昔は、雨の日が嫌いだった。どうしても体調を崩しやすいし、嫌なことは大体雨の日に起きるから。


 そして今、一度払拭されたその雨の日に対する嫌悪感が、ぶり返しそうになっている。


「本日もお疲れ様でした、殿下」


 タイラーがうやうやしく開いてくれた扉をくぐり、自室へ踏み込む。暗く沈んだ居室は、今日も僕に『安全圏に帰ってきた』という安堵よりも『ここには何もない』という深い虚無感を覚えさせた。


「明日のご予定ですが。定刻通りにご起床いただいた後に朝食。一度執務室にお立ち寄りいただいた後、すぐに会議が入っております」

「ああ」


 明かりを灯し、明日の予定を教えてくれるタイラーに上の空な相槌を返しながら、僕は自分の指でタイを緩め、ジャケットのボタンを外していく。


 予定はいつもきちんと頭に入っている。これは長年続いている、タイラーと僕の終業挨拶のようなものだ。


「……以上になります。殿下、何かご不明点は」

「ルーシーに関することで、何か分かったことは?」


 その最後に、このひと月ほどですっかり挨拶の一部と化してしまった言葉を口にすると、今日もタイラーはピクリと肩を震わせた。チラリと背中ごしにタイラーを見遣れば、真っ直ぐに僕を見つめていたタイラーが気まずそうに視線を伏せている。


 それだけで、今日もかんばしい情報が何もないことくらい、察することができた。


 それでも僕は、一縷いちるの希望を捨てきれずに問いを重ねてしまう。


「分かったことは?」

「……ございません」

「そう」


 分かっていたことをあえて確かめて、自分から傷付きに行くなんて滑稽だと、僕自身が一番よく分かっている。


 それでも毎晩、確かめずにはいられない。


「今日もご苦労様。下がっていいよ」


 僕は顔を元の位置に戻すと、シャツのボタンを外す指の動きを再開させた。僕が身の回りのことを自分でやりたがる性質たちであることを承知し、受け入れてくれているタイラーは『おやすみなさいませ』と一礼し、静かに部屋から退出していく。


 頼りになる侍従長の気配が遠ざかっていくのを確かめていたら、いつの間にか指先の動きは止まっていた。サァサァと、分厚いカーテンと窓の向こうで雨が降りしきっている音だけが、空っぽな部屋の中に響く。


 その音に耳を澄ませていると、嫌でもあの日突きつけられた言葉が蘇った。


『殿下、ながいとまをいただきたく存じます』


 真っ青な顔の中で、砂金を散らしたような瞳だけが、常と変わらない強さで僕のことを見据えていた。


 あれが、ルーシーの姿を見た最後になった。


 ──何かがあったんだ。


 あの廊下で分かれた後、ルーシーは忽然こつぜんと姿を消してしまった。一応、きちんと医務室に行ったということは確認が取れたが、30分程度で執務室に戻っていったという。その情報を最後に、ルーシーの足取りは一切掴めていない。


 少しだけ、自主的に行方をくらませたという線も考えたが、すぐにそれはないと棄却した。


 デス・ザ・スターキッドの仕事は、いつだって完璧だ。証拠は残さず、事をし終えれば、まるで最初からそこにいなかったかのように人々の記憶の中に溶けて消えていく。ルーシー当人も言っていた。『皆の記憶に残らずに消えていくためにも、引き継ぎは必須ですからね』と。


 ──ルーシーは、こんな雑な仕事はしない。


 ルーシーの身に、何か不測の事態が発生したと考えるのが妥当だろう。


 ならば必ず、あの男が関わっているはずだ。


 ──ロズウェル・アンダーソン。


 ルーシーに『ロズ』と親しげに呼びかけられていたあの男の正体が、イトコなどではなく、二代目デス・ザ・スターキッドの兄弟子『アスクレピオス』であることはすでに調べがついている。


 暗殺者ギルド『烏の王冠レイヴンズ・クラウン』に所属しているアイツが、敵対ギルドである『高貴ダークなるハイネス』と関わり合いを持っていることも、そもそもカインに『高貴なる闇ダークハイネス』を仲介したのがアイツであることも分かった。その証拠も手元に揃っている。


