Ⅴ_ⅰ

 昔は、雨の日が嫌いだった。どうしても体調を崩しやすいし、嫌なことは大体雨の日に起きるから。


 そして今、一度払拭されたその雨の日に対する嫌悪感が、ぶり返しそうになっている。


「本日もお疲れ様でした、殿下」


 タイラーがうやうやしく開いてくれた扉をくぐり、自室へ踏み込む。暗く沈んだ居室は、今日も僕に『安全圏に帰ってきた』という安堵よりも『ここには何もない』という深い虚無感を覚えさせた。


「明日のご予定ですが。定刻通りにご起床いただいた後に朝食。一度執務室にお立ち寄りいただいた後、すぐに会議が入っております」

「ああ」


 明かりを灯し、明日の予定を教えてくれるタイラーに上の空な相槌を返しながら、僕は自分の指でタイを緩め、ジャケットのボタンを外していく。


 予定はいつもきちんと頭に入っている。これは長年続いている、タイラーと僕の終業挨拶のようなものだ。


「……以上になります。殿下、何かご不明点は」

「ルーシーに関することで、何か分かったことは?」


 その最後に、このひと月ほどですっかり挨拶の一部と化してしまった言葉を口にすると、今日もタイラーはピクリと肩を震わせた。チラリと背中ごしにタイラーを見遣れば、真っ直ぐに僕を見つめていたタイラーが気まずそうに視線を伏せている。


 それだけで、今日もかんばしい情報が何もないことくらい、察することができた。


 それでも僕は、一縷いちるの希望を捨てきれずに問いを重ねてしまう。


「分かったことは?」

「……ございません」

「そう」


 分かっていたことをあえて確かめて、自分から傷付きに行くなんて滑稽だと、僕自身が一番よく分かっている。


 それでも毎晩、確かめずにはいられない。


「今日もご苦労様。下がっていいよ」


 僕は顔を元の位置に戻すと、シャツのボタンを外す指の動きを再開させた。僕が身の回りのことを自分でやりたがる性質たちであることを承知し、受け入れてくれているタイラーは『おやすみなさいませ』と一礼し、静かに部屋から退出していく。


 頼りになる侍従長の気配が遠ざかっていくのを確かめていたら、いつの間にか指先の動きは止まっていた。サァサァと、分厚いカーテンと窓の向こうで雨が降りしきっている音だけが、空っぽな部屋の中に響く。


 その音に耳を澄ませていると、嫌でもあの日突きつけられた言葉が蘇った。


『殿下、ながいとまをいただきたく存じます』


 真っ青な顔の中で、砂金を散らしたような瞳だけが、常と変わらない強さで僕のことを見据えていた。


 あれが、ルーシーの姿を見た最後になった。


 ──何かがあったんだ。


 あの廊下で分かれた後、ルーシーは忽然こつぜんと姿を消してしまった。一応、きちんと医務室に行ったということは確認が取れたが、30分程度で執務室に戻っていったという。その情報を最後に、ルーシーの足取りは一切掴めていない。


 少しだけ、自主的に行方をくらませたという線も考えたが、すぐにそれはないと棄却した。


 デス・ザ・スターキッドの仕事は、いつだって完璧だ。ルーシーに関することはどんな些細なことでも知りたくて、デス・ザ・スターキッドが関わったと思われる案件は全て調べたから知っている。


 証拠は残さず、事をし終えれば、まるで最初からそこにいなかったかのように人々の記憶の中に溶けて消えていく。それが『先代』から続くデス・ザ・スターキッドの流儀だ。


 ルーシー当人も言っていた。『皆の記憶に残らずに消えていくためにも、引き継ぎは必須ですからね』と。


 ──ルーシーは、こんな雑な仕事はしない。


 ルーシーの身に、何か不測の事態が発生したと考えるのが妥当だろう。


 ならば必ず、あの男が関わっているはずだ。


 ──ロズウェル・アンダーソン。


 ルーシーに『ロズ』と親しげに呼びかけられていたあの男の正体が、イトコなどではなく、二代目デス・ザ・スターキッドの兄弟子『アスクレピオス』であることはすでに調べがついている。


 暗殺者ギルド『烏の王冠レイヴンズ・クラウン』に所属しているアイツが、敵対ギルドである『高貴ダークなるハイネス』と関わりを持っていることも、そもそもカインに『高貴なる闇ダークハイネス』を仲介したのがアイツであることも分かった。その証拠も手元に揃っている。


