俺の名前はデス・ザ・スターキッド。


『名前を笑ったヤツは皆殺し』をモットーとする暗殺者。


 ふざけた名前をしているが、これでも依頼完遂率は100%。しかし今回の依頼で初めて、俺は依頼を完遂できないかもしれないと思い始めている。


 その依頼内容とは、ルーベンス王国第一王子、アレクセイ・ブロワ・ルーベンスの暗殺。


 俺は依頼を完遂すべく、侍従補佐官ルシウス・アンダーソンとして王宮に潜入し、諸事情あって現在はアレクセイの『護衛専門侍従』という役職に据えられているわけだが。


「……ルーシー?」


 まさかその護衛対象にして暗殺対象から、殺意と見まがうような圧をかけられる日が来るとは思っていなかった。


「説明、してくれるよね?」


 魔王も泣いて逃げ出しそうな真っ黒なオーラを纏ったアレクセイが、俺に向かってニコリと綺麗に笑いかける。


 俺はその笑顔に、思わず『ひぇ』という間抜けな声をこぼしていた。暗殺者としてあるまじきことに、マジの素でそんな声が漏れていた。それくらい、今のアレクセイが放つ魔王子オーラの圧はすさまじい。


 ──おい、どうしてくれるんだよこの状況っ!!


 俺は思わず相手からは見えないと分かっていながら、いまだに俺をギュムギュムと抱きしめている男を睨みつけた。


 サラリとこぼれる赤毛の髪。俺よりも頭半分近くデカい背丈に、たくましい体躯。無駄にデカい声と明るい表情はバカっぽさを演出しているが、その実こいつが蛇以上に冷徹でキレ者だということを、俺は知っている。このしつこい抱擁も、必要性あってのものであるはずだ。


 その証拠に抱きついてきた男は、皆が突然の展開とアレクセイの魔王子オーラに唖然としている中、誰にも気付かれないように俺の耳元でこうささやいていた。


『ロズ、と』


 ──あ、お前も本名のままなのな?


「はっ、離せよ、ロズ! ここはお前んじゃなくて、職場だぞっ!?」


 俺は相手の調子に合わせて演技をしながら、ベリッと相手を引き離した。


 俺の言葉にテヘッといかにも無害な小型犬のように笑った相手は、凍りついた部屋の空気に気付くと、誰にもかれていないのにペラペラと自己紹介を始める。


「あ、すみません! 俺、ロズウェル・アンダーソンって言います。ルーシーは父方のイトコでして!」


 なるほど。イトコって設定で来たか。まぁ、容姿はあんまり似てないしな。


 だが『血縁』という肩書きは、実際の関係性に微妙に近い。


 ──血は繋がってねぇけど、『兄弟』ではあるし。


 とはいえ、兄は兄でも『兄弟子』だ。今では同じギルドに所属する同業者でもある。


 つまり、こいつは。


「本日より俺も、ここでお世話になります!」


 ──俺の仕事が遅いことに業を煮やしたギルドが送り込んだ、援軍ってわけだ。


 これはいよいよ、追い詰められてきたかもしれない。


「よろしくお願いしますね!」


 愛想をバラ撒くロズを視界の端で捉えながら、俺は改めてアレクセイを見遣る。


 執務机の上に両肘を置き、さらに組んだ手の上に顎を乗せたアレクセイは、ロズを視界から締め出すように俺だけを見据えて、相変わらず絶対零度の笑みを浮かべていた。その視線にさらされただけで、俺の背筋は冗談抜きで震えが止まらない。


 ──これはマズい。


「もっ、申し訳ありません!」


 三十六計逃げるにかず。まずはこいつと打ち合わせから始めた方がいい。


「こいつ、昔から場の空気を読めないというか……わきまえていないところがあって……!」


 俺はガシッとロズの後ろ襟を掴むと、一度深々とアレクセイに向かって頭を下げさせた。


 さらに掴んだ手を離すことなく、そのままロズを引きずるようにして外へ向かう。


「ちょっとこいつに世間一般の常識ってやつを叩き込んできますっ!」

「うぉっ!? ちょっ……ルーシー!?」

「つべこべ言うなっ! 行くぞっ!!」


 そんな俺の様子にロズがほくそ笑み、いまだに空気を凍てつかせているアレクセイへ挑発的な視線を投げたことに気付いた俺は、さりげなくロズの首をジャケットとシャツの襟を使って締め上げてやった。


 ──これ以上、俺の職場環境を悪くするなっ!!