 きっとこの情報はまだ『烏の王冠レイヴンズ・クラウン』も掴んでいない。関係者に接触さえできれば、交渉のテーブルに相手を引き出すことはできるはずだ。


 そこまでセッティングできてしまえれば、僕は決して誰にも負けない。を叶える余地は、十分にある。


 ──そこまで分かって、根回しもできているのに。


 不意に、隠しきれない痛みが胸をジワリと占拠した。


 ギュッと胸元のシャツを握りしめても誤魔化せないこの痛みは、病気やケガではなくて気持ちの問題なのだと分かっている。


 その痛みを少しでも吐き出したくて、僕はうめくように呟いた。


「どうして、君の行方だけが分からないの、ルーシー……!」


 使える手は全て使った。だがルーシーに関わる情報だけが上がってこない。


 唯一関係があるかもしれないと思えたのは、庭の東屋で見つかった血痕だけだ。


 拭き取られていたものの、うっすらと残された跡から判断すると、人が一人、出血死していてもおかしくない量の血液がぶちまけられていたらしい。だがその血液の主と思われる負傷者も、死体も、王宮からは見つかっていないという。


 ──あの場所は、ルーシーとあいつが密談に使っていた場所だ。


 ルーシーが姿をくらませた後も、あの男は平然とした顔で出仕を続けている。それが逆にあの男の関与を証明しているような気がした。


 だが、どう探ってみても、証拠が見つからない。ヤツがルーシーの失踪に関わっているという証拠も、ヤツが暗殺者だという証拠も、だ。


 この状況になって、ようやくルーシーが僕に言った言葉の意味が理解できたような気がした。


『今ここで殺したら、犯人は俺だって丸わかりだろ。下手人と割られて追われるような殺しを、俺はしない』


 ──確かに、できる隙なんてなかったよね。


 警戒心から、距離を詰めたわけじゃない。


 ただ、必死で。ずっと手が届かないと思っていた一番星が、思いがけず、僕の目の前に落ちてきてくれたから。


 だからもう、空に逃さないように。囲って、縛り付けて、引きずり堕としたかっただけで。


 そこまで無意識に思った瞬間、グッと両手に力がこもった。脳裏をよぎったのは、しばらく前に聞いた、不愉快な男の声だ。


『逃げられたんじゃないっすかぁ?』


 数日前。立太子式の打ち合わせのために出掛けていた先から、執務室に帰還する道すがらに。


 なるべく近付けないように気を付けていたはずなのに、ハッと我に返った時には対面ですれ違う形になっていた。正面から堂々と近付いてきたはずなのに僕に存在を視認させなかったは、顔を跳ね上げたまま凍りついた僕に薄っすらと微笑みかけていた。


『理由不明のしつこい好意って、悪意を向けられるよりタチワリぃっすからね』


 蛇のように酷薄に笑った男は、明らかにルーシーの行方を知っているという空気を醸していた。『ルーシーにとって特別なのは、お前なんかじゃなくて俺なんだよ』とでも言わんばかりな表情に、胸が凍りつくのと同時に、はらわたが煮えくり返る思いも感じた。


「……」


 僕は意図して両手の力を抜くと、力なく視線を両手に落とす。


 歳の割に小さくて、薄い手。手だけではなく、体のどのパーツを取ってもひ弱で、足元がおぼつかなかったルーシーの体を支えることさえ、ろくにできなかった。あいつは片腕で軽々とルーシーを支えてみせたのに、僕にはそれができなかった。


 あの光景を、見せつけられた時。ルーシーが他の誰にも見せない、打ち解けた素の表情をあいつに向けていることに気付いた時。


 僕の胸の中にどれだけの嵐が吹き荒れていたかなんて、きっとルーシーは気付いていない。気付かせることさえ、僕にはできなかった。


「……オニイサン」


 何もない両手をギュッと握りしめて、すがるように額を預ける。


 そんなことしか、僕にはできない。


 虚弱だった体を人並みに強くして、この歳まで生き残った。権力を握り、今まで国が見て見ぬフリをしてきた民にまで救いの手が届くように、少しずつ国政のあり方を変えてきた。


