嗚呼、愛しの婚約者様

鈴木

本物の悪女はタイムリープしても反省なんてしない

「我が婚約者であるエレオノーラ・カラヴァイネン公爵令嬢は、誉高き学園の女生徒を階段から突き落とし殺害しようとした罪で、婚約破棄、そして身分剥奪と国外追放に処する!」

 愛しの婚約者、この国の第三王子であるマティアス・ラウティオラ殿下が私(わたくし)の罪を高らかに読み上げ、判決を下している。


 あぁ、クソ、失敗した。

 どうしてこんなことになったのか。

 全ては、怯えたような顔をして私の婚約者に寄り添っているあの女のせいだ。



ーーラウティオラ王国の王立学園、それは貴族や王族といった高貴な身分の者のみが入学を許されるもの。

 私、カラヴァイネン公爵家の長女であるエレオノーラ・カラヴァイネンもその学園への入学を許された者だ。そして、その婚約者がこの国の第三王子であるマティアス・ラウティオラ殿下である。


 王族はその血筋から、王妃の姿に関わらず皆美しい金色の髪に真紅の瞳を併せ持ち、代々顔立ちまで美しく生まれてくる。マティアス様も例に漏れず、王族らしく素晴らしい見目をしていた。


 幼い頃にお母様と幼馴染である王妃様からの推薦で婚約をして以来、私は人見知りな彼に愛して貰えるよう常に気を遣い、婚姻後には王族に加わる人間として相応しい立ち居振る舞いであろうと人知れず努力してきた。彼の苦手な政務に陰ながら手を貸したり、社交場では彼に代わって多くの貴族と国の未来や領地運営について語り合ってきた。

 王妃様もそんな私の努力を認めて下さり、同学年の私達が20歳の成人を迎えた時の為に正式に婚姻を結ぶ準備も密かに進めていた。


 残るは、人見知りで若干人嫌いな気のあるマティアス様と、いずれ夫婦になる時に「君が婚約者でよかった」と言って頂けるよう親睦を深めていくだけだった。

 私は16歳で彼と共に四年制である王立学園へ入学し、常に彼の隣に立つに相応しい賢い女性を心掛けてきた。

 全ては愛する婚約者、マティアス様の為に。


……それを、たった一人の平民に邪魔された。


 私達の入学する年から奨学生制度を設けた学園は平民にも希望があれば試験を受けさせ、成績優秀な者を奨学生として受け入れする事を許可したのだ。

 そこでトップの成績を収めた平民の女生徒が、神聖な王立学園に入学して来たのが事の発端である。


 ユリアナという名の、平民らしくあどけない顔をした無難な栗色の髪の女だった。昔から憧れていた王立学園への入学試験の為に独学で学んできたと聞いたが、真実は分からない。


 そんな彼女を才女だ努力家だと褒め称える男達が現れ、遂にはあの人見知りなマティアス様までをも彼女は籠絡してしまった。

 いつしか、貴族の常識も知らない可哀想な身分の女に絆された彼は、私には見せたことのないような笑顔を彼女に向けていた。


 私には笑顔なんて向けてくれたことはないのに、私が幾ら着飾っても「綺麗だ」の一言も言ってくれたことはないのに、あの女には当たり前のようにそれらを放つ彼を見ると、私は尋常ではない程の狂気に駆られ、そして決意した。


ーー彼をおかしくさせるあの女を、殺してやる。


 気付くと私は、学園の広間にある階段を一人で下る彼女の背を後ろから押していた。死んでしまえばいいと本気で思った。

 けれど、誰もいない隙を狙ったはずがあの女の信者が一人その場に隠れていたようで、私の罪は即座に暴かれてしまった。

 せめて殺害は成功していてほしいと願ったけれど、奇跡的に死に損なった彼女は意識を取り戻し、階段から突き落としたのは私だと証言をした。


 それを聞いたマティアス様は怒り狂い、ある日突然全校集会を開いたかと思うと生徒達の前で私を糾弾し断罪したのだ。

 そんな状況下でも、私は愚かな真似をしたとは思っても罪悪感や後悔の感情は湧かなかった。


 愛する彼から婚約破棄と身分剥奪、そして国外追放を命じられ、絶望と共に私が抱いた感情はあの忌々しい女に対する怒りのみだった。

 もし過去に戻れるのなら、今度こそ確実にあの女を殺してみせるのに……


ーーと、願ったまでが私の記憶。


 全校集会で愛しの婚約者に断罪され気が付くと、学園に入学する前日に時が戻っていたのだ。

 何故時が戻っていることに気が付いたのかと言うと、目の前に座る王妃様が「愛する娘の王立学園入学を、心から祝福するわ」と美しい所作で紅茶の入ったカップを持ちながら仰ったからだ。


 記憶を辿れば、確かに学園の入学前日に私は定期的に行っている王妃様と二人だけのお茶会を開き、祝福の言葉を頂いていた。


「貴女が私の本当の娘になるのが待ち遠しいわ」

 優しい微笑みを向ける王妃様を見ると、私は初めて自らの罪を後悔した。

 きっと、私の衝動的な行動はお優しい王妃様を酷く幻滅させてしまっただろう。私を幼い頃から本当の娘のように想ってくれたこの方に、私はなんて酷い仕打ちをしたのか。


 その後悔は、私に新たな決意をさせた。


 ご安心ください、王妃様。

 今度こそ、

 今度こそは……


 誇り高き王族に付け入ろうとする浅ましいあの女を、誰にも気付かれず完璧に殺してみせますわ。


      *


 時が戻る前と同じように婚約者と共に学園に入学した私は、今度こそ完璧な殺害計画を立てるためあの女のことを隅々まで調べ上げた。

 ユリアナは十歳の頃に父親を亡くし、今は母親と幼い三人の弟達と共に生活しているらしい。幼い妹や弟を養うため朝から晩まで働く母親を想い、王立学園で良い成績を収めなるべく良い所に就職し金を稼ぎたいと考えているようだ。


 けれど、本当にそれだけかしら?

 あの女は確かに成績は優秀かもしれないが、純粋で愛らしいフリをして結果的に王族であるマティアス様を籠絡し、明らかな好意を寄せられ自惚れていた。だからこそ、あの断罪の場で私の罪を声高らかに彼に言わせたのだろう。

 もしかしたら、王族に付け入る事で生活の手助けをして貰おうと考えていたのかもしれない。


 馬鹿な女……彼をどんなに籠絡したところで、平民と王族が婚姻など出来るはずもないのに。


 ただ、それは私にも言えること。冷静に考えればあの女が彼と結ばれるはずなどないというのに、婚約者を籠絡された怒りに自我を失い衝動的に彼女を階段から突き落としてしまったが、もっと上手いやり方は幾らでもあったはずだ。

 私が自らの手を汚さなくても他の誰かにやらせて罪を被せればよかったし、それなりに金を掛ければ事故に見せ掛けて殺す事だって不可能ではない。


 前回の私の反省点は計画を立てなかった事だ。彼女を殺してからのことを一切考えていなかった。まさかマティアス様が婚約破棄を言い渡すだなんて、微塵も思っていなかったからだ。私の愛からの行動に、きっと彼はあの女に一瞬でも好意を寄せたことを後悔し、これからは私をまっすぐ見てくれるだろう……そう思っていた。


 最後に私を赤い瞳に映した彼は、酷く憎い者でも見ているかのように恐ろしい表情をし、あの女のせいだというのに彼は愛おしそうに彼女を抱き締め守っていた。

 私の、婚約者だというのに。


 今回こそは、必ず彼を私の隣に連れ戻してみせる。そして調子に乗ったあの女に最悪な不幸をお見舞いし、彼を篭絡したことを心の底から後悔させてやる。


 待っていなさい……ユリアナ。


 そうして毎夜計画を練っていると、私は素晴らしい案を思い付いた。

 私が彼女を殺す必要はない。平民のせいで公爵令嬢である私が大怪我を負えば、貴族に怪我を負わせた罪で必然的にあの女は処刑されることになる……


 ふふ……そうよ、そうだわ……

 今回は、私が彼女に突き落とされましょう。



 作戦が決まれば話は早かった。私はどんなに愛しの婚約者とあの女が仲良くなろうと邪魔をしたりはせず、ただ遠くから悩ましげに幸せそうな二人を眺めた。そうすると、同じ貴族である生徒達は私に同情し、平民であるユリアナを影で非難するようになった。

 生徒達に距離を置かれ孤独になったユリアナを優しいマティアス様が慰めている所に、私が偶然の振りをしてわざわざ出向き目に涙を浮かべ悲しげにその場を立ち去れば、あの女に対する生徒達の非難は更に過激になった。


「エレオノーラ様がお可哀想だとは思わないのかしら」と彼女に聞こえるようあからさまに嫌味を言う女生徒達は、もう完全に私の味方と化していた。思惑通り動いてくれる単純な彼らは実に愛おしい。


 友人も出来ず日に日に元気を無くしていくあの女が本当に無様で、私は気分が良かった。


 けれど、マティアス様だけは思い通りにいかなかった。彼は、平民に愛する婚約者の心を奪われ悲しみに暮れる私に「エレオノーラ、君から生徒達に誤解だと伝えてはくれないだろうか?」と普通の顔をして申し入れてきた。


「…………」


 何故私が彼女を庇わなくてはならないの?

