比較的さらされづらい位置にいてくれるのは、安心ではある。けれど。

「どうして。魔導兵団に入るって、ずっと言ってたのに」

 おそらく口の開いたマヌケ面をしていただろう僕を、シャーロは見なかった。僕は彼の横顔に、初めて壁のようなものを感じた。

「なあ、クルス」

 シャーロは気だるげな息を吐いた。

「俺たち、このままでいいのかな」

「どういうこと」

「ガキの頃からずっと一緒だった。お前と色々バカやったり、真面目にやったりするのは楽しかった。でもよ、俺たちは一人前の戦士にならなきゃいけねえ」

 シャーロの瞳に、遠い街の灯りが映り込んでいる。僕の姿は、一切映らなかった。

「国を背負うんだ。置かれる立場も、どんどん変化する。厳しい状況に追い込まれることもあるだろう。そういう時に、いつまでも遊び相手同士で肩を組む安心感に縋ってちゃあいけねえ。一人で立てるようにならないとな」

 彼は立ち上がった。

「俺は、強くなる」

 街の灯りを正面から受け止め、逆光で暗くなる彼の後ろ姿が、知らない誰かに思えた。

「俺は元々、奇術の適正はそこまで高くねえ。魔導兵団に入っても、できることはたかが知れてる。だから、自分てめえの拳で、誰かを守れる強さがほしいって、思ってたんだ」

 ずっと一緒にいたはずなのに、その考えを聞くのは初めてだった。

 気づけなかった。

 ショックだった。シャーロと一緒に戦えないことや、約束を違えられたことに対して、傷ついたわけじゃない。この土壇場になるまで、彼に真意を喋ろうという気を持たせられなかった──そして、彼のことを本当に考えておらず、偽りの友情に浮かれていた自分に、打ちひしがれていた。

「そっか」

 僕は、笑顔を浮かべた。

「ごめんね。シャーロの気持ちを、もっとちゃんと聞いておけばよかった」

「謝ることはねえよ。今の今まで言わなかった、俺が悪いんだ」

 そう言いながらも、彼は振り返らなかった。

「シャーロなら大丈夫だよ。頑張ってね」

 それ以上そこにいるのが気まずくて、僕は立ち去った。

 以来、僕たちは別々に行動するようになった。シャーロと会う前の──そもそもの僕は、何事も一人で取り組むのが好きだったから、シャーロと接さなくても、日常に何ら問題はなかった。それに、この頃には、お互い他の友人もできていたから、暇潰しや手合わせの相手には困らなかった。