 全てはあの日、僕の命と心を救ってくれた『オニイサン』に報いるため。


 そのためだけにずっと、この場所で戦い続けてきた。


 ──会えなくてもいいって、思ってた。僕がここで戦い続けることで、いつかこの国のどこかで暮らしているであろうオニイサンの暮らしが、少しでも良くなればいいって。


 できることが増えたと、錯覚していた。遠すぎるけれども、少しは彼の役に立てていると勘違いしていた。


 直接の再会を経た今でも、僕はただこうして祈ることしかできないというのに。無力でちっぽけな、あの頃と変わらないくらいに矮小な存在でしかなかったというのに。


「どこにいてもいいから。何を思っていてもいいから。……だから、どうか」


 無事でいて。生きていて。


 ──『雨は空に虹を掛けるために降る』……そうなんでしょう? オニイサン。


 ギュッと両手に力を込めて、叫び出したい想いを噛み殺す。


 僕の切なる願いは、分厚い雲と降りしきる雨に遮られて、まだお星様には届かない。




  ✕  ✕  ✕




 俺は、実の母を知らない。実の父も知らない。


 だが幸いなことに、育ての親と、血が繋がらないチビ達はたくさんいた。


 愛を注いでくれる相手も、俺が愛を注ぐ先も、たくさんあった。温かく、まっとうな場所で、俺は物心つくことができた。


「ルチルにーに!」

「ルーチーにぃに!」


 教会孤児院には俺より歳上の子供もいたはずなのだが、俺が教会を手伝うようになった頃には、俺はチビ達の中で最年長になっていた。コロコロとじゃれつくチビ達を纏めるのも、『兄』である俺の役割だと、自然に思っていた。


 治安が悪い地域でチビ達が団子になって暮らしていれば、必ず悪いやからが目をつける。そんな輩からチビ達を守るのも『兄』の役目だと思うようになったのは、一体いつ頃だったのだろうか。


 最初に得物に選んだナイフは、教会の厨房から拝借した果物ナイフだったと記憶している。子供でも軽くて扱いやすい刃物は、殺傷力こそ高くはなかったが、護身のためにワガママは言っていられなかった。


 教会孤児院で暮らし、日々の随所に神の教えは染み込んでいたが、『それはそれ、これはこれ』なのだと、随分幼い頃から割り切っていたような気がする。


 祈っても、神様は物理的に自分達を守ってくれるわけではない。直接的にパンを与えてくれるわけでもない。


 だから、自分達の安全と生活を物理的に守れるのは、自分達だけだ。


 そんな風に完璧に割り切って振る舞っていた俺は、あの治安が最悪だった地域の中で見ても『異質』だったのだろう。


 俺が抑止力になっていたお陰で、俺達が暮らす教区の中で子供に手を出そうという輩はめっきり減った。下手に子供に手を出して、運悪くそれが教会孤児院の子供だった場合、どんな報復にうか分からなかったからだ。


 周囲がそうそうにそれを理解してくれたお陰で、師匠に引き抜かれる直前には随分と俺も平和な暮らしができていたような気がする。


 だからは、本当に久しぶりに得物を抜くことになったのだ。


「……?」


 激しい雨が降り注いでいた。


 神父様ファーザーの使いで外に出ていた俺が、教会に戻るために足早に細路地を歩いていると、どこからかガラの悪い怒鳴り声が聞こえてきた。


 立ち止まって耳を澄ませてみると、どうやらゴロツキの集団が幼い子供を追い回しているらしい。おまけに音はこちらに向かってきている。


 俺は反射的にナイフを抜くと、壁際に積まれていた荷物の陰に身を隠した。向かってくる集団を物陰から待ち伏せ、集団が追いかけ回しているのが本当に幼い子供であると確認が取れた瞬間、俺は集団の中に躍り込む。先頭を走っていた三人が戦闘不能状態になるまで、まばたきひとつといったところだった。


