僕を刺客から救い出し、教会まで運んで看病してくれたその人は、僕に名前を名乗らなかった。余所者よそものである僕を警戒していたのかもしれないし、もしかしたら明らかに訳ありである僕が名乗らなくて済むように、あえて自分も名乗らなかったのかもしれない。


 周囲の幼子達は『ルチル』とか『ルーチー』とかと呼びかけていたけれど、僕は彼のことを『オニイサン』と呼ぶことにした。どのみち、捜索隊が僕を見つけるまでのわずかな間だけしか関わり合えないのだ。あえて名前を呼ばなくてもいいと思った。


「殺しを、ひとくくりに『悪』だとは、言われたくねぇんだよな」


 神父様ファーザーと呼ばれていた男が用意してくれた薬湯のおかげで、僕の熱はビックリするくらい簡単に下がった。教会に担ぎ込まれた時点で一度目が覚めて、そこで薬湯を飲んでコトリと意識が落ち、次に目を覚ました時には熱が下がっていたから、翌朝には熱が下がっていたことになる。


「確かに、良くないことだ。殺さず、殺す者にすがらずに生きていけるなら、その方がいい。自身の意思をもって殺しをしている俺自身は、間違いなく『悪』だと思う」


 どうしてそんな話になったのかは、覚えていない。


 覚えているのは、このくだりだけだ。


 僕のその後の人生を決定付けた、大切な大切な言葉達は、この時の彼の唇から紡がれた。 


「だけど殺しを一律に『悪』ってされちまったら、俺が生み出してる仮初の平和の中で生きてる人達も、『悪』に縋ってるってみなされて、一緒に『悪』って判断がされちまうんじゃないか?」


 当時の僕には、少し難しい話だった。


 ただ、鮮烈な夕日が差し込む小さな寂れた礼拝堂の中で、ささやかに形作られたステンドグラスを見上げるオニイサンの横顔が、酷く静謐せいひつだったことだけは覚えている。


「誰かが、世界の構造ごと、まるっと作り変えてくれたらいいのにな」


 その日まで、僕は知らなかった。


 日々のパンを手に入れることさえ難しい人々が、同じ都に暮らしているということ。まだまだ自身だって子供であるのに、武器を取り、手を血に染めなければ、安らかに眠る家さえ守れないような暮らしをしている人がいるということ。


 そんな人達が、いつも心のどこかで『こんな世界を誰かに変えてほしい』と願っていること。教会にはそんな願いを抱えてやってくる人々も多いけれど、ただ祈るだけでは世界なんて変わりっこないということ。


「誰もが『悪』に縋る以外の選択肢をいくつも選べるような、そんな世界を、誰かが創ってくれればいいのにな」


 ……僕になら、その力が手に入るかもしれないと思った。


 僕は、この国の第一王子だ。生まれつき体が弱くて、誰にも成人を望まれていないけれども。


 それでも、賢く生き延びることさえできれば。


 王族として、国王に近い立場に立って、まつりごとに関わることができれば。オニイサンが夢物語だと語った世界を、実現できるかもしれない。


 生きる目的がなかった僕の人生に、道が開いた瞬間だった。


「……え、ちょっ! お前、何泣いてるんだっ!?」


 その時抱いた感情を何と呼べばいいのか、僕はいまだに理解できていない。


 ただ僕はあの時、言葉にできない感情が胸からあふれ出てしまって、ただただ静かに泣いていた。


「お前ってば、本当によく泣くやつだなぁ」


 呆れたように笑って僕の涙を指先で拭ってくれたオニイサンは、僕のためにとっておきの『秘密』を教えてくれた。


 それだけじゃない。


「そんな目ん玉が溶け落ちそうなくらいに雨を降らせてるお前の心に、いっちょ俺が虹をかけてやるよ」


 そう啖呵タンカを切ったオニイサンは、僕のためだけに歌ってくれた。あの時に聞いたオニイサンの賛美歌以上に美しい音色を、僕は今になっても知らない。


 宝玉眼の歌天使ルチル・イスラフィール


 その名にふさわしい歌声は、間違いなく僕の心に虹をかけてくれた。




  ✕  ✕  ✕




「殿下」


 タイラーからの呼びかけにハッと我に返った。慌てて顔を跳ね上げれば、タイラーが気遣わしげに僕のことを見つめている。


「すまないね、タイラー。ちょっと感慨深くて、ボーッとしてしまっていたみたいだ」


 僕はタイラーを安心させるために小さく微笑んだ。言葉ほど大丈夫ではないということは、きっと見透かされてしまっているだろう。だがそれでも僕は『大丈夫だから』と言葉を重ねる。