 しかし必要以上に場を刺激すれば後々自分が動きにくくなると理解できているはずのロズが、こんな振る舞いをするとは一体どういう風の吹き回しなのか。


 そこも込みで、一度本格的に会議が必要なようだ。




  ✕  ✕  ✕




「で? どういうことなんだ」


 ロズを中庭の東屋あずまやまで連行した俺は、ペイッとロズを放り出すと腕を組んだ。その程度では体勢も笑みも崩さないロズは、危なげなく俺に向き直ると軽く肩をすくめる。


「どうもこうも、見たまんま?」


『それだけじゃ意味が分からん』という意味を込めて、俺はジットリとロズを睨みつける。


 そんな俺を薄ら笑いとともに見つめていたロズは、表情を変えないまま口を開いた。


「今まで、依頼を一週間以上手こずらせたことがないデス・ザ・スターキッドが、今回はなぜか一ヶ月が過ぎても音沙汰がない。どうなってるんだってギルド内がざわめいてたから、派遣員として俺が手を挙げたってわけ」


 ただしロズが纏う空気はシンと冷えていて、俺を見据えた翡翠の瞳は一切笑みを浮かべていない。


 遠目に見れば俺達は和やかに談笑しているように見えるだろう。だが実際には、俺とロズの間に満ちた空気はどこか殺伐としている。


「ギルドにゃお前を指名したいっていう依頼が山積みで、後がつかえて仕方がないって話だぜ? 『デス・ザ・スターキッド』はやっぱ違うねぇ?」

「本来この名前を継ぐはずだったお前には言われたくない」

「仕方がねぇじゃん? お師匠様が後継者にお前を指名したわけだし」

「嘘言え。お前、このダサい名前継ぎたくなくて、師匠が後継者を指名しそうな雰囲気醸してた時期に、わざと長期の仕事請け負って行方くらましてただろ」


 ロズことロズウェルは、俺の三歳歳上の兄弟子だ。師匠に引き抜かれたのは俺より二年ほど早い。俺が師匠の下についた時にはすでに一端の暗殺者で、師匠からは単独で仕事を請け負ってもいいと許しを与えられていた。


 俺の主武器はナイフだが、ロズはナイフと同じくらい毒の扱いにも長けている。俺の毒薬知識は、ほぼロズから伝授されたものだ。業界でのロズの通称が『アスクレピオス』であるのも、その毒薬知識の確かさと豊富さからきている。まさに『生かすも殺すも彼次第』ということだ。


 ──でもまさか、ロズが出てくるなんて……


 ロズは間違いなく『烏の王冠レイヴンズ・クラウン』でも屈指の暗殺者だ。『二代目デス・ザ・スターキッド』である俺をこの依頼に駆り出されているギルド側からしてみれば、有事に備えて手元に残しておきたかった人材だろう。


 そのロズの王宮潜入を許した、という時点で、ギルド側がかなり強い危機感を覚えていることが分かる。もしかしたら、俺への評価も下がっているのかもしれない。


「で? なーんで今回に限って、お前はこんなにも手こずってんだ?」


 気まずさを隠すことができずに、俺は顔を動かさないまま視線だけを逸らす。


 そんな俺の顔を覗き込むように、上体を傾げたロズが顔を近付けた。視線を伏せたままでも、顔を覗き込んでくるロズが楽しそうな笑みを浮かべているのがよく分かる。


「まさか、ほだされちゃった?」


 だが笑みを湛えた唇から紡がれた声は、先程のアレクセイの比ではないくらいに冷え切っていた。


「違う」


 答える声は、間髪をれずに出た。が聞き耳を立てていることを警戒して音量自体は潜められているが、俺の声は俺とロズの間にある空気を切り裂くかのように鋭い。


「そんなんじゃない」

「じゃあ何だよ」


 ロズはある程度、俺が置かれた状況を調べてから潜り込んできたはずだ。そうでなければ、先程までの振る舞いに説明がつかない。


 ──今の俺達を傍目から見たら、それこそ口説かれてるように見えるんだろうな。


 アレクセイにこんな距離で、こんなに顔を近付けられて話しかけられたら、きっと俺の全身は警戒の鳥肌を立てていたことだろう。ロズに対してそんなことにならないのは、ここまで距離を詰めなければならない理由が分かっている上に、相手が古馴染みだからだ。


 ──そうだ。俺は、アレクセイの行動の意味が、ずっと分からない。


 理解できないモノは、怖い。これはヒトの防衛本能のひとつだ。


 なぜ自分を殺そうとしている暗殺者……しかも男に対して、あそこまで過剰な、色欲までこもった好意を抱けるのかが分からない。自分が暗殺されるかもしれないリスクを取ってまで、俺を傍に置こうとするのかが分からない。