 そもそも誤解などではないでしょう。あの女は婚約者を持つ貴族男性、それも王族である第三王子のマティアス様の隣に何も知らない顔で堂々と立ち続けている。貴族の常識では考えられないほどの非常識を平然と行うことを、一体何処の貴族が“素晴らしい女性だ”と思うわけ?


 そう頭の中で否定しながらも、可哀想な貴族令嬢を演じる私は「分かりましたわ」と寂しげに微笑むことしか出来なかった。

 そんな私に、彼は感謝の言葉を簡単に告げるだけで、婚約者を悲しませていることへの謝罪の言葉など言ってくれはしなかった。


 きっと、今はあの女のせいで周りが見えなくなってしまっているのだわ。私が必ず貴方をこちらへ引き戻してみせます、だからどうか……あの女が罪を背負い亡くなった時は、可哀想な私に愛の言葉をお告げ下さいね?



 計画のため私が粘り強く耐えた事で前回の断罪の時期を超え、私は17歳の誕生日を迎えた。マティアス様も既に誕生日を迎えており、成人し私達が正式に婚約するまで三年を切った。

 私を気に入っている王妃様は、

「愛しい貴女に神の祝福があらん事を……」

と私のために祈ってくれた。

 お優しい王妃様を早く安心させてあげなくては、と私は遂に練りに練った計画を実行することにした。


 学園に入学して一年も経たないが、既に計画の準備は万端だ。

 生徒達の同情は全て私に向いていて、逆にあの女への反感は日々強くなっている。今ならば、少しでもあの女に怪しい点があれば誰も疑わずに彼女を悪女のように言うだろう。


 そうして機を狙い、あの女が一人になるのを待った。孤独なあの女が一人になるのは案外早く、前回失敗した広間の階段で遂にその時がやって来た。

 私は長い階段の中央に立ち、上から彼女が近付いて来る足音を聞き振り返る。


「あら、こんにちは、ユリアナさん」


 微笑み挨拶をすれば、彼女は何故だか嬉しそうに「エレオノーラ様……!」と私の名を呼んだ。勉強が好きだと言う割に、貴族の名を平民がそう簡単に呼んではならないという初歩的な常識すら知らないのかと呆れる。


「実は、貴女に話があって待っていたの」と非常識を咎めるでもなく優しい声で言うと、彼女は急いで階段を下り私の一段上に立った。

 ほぼ正面に立つ彼女に、私は「なんて都合がいい子かしら」と初めて彼女に感謝した。


 どんな話が始まるのかと純粋な目をして待つ彼女に「マティアス様の事なのだけれど……」と呟くと、彼女は途端に表情を曇らせた。私という婚約者がいるマティアス様を籠絡していることを少しくらいは気にしているのかしら、と思いながら私は言葉を続ける。


「マティアス様は、私よりも貴女の方がお好きみたいね」


 冗談で言ってみた言葉だったけれど、彼女は頬を染めて「エレオノーラ様にも、そう見えますか……?」と私の気も知らず問い掛けた。

 あぁ、浅ましい女……そんな訳ないでしょう?

 所詮平民の女なのだから、公爵令嬢である私から彼を奪う事など出来ないのよ?


 つくづく嫌味な女……と静かに目の前の平民を睨むけれど、彼女はそんな私の表情を見てはおらず、恥ずかしそうにはにかみながら「マティアス様はとてもお優しい方で、私の憧れなんです」と頬を染めたまま愛おしげに言った。


 貴女程度に憧れられて誰が嬉しいというのよ、と頭の中で毒を吐きながら「えぇ、分かるわ。私も同じよ」と微笑むと、途端に彼女は瞳を輝かせた。

「私、エレオノーラ様も憧れなんです!」とまっすぐ目を見て言うこの女に、私はつい柄にもなく驚いてしまった。


「燃えるように美しく揺れる赤い髪、気品に溢れた言葉遣いや所作、そして全てを見透かしたような切れ長の目元は何処かの国の王女様と見紛うほど!美しい見た目だけでなく、試験では常に素晴らしい成績を収め周りからは完璧な才女と言われていて……エレオノーラ様のような方がこの国の王妃になれば、きっと国はもっと豊かになります!」


 早口で熱弁され一瞬戸惑ったけれど、最後の言葉が気になった。“王妃になれば”だなんて、私は第三王子の婚約者なのだからなれるはずがないというのに。


……あぁ、そういうことね。


『私を愛する第三王子の婚約者なんて辞めて、王太子である第一王子と結婚したらどうですか?』という意味なのだとしたら、この女は本当にどれだけ私を馬鹿にすれば気が済むのかしら。

 確かに王太子殿下は未だ婚約者がいないと噂されているけれど、昔から私が愛するのはたった一人、マティアス様だけだというのに。


 そんな事を言っておきながら相変わらず私を純粋な目をして見つめる彼女に苛立ちが募り、

「確かに、王妃になるのも悪くないわね」

と黒い顔で言ってみれば、この馬鹿な女は心底嬉しそうに笑った。

 そんなに楽しい?私の婚約者を奪う事が。


 そう頭の中で問い掛けると、何処からかこちらへ向かう生徒達の声が聞こえてきた。

 その声に耳をすませながら「けれど私、マティアス様を愛しているの」とハッキリと口に出せば、先程まで楽しそうだったユリアナは「そう……ですよね……」と傷付いたような顔をした。


 何を被害者ぶっているのかしら、と鼻で笑い「残念だけれど、貴女の思い通りにはさせないわ」と言って生徒達の声のする後ろを確認する。

「えっ……?」という彼女の声と共に、こちらへ歩いてくる生徒達の姿が私の視界に映った。


ーー今よ。


 私は思い切り後ろへ向かって地面を蹴り上げ、馬鹿みたいに驚いた顔をした彼女だけに見えるように微笑んでみせた。

 すると彼女の手が私へ伸びて来るのが見えたけれど、私はその手を振り払い口だけを動かす。

 このクソ女、と。


 完璧にお前を殺して愛する婚約者を取り戻すためなら、私は両手両足を無くしたって構わないのよ。


      *


 目を開くと、見覚えのある天井が視界に映った。幼少の頃から毎日のように見てきた天井に、私は今我が家にいるのだと察しがつく。

 起き上がろうとしてみるけれど、体が動かない。自身が今どんな状態なのかを少しでも確認しようと無理やりに体を捻ると、足に強い痛みが走った。

 痛みの方へ視線をやると、右足に過剰なほど包帯が巻かれていることに気付く。


 あぁ、やった……やったわ!!

 成功した……!!


 あまりの嬉しさに思わず笑い声を上げると、私専属の使用人が部屋の中へ入って来た。使用人は私の目が覚めていることに気付くと、忽ち大声で「お嬢様がお目覚めです!」と家の者を呼びに行った。

 大きな足音を立てて私の部屋にやって来たお父様やお母様、そしてお兄様が一斉に私を抱き締める。涙しながら「生きていてよかった」と告げられ、家族からの愛に私は胸が熱くなるのを感じた。


 生徒達の目撃証言により、私を階段から突き落とし殺害しようとしたと疑惑を掛けられたあの女は、私が気を失っている間に直ちに拘束され王城の地下牢に入れられたと聞いた。私は計画通りの情報に心を踊らせ、更にその先を想像する。


 平民が貴族を貶める事は大罪に値する。貴族第一主義の王国故に、普通に考えたら裁判も行わずに死刑が確定するだろう。例えあの女を擁護する誰かが現れたとしても、あの馬鹿な女には私を殺そうと企む充分な動機がある。


 私が、あの女が想いを寄せるマティアス様の婚約者であるという事だ。


 愛する人を自分の物にするため婚約者である私を殺害しようとした、と容易く想像出来る充分な程の動機は、殆どの生徒達が私の味方をする上で頭の中に浮かんでいることだろう。勿論その事は私の家族にも伝わっており、怒り狂ったお父様はあの女の家族も全員処刑するべきだと王に進言するとまで言っていた。

 私が心優しい演技をしながら「どうかお辞め下さい、お父様……」と瞳を潤ませれば、お父様は婚約者に浮気をされた可哀想な娘の頭を優しく撫でる。


 ふふ……いい気味だわ。

 これでやっとマティアス様も目を覚ますだろう。私を殺そうとした哀れな平民を憎み、そして後悔しながら私の見舞いにやって来るはずだ。

「本当にすまなかった。これからは君だけを愛すると約束する」とでも言ってくれるに違いない。

 楽しみだわ、と私はひと月程の休学中愛する婚約者を待ち続けたが、彼は一度も見舞いには訪れなかった。


 休学期間を終え久方振りに学園へ戻ると突然全校集会が開かれることになり、私含めた生徒達は全員講堂に集められた。

 恐らくユリアナの処分と、始まったばかりの奨学生制度を撤廃する発表だろう。仕方ないわ、そもそも由緒ある王立学園に平民を入れるべきでは無かったのだから。


 足を引き摺る私を心配する生徒達に支えられながら講堂に辿り着くと、何故だか幽閉されているはずのあの女がマティアス様に寄り添い壇上に立っていた。あの女の腰にある彼の手を見て、嫌な予感が頭を過ぎる。


 嫌よ、そんなはずないわ。だってあの女は私を殺そうとしたのよ?