 僕の十八歳の誕生日は、まるで天までもが僕を祝福しているかのように、スッキリと晴れ渡った穏やかな天候となった。


 ここまでの怒涛の日々を乗り切った僕は今、華やかな装束に身を包み、まさにこれから立太子式にのぞもうとしている。


 だが誰よりもこの晴れ姿を見てほしかった人の行方は、結局今に至っても生死さえ分かっていない。


 ──生きていれば、必ず今日、僕の前に姿を現すはず。


 デス・ザ・スターキッドの依頼完遂率は100%。敵勢力は、僕が正式に王太子と認められる前に僕を殺したいと願ったはず。ならばタイムリミットはそう長くはない。


 ただしそれは、他の暗殺者にとっても同じ条件であるはずだ。


「サルストール卿」


 僕はそっと気を引き締める。


 そんな僕の耳に、タイラーを呼ぶ声が飛び込んできた。タイラーとともに声がする方を振り返れば、侍従の一人が焦った顔でこちらへ駆け寄ってくる。


「出立直前に申し訳ございません。実は……」


 何かトラブルでも起きたのだろう。タイラーの傍らで足を止めた侍従は、タイラーの耳元に口を寄せて何事かを囁く。僕にその内容は聞き取れなかったが、余程重大なことが起きたのだろう。サッと顔色を変えたタイラーが一度険しい顔で侍従を見やり、次いで僕に視線を投げる。


 それだけでタイラーが何を言いたいのか分かった僕は、小さく頷きながら唇を開いた。


「何か大変なことが起きたようだね」


 僕の言葉に一瞬、タイラーがグッと表情を険しくする。だが結局タイラーは、余計なことは言わずに首を縦に振ることで答えた。


 そんな頼りになる侍従長に、僕は穏やかな笑みを向ける。


「僕は大丈夫だ。タイラー、行ってきてくれ」


 この流れは。タイラーと僕の間で打ち合わせも終わっている。


 それでも一瞬、タイラーは渋るように唇を躊躇ためらわせた。そんなタイラーの背中を押すように、僕は笑みを深めて言葉を付け足す。


?」


 僕のイタズラめかせた言葉で、ようやくタイラーも決心がついたらしい。


「すぐに戻ります。……殿下、どうかお気をつけて」


 おっと、タイラー。そんな余計なことを言ったら、向こうに勘付かれてしまうかもしれないじゃないか。


「君もね」


 そんな内心を綺麗に隠してタイラーを見送る。


 タイラーが侍従を連れて部屋を出ていくと、途端に室内は静かになった。元々タイラーがうるさかったわけではないのだが、不自然すぎる静寂に僕という存在が浮き出ているような気がする。


 儀式に出立する直前。大教会までのパレードに出向く前の僕に用意された控えの間は、雑多な人の気配にさらされないよう、少し表からは離れた場所に位置している。


 本当は居室を控えの間として使うのが一番安全ではあったのだが、居室からだと表まで距離がありすぎるという話になり、最終的な時間調整のための部屋が普段の僕の行動範囲外に用意されることになった。


 そう、ここは本来、僕の行動範囲外。僕のホームではない場所は、僕を殺すのにうってつけの場であるはずだ。


「……誰かいるんだろう?」


 僕は不自然すぎるほど静かな空気の中に問いを投げた。


「時間が勿体もったいないから、早く出ておいで」

「……おやおや」


 案の定、僕の他に誰もいないはずである部屋の中から声が返ってきた。


 椅子から立ち上がり、声の方を振り返れば、カツリ、という微かな足音とともに、不愉快な人影が姿を現す。


「俺に気付くよりも早く、サクッと殺してやろうと思ってたのに。まさかご自身で呼び立てるとは」


 燃えるような赤毛を揺らし、翡翠の瞳を細めて笑っていたのは、ロズウェルだった。


 一連の儀式に一切参加できないロズウェルは、普段と変わりない服装に身を包んでいる。そんな中、体の後ろに回した手に握られた細身のナイフが、チリチリと部屋に差し込む光を微かに反射させていた。


 こいつは、やろうと思えば、僕を殺す瞬間まで凶器の存在を覚らせなかったはずだ。


 つまりこれは、分かりやすい脅し、ということなのだろう。


「最後に聞かせてくれないか。君を雇ったのは誰だい?」

「最後、だなんて。どうせこの流れを想定して、対策は打ってあるんだろう? 情報を引き出そうったって、そうはいかないさ」


 確かに、その通りだ。


 僕を確実に始末したいならば、やれるタイミングは限られてくる。僕の行動スケジュールは皆に知られているから、向こうも計画は立てやすかったはずだ。


 そして僕達の方も、タイミングが予測できれば対策もできる。


 だが相手はそこにまで対策を講じてきたらしい。


「時間稼ぎをしようとしても無駄だよ、殿下。?」

「っ……」


 そう、


 今、この部屋の周囲は不自然なほどに静かすぎる。部屋の外にいるはずである衛兵の気配さえしない。僕とタイラーが配備したはずである、影護衛の気配さえ、ひとつも掴めない。


 ──カインが動いたか……!