 過去に出会ったことがあるとアレクセイは言ったが、それだって多分一度きりのことだろう。その何年も前の『一度きり』だけで、ここまでの執着をこじらせることができるものなのだろうか。


「暗殺できる隙がない」


 そんな諸々の内心を溜め息ひとつで押し流した俺は、改めてロズに視線を据え直した。俺が内心を仕切り直したことを察したのか、視線を受けたロズは体勢を戻すと問うように片眉を跳ね上げる。


「隙なんていくらでもあるだろ?」

「タイミングはいくらでもある。ただ、隙はない」


 同じ師に学び、同じギルドに属するロズには、その説明だけで俺が置かれた状況が理解できたのだろう。片方だけだった眉が両方跳ね上げられ、後に両方ともに眉尻だけが下げられる。


「寝室に忍び込めれば一発じゃね?」

「初回でそれをやって、なぜか押し倒された」

「……あー?」


 器用だな、お前。『え? お前が押し倒された? お前結構組手得意だったよな?』と『あー、やりそうな雰囲気あるよな、あの王子』と『なるほど、だから今こうなってんのか』って内心を『……あー?』の一言で全部表すなんて。


「……そっかー、だから『ルシウス・アンダーソン』の身元が『デス・ザ・スターキッド』だって割れちまったわけね」

「は?」


 さらに続けられた言葉にいぶかしげな声を上げると、ロズは己の目元をトントンッと指先で軽く叩いた。


「いや、お前が身元割られるとか、そんな初歩的なヘマをするとは思えなかったからさ。もしかしてアレクセイ王子は人の心が読める魔法でも使えるのかと、ありもしねぇことを疑ってたんだけども」


『お前の瞳の色』と続けられた言葉に、俺は思わず苦虫を噛みしめたような顔になった。


「初回の襲撃で押し倒された時に、その瞳の色を見られて、そこから身元が割れちまったってわけね」


 さらに『髪はヅラで誤魔化せても、瞳の色はなぁ〜』と続けられた言葉に、俺は苛立ちを込めて舌打ちをする。


 今はごくありふれた茶髪短髪のカツラを被っている俺だが、デス・ザ・スターキッドとしての髪型……というか地毛の髪型は、胸元まで毛先が伸ばされた、『新月の夜のような』と評される黒髪だ。色も髪型も人目を引くものだが(長さに関しては、師匠からの指定があって短くできない。デス・ザ・スターキッドとしてのこだわりだとなんとかで)、俺の場合はさらに『灰色の地に金が散る虹彩』という特異な瞳の方が人目につく。


 チラリと見る分にはありふれた灰色に見えるらしいのだが、真正面から視線が合ったり、顔に強く光が当たったりすると、金が強調されて、まるで瞳の中に砂金を散らしたように見えるのだとかなんとか。


 教会孤児院で暮らしていた頃は、バカなゴロツキどもがこの目の金を本物の砂金か何かだと勘違いして襲いかかってきたこともあった。思えば俺が幼くしてナイフを持ち歩くようになったきっかけも、本を正せばそんなやからから身を守るためだったような気がする。


 普段は視線を伏せて、なるべく相手に瞳を意識させないようにしてしのいでいるが、アレクセイには初回の襲撃の時に正面から、さらに至近距離で顔を覗き込まれている。思い返せば度々間近で顔を覗き込まれていたし、言われるまでもなく誤魔化せるはずがなかった。


 そもそも、当初の予定では、ここまで事を長引かせるつもりはなったのだ。最初から長期潜伏を想定していれば何らかの対策を講じもしたが、今回の場合は完全に想定外で、見込みも甘かった。


 ──いやでも。


 俺が寝室で暗殺をしかけた時点で、アレクセイはすでに俺が『ルシウス・アンダーソン』であることを知っていた雰囲気があった気がする。さらには俺がかつてアレクセイを助けたという『オニイサン』であったことも。