「ここで騒ぎを起こすなんて。余所ヨソモンだろ、テメェら」


 雨の中、血が滴るナイフをビッと振り抜くと、刃先が触れた場所から雫が赤黒く染まっていった。


 その光景に集団が怯んだ隙を逃さず、俺は逃げ回っていた子供を俺の陰に引き込むと、深く被っていた外套のフードを脱ぐ。


「それとも、ここが俺のシマだって知っててガキに手ェ出す、自殺志願者の集団か?」


 予想外の奇襲に一行は気色ばんでいたようだが、俺の言葉と露わになった瞳を見た瞬間、その場の空気は一変した。


 ヒュッと息を呑んだのは、一体誰だったのか。


 それが判明するよりも早く、集団の中から悲鳴が上がった。


「ま、まさか『宝石眼の殺戮天使』……!」

「何だ、その名前は」

「だっ、誰だよっ!? こんなヤツがいる場所を現場に選んだ人間は……っ!!」

「おいっ! 一体何の話……っ」


 数人でも知っているならば話が早い。さっさとお取引願おう。


 雰囲気から察するに、状況が分かっている人間と分かっていない人間で半々。


 ならばさっさと全員に分からせるまでだ。


 俺は子供を後ろへトンッと押しやると、自身は前へ出た。体格の小ささを活かして相手の懐に潜り込み、的確に急所を切り裂いていく。


 こちらを取り押さえようとする相手を蹴り飛ばし、羽交い締めにしようとしてくるのを頭突きで跳ね返し、大立ち回りを演じること数分。


 数を半分以下まで減らした敵集団は、負傷した仲間を抱えるとサッと波が引くように消えていった。


「……で? お前はどこのやつよ?」


 完璧に敵の気配が消えたことを確かめてから、俺はナイフに血振りを加えながら後ろを振り返った。


 俺が助けた子供は、かなり裕福な家の子供のようだった。深く被った外套で分かりづらいが、その外套ひとつ取ってしても、俺が今までお目にかかったことなどないくらいの高級品だということが分かる。


 腰が抜けてしまったのか、子供はヘタリと座り込んだまま、言葉もなくカタカタと震えていた。綺麗な金の髪に雫がしたたり、紙のように白い肌を濡らしていく。俺を真っ直ぐに見上げた瞳は、よく晴れ渡った空のように深い青色だった。