 周りを見ても、皆不可思議そうな顔をして壇上の彼らを眺めている。やはり私がおかしい訳ではないみたいね、と安堵し再び彼を見ると、何故か鋭い目付きで睨まれる。


 どうして……どうしてそんな目で私を見るの……?

 貴方と寄り添って立つのも、腰に手を添えられるのも大怪我を負った婚約者である私のはずでしょう?

 大罪人として裁かれるはずのその女を、愛おしそうに見るのはどうして?


 様々な不安が私を襲い、立っているのもやっとだった。


 講堂に生徒が揃うと、

「皆、集まってくれて感謝する」

とマティアス様が壇上で話し始めた。


「今日集まってもらったのは他でもない、我が婚約者であるエレオノーラ・カラヴァイネン公爵令嬢を階段から突き落としたとして、貴族殺害未遂で王城の地下牢に幽閉されたユリアナの嫌疑についてこの場で発表したいことがあるからだ」


 壇上で堂々と声を上げる婚約者の声を、皆静かに聞いている。だが、皆の視線は彼に寄り添うあの女に向いていた。

 私もそうだ。被害者は私のはずなのに、何故あの女が守られるように彼の隣に立つのか意味が分からない。


「率直に言おう……」と彼はキッと私を睨み、次の瞬間講堂に響き渡る声で言い放った。


「今回の事件は、全て我が婚約者であるエレオノーラ・カラヴァイネン公爵令嬢による自作自演である!!」


 マティアス様の衝撃的な発言に講堂内がざわめきだし、彼らの視線は一気にユリアナではなく私に向けられた。

「何を仰るんですか……マティアス様……」と震える声で彼に問い掛ければ、彼はまた私を鋭く睨み「既に調べは付いている」と冷たい声で続けた。


「まず、ユリアナは君を階段から突き落としたことを否定している。寧ろ助けようと手を伸ばしたらしいが、君はその手を振り払ったそうだな?それを聞いて不審に思い調べたところ、その場にいた生徒達からの証言も得た。誰もユリアナが君を押した所は見ていない、と」


 まるで見下すように私を見る婚約者に、私は初めて恐怖した。

 まさか、あの女の些細な言葉を信じてわざわざ調べ上げたというの?状況証拠も動機も充分で、婚約者である私が大怪我を負ったというのに、それでもまだあの女を守ろうとするの?

 何が、彼をここまで突き動かすの?

 私の何があの女と違うのよ。


「更に、君が裏でユリアナの家族関係を調べていたという情報もあった。プライドの高い君の事だ、初めから彼女を貶めるつもりだったんだろう?奨学生として入学してきた、優秀な彼女に嫉妬して」


 違う……違うわ、マティアス様。

 あの女が優秀かどうかなんてどうでもいいの。

 全ては貴方を取り戻すため、愛する貴方の隣に立つため。

 貴方と、幸せな未来を築くため。


「愚かなことをするものだ……」


 君には心底幻滅した、と冷え切った彼の声に、私は弁明の言葉を告げることも出来ず地面に崩れ落ちた。足に鈍い痛みが走る。

 この小さな痛みを感じるだけで、あの女を始末し愛する人が帰って来てくれると思ったのに……私は一体何を間違えたというの?今回は完璧だったはずよ。どうして?何が起きたの?何故私はーー


あの女を、殺せなかったの?


「この場で皆に宣言する!」


 愛する彼は、高らかに聞き覚えのある言葉を吐いた。あぁ、またこの時が来てしまったのね。


「我が婚約者であるエレオノーラ・カラヴァイネン公爵令嬢は、誉高き学園の優秀な女生徒に殺害未遂の罪を着せた!よって、私と彼女に結ばれた婚約は破棄し、罪の無い女生徒を邪な理由で貶めたとして彼女を身分剥奪、並びに国外追放に処す!!」


 弱々しく地面に座り込む私に容赦のない言葉を浴びせた彼は、またも隣に立つ下賎な女を愛おしそうに見つめた。

 何故、私にはその顔を見せてくれないの。私の方がずっと長く貴方の傍にいたのに、人見知りな貴方を支えてきたのに、貴方に相応しい女であろうと常に努力をして来たのに……!!

 悔しい……悔しい……!!


 頭の中で必死に問い掛けても、彼の瞳は私を映さない。熱の篭もる瞳から、彼があの女に心酔しているのだと気付くと酷く胸が締め付けられた。


 最初からあの女をナイフで刺せばよかったんだわ。又は金を払って誰かに殺させればよかった。金さえ払えば、誰だって口を噤むか事実を捻じ曲げてくれる。簡単な事なのに、わざわざ時間を掛けて罪を着せようとしたのが間違いだった。


 また、失敗した。


 クソ……クソッ……クソッ!!

 汚い女め……!私の婚約者を奪っておいて、更には私から身分も家も奪おうと言うのか!!


 私が怒りから我を無くし、あの女に向かって罵詈雑言を浴びせる勢いで口を開いたところで、

「いや、怪我を負った令嬢に酷い事をするものだな」

と群衆の中から何やら陽気な声がした。


 その声には聞き覚えがある。学園に入学してからは身分故に忙しいのかあまり見掛けなかったが、幼少の頃より何度かお会いしたことのある尊き方の声だ。

 声の方を向き姿を確認すると、想像していた通りの方が優雅に靴を鳴らしてこちらへ向かって歩いていた。


 この国の第一王子、ヴィルヘルム・ラウティオラ王太子殿下だ。


「マティアス、婚約者の言い分も聞かずに黒だと決め付けては可哀想ではないか」


 大丈夫か?と王太子殿下は優しい声で私に問い掛ける。久々に見る殿下は、王族の中でもまるで最高級の宝石のように輝いて見えた。金色の髪と赤い瞳は王家の血を受け継ぐ者全てに与えられる色なのに、その輝きはまるで異次元だ。

 時が戻る前の断罪ではこの方の登場なんて無かったはずなのに、時期がズレたことと私の罪の内容が変わったことから、何か異変でも起こったのだろうか。


 思いもよらぬ王太子殿下の登場に私が思考を巡らせていると、

「マティアス、先程お前が得たと言った生徒の証言というのは『ユリアナ嬢がエレオノーラ嬢を突き飛ばしたところは見ていない』だったな?」

と、殿下は実の兄の登場に私同様に衝撃を受けていたマティアス様へ確認をした。


 その王太子殿下の声に、マティアス様は「はい……」と少し怪訝な表情を浮かべ答えた。

 その答えに対し、殿下は「そうか」と返事をすると妖しく目を細める。


「その証言では、ユリアナ嬢がエレオノーラ嬢を突き飛ばしていないという証明にはならないな」

「なっ……何を仰るのですか、兄上!!」


 マティアス様が動揺の声を上げ、私は何が起きているのか理解出来ず呆然と殿下を見上げていたけれど、彼の王太子たる堂々とした振る舞いに一切の迷いは無いように思えた。


「つい先程、証言をしたという生徒達に個人的に話を聞いたが、彼らの証言を正確に言えば『気が付いた時にはエレオノーラ嬢は落下の最中で、ユリアナ嬢は階段上で不自然に手を伸ばした状態で佇んでいた』だ」


 殿下の言葉に、マティアス様は眉間に眉を寄せ「私が聞いた証言と同じですが」と納得のいかなそうな声で呟いた。

 私含め、その場にいる生徒達は皆殿下の次の言葉を固唾を飲んで待っていた。


 殿下はそんな私達の視線に動じることなく、実に王太子らしい堂々とした口振りで見解を述べる。


「ユリアナ嬢が無実でエレオノーラ嬢の自作自演だと言うのならば、彼女が自ら飛び降りたと証明できる証言が無くてはならない。現場に居合わせたという彼らも『エレオノーラ嬢が自ら飛び降りたようには見えない』と思ったから、学園の警備にユリアナ嬢を捕らえさせたのではないか?」


「それは……」とマティアス様が図星のような顔をして呟くと、殿下はその表情を見逃す事無く更に的を射た発言を続ける。


「少なくとも、エレオノーラ嬢はこの件に関してまだ何も証言していない。ユリアナ嬢を捕らえたのは学園の警備であり、エレオノーラ嬢は『ユリアナ嬢に突き飛ばされた』と声を上げた訳でもないのだから、彼女がユリアナ嬢を意図的に貶めようとしたと考えるのは些か早計に思えるが?」


 確かに私は自分で悲劇を訴えては悲恋の乙女らしくはない、と周りから証言を求められても口を噤んでいた。けれどそれは、私が何も言わずとも“ユリアナが私を階段上から突き飛ばしたのだ”と周りが勝手に解釈してくれると信じてのものだった。まさか、殿下はわざわざ調べてくれたのだろうか。


 明らかに私を庇う殿下の言動に、その場にいた者達が皆私と殿下を交互に見ていることに気が付いた。


 私は何故殿下がこのような声を上げたのか理解出来ず、殿下の言動の意味を必死に考えていた。

 時が戻る前から殿下とはあまり親交がなかった筈だけれど……と不思議に思いながら殿下の瞳を覗くと、その赤はまるで真実を見透かしているようだ。


 いえ、そんな筈ないわ。

 もし真実を見透かしているのならば、彼が私を庇うはずはない。だって私は、マティアス様の仰った通りの罪を犯したのだから。

 そして、あの女を殺し損なった事こそ私の最大の過ち……彼の言葉に私を救おうとする意思があるように聞こえるという事は、殿下は私が罪を犯したとは微塵も思っておらず、純粋に矛盾点を上げているだけなのだろう。