 軍官学校を卒業するまで、僕たちは話をしなかった。卒業して仕官した後は、まともに顔を合わせることすらなくなった。






「僕は、あいつの枷になっていました。シャーロは、嫌がっていたんです。優しい奴だから、言えなかった。それに僕は、気づけませんでした」

 マイッタを窺う。長い話をしてしまったと思ったが、彼は居眠りすることなく、真面目な顔で僕を見つめていた。

「そんな僕のことを、何であいつは覚えていたんでしょうか。自分のことを忘れているのに、何故」

 僕を一目見るなり歪んだ顔を思い出す。

 泣きそうな顔をしていた。震える手で輪郭を確かめてくれて、一瞬、彼も再会を望んでいたのかと錯覚しそうになった。

 だが、そんなはずはないのだ。冷静にこれまでのことを思い返せば、それはあり得ないことだと気づける。

 ──都合よく考えるな。

 ──思い出せ。

 ──逆だろう。

 僕を、忘れられないほどに憎んでいたのではないだろうか。

 僕は、彼の意思を組めなかっただけでなく、軍人として、大罪を犯したのだから。

「お待たせしました」

 検査中のランプが消えた。

 薄青のドアが開き、シャーロと医者が現れた。医者は三本足の蝦蟇だった。

「どうでしたか」

 マイッタが立ち上がる。

 シャーロは首を振った。何も思い出せなかったようだ。

「魂に、異常は見当たらないのですがね」

 医者が言った。

「弱っている風もなく、至って健康。しかし、何故か記憶だけが封印されています」

「封印?」

「はい。こう、枷が嵌まっていまして」

 医者は利き手の三本指を、頭の周りでぐるりと一周させた。

「魔法でしょうな。術者を突き止めないことには、解呪の方法を掴めません。心当たりはありませんか」

「心当たりと言われても」

 マイッタと僕は、顔を見合わせた。シャーロとは、今日会ったばかりだ。僕らが知っているわけがない。

「今言えるのは、そんなところです。精密検査の結果は、明日の午前におたくの──輪廻課の事務室へ届けます」

「分かりました。ありがとうございます」

 医者は、再び青い扉へ吸い込まれていった。

 マイッタは僕たちを見上げた。 

「もういい時間ですし、今日のところは休みましょうか。お送りしますよ」

「いや、僕は一人でも大丈夫だよ」

「じゃあ、シャーロさん」

 そこでマイッタは、ぱっと口を押えた。

「あっ、しまった! シャーロさんのお家の手配がまだだった」

「え?」

 僕は首を傾げた。

「前に僕がここに来た時は、その日のうちに部屋を用意してもらえましたよね」

「それは、クルスさんがヤキゴテつきで、かつ、他に先輩──人手がいたから。今日の僕は完全にワンオペだったから、下準備も何もできてないや」

 マイッタは懐中時計を取り出した。時間を見て、肩を落とす。

「この時間じゃあ、住宅課の営業は終わっちゃってるよ。空いている部屋をこじ開けるわけにもいかないし、どうしよう」

 少年は頭を抱えている。

 ふと、視線を感じた。顔を向けると、シャーロがこちらを見ていた。

「お前は、家があるのか?」

「うん、あるよ」

 答えてから、やっと思い至った。

「もしかして、僕の部屋に泊まったら問題解決する?」

「ああ、悪いな。ぜひ頼む」

 シャーロは笑みを浮かべた。

 彼には珍しい、左右対称な笑顔。機嫌のいい時の表情だ。

 僕は面食らった。一方、マイッタは大喜びだった。

「助かるよ! じゃあクルスさん、シャーロさんと一緒に帰れる?」

「は、はい」

「ではまた、明日の朝! お宅に伺いますね」

 マイッタは言うが早いか、猛スピードで走り去った。きっと、輪廻課へ戻って報告するのだろう。早く彼の相棒が復帰できるといいな、と僕は考えた。

「よろしくな」

 シャーロが僕に言う。幼馴染にわざわざそんなことを言われるのが面はゆくて、黙って頷いた。

 僕は、シャーロを連れて帰宅した。道中、博覧区域を通ったので、食材を買い足すことにした。

 二人分の食事を用意するのは、久しぶりだ。何を作ったらいいのだろうか、今夜はもう遅いから弁当にしてしまおうか──僕が悩む間、シャーロは物珍しげに市場を眺めていた。そうしている姿を見ていると、その昔、駄菓子屋に行く度に、ひたすら頭を回して陳列棚を仰いでいた少年の姿を思い出した。懐かしい光景に、この世界に来て初めて、郷愁の念が湧いた。

「欲しいものはある?」

 僕が訊ねると、シャーロは視線をこちらへ戻した。

 相変わらずの仏頂面である。

「いや、今はいいや」

 本当に、記憶がないのだろうか。

 僕は考えた。

 再会時こそ印象と違って驚いたが、こうして普段の生活の中で見る彼の言動は、僕の知る幼馴染そのものだった。まるで、話さなくなる前の彼と過ごしているようだった。

 それから、夕飯用に焼肉弁当を二つ──シャーロがじっと見ていたものの一つだ。彼は昔から焼き肉が好きだった──買い、魚や野菜、干物などを買い足して、家へ帰った。

 2LDKは、今日も大人しく僕の帰りを待っていた。明かりをつけて、まず僕たちは一緒に夕飯を食べた。

 シャーロは、黙々と焼き肉弁当を掻きこんだ。僕は黙って総菜を口に運びながら、何を話そうかと頭を巡らせていた。

 別に、昔にならおうとしたわけじゃない。僕らが軍の寮で生活をしていた頃、食事中は無言が当たり前だった。生活の縛りが厳しく、時間の自由のきく生活ではなかったから、お互い食事に夢中だったのだ。

 だが、今はしばらくぶりの再会だ。黙っていると、離れていた間のぎこちなさが蘇ってくるような気がして、居心地が悪かった。

 結局僕は、辺獄のことを話した。不要かという考えも頭をよぎったが、霊体で過ごすこの世界の生活習慣事情について、教えておいた方がいいだろうと思ったのだ。

 シャーロは、真剣に聞いていた。飽きられるか、その話題はいいと言われるかと予想したのに、終始真摯に耳を語を傾けてくれた。

 思えば、彼も好奇心の強い方だった。初めて来たばかりの僕同様に、世界の全てが珍しいのかもしれない。

 食事の後は風呂を沸かし、順番に入ってから歯を磨いた。

 シャーロは、空いていた一室に寝ることになった。以前マイッタが仮眠をしていった時に置いていった布団が役に立った。僕はシャーロが風呂に入っている間に、空き部屋へ布団を敷いた。