「殿下。殿下の下に潜り込んでいたネズミは、案外数が多かったみたいだね?」


 焦燥は顔に出ていないはずだ。それでもロズウェルは追い詰めたネズミを前にして笑う猫のように嗜虐的な笑みを見せる。あとは自分が王手を指すばかりだと、確信できている者の笑みだ。


「そうだったのかもしれないね」


 元々の配備が無効化されてしまっているならば、後は呼び出されたタイラーが一刻も早く戻ってきてくれることに賭けるしかない。


 ただ、向こうも僕達がそう考えることは読めているはず。タイラーは今、本当にタイラーでしか対処ができない、かなり面倒くさいトラブルで呼び出しを喰らってしまったはずだ。


 ──力を貸して、ルーシー。


 僕はさり気なく体の後ろに腕を回すと、いざという時のために袖口の中に仕込んでおいたナイフに指を伸ばした。


 ルーシーがずっと袖口に暗殺用のナイフを仕込んでいたことは知っていた。ルーシーはカソックを着ていた時代も、そこにナイフを仕込んでいたから。だからいざという時のために、参考にさせてもらった。


 ──武術が苦手な僕が自分で武装しているとは、こいつもカインも思っていないはず。


 事実、武術は苦手だ。僕が刃物を握ってみたところで、実際どれだけ役に立つかも分からない。


 ただ僕は、こんなところであっさりと、こんなヤツに片付けられるわけにはいかないんだ。


「無事に立太子式が終わったら、大掃除をしなくちゃね」


 ──僕は生き延びて、僕の人生の目的を果たす。


 覚悟とともに、僕はロズウェルに笑いかけてやった。その笑みを、死を前にした僕の虚勢と受け取ったのだろう。僕を憐れむかのように微笑んだロズウェルは、その笑みを消さないままスッと一歩前へ出る。


「そうだな」


 だがその笑みは、次の瞬間凍りついていた。


「立太子式が終わったら、と言わず、立太子式が終わるまでに片付けるか」


 しっとりと部屋の空気の中に染み入るように、その声は響いた。


 同時に、ロズウェルの首筋から一筋、朱色の軌跡が宙を舞う。


「……っ!」


 反射的にロズウェルは真横へ体を逃がしていた。それでもしぶいた血潮が絨毯に散る。


 ロズウェルは信じられないという顔をしていたが、対面で全てを見ていたはずである僕も、信じられなかった。


 そこにはいつの間にか、闇がわだかまっていた。


 体をスッポリと覆い隠す漆黒のマント。中からチラリと覗いている衣服も黒で、ほっそりとした指先も漆黒の手袋に包まれている。装飾に使われた銀と手に握り込まれた細身のナイフが、まるで夜闇の中で輝く星々のように慎ましく輝きを添えていた。


 顔の上半分は銀の仮面に覆われていて、詳しい容貌は分からない。だがほっそりとした顎へ続く曲線は、優美な顔立ちを彷彿とさせる美しさがあった。


 首筋でひとつに括られた髪は、全身を包み込む漆黒よりもなお深い艶やかな純黒。そんな黒と銀で構成された存在の中で、唯一仮面の下から敵を見据える瞳に散った金が存在を主張している。


「ルーシー、テメェ……!」

「俺の名前はデス・ザ・スターキッド」


 混乱から憤怒に感情が切り替わったのか、ロズウェルは首筋の傷口を押さえながら荒っぽい声を上げた。


 そんなロズウェルと、呆然と見つめることしかできない僕を傲然ごうぜんと見据え、『彼』は初めて僕の前で名乗りを上げた。


「『名前を笑ったヤツは皆殺し』をモットーとする暗殺者。ふざけた名前をしているが、これでも依頼完遂率は100%。現在のマトは、ルーベンス王国第一王子、アレクセイ・ブロワ・ルーベンス」