 その証拠に、私の横に真っ直ぐ立つ殿下のお姿は、真実を述べながらも壇上で動揺しているマティアス様とは違い、次期君主たる輝きを放っていた。

 その言葉の重みが、格の違いを見せ付けてくる。


「し、しかし、エレオノーラはユリアナが救おうと手を伸ばしたのを振り払ったと……!」とマティアス様が苦し紛れに殿下の考えを否定する発言をすると、「それはユリアナ嬢の証言かな?」と殿下もまたすぐに食い付き、今度はユリアナに向かって質問を投げ掛けた。


「は、はい……」

 馬鹿な女は、身の程も弁えず怯えるように私の婚約者にしがみつき、殿下の質問に対し返事をする。


 その返事を聞くと、殿下は「そうか。そもそも本人の証言な時点で証拠にはなり得ないが、よく考えてみろ」と再びマティアス様を見た。

 殿下の鋭い瞳に睨まれる愛する婚約者を見てみれば、彼が一瞬殿下に戦いているように映った。


「階段から地面に落下していくエレオノーラ嬢が彼女の手を取っていたら、今頃彼女はどうなっていたと思う?」


 殿下の質問に、場にいた全員が何かに気付いたようにざわめき始めた。「……まさか……!」と私の婚約者も驚いたように私を見る。

 漸く私を見てくれた、と私は言葉の意味など考えずそんな彼と見つめ合った。


「エレオノーラ嬢を救おうとした彼女も、巻き添えを食らい大怪我を負っていただろうな」


 あぁ、そういうこと。


 理解すると段々と理性が働き始め、怒りに任せてあの女に暴言を浴びせなくて良かった、と少し前の自分を褒めた。


「もしエレオノーラ嬢がユリアナ嬢を巻き込まないため手を振り払ったのだとしたら、善良な心になんと愚かな判決を下すのかと絶望に打ちひしがれ膝から崩れ落ちても仕方がないだろう。彼女が何も弁明をしない事に胡座をかき不充分な証拠で追い詰めるなど、王族としてあっていい事だと思うか、マティアス」


 私が殿下の最もな言葉に合わせ悲しげに涙を流す演技をすると、周りから感じていた視線が一気に同情を込めたものに変わったように感じた。

 すると殿下は私に向かって跪き、決して小さくはない声で「可哀想に……」と呟き私の背を優しく撫でる。何故だか私は、その優しい手に根拠の無い違和感を抱いた。


 そんな私に構う事なく、殿下は更に

「そして、この件に関してはお前にも落ち度がある」

と私の背に手を置いたまま、マティアス様へ告げた。


 ざわめいていた講堂内が静かになり、マティアス様は唐突な自身への批判に訝しげな目をして殿下を見た。隣に立つユリアナも「え……?」と不可思議そうな声を漏らしているが、殿下がこれから続ける言葉には大凡の察しがつく。

 私が、頭の中で何度も彼に問い質したことだ。


「お前は、婚約者であるエレオノーラ嬢には冷たく接して来たにも関わらず、ユリアナ嬢には優しく微笑みかけ、時には二人きりでの逢瀬もしていたそうじゃないか。婚約者でも無い女性に現を抜かすなど、一人の男として恥ずべき行為だとは思わないか?」


 静かになった講堂内で張り詰めた空気が流れ、

「……現を抜かしたつもりはありません。私は、優秀な生徒でありながらも平民という立場のユリアナを気に掛けていただけで……」

とマティアス様が殿下から目を逸らすと、

「それはお前個人の意見だ。周りの目はどうだ?」

と更に殿下が問い掛けた。その声には、分かり易く怒りの感情が込められているように思える。


 何度も……何度も彼に問い掛けようとした。

『何故、婚約者である私にはそのような優しい微笑みを向けてくれないの?』と。

 その度に私は『彼が私を見ないのは、卑劣な手で彼を魅了するあの女のせいだ』と思う事でユリアナに対する憎悪だけを膨らませ、彼を責める気持ちを抑えていた。


 けれど、貴族の常識に当て嵌めて考えてみれば本来有り得ない事だ。婚約者である女性を蔑ろにして、別の女性、それも平民の女に愛想を振り撒くなど。


 もし私がただの弱々しい令嬢で、このような事件も起こさず悲しげに涙を流しているだけだったなら、きっと誰かがマティアス様を問い詰め叱っていたことだろう。


 婚約者のいる身でありながら皆の前で堂々と別の女性に好意を向けるということは、貴族の品位を欠く行為である……これはこの国の全ての貴族に共通している考え方であり、普通の貴族ならば知られないよう必死に隠れて行う行為だ。だからこそ私は学園の生徒達に同情され、悲恋の乙女として多くの慰めの言葉を掛けられてきた。


「お前はただ純粋に、平民ながらも優秀で健気に努力をするユリアナ嬢を助けてやりたかっただけかもしれないが、お前のユリアナ嬢への接し方を見た他の生徒や本来一番気に掛けてやるべきだった婚約者は、第三王子のマティアスが婚約者を放っておいて平民の奨学生に好意を寄せているように映っただろう。それがどれだけ生徒達に王国への不信感を抱かせたか、婚約者であるエレオノーラ嬢を悲しませたか、お前には想像も出来ないのか?」


 子供を叱り付けるような殿下の物言いに、マティアス様は何も言えず唇を噛んでいた。

 あぁ、そんなに強く噛んでは傷が出来てしまうわ……と壇上の彼を見るけれど目は合わない。


「無愛想な婚約者が別の女性に愛想を振り撒いていることに嫉妬し、その女性の事を調べることもあるだろう。だが、たったそれだけで殺害未遂の罪を着せたと言われては、余りにもエレオノーラ嬢が不憫ではないか」


 殿下が諭すような言葉を吐くと、まるで苦虫を噛み潰したような顔で俯いたマティアス様は、小さく「はい……」と言った。先程までとは打って変わったその弱々しい声に、彼を愛する私は酷く胸を痛め、同時に未だ彼に寄り添うあの女に対して再び怒りが湧いた。


 王太子殿下に叱られた可哀想な彼を慰めるのは、本来私の役目でなくてはならないというのに。


 いつまでそこに立っているつもりかしら。お前がしがみついているその方は私の婚約者なのよ……とあの女を鋭く睨み掛けてすぐ、私は思い出した。


 あぁ、でも私……つい先程婚約破棄を言い渡されたのだったわ。

 殿下の登場で忘れかけていた現実を思い出し、私は再び絶望の縁に立たされた。


 殿下が私を庇ってくれた事は想定外だったけれど、言葉というものは一度言ってしまえば取り返しがつかない。特に王族という立場の者は言葉に多くの責任が伴ってしまうが故に、大勢の貴族の前で独断とはいえ婚約破棄を告げたとなればそれは必ず実行せねばならず、私は一生を『第三王子に捨てられた女だ』と囁かれながら生きる事になってしまう。


 当然、お父様は『不当な扱いだ』と声を上げ、今まで良好だった王家とカラヴァイネン公爵家の関係には大きなヒビが入るだろう。

 後からマティアス様が後悔し、宣言した事を白紙に戻そうとしても恐らく認められない。権力者の言葉とはそういう物だ。


 全ては、私が計画を失敗した事が原因。愛する彼に真実を悟られさえしなければ、もっと上手い計画を立てていれば、婚約破棄など告げられはしなかっただろうに。


 演技で流していたはずの涙が本物に変わり頬を伝うと、突然殿下の指がそれを拭った。

 驚きから殿下に視線を移し、

「……殿下?」

と私が小さく呟くと、途端に彼は微笑みを向けてきた。


「この国の王太子として、我が弟の愚かな発言は取り消させて頂こう。そして今回の件は証拠が少ないことから、エレオノーラ嬢とユリアナ嬢どちらへの嫌疑も不問とする」


 凛とした声での宣言に、講堂内は拍手に包まれた。けれど、私は別の事に頭を悩ませていた。

 例え殿下が第三王子であるマティアス様の発言を取り消すと宣言したところで、身分剥奪や国外追放はまだしも、婚約破棄を告げたことまでは取り消せない。私は、自身にも疑いを掛けられる要素があったのだと婚約破棄を受け入れなければならないだろう。


 殿下のおかげで疑惑は晴れたけれど、実際に私はあの女を殺そうとしたのだから当然ではある。


……あぁ、今回も失敗してしまった。もう一度時が戻らないかしら。そうしたら、今度こそきっと……あの憎たらしい女を殺してみせるのに。


 そうだわ、次はあの女と仲の良いフリをしてマティアス様の気を引いてみましょう。三人で楽しく会話をして過ごせば、突然あの女が死に至っても彼はあの女と仲良くしていた私を疑わないはず。そうして悲しみに暮れる彼を私が慰めれば、きっと彼は私に本当の愛を捧げてくれる……


 早く時が戻らないかしら、と期待を寄せ大人しく待っていると、

「婚約破棄の件も取り消してやりたいが、弟は仮にも王族という立場……幾ら王太子といえど、私にも勝手な事は言えないんだ。申し訳ないが分かってくれ」

と如何にも申し訳ないと思っているような顔で殿下は告げた。


 分かっております、と伝えようと私が口を開くと

「だが、それでは余りに君が不憫でこの場にいる誰もが納得しないだろう。だから私は、ここに新たな宣言をすると決めた」

と言いながら、殿下は唐突に私を抱き立ち上がった。


 何故自身の体をこの国の王太子殿下が抱き上げたのかと、私は理解が追い付かないながらも落ちないよう咄嗟に殿下の肩に手を回した。

 そんな私を周りに見せるように殿下は生徒達の方へ向き、凛々しい声で高らかに告げた。


「ラウティオラ王国の王太子であるヴィルヘルム・ラウティオラは、エレオノーラ・カラヴァイネン公爵令嬢を我が婚約者として迎えることを、ここに宣言する」



……は?