 アレクセイは一体、あの時点でどこまでの事実を承知していたのだろうか。


 ──これも、分からない……


 俺は溜め息とともに緩く首を横へ振った。


 もう分からないことを考えるのはやめにしよう。考えれば考えるほど、アレクセイの術中にはまり込んでいくような気がする。


「とにかく、お前が来てくれて助かった」


 俺は表情をかき消すと、ヒタリと真正面からロズを見据えた。初夏の心地良い風が、サワサワと周囲の木々の若葉を揺らしていく。


「俺はこの依頼から降りる。ロズ、後はお前に任せた」


 そのざわめきが不穏なものに聞こえたのは、きっと俺がその風の中に不穏な言葉を溶かし込んだせいだ。


「いいのかよ?」


 答えるロズの顔からも、表情らしい表情が消えていた。互いに暗殺者としての素の表情をさらし合いながら、俺達は淡々と『打ち合わせ』を続ける。


「手柄を譲ったと師匠に知られたら、お前、大目玉食らうぜ?」

「兄弟子相手ならまだ許されるだろ。このまま依頼が完遂されないよりかはマシなはずだ」

「あの王子様が、そうそうお前を手放してくれるかね?」

「考えがある」


 俺はチラリと視線を東屋の外へ流した。ロズもほぼ同じタイミングで、同じ方向へ視線を向ける。


 暗殺者として張り巡らせた意識の網に、こちらへ近付いてくる気配が引っかかった。こちらが気付くことを承知で冷気を振りまくこの威圧的な気配は、アレクセイのもので間違いない。


「『シェイクスピア』の持ち合わせはあるか?」


 俺の問いかけだけで、ロズは俺が何を狙っているのか分かったのだろう。


 さらに一段瞳の温度を下げたロズが、平坦な声で答える。


「命の保証はできねぇぞ」


『シェイクスピア』というのは、いくつかある仮死薬……一時的に身体の機能を極限まで停止させ、死を偽装させる薬のひとつだ。暗殺者の間では、作中でこれを用いる有名な戯曲の作者になぞらえて、この俗称で取引がされている。


『シェイクスピア』の特徴は、摂取量によって症状を変えることができるというものだ。


 正規の量を服用すれば仮死薬に。過剰に服用すれば毒薬に。……そしてある一定量を定期的に摂取していくと、実際に体に害を出さないまま、表面上のみ病気で徐々に体が弱っていっているように見せかけることができる。


お前アスクレピオスの処方を信じる」


 ただ姿をくらましただけでは、周囲にいぶかしがられる。撤退するにしても、不自然な違和感を残して、周囲に記憶されるわけにはいかない。


『ルシウス・アンダーソンは、慣れない宮廷暮らしに体調を崩し、療養のためにやむなく職を辞した』


 傍目から見て分かるくらい俺の体調が悪くなれば、アレクセイとて無理には引き留められないはずだ。


 手放したくないがゆえに手元に囲い込んで宮廷医師をつけるという可能性もなきにしもあらずだが、現状の関係性でそこまでの強権を行使すれば、アレクセイの周囲にいる他の人間がどんな不満を抱くかも分からない。


 立太子式直前というこのタイミングで波を起こし、自陣の中に不和を生むような言動は、いかにアレクセイといえども避けたいはずだ。


 俺の返答に、ロズは片眉を跳ね上げることで答えた。俺にはそれが了承の証だということが分かる。


「頼んだぞ」


 俺は短く囁くと、ロズを残して東屋を出る。


 そんな俺の視線の先では、姿を現したアレクセイが絶対零度の視線を俺に注いでいた。




  ✕  ✕  ✕




 仮死薬としては即効性を持つ『シェイクスピア』だが、仮病薬として服用した場合、効果が現れるには一週間ほど時間がかかる。


「おっと」


 俺がめまいを感じて足元をふらつかせたのは、ロズが王宮にやってきてからそろそろ二週間が過ぎるかといったところだった。今日は生憎の雨で、その影響なのか、ようやく『シェイクスピア』の効果が出始めたらしい。


 ……ったく、ロズ。お前、処方量ケチっただろ。もしくは俺が毒薬に耐性を持っているのを忘れていたかのどちらかだ。


「ルシウス? 大丈夫か?」

「え、ええ。申し訳ありません、サルストール卿」


 アレクセイも出席する会議の場に向かうべく、アレクセイ、タイラー、俺、ロズで廊下を進んでいる時のことだった。


 倒れそうになった俺は、隣を歩いていたロズの腕に抱き留められる。片腕で難なく俺を抱き留めたロズに、前を歩いていたアレクセイはすかさず振り返って冷たい視線を向けてきた。


「ルシウス、最近顔色が良くないんじゃないか?」


 ロズの胸に手を置いて体を起こそうとしたものの、また足元をフラつかせてロズの胸に逆戻りした俺の姿にタイラーが眉をひそめる。


 その一言を待ってたよ、サルストール卿。


「いえ、大丈夫です」


 俺は血の気が失せた顔で、儚げに微笑んでみせた。


 めまいはするが、その他の体調に特に問題はない。だが俺の顔色はここ二週間で格段に悪くなったはずだ。


 明らかに大丈夫ではない顔色で『大丈夫』と言い張れば、人は誰だって心配になるものである。


 案の定、俺の言葉にタイラーは眉をひそめた。だがタイラーが口を開くよりも、アレクセイがズイッと俺達の方へ踏み込んでくる方が早い。


「医務室に行こう、ルーシー」


 強引に俺とロズの間に割って入ったアレクセイは、俺を抱きしめるようにして体を支える。だが本気で足をよろめかせている俺の体はアレクセイには重すぎたのか、ロズから俺を奪い取ったアレクセイは小さくたたらを踏んでいた。