「俺、お前に見覚えねーんだけど?」


 この教区の人間の顔……特に子供の顔は覚えるようにしている。


 顔を見るまでもなく身なりでこの地区の住人でないことは分かっていたが、やはり顔にも見覚えがなかった。


 俺は重ねて訊ねたが、子供は震えるばかりで口を開かない。


 さて、どうしたものか。……そう思った瞬間、不意に子供の体はフラリと傾ぎ、そのまま雨が打ち付ける道にべシャリと倒れ込んでしまった。


「え? おい、ちょっと!」


 俺は慌てて子供に駆け寄り、膝をついて子供の体を抱え起こす。


 触れてみると、子供の体は外套の上からでも分かるくらいに熱を持っていた。体調が悪い中、雨に打たれながら敵から逃げ回っていたらしい。


「……っ!」


 迷うことはなかった。この辺りは俺も教会関係者だった、と言うべきだろうか。


 俺は子供を背に負うと、教会に向かって一直線に駆け出した。




  ✕  ✕  ✕





『ん? 雨が嫌い? 体調を崩すから? あー……体が弱いヤツって、みんなそう言うよな』


『でもさ。一概に雨を嫌うのも、どうかと俺は思うぜ』


『雨が降らなきゃ干上がっちまうってのもあるけどさ。それだけじゃなくて……』


『お前、虹って知ってるか? 教会ではあれを神の奇跡だーって教えるんだけど、実は違ってさ……』




 雨は空に虹を掛けるために降るんだ。神父様ファーザーがそう教えてくれた。


 で、俺の歌声は、人の心に虹をかけることができるんだってさ。


 まぁ、お前に何があったかなんて、俺は訊いたりしねぇけども。


 そんな目ん玉が溶け落ちそうなくらいに雨を降らせてるお前の心に、いっちょ俺が虹をかけてやるよ。


 まぁ、心して聞け。何せ俺の名前は……




  ✕  ✕  ✕




 ──何だよ、そのクセぇセリフ。


 さらにその後ろに続いた言葉を聞きながら意識を浮上させた俺は、体の痛みと心の痛み、両方にうめき声を上げた。


「師匠を笑えねぇ……」

「おいおい、誰を笑うって?」

「!?」


 無意識のうちに声に出して呟いていた俺は、不意に傍らから響いた声に反射的に腹筋に力を込めていた。


 だがナイフを探った指先は何にも触れることができず、力を込めた腹筋は上体を引き起こすよりも先に走った激痛によって集めた力を即刻霧散させる。


「〜〜〜〜〜〜〜っ!!」

「目ぇ覚めたかよ、馬鹿弟子」


 その痛みのお陰で、色々なことを思い出せた。


 が、まずは隣にいるらしい人物だ。


 俺は恨みがましい目を声がする方へ向けた。


 どうやら俺はどこぞかの寝台に仰向けに寝かされているらしい。日が高い時間帯なのか、部屋全体が淡く光に包まれていた。


 その光の中、相手は寝台の傍らに置いた椅子に腰掛けてこちらを覗き込んでいる。


「気分はどうだ? ん?」


 女と見紛うような、年齢不詳の美貌。胸元まで伸ばされた灰色の髪は、首筋で緩くひとつに括られ、前へ垂らされていた。髪よりもワントーン暗い灰色の瞳は、淡く笑みを湛えて俺を見つめている。


 首から上だけを見れば、性別不肖の麗人。ただし首から下は細身とはいえガッツリ男で、声は嫌味なくらいにバリトンのイケボ。


 これで背筋が寒くなるくらいクサいセリフを連発するのだから、マジで黙ってた方がいいと思う。……ああ、でも声はいいんだったな。だったら誰かにセリフを逐一考えてもらった方がいいのか。


 思わず弟子である俺が寝起きざまにそこまでを考えてしまうこの御方こそが、初代デス・ザ・スターキッド……本名だがどうかは知らないが、名をフェリス・フェルナンドという。


「師匠が……どうしてここに?」


 ここにもクソも、そもそもここがどこなのかも分かんねぇけども。


「ここは私の隠れ家のひとつ。とりあえず都の中ではある」


 俺の顔から疑問を感じ取ったのか、師匠は歌うような語調で教えてくれた。ゆっくりと自力で体を起こしながら、俺は師匠の言葉に耳を澄ます。


「なぜこのタイミングでお前が回収できたがだが。とある筋から、ロズウェルの『おいた』について、タレコミをもらってしまってね」

「……っ」


 その一言で、俺は気を失う直前の光景を思い出した。


 俺の左脇腹を薙いでいった刃。血溜まりを作り上げた鮮血。


 降りしきる雨と、軽薄な、だが冷酷な笑み。


「……記憶は飛んでいないようだな?」


 グッと拳を握り込んだ俺の顔から、表情は消えていたはずだ。そんな俺の一挙手一投足を見つめていた師匠は、満足そうに目を細める。


「状況は?」


 俺は師匠の言葉に直接答えることなく、問いを向けた。取り乱すこともなく、あくまで暗殺者として冷静に事態に向き合おうとする俺に、師匠はさらに満足そうな笑みを広げる。


「お前はひと月ほど昏睡していた。私がお前を回収できたのは、実はたまたまでね。回収しようと思ってあの場に出くわしたわけではなかったから、処置に少々手間取った」


 師匠が受け取った情報は、主にふたつだったという。


 ひとつはロズが『烏の王冠レイヴンズ・クラウン』を裏切り『高貴なる闇ダークハイネス』にくみしているということ。


 もうひとつは、そんなロズの狙いが第一王子のアレクセイで、ロズは暗殺遂行のために王宮に潜入しているということだった。


 情報を受けた師匠は、ひとまず様子を確認するために王宮に潜入した。


 その矢先に瀕死の俺を発見したのだという。


「お前、随分サックリられてた上に、イスラフィール漬けにまでされやがって。状況が状況でなければ、あまりの不甲斐なさに私がお前を殺してやったところだぞ」

「いや、あの……。ロズに『シェイクスピア』で仮病にしてくれと依頼して、イ゛ッ」

「そーこが甘いんだっての」


 眉間で炸裂した容赦のないデコピンに、俺は思わず寝台に倒れ込んだ。額を必死に両手で押さえてみたところで、焼けるような痛みはまったく薄れてくれない。思わず腹の傷の痛みも忘れて両足をジタバタと暴れさせた。


 クッッッソ!! クッソ痛ぇじやねぇかクソ師匠ぉぉぉおおおっ!!