 きっとこの情報はまだ『烏の王冠レイヴンズ・クラウン』も掴んでいない。関係者に接触さえできれば、交渉のテーブルに相手を引き出すことはできるはずだ。


 そこまでセッティングできてしまえれば、僕は決して誰にも負けない。を叶える余地は、十分にある。


 ──そこまで分かって、根回しもできているのに。


 不意に、隠しきれない痛みが胸をジワリと占拠した。


 ギュッと胸元のシャツを握りしめても誤魔化せないこの痛みは、病気やケガではなくて気持ちの問題なのだと分かっている。


 その痛みを少しでも吐き出したくて、僕はうめくように呟いた。


「どうして、君の行方だけが分からないの、ルーシー……!」


 使える手は全て使った。だがルーシーに関わる情報だけが上がってこない。


 唯一関係があるかもしれないと思えたのは、庭の東屋で見つかった血痕だけだ。


 拭き取られていたものの、うっすらと残された跡から判断すると、人が一人、出血死していてもおかしくない量の血液がぶちまけられていたらしい。だがその血液の主と思われる負傷者も、死体も、王宮からは見つかっていないという。


 ──あの場所は、ルーシーとあいつが密談に使っていた場所だ。


 ルーシーが姿をくらませた後も、あの男は平然とした顔で出仕を続けている。それが逆にあの男の関与を証明しているような気がした。


 だが、どう探ってみても、証拠が見つからない。ヤツがルーシーの失踪に関わっているという証拠も、ヤツが暗殺者だという証拠も、だ。


 この状況になって、ようやくルーシーが僕に言った言葉の意味が理解できたような気がした。


『今ここで殺したら、犯人は俺だって丸わかりだろ。下手人と割られて追われるような殺しを、俺はしない』


 ──確かに、できる隙なんてなかったよね。


 警戒心から、距離を詰めたわけじゃない。


 ただ、必死で。ずっと手が届かないと思っていた一番星が、思いがけず、僕の目の前に落ちてきてくれたから。


 だからもう、空に逃さないように。囲って、縛り付けて、引きずり堕としたかっただけで。


 そこまで無意識に思った瞬間、グッと両手に力がこもった。脳裏をよぎったのは、しばらく前に聞いた、不愉快な男の声だ。


『逃げられたんじゃないっすかぁ?』


 数日前。立太子式の打ち合わせのために出掛けていた先から、執務室に帰還する道すがらに。


 なるべく近付けないように気を付けていたはずなのに、ハッと我に返った時には対面ですれ違う形になっていた。正面から堂々と近付いてきたはずなのに僕に存在を視認させなかったは、顔を跳ね上げたまま凍りついた僕に薄っすらと微笑みかけていた。


『理由不明のしつこい好意って、悪意を向けられるよりタチワリぃっすからね』


 蛇のように酷薄に笑った男は、明らかにルーシーの行方を知っているという空気を醸していた。『ルーシーにとって特別なのは、お前なんかじゃなくて俺なんだよ』とでも言わんばかりな表情に、胸が凍りつくのと同時に、はらわたが煮えくり返る思いも感じた。


「……」


 僕は意図して両手の力を抜くと、力なく視線を両手に落とす。


 歳の割に小さくて、薄い手。手だけではなく、体のどのパーツを取ってもひ弱で、足元がおぼつかなかったルーシーの体を支えることさえ、ろくにできなかった。あいつは片腕で軽々とルーシーを支えてみせたのに、僕にはそれができなかった。


 あの光景を、見せつけられた時。ルーシーが他の誰にも見せない、打ち解けた素の表情をあいつに向けていることに気付いた時。


 僕の胸の中にどれだけの嵐が吹き荒れていたかなんて、きっとルーシーは気付いていない。気付かせることさえ、僕にはできなかった。


「……オニイサン」


 何もない両手をギュッと握りしめて、すがるように額を預ける。


 そんなことしか、僕にはできない。


 虚弱だった体を人並みに強くして、この歳まで生き残った。権力を握り、今まで国が見て見ぬフリをしてきた民にまで救いの手が届くように、少しずつ国政のあり方を変えてきた。


 全てはあの日、僕の命と心を救ってくれた『オニイサン』に報いるため。


 そのためだけにずっと、この場所で戦い続けてきた。


 ──会えなくてもいいって、思ってた。僕がここで戦い続けることで、いつかこの国のどこかで暮らしているであろうオニイサンの暮らしが、少しでも良くなればいいって。


 できることが増えたと、錯覚していた。遠すぎるけれども、少しは彼の役に立てていると勘違いしていた。


 直接の再会を経た今でも、僕はただこうして祈ることしかできないというのに。無力でちっぽけな、あの頃と変わらないくらいに矮小な存在でしかなかったというのに。


「どこにいてもいいから。何を思っていてもいいから。……だから、どうか」


 無事でいて。生きていて。


 ──『雨は空に虹を掛けるために降る』……そうなんでしょう? オニイサン。


 ギュッと両手に力を込めて、叫び出したい想いを噛み殺す。


 僕の切なる願いは、分厚い雲と降りしきる雨に遮られて、まだお星様には届かない。

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