「小さな体調不良であっても、見逃せば大変なことになるかもしれない。僕の口添えがあれば、すぐに診てもらえる」

「しかし殿下」

「タイラー、僕がいない間に、細かいところは詰めておいてくれ。事前に僕の意向は皆に伝わっている。僕が多少遅刻しても会議の進行に支障はない」


 一方的に言い切ったアレクセイは、『反論は受け付けない』とばかりに強引に話を切り上げた。


 俺が関わると途端に道理が効かなくなるアレクセイにすでに慣れてしまったのか、タイラーは小さく溜め息をつくと大人しく『承知いたしました』と頭を下げる。チラリとロズへ視線を向けると、ロズは薄っすらと俺に笑みを向けていた。


「ルーシー」


 ロズと俺の視線が交わったことに気付いたのか、アレクセイは低い声で俺を呼ぶと、左腕を俺の腰に回してグイッと強引に進行方向を変えさせた。


 足元がおぼつかない今の俺では、その力に逆らうこともできない。


 アレクセイにもたれかかり、誘導に従って素直に足を進め始めると、アレクセイの足取りはまたフラリとよろけた。華奢で小柄なアレクセイでは、細身に見えても暗殺者としてそれなりに筋肉がついている俺を支えきることは難しいのだろう。


 悔しげに顔を歪めたアレクセイは、俺の右腕を自身の肩に乗せるようにして俺の体を引き上げる。まるで怪我人の搬送だ。当人としてはもっとスマートにエスコートしたかったのかもしれない。


「……ねぇ」


 そんなアレクセイが再び口を開いたのは、本来行くはずだった議場へ向かう廊下を外れ、タイラーとロズの気配を感じ取れなくなった辺りでのことだった。


 タイラーとロズどころか、周囲に人の気配らしい気配もない。しっとりと降りしきる雨の音が、逆に静寂を際立たせていた。


「あいつに、何をされているの?」


 その静寂の中に、地を這うような声がにじんでいく。静かなのに周囲の静寂とは相反する声は、まるで濡れた紙の上に落とされた真っ黒なインクのようだ。


 そんな問いが出てくる意図をはかりかねた俺は、黙したままアレクセイに視線を向ける。


 問いに答えないまま視線だけを向ける俺に何を思ったのか、アレクセイは一度唇を噛み締めてからさらに一段低くなった声で言葉を紡いだ。


「あいつが来てから、どんどんルーシーの顔色が悪くなってる。あいつ、本当は兄弟なんかじゃなくて、同業者なんだろ?」


 そりゃあアレクセイは気付くよな。俺の正体を知ってるわけだし。下手すりゃロズの詳しい素性まで調べ上げているかもしれない。


「……質問の意図が、分かりかねます」


 そこまで理解しておきながら、俺は素っ気なくアレクセイに答えた。俺の返答が不服だったのか、アレクセイがグッと唇を噛む。


「心配なんだ、ルーシーのことが」


 だがその唇は数歩進むうちにフルリと解けた。言葉を紡ぐ声音はまだ常よりも低いが、響きは真摯で、心底言葉通りに俺を案じていることが分かる。


「あいつに何かされてるんなら、あいつを王宮から追い出してもいい。『何かをした』という証拠なんてなくても、僕が一言命じれば……」


 それが、分かるからこそ。


 俺は心底、こいつを『気持ち悪い』と感じた。


「……っ」

「ルーシーっ!?」


 俺は重心移動だけでアレクセイの手を振りほどく。足は相変わらずふらついたが、壁にぶつかるようにして何とか体を支えた。


 その上で、俺は感情をかき消した瞳をヒタリとアレクセイに据える。


「ル……」

「殿下、ながいとまをいただきたく存じます」


 切り裂くように響いた声に、アレクセイは伸ばしかけた手もそのままに凍りついた。ヒュッという息を呑む音だけが、俺が発した言葉の余韻に重なるように響く。


「なん……っ」

「幼少期に完治したと判断されていた病が、慣れぬ宮廷暮らしで再発しました。皆様にご迷惑をかけるわけにはいきません。王宮を辞し、療養いたしたく存じます」


 もちろん嘘だ。俺の見せかけだけの体調不良は、ロズが処方する『シェイクスピア』の長期摂取による仮病。摂取さえやめれば、俺はたちまち見た目も健康体に立ち戻る。


 仮病の理屈は分からないだろうが、アレクセイだって俺が逃げを打ったのだということは察しているだろう。だが今の俺の様子を見て俺の口上を聞けば、アレクセイ以外の人間は皆納得する。そして引き留めはしないだろう。むしろさっさとお払い箱にしたいはずだ。