「たとえ身内であっても信じるな。ロズウェルも私も例外ではない。私はそう教え込んだはずだぞ」

「そう言う割にきっちり俺を助けてくれてありがとうございますクソ師匠っ!!」

「二代目とはいえ、デス・ザ・スターキッドがこんなに不様に死ぬなんて、私の美学が許さないからな」


 軽やかに答えた師匠は、サラッと俺の脇腹の傷を指先で突いた。そこから走った激痛はデコピンの比ではない。


「〜〜〜〜〜っ!!」

「立太子式は、約二週間後だ」


 痛みに悶絶していた俺は、その言葉にハッと我に返った。痛みをこらえて師匠を見遣れば、師匠は静かな視線を俺に据えている。


「アレクセイは存命だ。そしてロズウェルは、変わることなくアレクセイの侍従補佐官を続けている。表面上は何も起きることなく穏やかに、粛々と日々は過ぎている」


 お前がなすべきことは、分かるな?


 そんな問いかけが、言葉が終わった後の沈黙ににじんだような気がした。


「アレクセイの警護は硬い。今のままではロズウェルも手が出せないはずだ」


 俺が例外であっただけで、本来アレクセイの警護は硬い。完全に警戒されているロズに暗殺の隙など見つからないはずだ。


 最後のチャンスは立太子式の最中。


 一連の催しをこなしている間だけ、アレクセイの周囲からは常の警備が外れる。


 そしてその隙は、こちらにとっても最後のチャンスだ。


『期限は、王子が十八歳の誕生日を迎えるまでの3ヶ月の内。早ければ早い方がいい。王太子披露の祝宴が開かれるまでに消せ』


 立太子式の日は、アレクセイの誕生日でもある。王太子披露の祝宴は、大教会で儀式を終えた後、アレクセイが王宮に帰還してから開かれる。


 ──デス・ザ・スターキッドの依頼完遂率は100%。


 俺は、この依頼に首を縦に振った。受けた以上、俺はこの依頼を完遂させなければならない。


「……師匠」


 だというのに、この期に及んで、紡ぐ声が震えた。


「俺には、あいつは、殺せません」


 俺の言葉に、師匠はただ一度、ゆっくりとまばたきをしただけだった。


 いいとも悪いとも、師匠は言わない。ただ黙したまま、じっと感情が見えない視線を俺に据えている。


「……俺には、あいつが分からない」


 それが『事情を話してみなさい』という師匠の意思表示なのだと知っている俺は、心の内に抱えていたものを、素直に打ち明けることにした。


「本当に、意味が分からないんです。気持ち悪くて、とにかく怖い」


 暗殺者なんて真っ当じゃないことを生業なりわいにしているくせに、こういう時の師匠はものすごく『真っ当』だ。頭ごなしに物を言わず、ひとまず話を聞いてくれる。……まぁ、場合によってはその後に拳やら刃物やらが飛んでくることもあったりするけども。


「だってあいつ、俺が暗殺しに行ったら、俺のこと寝台に押し倒して口説いてきたんですよ? かなり熱烈に。今思い出しても鳥肌が立つんですけど」

「確かに」


 俺の上半身は、傷の様子を見るためなのか、包帯を巻いただけで服は着せられていない。むき出しの肌には、盛大に鳥肌が立っていた。


「あいつ、どうやらかなり早い段階から『ルシウス・アンダーソン』と『デス・ザ・スターキッド』が同一人物だって気付いていたみたいで。だっつーのに俺を遠ざけようとするどころか、二人きりになろうとしたり、とにかく距離を詰めてきたりで」


 そう、最初からとにかく押しが強かった。こちらが懐に入り込む隙を探ろうと思うよりも早く、向こうから懐に引きずり込まれていたくらいに。


「何か過去に会ったことがあるとかで、その時のことが原因で俺に好意を抱いてるみたいなんですけど……。でも俺、それを忘れてるんですよ。たったそれだけの些細なことを、何年もこじらせるってどうなんですか?」


 何となく、さっきまで見ていた夢で、アレクセイに似た子供を見たような気もした。


 確かに昔、まだ教会孤児院にいた頃、うちの教区の子供じゃない、身なりのいい子供を助けたような気もする。だけどあれが本当に過去にあった出来事なのか、死のふち彷徨さまよっていた俺が見たただの夢だったのかも、俺には分からない。こちらにとっては、本当にその程度の些細な出来事だったはずだ。