      *


 衝撃的な宣言をした殿下は、

「とりあえず事態は終息した事だし、君を医務室へ連れて行くことにしよう」

と私を抱き抱えたまま講堂を後にした。


 去り際、殿下の発言によって大騒ぎになってしまった講堂内は教師陣が仕切り始め、壇上にいるマティアス様も呆然と立ち尽くし殿下に抱えられる私を見ていた。

 その隣に立つあの女に一言言ってやりたい気持ちはあったのだけれど、何せ殿下に抱き抱えられている為何も言えはしなかった。


「あの、殿下……自分で歩けますので、もう結構ですわ」

 人気の無い廊下に出た時、公爵令嬢としての気品を損なわないよう告げると殿下は「そうか」と意外にもあっさりと私を地面に下ろした。


「……殿下、何故あのような事を仰ったのですか」


 殿下の私を不憫に思う気持ちは分からなくもない。マティアス様から婚約破棄を告げられた事で私の醜聞が広がり公爵家と王家の関係が悪化する事を防ぐ為には、彼よりも位の高い殿下があの場で私に求婚する事が一番確実だという事も。

 今まで全ての縁談を断って来たという王太子ともあろう者が婚約の宣言をしてしまえば、どんなに私の醜聞が広がろうとも周りは確実に私を殿下の婚約者に望むだろう。そして、我が公爵家を思うなら私はそれを受け入れなければならない。


 けれど、殿下がそこまでして私を庇う理由が見当たらない。

 今まで思いもしなかったけれど、まさか殿下は人知れず私を想っていたというの?

 だからここまでして私を救おうとしたのかしら、と私が純粋に疑問を抱いていると、突然殿下が「フッ……」と笑い声を漏らした。


 私は唐突な笑い声に不信感を抱き、殿下を見る。体を小さく震わせながら段々と笑い声を大きくする殿下は、最終的に「アッハハハハ!!」と一体何が面白いのか酷く楽しげに笑った。

 先程までの王太子らしい雰囲気は今の殿下には一切感じられず、私はまたしても戸惑ってしまった。


 殿下は一頻り笑い終えると「はぁ……」と息を吐き、その全てを見透かしたような赤い瞳を今度は私に向け、言い放った。


「時が戻ったというのに、君があまりにも愚かで可愛くて笑ってしまった」


 今までに見たこともない殿下の黒い表情と“時が戻った”という私しか知り得ないはずの情報に、私は目を見開き「何故、殿下がそれを……」と思わず動揺を態度に出すと、「なんだ、前回とは行動が違うと思ったらやはり君にも記憶があるのか」と殿下は飄々と口にした。


 周りの人間に前回の記憶が有りそうな者がいなかった為失念していたけれど、確かに原理の分からない時戻しが起こり私にしか記憶がないというのはおかしなものだ。

 きっと神が私にあの女を殺す機会を与えてくれたのだと勝手に思っていたけれど、自分以外にも記憶がある可能性を考えるべきだった。


 動揺を態度に出してしまった以上隠し立ては出来ない、と唾を飲み覚悟を決めたところで、更なる疑問が浮かび上がった。

 前回の記憶があるのなら、尚更殿下が私を庇う理由はないではないか、と。前回私が起こした事件の内容を知っていたとすれば、今回の件も私の企みだと分かっていたはず。殿下のこの様子から、恐らく私に対する好意等も抱いてはいないだろう。

 それなのに何故私を庇ったの、この男は。


 私が不信感を抱いていることに気付いた殿下は、相変わらずの黒い笑みで「本当に面白いな、君は」と呟き、王太子らしからぬ悪役のような態度で話し始めた。


「私もよく分からないが、前回君が断罪されたすぐ後、私は目が覚めると過去に戻っていた。折角面白い物を見たと思ったのに、一体何の冗談かと驚いたよ」


 状況は私と同じだわ、と思いながら意味深な言葉に耳を傾けていると、殿下は不遜な態度で「まぁもう一度間抜けな君を拝めるならいいか、と思っていたら……まさか君がここまで馬鹿だとは!!」と再び笑い声を上げ始めた。


 不快な笑い声に、眉間に皺を寄せ「何がそんなにおかしいのですか」と問い掛けると殿下は更に笑って、

「今回はやけに大人しくしているなと思ったら、あんな大胆な事を仕出かすとは……しかも、大した証拠も出されていないのに潔く負けを認め崩れ落ちるなんて、大した脳みそもない君は本当に愚かで可愛いよ、エリー」

と散々私を侮辱する言葉を吐き、許可もしていないというのに私を愛称で呼ぶ。


「王太子ともあろうお方が、随分と下品な言葉をお使いになるのですね」

 淑女らしい嫌味を放ってみても、何食わぬ顔の殿下は「あぁ、すまない。正直に言い過ぎて傷付けてしまったかな?」と煽る事を辞める様子はない。


「状況が理解出来ないのですが、つまり殿下は私の企みを大方ご存知だったということですよね」

「あぁ、そうだな」


 私の質問に殿下は悠然と構え答えるけれど、尚更意味が分からない。

 王太子だというのに問題を起こすと知っていた令嬢を放置し、挙句事件を面白がるだなんて……まるで好奇心旺盛な子供のようだわ。


「何故、私を庇ったのですか」


 殿下にも、恐らく何か企みがあるのだろう。私を断罪から救うことで何かを得ようとしているのかもしれない。今回の事件に関して私を脅し、カラヴァイネン公爵家を意のままに操ろうと考えているか、又は王妃様と仲の良い私に何か頼もうという魂胆か……

 何れにしろ、面倒な人間に救われてしまったものだわ。


 私の問い掛けに、殿下は頬笑みを浮かべたまま目を細め、質問の答えとは思えない言葉を切り出した。


「私は、昔から面白い物が好きでね」


 繋がりのない唐突な告白に「……は?」と思わず声を漏らすけれど、殿下は優雅に私の前まで歩き話を続ける。


「前回の君の行動が面白くて今回も目を付けていたが、懲りずに足りない頭で必死に練った計画を実行する君はより面白かった」


 つまり興味本位で私を庇ったということかしら、と嫌味に感じる殿下の言葉から推察していると、私の目の前で立ち止まった殿下は私の髪を艶めかしく撫で一束手に取った。


「感情任せにユリアナ嬢を貶めようと必死になって、次々と失敗する君は私の理想通りの女性だ。生涯を共に過ごすなら、君のような何を仕出かすか分からない頭の悪い女性がいい」


 殿下はそう言うと、私の髪にキスを落とした。

 何かおかしい雲行きに「……何を仰りたいのですか」と質問を投げ掛けると、殿下は血液のように濁った真紅の瞳で私の目を覗き、


「私は、卑劣な手で人を貶めようとする馬鹿な君が愛おしくて堪らないんだ」


とまるで恐怖さえ感じる程の美しい顔で告げた。


 私を侮辱するような言葉ばかり吐いている癖に、一体何を言っているのか。

 この男の頭はおかしいのか、彼が王太子でこの国は無事でいられるのか、とあらゆる思考が脳内を駆け巡ったけれど、まずは目の前の疑問を払拭しなければならない。


「まるで、愛の告白のようですわね」

「そう受け取ってもらって構わない」


 愛など感じてはいないだろうに、楽しげに私の髪を弄びながら答える目の前の腹黒な男に、

「そんなおかしな理由で私を庇い、あの場で私との婚約の宣言をしたというのですか」

と冗談半分で問うと、彼はあっさりと肯定した。


「都合良くまた時が戻るとも限らないし、マティアスがあの発言をしてしまった以上、私と君が婚約する事がカラヴァイネン公爵家にとっても王家にとっても最善だと言える。それは君も理解しているだろう?」


 先程まで自分勝手な言葉を吐いていた癖に、唐突にまともな発言をした殿下に「勿論ですわ、殿下」と私も頬笑みを浮かべ答えた。そんな私の態度を、殿下は婚約の同意と捉えたようだ。


「私と君が婚約すれば、全てが丸く収まる。君は王太子妃になり今よりも周りから崇められ、私は理想通りの面白い女性を妻に迎えられる。それに私はマティアスと違って婚約者は大事にするよ。君の“元”婚約者よりも、立場的にも婚約相手としても断然私の方が魅力的だと思わないか?」


 殿下の言っていることはよく分かる。そして、弱みを握られている私が断る事など出来ないと言う事も。


 けれど……


「馬鹿にしないで下さいませ」


 潔く受け入れるべきだろう。全てのことは自身の犯した罪が引き金となっているのだから。受け入れなければ、きっと私は目の前のこの男によって今よりも不幸にされるに違いない。