 そこまで一息に言い切った『彼』は、手にしていたナイフを逆手に構えると悠然とロズウェルに笑いかけた。


「悪いがそいつは、十二年前から俺の獲物だ」


 ──十二年前。


 その言葉に、涙腺が勝手に緩んでいくのが分かった気がした。


「悪いが、俺の獲物を横取りしようってんなら、俺がお前を消す」


 仮面で顔が半分隠れていても分かった。


『彼』は十二年前に僕を救ってくれた時と同じく、あの殺意が混じった極上に麗しい笑い方で今、ロズウェルに笑いかけているんだってことが。




  ✕  ✕  ✕




 ……初撃で頸動脈に軽く一発。悪かねぇな。


 アレクセイの行動ルートの情報をくれたのは師匠だった。そのルートと配備予定の人間の数が分かれば、アレクセイの意図も、それを突破しようと考えるロズが何をしてくるかも大体読むことができる。


「先に行け」


 俺はロズを牽制しながらアレクセイに声を放った。


「ここは俺が引き受ける」


 俺の言葉にハッとアレクセイは我に返ったようだった。だがアレクセイはまだ何か言いたそうにその場に留まっている。


「タイラーなら、どこぞのお偉方にイチャモンつけられて呼び出されただけだ。お前が出向けば秒で解決する。ついでに式典を前倒しで始めるんだ。もうそこまで無茶というほど早い時間でもない」

「ルーシーは……っ」

「後で追いつく。信じていい子で式典を進めてな」


 あ、そうだ。これくらいは言っといてやるべきか。


「似合ってるぜ、その衣装」


 本日のアレクセイは、式典用にあつらえられた正装に身を包んでいた。白を基調にした華やかな装いはアレクセイの優雅さを引き立てていて、本当にアレクセイの周りにだけ他所よその三倍くらい光が降り注いでいるかのように煌めいて見える。


「血しぶきが飛ばなくて良かった」


 祝いの日だ。ついでに笑みも上乗せしといてやると、アレクセイは状況を忘れてしまったかのように頬を上気させた。パクパクと言葉もなく開閉する唇は、声が出たならどんな言葉を発していたのだろうか。


 まぁひとまず、いつものテンションが戻ってきたってことでいいか?


「もうっ! もうっ!!」


 そんなことを思っていたら、かなり頑張っていたくせに結局意味をなさない言葉しか口にできなかったアレクセイは、悔しげに床を踏み鳴らした。


 うぉう……通常のテンションとは言いづらいが、さっきの腑抜けた感じよりかはまだ走り出せそうなノリになったじゃねぇの。


「いいっ!? ルーシー! 大教会で集合なんだからねっ!」

「はいはい、さっさと行けって」

「ルーシーのバカっ!! 罪作りっ!! 初恋泥棒っ!! 昔も今もカッコ良すぎっ!!」


 俺を全力で罵倒したアレクセイは、その勢いのまま扉に向かって駆け出した。逃げるアレクセイを阻もうとロズが動くが、それを予測していた俺は素早くロズにナイフを打ち込み、ロズの動きを封じる。


 バタンッ! と扉が荒々しく閉じられるまで、結局ロズは何もできなかった。アレクセイを無傷のまま放り出すことになったロズは、憎々しげに俺のことを睨みつける。


「何で、生きてやがる……っ!!」

「お前も甘いよな。『マトの絶命は必ず確認しろ』って、師匠も昔、口酸っぱくして言ってただろ」


 そう、迂闊うかつにもロズは、あの場で俺の死を確認していかなかった。


 師匠によると、雨の中に俺を放りだしたロズは、とどめを刺さずにそのまま俺を放置して引き返していったらしい。


 あまり空白の時間を作りたくなかったのだろうということは分かるが、暗殺者としてはあまりに迂闊だったとしか言いようがない。少なくとも俺がきちんと息絶える現場を確認しておけば、こんなことにはならなかったはずだ。


「あの状況で、どうやっ……!」


『それでもあの状況から生還することなんてできるはずがない』と、ロズは言いたかったのだろう。


 だがロズの言葉は不意に途切れた。ロズの手の中からナイフが滑り落ち、ガクリとロズの膝が折れる。


「えっ……あ……?」


 ロズは『訳が分からない』といった顔で自身の手を見つめていた。その手は本人が自覚していない間に大きく震えている。


 手だけではなく全身がガクガクと震えていることに、俺はしばらく前から気付いていた。アレクセイが駆け出していった時も、その実俺が牽制なんて入れなくても、ロズにはすでにアレクセイを追えるだけの余力は残っていなかったはずだ。


