4.魔獣と令嬢の蜜月
「……え?」
瞼を開けると、淡いエメラルドグリーンの梁が目に映る。レミリアはぼんやりとした頭のままゆっくりと視線を左に向けた。
白地に小さな赤い小花が描かれたカーテンが半分だけ開かれ、外から柔らかな日差しが室内に注ぎ込んでいる。そのまま視線を右へと動かすと、薄い赤と緑の縞模様のサロンチェアが2つと、茶色いローテーブルが一つ置かれていた。それらの前には壁に作りつけられた暖炉が設置されている。
正六角形がいくつも連なったようなベージュの床にボルドー色の絨毯が敷かれ、隅には白いタンスと同デザインの白いチェストが置かれていた。
『目が覚めたようね』
声が聞こえ、反対側の壁にあった扉からユーケルンが顔を出す。手にはトレイと紅茶ポッド、カップが2つ載せられていた。
「私……?」
『魔精力切れかしらね。珠の中でぐったりしていたから驚いたわ』
どうやら運ばれている間に気を失ったらしい。何だか長い夢を見ていたような気がする、とレミリアは思ったが、目の前の美しい男性の姿を眺めていると、全部が夢なのかそれとも現実なのか、ますます混乱してしまった。
「ユーケルン様……ですよね?」
『え? またそこからなの?』
ローテーブルにトレイを置いたユーケルンが、腰に手を当て眉間に皺を寄せながらレミリアへと近づく。
そうだ、寝たままだった、私ったらこんな姿で恥ずかしい、とレミリアは跳ね起きようとしたが、くらりと眩暈がしてそのまま倒れ込んでしまった。
『ちょっと、無理しないで』
「すみません……」
ロワネスク本邸にいたときも、レミリアは謝ってばかりだった。
しかしそのときとは全然違う。レミリアを咎める言葉は、レミリアを否定するものではない。レミリアを労わる、愛情溢れる言葉。一つ一つがじんわりとレミリアの身体の中に広がっていく。
レミリアが今まで触れたことのない温かさだった。
ベッドの傍らに置いてあった椅子に腰かけると、ユーケルンはゆっくりとレミリアに手を伸ばした。
ユーケルンの長い指先が、レミリアの額にかかっていた髪をそっとのける。そのままするりと左頬を撫でると
『……やっぱりまだ顔色が悪いわね』
と心配そうな表情を浮かべた。
「……大丈夫、です」
ユーケルンの右手の上から、自分の左手を重ねたレミリアが嬉しそうに微笑む。
ユーケルンはわずかに肩を揺らしたが、何も言わず、レミリアの好きなようにさせていた。
「とても、幸せな気持ちなので……きっとすぐに、元気になります」
『……だといいけど』
「それで、あの……本物のユーケルン様ですよね? 一角獣の」
『そうだけど……え、何? この姿じゃ嫌? 何か不満?』
「いえ、今のお姿も美しくてたおやかでとても素敵です。……けれど、本来のお姿は神々しくて胸がキュッとして、何も言えなくなって……感動して涙が出そうになるんです」
『……まさかあっちの姿の方が感動すると言われるとは思わなかったわ』
「え?」
わずかに首を傾げるレミリアにユーケルンは微笑みかけると、
『もう少し寝てなさい。ほら、肩まで羽織って』
と言ってシーツをかけ直した。
しかしユーケルンが立ち上がりかけると、レミリアの表情が不安げに曇る。
「ユーケルン様?」
『ケルンでいいわ』
「ケルン、様?」
『だいたいそう呼ばれているの。堅苦しいのは好きじゃないわ。早く元気になって、アタシを楽しませて頂戴』
視線をそらし、早口気味にユーケルンがそう告げると、レミリアの顔がパッと明るくなった。
ここにいていいのだと――元気になってもあの家に戻される訳ではない、ずっと一緒にいてくれるのだと、わかったから。
「……はい、わかりました、ケルン様。頑張ります」
『元気になるのを頑張るっておかしくない? だいたい頑張りすぎたから倒れたんでしょう。馬鹿ね』
「ふふふ……」
幸せそうに、レミリアが微笑む。
どこかきまり悪くなったユーケルンは、今度こそ椅子から立ち上がると、足早に部屋を出て行った。
* * *
「まぁ……素敵なお家ですね!」
一週間ほど経ち、レミリアはようやく起きて歩き回れるようになった。ユーケルンに案内され、自分が寝ていた二階の寝室から一階へと降り立つと、目の前にはそう広くはないリビングが広がっていた。
アイボリーの壁とドアに、艶やかなローズを基調とした質の高い家具。椅子とカーテン、壁際にある長椅子、すべてが同じ柄で揃えられていて、品の良い赤色の中央にスミレのような紋章が金糸で刺繍されている。
『むかぁしね、ワイズ王国の人間から貰ったの』
「貰った……それは、あの、古の魔王侵攻・魔獣蹂躙の頃の話でしょうか」
『そうよー。あんまり素敵だから、一目で気に入っちゃって!』
魔獣ユーケルンは、魔物から魔王の臣下である魔獣になって以降、他の魔獣のように人間を駆逐することはなかったという。
とはいえ魔獣は魔獣、人間の味方ではなく……恐らく命の代わりに貰い受けた、つまりその人間から脅し取ったのだろう、とレミリアは考えた。
そんな恐ろしい魔獣なのに、なぜ自分はこれほど彼に惹かれるのか。レミリアにはわからなかったが、もうそんなことはどうでもよかった。
ここにいるのは、自分を労わってくれる、自分を必要としてくれる唯一の存在。そんな彼にとっての、彼が懐に入れる唯一の存在に自分がなれるのならば、と。