 そうと分かっていても、私には譲れない物がある。


 私が危険を冒してまであの女を殺そうとしたのも、一度失敗しても諦めなかったのも、全てーーたった一人、愛する人の為。


「私が立ちたい場所は、マティアス様の隣だけですわ。貴方の隣も、王太子妃の椅子にも興味はありません」


 堂々と、そして淑女らしく告げると、殿下は何やら面白そうに口角を上げた。


「そうは言っても、王族の言葉の重みに関しては君でも理解しているだろうが、一度皆の前で宣言してしまった事は基本的に後から取り消す事は出来ない。余程の理不尽でなければの話だが」


 想像通りの殿下の言葉に「えぇ、勿論理解しておりますわ」と当たり前のように返事をすると、殿下はわざとらしく困ったような顔をして「そんな重みのある求婚を、君は断るというのか?」と問い掛けてくる。

 弱みを握られている分際で生意気な言葉だとは思いつつも、私は「丁重にお断り致しますわ」と礼儀正しく謝罪をした。


 すると殿下は何やら考えるような素振りをし、少しするとまた意味ありげな表情で頬笑みを見せた。

 今度はどんな風に私を煽るのかしら、それとも脅すのかしら、と次に殿下の吐く言葉を頭の中で想像していると、

「なら、これはどうだ?」

と殿下は思いもよらない提案を持ち掛けた。


「私がユリアナ嬢の殺害計画、そしてマティアスの心を君の物にするため協力する、というのは」


 意味の分からない発言に「……今、なんと?」と私が思わず確認すると、殿下は相変わらずの清々しい程に普通の顔をして「私が君に協力しよう」と再度告げた。


 一体どういう意味なの。私を妻に迎えたいというのに、マティアス様の心を私に向けるため協力してくれるだなんて、言葉の辻褄が一切合わないじゃない。

 更にはユリアナの殺害に関しても協力するだなんて、王族としてこんなに堂々と言っていいことでは無いはずだ。


 殿下の思考が読めず混乱していると、

「流石にただ協力するのでは私に利点がないから、きちんとルールを決めよう」

と私の混乱を他所に殿下は更に続けた。


「王族として発言を取り消す訳にはいかない為、君には一度私との婚約を受け入れてもらう。そして君が成人を迎える誕生日までを猶予とし、それまでに君がマティアスの心を手に入れ当初の企み通りユリアナ嬢を殺害出来たら、私は潔く身を引こう。どちらか一方でも仕損じれば、君にはそのまま私の妻になってもらう。その間、私も君の計画に協力を惜しまないと約束する」


「……都合が良すぎますわ」

 殿下のあまりに寛容な条件に不信感を抱き呟くと、何を考えているのか分からない殿下はニコリと笑って「愚かな君が愛おしいと言っただろう?」と私の頬を撫でた。


 まだ婚約者ではないというのに馴れ馴れしいその手を払うと、

「愛に溺れ、恋敵への憎悪だけであらぬ方向に努力し動く君が……私はもっと見たいんだ」

と、殿下はまるで物語に出てくる魔王のような顔で言った。どう考えても私への愛で吐いた言葉では無いはずなのに、この異常な程の私への執着心は何なの?


「……分かりましたわ」と殿下に対して感じた恐怖を冷静な表情に隠しつつ条件を受け入れると、黒い心が滲み出た瞳で彼は微笑んでいた。


      *


 以降、殿下の仰った通り都合良く時が戻るという事も無く、公の場で第三王子に婚約破棄を告げられた私は陛下に呼び出され、直接の謝罪を受けた。その場には王妃様もおり、私の事を本当の娘のように可愛がって下さっていた為、今回の件に酷く心を痛めた様子だった。


 そして、陛下は王太子殿下が宣言した婚約に関しても改めて私に申し入れてきた。


「愚息の仕出かした事をこのように上書きする事は君に対して失礼な行為かもしれないが、どうか前向きに検討してほしい」


 ただの公爵令嬢である私に真摯な言葉を掛けて下さる陛下に、私は王太子殿下との約束通り「とんでもございません。我が公爵家にとってこれ程の名誉はございませんわ」とその場で婚約を受け入れる発言をすると、陛下は安心したように微笑んだ。


 今回の件でマティアス様には、不十分な証拠で婚約者を追い詰めたとして数日間の謹慎処分が下された。様々な人に責められているマティアス様は可哀想だけれど、第三王子という身分故に仕方がない。

 陛下や王妃様も、マティアス様がただの平民である娘を庇った事を責める発言をしていた事から、ユリアナは更に学園での肩身が狭くなることだろう。


 それに関してはいい気味だわ。あの女が孤立すればするほど殺し安くなるというもの。


 断罪の日から暫く経ち、私は婚約者となってしまった王太子殿下と共に新たな計画を立てる事にした。けれど、一度断罪されてしまった身で新たな殺害計画を立てるという事は容易で無く、私の頭を悩ませ思うように事は進められずにいた。

 計画を考えてみても、下手な事をすれば再びマティアス様に疑われてしまうかもしれない、と不安になり足踏みばかりする日々が続く。



 この日、私は王太子殿下の婚約者として彼の仕事に同行していた。平民の住まう地区の視察で、殿下に「君も行くだろう?」と何故だか人前で誘われたため断る事が出来ず同行する羽目になったのだ。


 二人きりの馬車の中で、一体何を企んでいるのかと思いつつ「頭の良い殿下でしたら、計画の一つや二つございますでしょう?」とユリアナの殺害計画に関して問い掛けてみると、流れ行く外の景色を眺めていた殿下はゆるりと私を見た。


「随分と人任せなご令嬢だな」と足を組み直し微笑む殿下に、「“協力を惜しまない“と仰ったのは殿下でございますから」と微笑み返すと殿下は楽しそうに笑った。

 本当に変な趣味をしているのね、と改めて殿下の陰険さを実感し溜息を吐くと、

「計画を立てるには、下準備が必要だとは思わないか?」

と彼は前のめりで私に告げた。


 何を当たり前の事を仰っているのか、と思いながら「どのような下準備ですの?」と質問を返せば、殿下は窓の外を指さした。

 外を見てみるけれど、何の変哲もない貧しい街並みで何を伝えたいのか理解が出来ない。


 そんな私の様子に気付いた殿下は「ユリアナ嬢の事を調べたというのに、分からないのか?」と心底不思議そうに問い掛けてくる。

ーーあぁ、そういうこと。


「……そうならそうと仰って下されば良いのに」


 意図的に言葉足らずな物言いをしているのか知らないけれど、意味深な質問を投げ掛けられた事で私は漸く殿下の仰りたい事が理解出来た。


「今向かっている視察先は、ユリアナ嬢の故郷だ」


 やはりそうか、と私は再び窓の外を覗いてみる。馬車は街中から少し外れた村に入り、その森林の多さからあの女が貧乏な平民なのだと改めて感じた。


 ただ、私をあの女の故郷への視察に同行させて一体なんだと言うのか。故郷からあの女の弱点でも聞き出せるとでも?と私は殿下の思惑が相変わらず理解出来ず、

「この村でどのような下準備をされるおつもりですか」

と聞いてみると、殿下は呆気に取られたような顔で黙ってしまった。


「……何か?」と問い掛けてみれば、殿下は本当に不思議そうに「いや、君からそんな質問をされるとは思わなくてね」と答え、私にはこの会話が成立しているようには感じられなかった。

 どういう意味かと聞いても、殿下はフッと笑うだけで答えてはくれない。


 消化不良に終わった殿下との会話に僅かに苛立ちを感じつつ、目的地に着くと私達は馬車から降りその村の領主に出迎えられた。

 領主は私達に村を案内し、村民の暮らしぶりや特産品であるハーブの説明をした。ハーブの売上を今より上げるには、と悩んでいる様子だった事から、


「最近、東側諸国の貴族の間でハーブティーが流行っていると聞きました。ハーブ単体での販売だけでなく、貴族を相手にしてお茶として販売するのも良いのではないでしょうか?」


と私が王妃様とのお茶会で得た知識で助言をすると、領主は「ハーブティーですか……」と少し怪訝そうな顔をした。


「以前、お茶会の席で東側諸国から仕入れたハーブティーを振る舞われましたが、美しい色と爽やかな香りにとても癒されました。既にこの村には素晴らしいハーブが幾つもありますから、この村のハーブを使えばきっと我が国でも流行させる事が出来ますわ」

「しかし……ハーブは香りの癖が強い物も多いですから、それを煮出した物となると一口飲んで“不味い”と判断され受け入れられない事もあるでしょう。もし流行らなければ……」


 コストと時間が掛かる事から提案に渋い顔をする領主に、

「確かにハーブならではの香りの癖はありますけれど、ターゲット層を流行に敏感な貴族の女性に絞れば殆どの人間はまず一度は購入するはずです。そして、舌の肥えた貴族たちは私のようにその美しい色と香りに魅了され、必ずハーブティーを気に入りますわ。何故なら、私達貴族は常に美しく新しい物を求めていますから」