「ま、まさか……」


 頸動脈部分に一撃入ったとはいえ、傷は浅い。この短時間で出血死を引き起こすほど、ロズはまだ血を流してはいない。


 ならばなぜこうなっているのか、ロズはようやく理解できたらしい。


「悪いな。技量だけで言えば、お前の方が上だから」


 俺はナイフの柄の部分をロズに見せた。


 そこに入れられている紋章は、星と遊ぶ獅子。獅子はルーベンス王国王家の紋章で、獅子を己の紋章に許される者は、この国では一握りの王族に限られている。


 このナイフは、護衛専門侍従としての俺に、アレクセイから下賜された物だ。


「一服、盛らせてもらった」


 勝負は初撃でついていた。


 俺が今回、このナイフに仕込んだのは『ラクリモーサ』と呼ばれている神経毒だ。傷口から血中に入り込んだら最後、死に至るまでものの数分もかからない。解毒薬があるにはあるが、死に至るまでの時間が短すぎて解毒薬の存在価値がないとまで言われている代物だ。


 俺はデス・ザ・スターキッドとして扱うナイフを袖口に仕込む。さすがにそんな危ない毒を塗布したナイフを袖口に仕込む度胸はなかった。


 だから腰の後ろに装着できるよう、ホルスター付きで下賜されたこのナイフに『ラクリモーサ』を仕込んできた。俺が護衛専門侍従としてのナイフをこの場で握っていたのは、忠誠とかそういう美しいもののためではなく、実用性を追求した結果に過ぎない。


 ──が、アレクセイ自身はそうは思ってないかもな……


 まぁまず、俺の手の中にあったナイフの紋章に気付いたかどうかが問題なんだが。……いや、あの執着系王子なら、案外気付いたかもしれない。


「ふっ……ふふっ……」


 己の負けを覚ったのだろう。ドサリと床に倒れ込んだロズが、不意に笑い声を上げた。


「『十二年前から俺の獲物』ねぇ……そりゃあ、お前の獲物だわ」


 弱っていても、気は抜けない。俺は油断なくナイフを構えたまま、ロズの最期の言葉に耳を澄ます。


「あー……お前って、マジ、カッコい……」


 そのままコトリと、ロズの頭が落ちた。


 再び静寂が満ちた部屋の中で、俺は無言のままロズの様子を確認する。


 やがてロズの傷口からの出血が止まった。それからようやく俺はロズに歩み寄り、呼吸と心拍が止まったことを確認する。


 ロズの死に顔は、思っていた以上に穏やかだった。暗殺なんてものを生業なりわいにしていた人間が、こんなに穏やかな顔で死ねるなんて、珍しいことなのかもしれない。


「……おやすみ、ロズ」


 俺は静かに声をかけると、そのまま部屋を後にした。後処理は師匠と、師匠の協力者達がやってくれることになっている。


 俺は、俺の任務を、片付けに行かなきゃな。




  ✕  ✕  ✕




「ちょっと遅かったんじゃない?」


 俺が大教会の礼拝堂に踏み込むと、アレクセイが俺を振り返った。キラキラとステンドグラスから注ぎ込まれる光を浴びたアレクセイは、まるで虹の中にたたずんでいるかのようだ。正装が白を貴重にされているから、余計にその光が映えて見える。


「儀式自体は、無事に終了しちゃったよ」

「ああ。見ていたから、知っている」


 教皇が執り行う儀式自体は、すでにつつがなく終了している。今この時間は『祈りと審議の時間』と呼ばれていて、儀式を経た王太子が神と対話をするための時間だ。


 この時間だけは、礼拝堂の中から人が締め出され、アレクセイだけが中に取り残される。外の警備は厳しいが、突破さえできてしまえばあとは無防備もいいところだ。


「神がお前の王位継承を拒否した。だからアレクセイ殿下は、祈りと審議の時間の間に、神によって殺された」


 理論的に考えれば無茶苦茶だが、他派の人間からしてみれば理論的な思考などどうでもいいはずだ。要はアレクセイが『王太子に相応しくなかった』というイメージがつくシチュエーションで死ねばそれでいいのだから。


「ねぇ、ルーシー。ひとつ、質問いいかな?」


 神の奇跡を体現するかのように虹の光が注ぎ込まれる中で、俺達は距離を保ったまま対峙していた。一方は真昼の光を紡いだかのような純白の正装に身を包み、対する一方は夜の闇が凝ったかのように純黒の装束に身を固めている。


 何から何まで相容れない。


 そうでありながら、白は黒に焦がれるような視線を注いでいた。


「僕が生き延びたことで、少しはマシな世界になったかな?」


 アレクセイが口にしたのは、前回ここで肩を並べた時にも向けられた問いだった。その問いに答えをもらえるまでは死ねないとばかりに、アレクセイは真っ直ぐに強い視線を俺に据えている。