 寝るため、それぞれの寝室へ向かう直前。シャーロが声をかけてきた。

「なあ、クルス」

「なに?」

 僕は彼へ視線をやった。シャーロは、僕が帰り道に博覧区域で買った、シンプルな寝間着を身につけていた。

「本当に悪いな。記憶喪失の人間が急に転がり込んじまって──迷惑をかけて、すまねえ」

 記憶を失くしても、こういうところまで変わらないのか。

 僕は内心苦笑いした。ガサツなようで、情に厚いというか。案外気を遣う奴なのだ。

「いいんだよ。気にしないで」

 微笑んでみせると、彼も微笑んだ。

「また明日な」

「おやすみ、シャーロ。よく休んでね」

 僕は、彼が自分の部屋へ入っていくまで、その背中を見つめていた。

 見つめながら、どうしたら彼に気を許してもらえたのだろう、と考えた。





 久しぶりに夢を見た。

 僕は、祖父の工房にいた。大きな穴倉に似た工房には、人形がたくさん並んでいた。壁に、床に、天井に。玉鋼やクヌギなど、様々な素材を用いて作られた魔導人形が吊るしてある。人形の眼窩に嵌まった色とりどりの宝石は、工房の暗がりを映し込み、茫洋とこちらを見下ろしていた。

 祖父の作業机は、いつも散らかっていた。魔導書やミスリルのレンチ、鵺の油など、魔法の品がてんでんばらばらに置いてあった。けれど、この時は魔法の品よりも、作りかけの人形のパーツが散在していた。

 祖父は、作業机の前で肩を揺らしていた。見上げる視点からは顔が良く見えなかったが、泣いているのだと分かった。

 僕は、祖父の丸く曲がった背中を撫でた。小刻みに震える肩を支えてあげたかったのに、僕の手は小さくて、届かなかった。

「ごめんな、クルス」

 祖父はこちらを向いた。伸びた白い眉に髭。彫りの深い顔立ちは、病魔のせいで落ちくぼみ、秀でた頬骨が涙で濡れていた。

「お前を置いていく祖父じいちゃんを、許さんでくれ。お天道様が許しても、俺は自分を許せねえ。お前に友達を創ってあげたかったのに、結局至らなんだ」

 大丈夫だよ、じいちゃん。

 僕は答える。

 一人で大丈夫。

 どんなに人に囲まれても、僕が死ぬ時は一人だろうから。

 祖父は僕の手を握って泣く。大丈夫だから笑ってと言うのに、泣き止んでくれない。祖父の温かい手が大好きなのに、その震えを止めてあげることができない。どうして僕のことで泣くのだろう。本当に辛いのは、死んでいく祖父なのに。

 どうして僕は、いつも人を悲しませるのだろう。

 こんなことなら、作り手に与えられた職務に忠実な、魔導人形に生まれたかった。






 目覚めた胸に、まだ夢の物悲しさが残っていた。

 夢から醒めきれなくて、僕は天井を見るともなしに見つめていた。

 夢の内容は、多少アレンジこそ加わっていたが、祖父が亡くなった頃のことに忠実だった。魔導技師だった祖父は、晩年、工房へ籠って一心に魔導人形を作っていた。治療のできない難病にかかってしまった彼は、遺される僕を心配していた。