と貴族としての視点からハーブティーの利点を説明していると、何故だか領主よりも殿下の方が驚いた顔をしている。


 私の根気強い説明に、渋い顔をしていた領主の表情は次第に柔らかくなり、

「次期王太子妃であるエレオノーラ様が仰るのですから、一度検討してみましょう」

と前向きな答えを示した。


 そんな私達の会話を真剣に聞いていた殿下は、領主が席を外した隙に「君がまともな助言をするとは思わなかったな」と私に耳打ちした。

 あの断罪の日から思っていたけれど、この男は私を馬鹿だ馬鹿だと思いすぎではないだろうか。一々腹を立てても意味など無いけれど、仮にも公爵家の令嬢である私をあまり侮らないで頂きたいわ。


「昔から、王妃様直々の妃教育を受けておりますから」と当たり障りない返事をすると、殿下は納得したように笑った。


 その後、再び領主の案内で村の視察を続けていると、道端で遊んでいた一人の男児が私目掛けて飛び込んできた。手には屋台で買ったであろう食べかけのリンゴ飴を持っている。


 傍にいた護衛が汚れてしまった私のドレスを確認し、男児に向かって「無礼者!」と声を上げると、その母親らしき人物が急いでこちらへ走ってきた。

「大変申し訳ございません!!」と母親は勢いよく頭を下げるけれど、男児は事の重大さに気付いてはおらず、突然大柄な護衛の男に叱られた事で大きく泣き声を上げた。


 その男児の様子に護衛の男が剣を抜こうとした所で、

「お辞めなさい」

と私が声を上げると、護衛は剣から手を離し私の後ろへ下がった。


 泣き喚く男児に向かって「静かになさい」と声を掛けるけれど、泣き止む様子はない。

 仕方がないわ、と護衛の男に新しい飴を買ってくるよう命じると、男は「……はい?」と意味の分からないというような声を漏らし「……聞こえなかったのかしら?」と私が睨めば、慌てて屋台へ走り新しい飴を買ってきた。


 その飴を受け取り、男児の目線に合わせず差し出すと、泣き喚いていた男児は漸く静かになり少し背伸びをしてそれを受け取った。

 飴を受け取った男児は私を見上げ「……ごめんなさい」と自身の過ちに対する謝罪をし、私の反応を窺っている。


「……別に叱るつもりはないけれど、これだけは理解しておきなさい」


 私が上から見下げる角度のまま口を開くと、男児は私の瞳を純粋な眼差しで覗いた。


「お前は平民で、私は貴族の娘。例え小さな過ちでも、お前が私にしたことはお前の首だけでなく母親の首も切られてしまうような事なのよ。その上身の程も弁えず泣き喚くなど、次に目を開いた瞬間にはお前の視界は血に染っていたでしょうね」


 何を言っているのか分からない、という様子の男児の後ろで、母親は頭を下げたまま震えている。チラリと視線をやると、その更に後ろで小さな子供が二人母に隠れるようにしてこちらを見ている事に気が付いた。まるで、私を悪魔とでも思っているかのように怯えている。


「……もしお前が母親を守りたいと思うなら、貴族に対する振る舞い方を学びなさい。そして、二度とこのようなくだらない過ちを犯さないよう徹底した日々を送れば、私達貴族は平民を苦しめない政策を考え作り続けると約束するわ」


 幼い子供には難しい話だったかしら、と思いながらも話を終えその場を去ろうとすると、後ろから「ありがとうございます……!」という母親の涙ながらの声が聞こえ、私はそれを無視したまま歩を進めた。


 隣で一連の流れを見ていた殿下は、またしても驚いた表情で私を見つめており、

「驚いたな……君の事だから、怒りに任せて罵声を浴びせると思っていたんだが……」

と何やら失礼な事を口走っている。


「見くびらないで下さいませ。私は貴族が何たるかをきちんと理解しております。私達貴族に従い日々働く平民の前で、どのように振る舞うべきかも」

「いや、そうか。それは勘違いをしていたようですまない」


 殿下の素直な謝罪を受け入れると、彼は小さく微笑みを浮かべ「……君は」と口を開いた。


「愛に狂う事さえ無ければ、きっとただの素晴らしい妃だったんだろうな。母上が君を気に入る理由がよく分かった」


 何気なく言った殿下のその一言が、私の胸には強く刺さってしまった。私がずっと求めていた言葉だったから。

 本当は、この言葉を愛するマティアス様から言って頂きたかった。


「私は今の君の方が断然好みだがな」と続けられ、マティアス様の事を想いながら「そうですか」と返すと、常に楽しげな顔をしていた殿下は面白くなさそうにジトリと私を睨んだ。


 なんですか、と冷たく反応すれば、殿下は大きく溜息を吐き「君を落とすには時間が必要そうだな」と呟いた。

 巷で流行りの恋愛小説で“おもしれー女”という言葉が出てきたけれど、きっと殿下も私に対してその程度に思っているのだろう。殿下の言葉や態度で好意があるのかと勘違いしそうになるけれど、そうでないことは知っている。そう簡単に落とせる女だと思わないで欲しいものだわ。


 帰りの馬車で、先程の母親と子供達がユリアナの家族であると殿下から伝えられ、あの女の事を調べていた私は何となくそうなのではと頭の片隅にあった事から特に反応は返さなかった。

 そんな私に、殿下は「ユリアナ嬢の殺害計画に家族は利用しないのか?」と問い、私は貴族令嬢の模範のように「私が憎むのはあの女であって、あの女の家族は関係ありませんわ」と答えると、何故だか殿下は笑い声を上げた。


「悪女なのかそうでないのか、君は本当に分からないな」

 子供のように楽しげに笑いながら私を見つめる殿下に、私はこの男の本心を知っているにも関わらず、不覚にも少し心が動いた気がした。



 視察の日から数日が経ち、私と殿下は婚約者という立場から学内でも共に過ごす事が常となっていた。

 世間では理不尽だと噂された婚約破棄以降の生徒達からの同情的視線を利用し、私達は食堂のテラスでお茶をしたり、授業の合間に教室へやって来る殿下と話をしたりと新しく結んだ婚約関係が良好だと思われるよう意識して過ごしていた。


 その頃、愛しのマティアス様も謹慎が明け学園へ復帰したけれど、周りからは“王太子に婚約を申し込まれる程の素晴らしい令嬢を悪女に仕立て上げ破滅させようとした男”として見られ、少し息苦しそうに過ごしているそうだ。

 お可哀想なマティアス様……と愛する方の事を考えていると、

「そういえば、計画について考えてみたんだが」

と人払いをしたテラスで正面に座る殿下が声を掛けてきた。


 仮にも近くに生徒達がいる食堂でそんな話をするだなんて、と眉間に皺を寄せると、殿下はいつものように「あぁ、すまない」と思っていなさそうに謝罪した。


「……どのような計画ですか」と一応内容を聞いておこうと思い問い掛けると、殿下はニコリと笑って「ユリアナ嬢の事はさておき、マティアスのことだ」と告げた。


 あの方の心を私に向ける方法でも思い付いたのか、と目を開き前のめりになると、

「君は何もしなくていい。ただ私と共に過ごし、私をマティアスだと思って微笑み掛けていれば、あいつは必ず君に自ら声を掛けてくる」

と信憑性もないつまらない言葉を返され、私はすぐに肩を落とした。


「そんな事であの方が私を見てくれるなら、私はここまで苦労をしていませんわ」


 諦めに似た感情を表情に出し呟くと、殿下は立ち上がり私の方へ歩いて来る。そして椅子に腰かける私の横に立ち止まり、まるで恋人のように私の頬に手を触れた。


「君は気付いていないかもしれないが、あの断罪の日からあいつの君を見る目は今までとは確実に変わっている。君が私の婚約者となった事で、今頃あいつは君の良さに気付き自身の行動を悔いている事だろう。君はただ、あいつが『すまなかった。本当は君を愛している』と言いに来るのを待っていればいい」


 また、あの全てを見透かしたような瞳で見つめられている。根拠なんて何も無いのに、この男は一体何処まで見抜いているの?


「マティアス様は長年私に心を開いてはくれませんでした。それを何故、そこまではっきりと言い切れるのですか」

「先の視察で、君の妃としての素晴らしさをこの目にしたからな」


 私の欲しい言葉を易々と言い放つこの男には私への愛など微塵もないと言うのに、何故鼓動は早まるのか。

 真に愛するマティアス様と、その方を籠絡するおぞましい女の事だけを考えていたいのに、酷く快楽的で口の悪いこの男が優しい言葉を吐くせいでそれすらも難しく思えてくる。

 王太子妃には興味もない。私はただ目的の為にこの男の条件を呑んだだけだというのに、最近の私は何故殺害の計画を立てられないでいるのか。

 自身の感情が掴めなくて、頬に添えられた殿下の手を振り払う力が少し弱くなった。



 殿下に言われた通り、まるでマティアス様と接する時のように彼に微笑み掛けるよう常に意識していると、ある日の昼休憩に「エレオノーラ」と本当に久方振りにマティアス様から声を掛けられた。


 あの断罪の日以降久々に聞く彼の声に胸が躍るのを冷静な表情に隠しつつ瞳を覗くと、彼は赤い瞳を小さく揺らしながら「話がある」と私を学園の庭園に誘った。その瞳には、私への申し訳なさが滲み出ていた。