「『悪』にすがる以外に道を選べない人々が、少しでもそれ以外の道を選ぶことができるような。そんな世界へ進むきっかけを、僕は作り出すことができたかな?」

「……ああ」


 その問いに。前回は答えられなかった問いかけに。


 今の俺は、答える言葉を持っている。


「変わっていたよ。俺がかつて生きていた世界も」


 師匠が俺を担ぎ込んだ隠れ家は、かつて俺が暮らしていた教会孤児院の教区にあった。


 死んだことになっている俺は、万が一知り合いと顔を合わせたらマズいと思って、師匠に引き抜かれてからは一度もこの教区に足を踏み入れてなかった。


 だから今回、体力回復のために町の中で走り込みをしていて、ようやく俺はこの町が徐々に変化していっているのだということに気付いた。


「治安も衛生もかなり改善されて、身寄りのないチビでも、家の外で無邪気に笑って遊んでいられる町になってた」


 安全な町は、活気も生まれる。俺が暮らしていた頃よりも商店が増えて、人々の生活が豊かになっているのを感じた。もしかしたら俺が暮らしていた教会孤児院も、暗殺者達に庇護を求めなくてもやっていけるようになっているかもしれない。


「お前が上奏してくれた政策なんだってな」


 食料品の買い物ついでに町で暮らす人々にそれとなく話をいてみたが、何がきっかけでここまで状況が変わったのか、住人達は分かっていないようだった。ただ良い風が吹いて、その風が自分達の周りを明るく照らしてくれるようになった、という感じの言い回しを皆がしていた。そう語る住人達は皆、明るい表情をしていた。


 だから俺は王宮に乗り込む策を立てるついでに、色々と調べてみた。


 そうやってしていて分かったのは、アレクセイがまつりごとに関わるようになってから、度々民の生活の改善のための施策を王に提言し、実現させてきたということだった。


「誰が奏上していたっていいんだ。その施策がきちんと実行されて、きちんと民の生活が良くなっているならば」


 俺の言葉に、アレクセイは嬉しそうに微笑んだ。心底嬉しくって仕方がないという、俺に好意をダダ漏れにさせていた時とは少し色が違う、今までの道を噛みしめるかのような笑い方だった。


 その笑顔に、俺の心の奥底が揺れる。『デス・ザ・スターキッド』になりきれていない『ルシウス』の部分が、迷いに揺れているのが分かる。


 ──アレクセイを殺すことは、正しいことなのか?


 いや、殺しに正しいも正しくないもない。全て等しく正しくないに決まっている。


 暗殺者は、依頼を受ければ殺すだけ。そこに己の意思は関係ない。


 今までの俺なら全て割り切れた。迷うことなどなかった。


 だけど、こいつは……


「でも、君の口から、その言葉が聞けて良かった」

「……っ」


 そんな俺の迷いを見抜いているかのように、アレクセイは呟いた。そのままはにかむように俺に笑いかける。


 ──こいつは……


 アレクセイは、俺との出会いを通して、俺の言葉を聞いて、行動を起こしてくれた。俺が夢物語だと思っていた儚い願いを、部分的にとはいえ実現に導いてくれた。


 いわば俺は、アレクセイに恩がある。俺が『どうにかしてくれ』とアレクセイに縋りついたわけでもなければ願ったわけでもないが、それでも俺はアレクセイの行動を『恩』だと感じてしまった。


 そんな相手を、薄汚い王宮の陰謀のために、殺してしまっていいのだろうか?


 果たしてそれはデス・ザ・スターキッドとしての美学に照らし合わせて考えた時に『美しい』と言えるものなのだろうか。


「ルーシー」


 美しく微笑むアレクセイは無防備で、その気になればすぐに殺せそうだった。


 世間から見れば今この空間にはアレクセイ一人しかいない。このままアレクセイを殺し、跡形もなく俺が消えてしまえば、きっと世間は百年経ってもアレクセイを殺した人間の正体には辿り着けないだろう。


 まさに仕事にうってつけのシチュエーション。


 だというのに俺は、ナイフを抜いたものの構えることができていない。


「迷ってくれて、ありがとう」


 不意に。俺がその隙に。


 俺へ向けた笑みを、アレクセイは唐突に深めた。


 その笑みが一瞬ですり替えられたとに気付いた俺は、本能的にナイフを構える。


「ルーシーが優しかったおかげで、間に合った」

「あーあー、まさか殿下の勝ち逃げとは」


 同時に、俺の手の中からはナイフが消えていた。


 それどころか、顔の上半分を覆っていた仮面と体をスッポリ包んでいたマントも、一瞬のうちに剥ぎ取られている。


 俺を相手にそんな真似ができる人間など、世界中に一人しかいない。声の方を振り返ると、案の定俺の隣に、いつの間にか俺から剥ぎ取った仮面とマントを装着し、俺から奪い取ったナイフを手の中でもてあそぶ師匠が立っていた。


 ってか近っ!! いきなりな上に立ち位置ちっか!!