些細なことは、もう彼女の脳裏には残らない。
ふふ、と微笑んだレミリアは、部屋の奥へと目を向けた。
立派な白いグランドピアノが置かれており、重厚感のあるハープも近くにある。
「まぁ、ピアノがあるんですね!」
きらきらと目を輝かせると、レミリアは真っ先に白いグランドピアノへと駆け寄った。
「ピアノ、ケルン様が弾かれるんですか?」
『そんな訳ないでしょう。ただのインテリアよ』
「ええ~。ええ、ええ~?」
そわそわとピアノに視線をやりつつ、レミリアが残念そうに声を上げる。
『レミリアは弾けるの?』
「はい!」
元気よく返事をしたものの、ふと何かを思い出したかのようにレミリアの表情が曇る。
「でも……母が家にいる間は〝うるさい〟〝そんな何の足しにもならないことをするな〟と怒られてしまうのでなかなか弾けなくて。耳で覚えた曲を想像しながら、テーブルを叩いていました。母が外出している間だけ、こっそり弾いていて、だから、その、あんまり……」
上手くはないんです……と、声が尻すぼみになる。
ユーケルンは少し笑うと
『じゃあ弾いてごらんなさいな』
と言い、グランドピアノの屋根を開けた。突上棒で屋根を支え、鍵盤蓋も開けて目の前に置かれた椅子を引き、レミリアを座らせる。
「あの、いいんですか?」
『どうぞ。アタシはお茶の用意をするわ』
何でもないことのように言い、ユーケルンはその場から離れた。
レミリアがピアノを弾く姿はさぞかし可愛らしいだろうとは思ったものの、傍でじっと見ていたら緊張するかもしれない……という、彼なりの気づかいだった。
お湯を沸かし、茶葉の準備をしているとやや拙い音色が響いてきた。どこかで聞いたことのある……確か、リンドブロムの城下町で子供たちが歌っていた童謡。
確かに他人に聞かせられるようなものではないかもしれない。それでもユーケルンからは、楽し気な笑みがこぼれた。
ユーケルンがレミリアの元へ戻ると、レミリアは困ったように首を傾げていた。ポーンと一つの鍵盤を叩き、やはり首を傾げている。
『どうしたの?』
「え、あ!」
トレイをテーブルに置き、レミリアに声をかける。
ユーケルンに気づいたレミリアは、振り返るとやや戸惑ったような笑みを浮かべた。
「音がいくつか、狂っているみたいなんです」
どうやら調子外れだった音色はレミリアの腕のせいではなくピアノのせいだったらしい。
ユーケルンは『あら』を呟き目を見開くと、ふ、と息をついた。
『そうねぇ、何しろずっと放りっぱなしだったから。結界で地上からは隔離していたはずだけど、何しろ七百年ぐらいは経っているしねぇ』
「七百年……」
やや呆気にとられた表情を浮かべたレミリアだったが、一転して何かを考え込むようなきりっとした表情に変わる。
「そうですね、確か地上でユーケルン様の姿が最後に目撃されたのは〝魔獣トラスタのイーオス半島蹂躙〟後とされていたはずです。トラスタを引かせ、無人となった山腹を浄化した、と」
『ああ、あの馬鹿がやり過ぎちゃってね』
「事実なんですね!」
歴史書で読んだ、伝承とされている記述の照らし合わせができることに、レミリアが興奮気味に声を上げる。
「その後まもなく魔王侵攻の終焉……つまり〝王獣マデラギガンダ来訪〟〝魔王と聖女の約定〟のくだりになりますから、確かに七百年は経過しているはずですね」
『詳しいわね』
「調べたんです、風の魔獣ユーケルン……いえ、ケルン様に会うために」
恥ずかしそうに肩をすくめると、レミリアは嬉しそうに微笑んだ。
『アタシに?』
「はい。上流貴族八家が魔法陣を管理するようになったのは今から五百年ほど前なのですが、その場所は当主しか知らず、しかも特殊な魔法で厳重に守られているんです」
再び真面目な顔になったレミリアは、何かを思い出すように天井を見上げた。
「勿論文献などには残されていませんが、その頃の歴史書の記載とアルバード領の記録を照らし合わせて、どのような禁術が使われたのか考えるために魔導書を読み漁りました。そうして禁術の特徴と各地の伝承を組み合わせて、地の利から禁術を使ったと思われる場所を推測して……」
『あー、えっと、そこまでにしましょうか』
どこまでも続きそうなレミリアの講義を、ユーケルンは右手を上げて制した。
『せっかくの紅茶が冷めちゃうわ』
「あ、そうですね……長々と、すみません……」
『謝る事なんて無いわ』
少ししょんぼりとしながらピアノから離れたレミリアに、ユーケルンが優しく微笑みかける。
『レミリアはすごーく頑張ったのね。嬉しいわ』
「え……?」
椅子を引きレミリアを座らせると、ユーケルンは背後から両腕を回し、その小さな体をぎゅっと抱きしめた。
不思議そうな顔をしていたレミリアの表情が、ぶわわと赤く染まる。
『アタシに会うために、なんでしょう? 嬉しいに決まっているじゃないの』
「……はい……」
真っ赤になったまま頷くレミリアと、柔らかな笑みを浮かべるユーケルン。
テーブルの上の紅茶ポッドから立ち昇る湯気が、薄くかき消えそうになりながらもふんわりと二人を包んでいた。
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