 何せ俺は、入ったばかりでなぜかアレクセイの寵を得ている新人だ。皆、大なり小なり、俺のことを面白く思わない気持ちはある。そんな俺が自主的に消えると言うのだ。大手を振って送り出したいに違いない。


「デス・ザ・スターキッドの依頼完遂率は、100%なんじゃなかったの?」


 俺の考えを、恐らくアレクセイは読んでいる。そして王宮の権謀術数の中で生きてきたアレクセイならば、もはや打つ手がないことも分かるはずだ。


「僕の暗殺は、まだ完遂されていない。それなのに、逃げるの?」


 だからこそ、アレクセイは俺に向ける言葉の種類を変えた。


『第一王子と護衛専門侍従』ではなく、俺達の本質である『暗殺対象と暗殺者』としての立場に立った言葉へ。


「殺せる目処の立たないマトの元に留まる暗殺者なんていない」


 アレクセイは、今までずっと、知っていることをほのめかしながらも、ストレートにそこに踏み込んでくることはなかった。いつだって曖昧に誤魔化して、断言を避けて、逃げ道を残してきた。


 その余白の中に俺は、正体を潜めることを許されてきた。いや、違う。逃げることも捨て身になることもできなかった俺は、そこに居ざるを得ないように誘導されてきた。俺自身も、それを理解していながら受け入れざるを得なかった。


『ルシウス・アンダーソン』は仮面で、その下に隠されているのが『デス・ザ・スターキッド』だと知られていると分かっていても、アレクセイが見てみないフリをするから、何となくこの距離感が成立してしまっていた。


 そのグレーゾーンを潰してしまえば、もう元の距離には戻れない。


 なぜならば、暗殺者と暗殺対象にとって、互いの正体を知った上で、平然と同じ場所に居続けることなど『異常』極まりないのだから。


「俺にはお前は殺せない。こんな、得体の知れないお前を、俺は殺せる気がしない」


 アレクセイにとっては、異常でもいいのかもしれない。


 だが俺は、この異常に耐えきれない。


「俺は、この依頼から降りる」

「許さない」


 不意に、声が近くなる。


 めまいの影響で色々感覚が狂っているのか、俺は距離を詰めるアレクセイに対処することができなかった。気付いた時には足の間にアレクセイの膝を入れられ、顔の右側には左腕が、顎には右手がかけられている。


 寝台に押し倒された時よりも近く感じる距離感にも心が凪いだままだったのは、はたして揺れ続けるめまいのせいだったのだろうか。それとももう、依頼を降りれる目処がつき、こいつとの縁も切れると安堵したからなのだろうか。


「もう逃さないって、決めた」

「俺があんたに縛られなきゃならんいわれはない」

「何度も守ってくれたのに……っ!」

「俺の都合での行いを、あんたの尺度で勝手に美化するな。俺は依頼を完遂するために、結果的に助けただけであって、あんたを助けたくて助けたわけじゃない」

「……っ」


 どの言葉が刺さったのかは分からない。だが何かがアレクセイの心を揺らしたのだということは、至近距離にある瞳が激しく揺れたことで分かった。


 ジワリと痛みの感情を滲ませていく碧眼が、まるでその感情を抑え込もうとしているかのように細められる。


「今だって、こんな距離にいるのに、殺さないじゃない……っ!!」

「今ここで殺したら、犯人は俺だって丸わかりだろ。下手人と割られて追われるような殺しを、俺はしない」


 アレクセイは、きっと俺の行動の何かを……あるいは何もかもを、好意からのものであると曲解していたのだろう。


 その勘違いを突きつけられたアレクセイは、静かに瞳に影を落とす。


「……それでも、逃さないから」

「『ルシウス・アンダーソン』じゃない俺は、あんたの命令が届く外側にいる人間だ」


 俺は顎に添えられたアレクセイの手に己の手を添わせた。さらにその手をツツッと肘まで滑らせる。


「あんたの思惑からも、俺は降りる」


 そのまま俺は軽く指先に力を込めた。たったそれだけでアレクセイの腕はカクリと折れ、俺の顎に掛かっていたアレクセイの指が外れる。さらにそのまま肩まで指先を滑らせた俺は、アレクセイの胸元をトンッと軽く突いた。その一撃だけでアレクセイは一歩後ろへよろめき、俺に掛けられていた拘束の全てが外れる。