「し、師匠っ!?」

「馬鹿弟子、もうアレクセイ殿下を殺さなくていいぞ」

「はぁっ!?」


 さらにはそんな言葉まで投げかけられた俺は、状況も忘れて頓狂とんきょうな声を上げていた。


 そんな俺に対し、師匠は実に悩ましげに仮面に覆われた眉間に右手の指先を添えると、やれやれと言わんばかりに肩をすくめた。


「依頼人がアレクセイ殿下の配下に捕縛されてしまってな。依頼を完遂しても報酬が振り込まれない状況になった上に、依頼人を捕縛したアレクセイ殿下から直々に『依頼が行っていることは知っているんだぞ』という趣旨の脅しがギルドに届いた」

「嫌ですね、初代。僕はお話し合いを申し込んだだけですよ」


 そのクサい仕草に鳥肌が立った俺が反射的に横へ飛び退くと、さらに師匠はとんでもないことを口にする。そんな俺達に対し、場の主導権を裏で握っているらしいアレクセイは、俺が事態を理解するよりも早くニコニコと師匠に反論を並べ立てていた。


 え? お知り合い、で?


「私にロズウェルの『おいた』についてタレ込んできたのが、そもそもアレクセイ殿下でな」


 そもそも、俺にアレクセイ暗殺の依頼をしてきたのは、第三王子エドワードその人であったらしい。


 俺の初回暗殺が失敗した直後からその情報を掴んでいたアレクセイは、エドワード捕縛のタイミングを図りつつ、俺周辺と王宮の影で跋扈ばっこする権謀術数に耳を澄ませて情報を集め、『烏の王冠レイヴンズ・クラウン』を交渉の場に引きずり出す機会を狙っていたらしい。


 ……交渉? いや、交渉って、何を?


「本来、王族の暗殺をくわだてるなんて大罪だ。関わった人間は皆死罪。依頼人も、実行犯も、みんな処刑されるのが常だ。依頼がギルドを通じてなされたならば、ギルドも殲滅対象に入る」


 先程まで年相応に無邪気な笑みを浮かべていたはずであるアレクセイは今、獲物を前にした猫のような笑みを浮かべていた。嗜虐しぎゃくと夜の艶を思わせる……俺の本能が激しく警鐘を鳴らす笑い方だ。


「でも、僕は今、優秀な影護衛を欲していてね。どうしても手に入れたい人材が殲滅対象の中に含まれてしまっていたものだから、なるべく殲滅は実行したくない」


 俺の足が無意識のうちにジリッと下がる。意外なことにアレクセイは、無闇に距離を詰めてこようとはしなかった。


 代わりになぜか、師匠がさり気なく俺の退路を防ぐ。……って、いや、何でっ!?


「だから事の元凶と交渉で済むように、色々と調整したんだ」


 ニコリと笑みを深めたアレクセイは、スッと指を一本伸ばした。


「まずひとつ。依頼人が捕縛された時点で僕の暗殺を諦め、金輪際僕関連の依頼は断ること」


 ……うん。すごく真っ当だ。


 なるほど。さっき師匠が口にした『殿下の勝ち逃げ』とか、アレクセイが口にしていた『間に合った』とかいう発言は、この『依頼人が捕縛された時点』というタイムリミットのことを指していたのか。


 思わず納得する俺の前で、アレクセイはさらにスッともう一本指を伸ばした。


「そしてもうひとつ。僕が生き延びた時は、今回のびとして、二代目デス・ザ・スターキッドの身柄を僕に献上すること」


 詫び? 献上? 何を? てか誰を?


 いや、『二代目デス・ザ・スターキッド』をアレクセイに献上っ!? 今そう言わなかったかっ!?


「はぁっ!?」

「いやぁ、まさかこんなに早く愛弟子を嫁に出すことになるなんてなぁ。考えてもいなかったなぁっ!」


 完璧に裏返った声を上げる俺の後ろで、師匠が棒読みもいいところな声を上げていた。さらに師匠は『ヨヨヨヨヨ……』と口で呟きながら、どこからともなく取り出したハンカチを仮面越しに目元に当てる。


 いや、師匠っ! わざとらしい嘘泣き演技なんていらねーっすよっ!


 てか『嫁に出す』って何だよっ!? 『嫁に出す』って!!


 俺は男で、アレクセイも男っ!! 俺達、男同士なんですがっ!?