 許さないでくれと泣いていたのは、寝床だった。看病していた僕は、大丈夫だから、と励ました。いつか僕は一人で逝くのだから、とは言わなかった。

 僕らは、人里離れた山奥で暮らしていた。祖父は、工房の場所を誰にも明かしていなかったはずだった。

 祖父を一人弔ってから六か月後、国の人間が現れた。祖父の知り合いだという彼らは、僕を国寮へ入れた。

 ──前の人生のこと、久しぶりに考えたな。

 僕はぼんやりと思った。

 前の人生のことは、思い返したいものではなかった。親しい人との大切な思い出はあっても、後年の記憶がすべてを黒く塗り潰してしまうからだ。

 だから、やっと死ねた時は、心から安堵したのに。

 僕はいっそもう一度寝てしまおうかと、布団を手繰り寄せようとした。

 そうして、いまだに手が温かいことに気づいた。

「起きてるのか?」

 声をかけられて、急激に目が冴えた。

 首を持ち上げる。僕の部屋に、シャーロがいる。しかも、ベッドに肘をつく形で床に座り、僕の片手を握って、手首を自らの頬へ当てていた。

 僕を見下ろす切れ長の目が、狭まった。笑っている。

「な、なんで」

「なんでも何も、昨日泊まっただろ」

 そうじゃない。

 彼の行動の意味が分からない。何をしているのだろう。

 意図を聞きたかったが、どう訊ねていいか分からなかった。

「あの。どういう状況?」

「俺がお前の様子を見に来たっていう状況だな」

「え、寝坊した?」

 ベッドサイドの時計を見た。まだアラームをセットした時間より、三十分早い。

「寝坊はしてねえよ。俺が思ってたより早く飯を作っちまったから、もしお前が起きそうならば、と思って様子を見に来たんだ」 

「そっか」

 寝坊をしたわけじゃないならば、良かった。

 僕は胸をなでおろした。安らかな気持ちで言われたことを思い返し、あれ、と思う。

「ご飯、作ってくれたの?」

「用意してあるから、顔洗って出て来いよ。マイッタも来てるぜ」

 シャーロは手を離して立ち上がると、僕の部屋から出て行った。

 僕は、彼の頬が触れていた手首を握る。

 少しだけ、いつもより温かかった。






 リビングへ行く。食卓には、シャーロだけでなく、マイッタまでいた。少年は、自前の栄養ドリンク──楽園特製パンサラサマムシ汁──を飲んでいる。

 目が、テーブルの上に吸い寄せられる。昨日買った食材が、思い描いた形で調理されて並んでいた。ふっくら炊いてある白米。川魚の塩焼き。菜花のおひたし。味噌汁。卵焼き。

 僕の好きな素材が、好みの調理を施されて並んでいる。

「このご飯、本当にシャーロが作ったの?」

「ああ」

 シャーロが頷いた。

 僕は、礼を言って食べた。美味い。確実に、前よりも料理が上手くなっている。

 学生の頃、シャーロの料理は大味だった。彼は、何でも美味しいと言って食べることのできる鷹揚さがあった。だが、裏を返せば味覚を磨くという感覚をあまり持たない少年だったのだ。

 それが、今はどうだろう。

 僕は感動よりも、戸惑いを強く覚えていた。

「本当に、記憶がないんだよね?」

「お医者さんによると、生活に必要なことは覚えてるタイプの記憶喪失らしいよ」

 マイッタが答えた。

「前世でのお仕事のこととか、人間関係とか。そういうことだけさっぱり出てこないみたい、だってさ。今朝届いた詳しい検査結果にそう書いてあったんだ──あ、そうだ。おはようございます」

「あ、ああ。おはようございます」

 記憶喪失でも料理はできるのか。いや。記憶喪失と言っても、魔法による特殊なものだ。だから、料理もできたのかもしれない。

 それにしても、記憶していた頃より美味しい料理が作れるのは、どういうことなのだろう。長く接さない間に、腕を磨いたのだろうか。

 少し、寂しいような気持ちがした。

 シャーロを見る。僕の視線に気づくと、彼は口の片側を吊り上げて笑った。僕の知っている笑顔だった。

「食べ終わったら、一緒にボスのところへ来てください」

 マイッタが言った。

「ボスから二人に、特別なお願いがあるんです」






 オッサは、いつもの物置小屋に似た仕事部屋で待っていた。

 僕らがやってくると、やあやあと間の抜けた挨拶をした。

「朝からすまないね。君たちに相談があって」

 今日は、最初から執務机の前に椅子が置いてあった。

 僕らが座るなり、オッサは言った。

「さっくり言うよ。君たちに、<絡繰と魔導の世>へ調査に行ってもらいたいんだ」

「君たちって、僕ら二人ですか」

 僕が訊ねると、オッサは首を横に振った。

「いや、マイッタも一緒だ。どうも最近、あの世界周辺で、良くないことが起きるんでね」

「それについては、俺から説明します」

 マイッタが口を開いた。

「<絡繰と魔導の世>の異変に気づき始めたのは、二か月前。相棒のメーゲルが、異界転生トラックに撥ねられてからです」

 自動でパンゲアの生物を転生させるための機械が、パンサラサの魂を標的にした。

 この異常な事故の後、<絡繰と魔導の世>で、次々とおかしなことが起こり始めた。

 そう言って、マイッタはそのおかしなことを挙げはじめた。

「まず、あの世界へ移動しようとすると、頻繁にエラーが起こるようになりました。俺はあの世界の担当御使です。他の世界ならまだしも、魔法で契約した世界に御使がうまくたどり着けないなんて、ありえない」

 マイッタは当然のように言う。けれど、僕にはそのありえない理由が分からない。

 僕が考えていることに気づいたのか、オッサが口を挟んだ。

「御使は、パンゲアの霊力──存在強度とも言えるね──を保ち続けるために、魂の輪廻を助けているんだ。人体にたとえるなら、パンゲアとパンサラサが内臓、御使は血液や、血液が流れるための血管といったところかな。今の状態は、内臓を血管で繋げなくなってしまったようなものなんだよ」