 すぐに承諾し彼に着いて行くと、生徒達のいなくなった庭園の奥に二人掛け程の椅子が見えた。その椅子には見覚えがある。


 愛する元婚約者、マティアス様とユリアナが密かに逢瀬を重ねていた場所だ。


 なんて無慈悲な人なのかしら、と胸を痛めながら先に椅子に座った彼が敷いたハンカチの上に腰掛けると、彼は暫しの無言の末静かに話し始めた。


「……エレオノーラ、きちんと君に謝りたい。本当にすまなかった」


 心底申し訳ないと思っているような寂しげな表情で謝罪され、愛する人の辛そうな姿に私は咄嗟に「お辞め下さい」と声を出していた。


「ヴィルヘルム殿下のおかげで既に解決した事なのですから、どうかもうお気になさらないでください」


 意識して優しい声で伝えると、マティアス様は眉を下げ「私は、本当に君を勘違いしていたんだな」と呟きここ最近の後悔を語り始めた。


「あの日、婚約破棄を告げ崩れ落ちた君が兄上に抱き抱えられるのを見てから、ずっと君の気持ちを考えていたんだ。私とユリアナの事を見て陰で涙していたと聞いて、私はなんて馬鹿な事をしたのだと自分を責めた……昔から君の事が苦手だったとはいえ、勝手な妄想で君を悪女だと思い込んでしまった。私は最低だ」


 彼が私に苦手意識を持っていただなんて、初耳だった。人見知りで私を避けていたのだと思っていたけれど違ったのか。


「君が、無礼を働いたユリアナの家族に切りかかろうとした護衛を抑えたと人伝に聞いた時、自分の愚かさに更に腹が立った」


 拳を強く握り自分への怒りに震えている彼に、私は小さく首を振る。確かに間違った行動をしたかもしれないけれど、正義を全うしようとした貴方は決して愚かでは無い。そう思いながら。


「ユリアナから、階段から落下する君が『このクソ女』と言い放ったように見えたと聞いてなんて品の無い外道だと思ったが、それもきっと彼女の勘違いだったのだろうな」


 勘違いなどでは無いですけれど、とは言えず黙って微笑むと、彼は私の手に自身の手を添え私をまっすぐ見た。


 あぁ、ずっと憧れていたこの光景を漸く見る事が出来るだなんて。

 愛する人が私を優しい眼差しで見つめ手を添えてくるのなら、次に続く言葉はきっとーー『やはり私は、君を愛している』とかかしら。

 そんな言葉を聞いてしまったら、あの女を殺害する必要がなくなってしまうわ。そうしたら王太子殿下との約束が果たせず、私は王太子妃になってしまうじゃない。それはいけないわ。あの女には悪いけれど、きちんと死んでもらいましょう。


 私が感動に胸を押さえ見つめ返すと、次の瞬間彼が放った言葉はーー


「エレオノーラ」


「長く私に尽くしてくれた君には本当にすまないが、私はユリアナを愛している」


理想とは大きくかけ離れた、最低最悪の言葉。


「……は?」と思わず声を出し、真剣な表情の彼を見ると「どうか、君は兄上と幸せになってくれ」と彼は続けた。


 なに?一体何が起こっているの?

 彼は今、私に何を言ったの?


 状況が理解出来ず固まっていると、

「……ずっと、何故自分が婚約者である君ではなくユリアナを救おうとしたのか考えていた。ただ彼女を平民の奨学生だからと気にかけていたつもりだったが、漸く気付いたんだ。私は彼女を愛していて、妃に迎えたい。だが、平民である彼女との婚姻はやはり父上も認めなかった。だから君への贖罪も兼ねて、私は王族の身分を捨て彼女の生まれ育った村で領主として過ごす事にしたんだ。例え結婚は出来なくとも、そこでなら彼女を傍に置いておけるから」

と更に意味の分からない言葉を吐かれ、私は真っ白になっていた頭を必死に活動させた。


 彼があの村の領主になる?なに?そう言っているの?何故?元々いた領主は?貴方を愛する私はどうなるの?私への愛の言葉は何処?


 たくさんの疑問が私の頭を支配した時、彼は私の脳内には気にもかけず「君が未だ私を想っているかもしれないと考えたりもしたが、兄上の傍にいる君は本当に幸せそうで安心した。平民に対しても心優しい君が兄上の妃になり次期王妃になるのなら、きっとこの国の未来は安泰だろう」と何とも酷い言葉を投げ掛けてくる。


 彼のその言葉で漸く理解した。あの腹黒な男が何を狙っていたのかを。


「心優しい君を傷付けた事、本当にすまなかった。私の馬鹿な都合で君の事は愛せなかったが、君には誰よりも幸せになって欲しいと思っている」


 マティアス様、なんて酷い男なの。こんなに愛した私を、こんなに尽くした私を、妃に迎えようなどとは微塵も思っていないのね。

 それどころか、愛しい貴方の為に醜いあの女を殺そうとまでしたのに、私の愛には指一本触れず純粋無垢なフリをしたあの女を全てを捨ててまで愛するだなんて。


……本当に最低な男だわ。


 自身の手を汚してまで取り戻そうとした彼に抱いた初めての怒りの感情に、私は彼を突き飛ばしたくなる衝動を必死に抑えながら「フフ……」と笑い声を漏らした。

 その声に反応し、彼は私を見つめ不思議そうに「……どうした?」と問い掛けてくる。


「……マティアス様、貴方様はやはり間違っていますわ」


 静かに声を発すれば、彼は一体何を誤ったか理解出来ないような顔をした。

 そんな彼に、私は怒りの感情を抑えた精一杯の微笑みを浮かべ、はっきりと告げた。


「私、貴方様が思っていた通りの“悪女”ですのよ?」


 私の心には、既に彼への想いなど存在してはいなかった。代わりに新しく芽生えたのはーー


     *


「随分と面白い顔をしているな」


 授業の鐘が鳴り、マティアス様のいなくなった庭園で一人椅子に腰掛けていると、何が楽しいのかニヤリと笑う王太子殿下が護衛も付けずにやって来た。


「……私を無駄に焚き付けたのは、何処のどなたですか」


 鋭く睨むと、殿下は相変わらず楽しげに「何の事かな?」と恍(とぼ)けている。本当にふざけた性格をしているのね、と怒りの感情はふつふつと湧き上がった。


「マティアスから聞いたのか?」

「……という事は、やはり殿下もご存知だったのですね。彼があの女と結ばれる為に小さな村の領主に成り下がるという事を……分かっていて、敢えて私が期待するよう仕向けたのですか」


 怒りの感情のままに問い掛ければ、

「期待して打ちのめされた方が、君は面白くなるだろう?」

と当たり前のように殿下は口にした。その言葉は、きっと彼の本心だろう。


「最近の君は何だか普通の令嬢のようでつまらなかったものでね。マティアスが父上に『自分を王家から追放してくれ』と頼み込んでいるのを見て、これは君の心を掻き乱すいい着火剤になると思ったんだ」

「本当に悪い趣味ですこと……」


 この男もつくづく嫌味な男だわ。私の想いを知っていて、私が傷付くよう仕向けたのだから。

 私が愛する人に言われたい言葉をわざと言って心を揺らし、自身を悪い人間では無いと私に信頼させようとした。子供のように笑って私を好みだなんだと言っていたのも、全て私の心を揺らす為の作戦だったのかしら。


 この最悪な趣味の男にも一矢報いてやりたいが、今はそんなことはどうでもいい。


「……殿下、最初に約束した条件の変更を求めますわ」

「というと?」

「私は殿下と婚姻し、王太子妃になります」


 私の言葉に、殿下はつまらなそうな顔で「ほう」と声を漏らした。期待外れだ、とでも言いたそうだ。

 けれど、この私がそんな言葉だけで終わらせるはずがないでしょう?


「その代わり……」と言葉を続け立ち上がり、退屈そうな殿下に歩み寄り赤黒い瞳を覗くと、途端に殿下は瞳を輝かせ頬を染めた。まるで“これを待っていたのだ”とでも思っているような、好奇心と快楽に溢れた醜い表情で私の発する次の言葉を待っている。


 えぇ、いいわ。壊れておかしくなった私を望むなら、私は貴方の望む通りの姿をお見せします。

 だから、貴方も私の為に精一杯尽くして下さる?


「私の純情を弄んだマティアス様とユリアナ……二人を不幸のどん底に落とし残酷に殺すため、殿下のお力をお貸しください」

 その言葉を聞いた瞬間、殿下は勢い良く私を抱き締め「あぁ!本当に君は可愛いな!」と興奮した様子で声を上げた。その声には、彼の歪んだ想いが溢れんばかりに詰まっているように思える。


「愛する婚約者の頼みだ。勿論力を貸すに決まっているだろう?」


 心底愛おしそうな表情で私の瞳を覗く殿下は、私が言うのも何だけれど正(まさ)しく悪魔のようだった。


「君を最高最悪の悪女として輝かせてみせる。だから、君は物語の悪役として永遠に私を楽しませてくれ」


「愛している、エリー」と歪みに歪んだ愛情を向けられ、私は心の底から嫌悪した。

 気持ちの悪い男……けれど、この狂った男と夫婦にさえなれば、私を見捨てて幸せになろうとしているあの二人の息の根を止めることが出来るだろう。

 かつて愛した男と、その男を奪った醜い平民の女を。


「お任せ下さい、殿下」


 踊ってみせましょう、貴方の思うがままに。


 次期王太子妃である極悪非道の悪女、エレオノーラ・カラヴァイネンとして。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

嗚呼、愛しの婚約者様 鈴木 @suzuki1207

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