「ルシウス」


 展開が予想のナナメ上すぎて、俺は口をパクパクさせることしかできない。


 そんな俺に正面から向き直った師匠は、俺の両肩にポンッと両手を置いた。


「すまない、ルシウス。『烏の王冠レイヴンズ・クラウン』存続のためには、お前を殿下に差し出すしかもう道がない」

「そっ……」

「暗殺者の私達も驚愕するくらい、アレクセイ殿下はやり手でな。ギルドマスターと頭をひねったんだが、逃げ道がすでに微塵もなかった」

「なっ……」

「すでに『高貴なる闇ダークハイネス』がアレクセイ殿下の手で潰されかかっていてな。その手腕を見せつけられたせいで、いかんともしがたい。というよりも、殿下は『烏の王冠うち』を脅すためだけに、見せしめとして『高貴なる闇ダークハイネス』を潰した感じがあってな」

「はっ……」

「すまない、ルシウス。デス・ザ・スターキッドには私が復帰する。心置きなく引退し、アレクセイ殿下と余生を送ってくれ!」


 そこまで一方的にまくしたてた師匠は、バッとマントを翻す音を残して忽然こつぜんと姿を消してしまった。


 ただどこからか、声だけが聞こえてくる。


「喰われないように気を付けて、達者に暮らせ、愛弟子よ!」

「無茶を言うな、クソ師匠ぉぉぉっ!!」


 この状況でっ!! こんな風に身柄を差し出されてっ!!


 俺の身が喰われずに済む道がどこにあるっつぅんだよぉぉぉっ!!


 そんな内心を全力で叫んでみたところで、もはやどうにもならない。


 気付いた時には、俺と師匠の叫びの余韻がこだまする礼拝堂に、俺とアレクセイだけが取り残されていた。


 ……え? これ、どうすればいいの? もしかして俺、さっそく貞操のピンチ?


「ルーシー」


 俺は思わずそのまま体を強張らせる。


 そんな俺の背後から、キラキラと光が散っている様が目に浮かぶような声が飛んできた。いや、小花が散っているようなと表現した方が適切だろうか。


 って、いやいやいや。今はそんなことどうでもいい!


 俺はありったけの勇気と力を振り絞り、全身をギシつかせながら背後を振り向いた。もちろんそこにはアレクセイがいて、俺の記憶史上最高に煌めいた笑顔を俺に向けている。


「王太子披露宴が終わったら、次は結婚式だね!」

「待て、何がどうしたらそうなるっ!?」

「ハネムーンはどこがいい? 候補はある?」

「話を聞けっ!!」

「え? この状況で逃げられると思っているの?」


 俺は思わず後ずさる。だがなぜかごくごくゆっくりと足を進めているはずであるアレクセイとの間合いは広がっていかない。むしろ、確実に距離は詰まってきている。


「逃げられないし、逃さないよ、オニイサン?」


 結局、俺は逃げ出すこともできないまま、アレクセイに捕まってしまった。


 本能的に、分かっていたのかもしれない。


 俺のために世界を変えようと動き、俺を手に入れるためだけに暗殺者ギルドをふたつも手玉に取ったこの王子様から、もう俺はどう足掻いても逃げ出せないのだということに。


 十二年前のあの時から、俺はこいつの獲物だったのだということに。


「ひとまず、囲い込みには成功したから」


 俺の手をそっと掴み、下から俺の顔をのぞき込んだ麗しい王子様は、執着を隠さない顔でうっとりと微笑んだ。


「だからゆっくり、僕のところに堕ちてきて?」


 その言葉に、俺の全身にゾワッと鳥肌が立つ。


 同時に、心のどこかがキュンッと痛んだのは、きっと気のせいだ。……気のせいったら気のせいだっ!!


「お、おおお堕ちたりなんか! しませんっ!!」


 俺は全力でアレクセイの手を振り払うと、シャカシャカシャカと壁際まで必死に後ずさる。そんな俺を見て、アレクセイは楽しそうに、少年らしい顔で笑っていた。


 その笑い声に驚いたかのように、注ぎ込まれる極彩色の光が揺れる。


 相変わらず俺にとっては、神様もアレクセイこいつも意味不明で理解できない、人知を離れた存在だけども。


 ──ま、でも。


 こんな結末は、悪くもないのかもしれない。


 その結論に落ち着こうとしている俺は、結局アレクセイにほだされているのかもしれなかった。


 いやっ! でもっ!!


 ──俺はまだっ!! そういう意味では清いままでいたいんだぁぁぁあああああっ!!


 というか、そういう意味では永遠に清いままでいいんだがっ!?


 もしかしたら俺は、今からでも、我が身を守るためにこいつを暗殺した方がいいんじゃないか?


 俺は脳裏で『【急募】暗殺対象の王子の執着から逃れつつ暗殺を完遂する方法』という文言を駆け巡らせながら、ひとまず逃げを打ったのだった。

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