「次に、大規模な環境の変動」

 マイッタは話を続ける。

「やっと<絡繰と魔導の世>へ行けたと思ったら、景色がものすごく変わっていたんです。まるで、別の世界みたいでした」

「大災害が起きたってこと?」

 僕が聞くと、マイッタは腕を組んだ。

「いや。どうも、俺が行けない間に、人為的な地殻変動が引き起こされたみたいでした。そこまでの技術が、俺の行かない、たったの二ヶ月にも満たない間にできあがるとは思えません」

 マイッタは顔を巡らせた。

 その視線は、僕の隣──シャーロへと注がれていた。

「そして、死者の書が更新されず、死者がパンサラサへ来ない」

 マイッタは、腰に帯びた黒い書物を手で叩いた。

「俺があの世界へ行ったら、まず亡くなった魂が俺の死者の書へ引き寄せられて、宿るはずなんです」

 死者の書は、死の予言の書ではない。亡魂の保護シェルターの役割を果たすものだ。そうして保護した魂を、死者の書から転生タワーへ送信するのが、御使の死者葬送である。

 それが、最近はマイッタが行っても、死者の書に魂が集まらない。それでここ数日は、アクセスエラーと戦いながら何とかあちらへ行き、世界を巡って原因を探りつつ、自力で亡魂を集めて連れてきていたのだという。

「他の世界を担当する御使や、タワーの職員に同じようなことが起こっていないか聞いてみました。でも、こんなことが起こってるのは、俺の世界だけみたいです」

 マイッタが手でシャーロを示した。

「そんなところへ、シャーロさんの転生が起こった。俺は、シャーロさんの転生に、世界の異変の重要な鍵があると踏んでます」

「俺に?」

 シャーロは首を傾げている。

 マイッタは首肯した。

「死者の書は、ずっと機能していません。俺は自分で世界を駆け回って、何とか死者の魂を見つけたんです。でも、シャーロさんのことは、見つけてない。シャーロさんは、自力でやって来たんです」

 マイッタが世界を駆け回って霊魂を集め、持ち帰り、タワーで審判を始めようとした時。突然、転生面会室にシャーロが現れたのだ。本来ならば、御使の導きなくパンサラサへやって来る霊魂など、いないはずなのだ。

「僕の調べだと、大規模な地殻変動はカーライ国を中心に起きたみたいです。シャーロさんもカーライ国出身で、シャーロさんが唯一忘れなかったクルスさんもそう。ならば、あの国を内側から調べてみたら、何か分かるかもしれない」

「それで、君たちに協力をしてもらいたいというわけだ」

 オッサが後を引き継いだ。

「このままだと、あの世界の霊性が澱み、世界が崩壊する可能性がある。そうなるのを防ぐために、今の異常を調べたい」

「どうする、クルス」

 シャーロが僕に訊ねる。僕は返事をしかねた。

 迷っていた。あの世界に起きた異常が、気にならないわけがない。一方で、あの世界に戻るのは、どうも気が引ける。できることならば、戻りたくないと思っている自分がいた。

「強制はしない。最終的な決断は、君たちに任せる」

 オッサは背もたれに上体を預けた。

「だが、シャーロ君は行った方がいいのではないかと、老婆心ながら思うがね」

「なんでだ」

「君は、まだ生きている可能性がある」

 シャーロは目を見開いた。

 白い毛に覆われた手が、デスクに積んだ書類の一部を広げる。それは、昨日行った病院のまとめた診断書だった。

「シャーロ君の記憶喪失は、魔法による封印が施されているらしいな。死後もなお解けない魔法というのは、確かに存在するがね。それにしては、彼の記憶喪失は威力が弱いと思うんだよ」

 だから、医者は仮説を立てていた。

「シャーロ君は生きていて──何らかの呪いを受けて、仮死状態なのではないか。そして、クルス君の存在を手掛かりに、パンサラサへたどり着いたのではないか、とね」

「俺は……」

 シャーロは頭を押さえた。顔を顰めている。

「俺は、何があったかを思い出したい。だが、記憶のない俺がその世界へ行って、力になれるかは微妙だな」

「クルスさん」 

 マイッタが僕へ向き直った。僕を正面から見据え、頭を下げる。

「力を貸してください。この中でカーライ国に詳しいのは、あなたしかいません」

 僕は、考えていた。

 カーライ国。故国であるあの国に、僕はもう関わりたくない。その気持ちは、変わらない。

 けれど、シャーロがまだ生きているかもしれないなら。

 僕は、深く息を吸った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る