「こっちが向けてるのは殺意なんですよ? 殺意を向けてくる相手に好意を抱くって、意味分からなくないですか?」


 そうだ、意味が分からない。殺意と好意なんて、真反対の感情ではないか。


「意味が分からなさすぎて、怖い。俺は、得体のしれないあいつを、殺せないと思ってしまった」


 だから、俺は、この依頼を降りたい。


 包み隠さず内心を打ち明け、上目遣いで師匠を見上げる。二十二歳にもなった男がやる仕草ではないという自覚はあったが、昔からこうして内心をぶちまけた後は、師匠から返される言葉が怖くて、恐る恐る師匠を見上げるのが癖になってしまった。


「得体の知れない……ねぇ」


 師匠は腕を組み、目を閉じ、さらに眉間にはシワを寄せていた。


 いつになく難しい顔の師匠に、俺は思わず息を詰める。


「こんな単純なことも分からないとは……俺はお前の教育を間違えたのかもしれない」

「え……」


 組んでいた足を解いて、ユラリと師匠は立ち上がった。長身で均整の取れた体躯である師匠が立ち上がると、それだけで妙な圧がある。


 え? え? 『単純なこと』って何だよ? 教育を間違えたって? 何でこんな急に圧を醸すんだよ師匠!


「お前が『得体が知れない』って言ってるものの正体はなぁ!」


 カッ! と目を見開いた師匠は、ビシッ! と俺の眉間に人差し指の先を向けた。俺は思わず反射的にナナメ後ろに下がり、指の起動からよけつつ距離も稼ぐ。


「ただの『愛』! はい終わりっ!!」

「……へ?」


 タダノアイ。ただの、愛……ただの愛っ!?


 いやいやだから! 暗殺しに来た相手に恋に落ちる意味が分からなくて怖いって言ってるんじゃないですかっ!!


「馬鹿かお前。アレクセイが惚れたのは、子供の頃に命を救ってくれた、『命の恩人』のお前だろうよ」

「いやいや尚更意味分かんねぇっす!」


 だってあれだろ? アレクセイの話が正しければ、俺とアレクセイが出会ったのは、アレクセイが六歳、俺が十歳の頃……俺が師匠に引き抜かれる直前の頃だ。


 ただの子供だ。それも男同士。


 それが何をどう拗らせちゃったら、初回で寝台に押し倒すような『ただの愛』になるっつーんですかっ!?


「子供の恋って、純粋で深ーいわけですよ、ルシウスくん? 子供の頃からずっと心に抱いて育て続けてきた恋ならば……まぁどこでどう転ぶかなんて、ねぇ?」


 さらに『おまけに二度と出会えないと思っていた、あくまで憧れだった相手が、ある日いきなり寝室にノコノコ登場したら……ねぇ?』と続けた師匠は、麗しい顔に妖艶な笑みを浮かべた。


 いや、パッと見妖艶ではあるが、瞳の中は下世話に笑っているのがメチャクチャよく分かる。……ちょっとサックリっちゃってもいいっすか。いいっすよね? お師匠様。


「お前、昔、似たようなことで怖がってたな。覚えてるか?」


 俺は考えるよりも早く寝台の上に片膝をつくと、スルリと師匠との間合いを詰めた。突きつけられた指先を辿るように指を伸ばし、師匠の袖口に仕込まれていたナイフを引き抜くと、逆手に構えてさらに師匠との距離を殺す。


「『神様ってのは、得体が知れなくて怖い』」


 俺が突き出したナイフは、師匠の左手によって止められていた。人差し指と中指の間に軽く挟まれているだけなのに、俺が全力で押し込んでいるはずのナイフはピクリとも動こうとしない。


「ついでに私やロズのことも、『得体が知れなくて怖い』と言っていたよ」


 今でも怖いかい?