「っ……」

「ここから先は、一人で大丈夫です。殿下はどうぞ議場へお急ぎください」


 指先だけでアレクセイを退けた俺は、サッと身を翻すと廊下を進んだ。不本意だったが少し足を止めたおかげか、一人でも行動できるくらいにはめまいも収まっている。


「っ、ルーシー!」

「大丈夫です。仕事の引き継ぎはしっかりしていきます」


 腕が伸ばされる気配を感じた俺は、振り返る代わりに言葉を投げた。


「皆の記憶に残らずに消えていくためにも、引き継ぎは必須ですからね」


 その言葉に、アレクセイは凍りついたようだった。俺を追うことも、叫ぶことも、もうしてこない。


 静かに降り注ぐ季節外れの雨の音と、俺の革靴が立てる硬い音。そのふたつだけを伴に、俺はアレクセイの視界から消えた。




  ✕  ✕  ✕




「なーんか荒れてたぜ? あの王子様」


 医務室で30分ほど時間を潰してから、執務室へ戻ることにした。アレクセイが不在の間に、綺麗に消えるための下準備でもしようかと考えたからだ。


 その道中。中庭に面した廊下でロズに遭遇した俺は、ロズが王宮にやってきた日も密談の場になった東屋にロズを連れ込んでいる。


「してやったからな、暇乞いとまごい」

「言わずにいきなりの方が良かったんじゃねぇの? 侍従長にだけ直談判しといてさ」

「探し回られたら面倒だろ。先に諦めさせたかったんだ」


 雨の日というのは、密談に向く。雨の音が周囲の聞き耳を遮ってくれるから、晴れた日よりも声が漏れづらい。


 ──そういえばこいつ、どうやって会議のお伴をサボったんだ?


 一瞬疑問がよぎったが、ロズは俺関係でアレクセイを煽りまくっていたせいか、どうにもアレクセイからの心象が悪いらしい。俺と関係性が近しいから俺の傍に置かれていて、結果アレクセイに近いところで行動しているというだけだから、『ルーシーがいないならお前もいらない』と放り出されたのかもしれない。


「ロズ、お前が暗殺者だって、アレクセイは気付いてるからな。今後、行動には気をつけろよ」


 俺はふと思い出したことを口に出した。


「あと、どこの派閥の誰が雇っているのかは分からないが、俺達以外の暗殺者もアレクセイの首を狙って、王宮に潜入してきている。そっちの行動にも注意した方がいい。この間もネズミがあぶり出されてた」

「おー、イアン・ハインリッヒだろ? 第二王子の差し金の」


 俺の忠告にロズは軽く答える。


『知っていたのか』と少し驚いたが、潜入前に俺の状況を調べていたならば知っていて当然か、と俺は考えを改める。


「バカだよなぁ、あいつも。いい情報といいコマを与えられてたんだから、感情に振り回されずに賢く立ち回りゃあ、書庫でアレクセイを潰せてただろうに」


 だが俺の納得は、ロズが続けた言葉によって再び疑問に戻された。


『いい情報といいコマを与えられていた』


 どういうことだ?


『いいコマ』がスネーク・シャドウのことを指しているならば、『いい情報』は一体何に対して言っている? 『感情に振り回されず』っていうのは、俺への嫉妬とか、そういうことの話か?


 つまりは……


「……ロズ」


 違和感をなぞるように考えを転がした俺は、大教会で襲撃を受けた際に、疑問を覚えたことを思い出した。


『あの時、僕が書庫に行くきっかけを作ったのは、そもそもお前だったね? イアン』


 そうだ、あの時に覚えた違和感。


 なぜイアンはあの時点で、俺をエサにすればアレクセイが釣れると確信できたのか、という疑問。


 ──もしも誰かが、かなり早い段階でアレクセイが俺に向けている執着に気付いていて、その情報をイアンに吹き込んでいたとしたら?


 俺が王宮に潜入したことを、が察知していたのだとしたら? その誰かはずっと俺の行動を監視していて、俺の初回の襲撃が失敗したことも、それがアレクセイによる逆ハニートラップの結果であることも、全て知っていたのだとしたら? 誰よりも早く、アレクセイが俺に向ける執着に気付いていたのだとしたら?


 その誰かが第二王子派にくみしていて、そいつがもたらす情報が、第二王子を介してイアンに伝えられていたのだとしたら?


 俺の疑問に、全て答えが出るんじゃないか?