 片手でナイフを止めたまま、師匠は楽しそうに目を細めた。


 ……確かに、師匠に引き抜かれた頃、そんなことを言って、師匠やロズを困らせた覚えがあった。


 そしてこの問いにならば、俺は冷静に答えることができる。


「今は、怖くありません」


 師匠は、暗殺者としては一流だが、ネーミングセンスは壊滅的で、でも『師匠』としては中々に立派な人だと思っている。ロズはライバルであると同時に、俺の人生でほぼ唯一と言ってもいい兄貴分だ。


 神様のことは、今でもイマイチよく分からない。ただそのよく分からなさ加減を作り出しているのが、人の勝手な望みというか、こちらの心の持ちように問題があるのだと分かってから、何だか怖くはなくなった。付き合う距離感が分かった、という感覚が近いのかもしれない。


「では、それらの変化に共通していることは?」


 俺は師匠の瞳を見据えたまま、スッと目をすがめた。


 相手が何を考えているのか。何を企んで入るのか。命のやり取りの場では、相手の思考の二手、三手先を読んで立ち回らなければ、最悪こちらが命を落とす。


 ただ、その読み合いが、場所を間違えればただの独り相撲になることも、同時に俺は知っている。


 ……なんだ。つまり、今回の俺は。


「……相手の本質を、よく知ること」


 相手は暗殺対象で、俺は暗殺者。相手はこの国の第一王子。


 その肩書きと任務内容が先行していたから、そのフィルターを通してしかアレクセイを見ていなかった。だから出来上がった図式が『こちらから殺意を向けた暗殺対象者になぜか熱烈に迫られている』というものだった。


 ただ、そのフィルターを外して見てみれば、そこに残るのは『幼い頃、周りが敵だらけだった中から圧倒的な実力で華麗に救い出してくれた、二度と会えないと思っていた憧れのお兄さんが、なぜか手が届くところに現れた』という事実だけだ。


 そりゃあ長年の間に純粋な憧れが恋愛感情に化けていれば、殺意を向けられていようが何だろうが、口説いて口説いて口説き落としてみせるってなるものなのかもしれない。


 ……ん? いや、なるか?


「正解」


 俺がナイフから力を抜くと、師匠は指の間に刃先を挟んだまま、俺がり取ったナイフを回収していった。俺が使っている物と同じ……『死の五芒星』が刻まれた、デス・ザ・スターキッドのナイフを。


「相手の気持ちを無碍むげにするのは、デス・ザ・スターキッドとしての流儀に反する」


 そこはかとなく疑問を抱きつつも、ひとまず俺の理解が追いついたと判断したのだろう。袖の中に元のようにナイフを片付けた師匠は、麗しい顔に薄っすらと笑みを広げた。


「答えて殺すも良し、袖にして殺すも良し」


 ただしそれは、先程まで愛弟子に向けていた柔らかなものではない。


 一流の暗殺者、生ける伝説とまで謳われた初代デス・ザ・スターキッドが獲物を前にした時に浮かべる笑みだった。


「……ひとつ、訊いてもいいですか?」


 その冷たくも美しい笑みから視線をらすことなく、俺は問いをぶつけた。


「なぜ、ロズではなく、俺を後継に指名したんですか?」

「お前がカッコ良かったからさ、ルーシー」


 師匠の答えに迷いはなかった。


 美しき暗殺者は、己の言葉に満足しているかのようにさらに目を細める。


「デス・ザ・スターキッドはカッコ良い存在でなければならない。お前の中にはお前の美学があるが、ロズウェルにはそれがなかった。だから私はお前にデス・ザ・スターキッドを継がせたんだよ」


 あぁ、美学と言えば。


 そう呟いた師匠は、笑みの中にわずかに殺意を落とした。


 暗殺者の笑みというものは、ただ純粋に笑んだ時よりも、殺意が混ざった時の方が美しい。ロズもそうだが、師匠はそれが特に顕著だ。


「獲物を横取りされることも、デス・ザ・スターキッドの美学に反するな」


 その笑みを前にして、俺の腹は決まった。


 それが分かったのか、師匠がさらに唇の端を吊り上げる。


 アレクセイの想いに何と答えるべきなのかは、いまだに答えが出ていない。


 ただ、自分がどうしたいかは、決まった。


 ──立太子式まで、約二週間って言ったか。


 傍らにある窓から外を眺めると、ちょうど雨上がりなのか、薄く広がった雲の隙間から光が差し込み、濡れた建物の壁や地面の水たまりがキラキラと光を反射させていた。どうやら部屋が明るかったのも、この反射光が窓から注ぎ込まれていたからであるらしい。


 もしかしたら今日は、今から空に虹がかかるかもしれない。


「俺以外に殺されるなよ、バカ王子」


 俺の小さな呟きは、淡い光の中に溶けて消えていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る