 そしてその場合、そんな真似ができる人間は……


「お前、確かここ最近、ずっと長期の仕事に出てて、ギルドに帰投報告してなかったよな?」


 俺は気取られないようにそっと、袖の中のナイフに指を伸ばす。


「一体、どこの仕ご、と……」


 だが俺の指先がナイフに触れるよりも、俺の死角から翻された刃が俺の脇腹を薙いでいく方がわずかに早い。


「っ……!?」

「あーあ。気付いちゃったかぁ」


 反応できなかった。視界が霞む。出血が酷い。手足が痺れて力が入らない。体の自由が効かない。


 何かがおかしい。普段、これしきのことでこんな対処不能な状態に陥ったりなんかしないのに。


「お前ね? 暗殺者たるもの、自分以外が調合したモノを、不用心に飲んじゃいけませんよ?」


 俺は踏ん張りきれずにその場に片膝をついた。切り裂かれた左脇腹を必死に押えて止血するが、大した傷口じゃないはずなのにやたらと血がこぼれていく。あっという間に足元には血溜まりができた。


 全身から抜けていく力を必死にかき集めて首を上げると、ロズが手の中でナイフをもてあそんでいた。俺が扱う物とよく似た細身のナイフの柄には、そこにあるはずのない紋章が刻まれている。


 王冠を被った髑髏と、その両の眼窩に交差されるように突き立てられた二本の剣。


 ──あれは……『高貴なる闇ダークハイネス』の紋章……なんでロズのナイフに……っ!?


「『シェイクスピア』を仮病用に使った時の症状って、『イスラフィール』を盛られた時の症状とよく似てるんだよなぁ」


『イスラフィール』


 それは遅効性の毒薬の名だ。一定期間、一定量を服薬しないと症状が現れないため、長期間の潜入任務で自然死に見せかけて相手を殺す時に用いられる薬であったはず。


 ゆっくりと相手を死に近付けていく様は、まるで『死の天使イスラフィール』の羽ばたきに耳を澄ませるかのよう。


 そこから名を取られた毒薬は、見た目と服用の仕方だけを見れば、仮病用に用いられる『シェイクスピア』と酷似している。副作用の中に血の凝固を抑える……つまり出血が止まりにくくなるというものもあるから、ある程度まで盛ったらサクッと刺しても効果的と俺に教えたのは、他でもないロズだった。


「なん、で……!?」


 問わずとも、何となく流れは読めていた。


 ロズは俺がアレクセイの暗殺依頼を受けるよりも先に、カインの手先として王宮に潜伏していたのだろう。それのみならず、敵対ギルドである『高貴なる闇ダークハイネス』とも通じていた。


 アレクセイの元に現れた新人侍従補佐官が俺であることを見抜いたロズは、その情報を第二王子派にリークし、イアンを操りアレクセイ暗殺を実行しようとした。しかし手柄の横取りを防ぐべく俺が動いてしまい、結果イアンはアレクセイによって捕縛されてしまった。


 ──ロズはギルドからの応援なんかじゃない。俺を排除するために第二王子派から派遣されてきた、刺客だったんだ……!


「あれは、俺の獲物だ」


 俺の視線の先で、ロズは指先で弄んでいたナイフをパシッと手の中に収めると、足を振り上げて俺を東屋の外に蹴り出した。今の俺にはその蹴りを避ける余力もなければ、踏みとどまれる力もない。


 すべもなく蹴り出された体は、雨が打ち付ける地面に投げ出された。一度倒れ込んだ体は、重たすぎてもう指の一本さえ動かない。サァサァと降り注ぐ雨は俺の傷口にも染み込み、ただでさえ止まる気配のない出血をさらに促進させていく。


「悪いが、消えてくれ」


 あの書庫では俺が口にしていたセリフを、今はロズが俺に告げる。


 ──あぁ、これは詰んだな。


 酷く寒い。それでも体が震えている気配はなかった。俺の体はもう、生きることを諦めている。痛みももう薄ぼんやりとしていて、全ての感覚がどこか遠い。


 俺は霞んできた目をそっと閉じると、全てを吐き出すように細く、長く、息を吐いた。


 そんな俺の脳裏にふと、痛みが滲んだ碧眼がよぎる。


『……それでも、逃さないから』


「ざ……ん、だっ……、な」


 ──残念だったな。


 いくらお前でも、あの世までは追ってこれないだろうよ。


 ふと浮かんだそんな言葉になぜだか酷く満足しながら、俺は笑みとともに意識を手放す。


 最後まで意識にへばりついていたのは、静かに降り注ぐ、サァサァという雨の音だけだった。

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