3.令嬢の心

「……きれい……」


 ふらふら、とレミリアが歩き出す。美しき魔獣、風のユーケルンの方へと。

 魔獣の魔精力は人間には毒だ。レミリアの身体の内側は黒い炭を飲みこんだかのように濁っているが、心には逆らえない。


『!』


 レミリアの異変に気付いたユーケルンがふわりとした風を巻き起こし、彼女の身体を取り巻く。一瞬真っ白に染まった視界に思わず足を止めたレミリアは、さきほどまで漂っていた淀んだ魔精力が泡となって紛れていくのを感じた。


『この姿なら、大丈夫かしらね』


 聞こえてきた声で再び顔を上げると、目の前には桃色の一角獣の姿はどこにもなかった。

 代わりにいたのは、腰まであるウェーブのかかった長い金髪を靡かせた軍服姿の男性。サファイアのような透き通ったブルーの瞳がわずかに弧を描く。鼻筋がすっと通った、この世のものとは思えない美しい顔立ちだった。

 金の肩当てがついた紺の上着に白い細身のズボンという出で立ちの彼は、背もすらりと高く華奢に見えて意外にしっかりした身体つきをしている。


 レミリアはドクドクとうるさくなる心臓の音を両手で押さえながら、勇気を振り絞って口を開いた。


「ユーケルン……風の魔獣のユーケルン様ですか……?」

『そうよ』


 美しくも逞しい男性が、なぜか女性言葉を使っている。不思議な光景だが、レミリアにはそれがとても自然に感じられた。


「人間に……変身? できるのですか?」

『まぁね。魔界の魔精力は、人間には毒だしね。ひどい顔色よ、あなた』

「……」

『とりあえず、少しはましになったようね』


 ふ、とユーケルンが息をつく。

 自分の身体を心配して姿を変えたと聞いて、レミリアは胸が熱くなるのを感じた。

 ぽろぽろぽろ、と大粒の涙がこぼれる。ぼやけたユーケルンが少し慌てた様子なのがわかった。


『なに!? 何なの!?』

「……嬉しい……です……」

『はぁっ!?』


 今まで、レミリアの身体を気遣ってくれる人間などいなかった。

 立派な後継者たれ、と厳しく躾け、叱り続けた母親。

 とりあえず機嫌をとればいい、盾として頑張れ、とばかりにへつらう父親。

 屋敷の使用人たちも、母の密偵に過ぎなかった。誰の前でも気は抜けなかった。


 ああ、やっぱり。

 今日ここに来て良かった。

 辛い修行も厳しい勉強も、すべてはこのためだったのだと思える。

 なぜ幻影ではなく本物の魔獣が現れたのかは分からないが、そんなことはもうどうでもいい。 

 

 溢れる涙を拭いもせず、レミリアはにっこりと微笑んだ。


「ユーケルン様……お会いできて、本当に、嬉しいです」



   * * *



「レミリア! これは……!」


 唐突に聞こえた自分を呼ぶ声で、レミリアはハッと我に返った。

 樹木をかき分け入ってきたのは、ダニエル・アルバード侯爵だった。恐らくユーケルンが現れたときの魔精力で自分の結界の異変に気付いたのだろう。ここは、城下町からはそう遠くはない。


「何をしてるんだ!」

「……いや、いやっ!」


 円板から引き戻そうと手を伸ばした父親を振り切り、レミリアはまっすぐユーケルンの元へと駆け寄った。

 ぎゅう、とその右腕にしがみつき、父の方へと振り返る。


「わたくし、魔法陣を起動しました!」

「はっ!?」

「この方は、風の魔獣ユーケルン様です!」

「はぁっ!?」


 どう見ても人間の男性にしか見えない彼を指してレミリアが叫ぶのを見て、父親は意味も分からず声を上げるしかなかった。


「何を馬鹿なことを……」

『――その通りだけど?』


 フ、と微笑んだユーケルンの背中から白い翼が広がる。そしてレミリアを両腕で抱え上げ、宙へと舞い上がった。


「なっ、何だぁっ!?」

『――レミリアは、わたしが貰うよ』

「……えっ」


 不意に口調を変えたことに驚いたのか、それとも『貰う』という発言に驚いたのか、レミリアが小さく声を漏らす。

 ユーケルンは『ちょっと黙ってなさい』というようにウインクすると、呆然と二人を見上げる父親を冷たく見下ろした。


『アルバード侯爵』

「えっ……」

『後は、良きに計らうように』

「いや、え、まさか……本当に、本物!?」

『先程からそう言っているが?』


 ユーケルンの両腕からレミリアの身体が投げ出される。そのままふわわ、と宙に浮いたレミリアの目の前で、魔獣ユーケルンは本来の一角獣の姿に戻った。


「まっ、まさか……っ!」

『ではよしなに』


 レミリアを取り巻いていた風の渦が広がって丸くなり、レミリアを風の珠の中に閉じ込める。

 閉じ込められたレミリアは一瞬だけ驚いたものの、恐怖心は無かった。これはレミリアを守るための風なのだと信じることができたからだ。


 魔獣ユーケルンは愛し気に珠を撫でると、そのままふわりと風を巻き上げ、珠と共に上空へと飛び立っていった。

 残されたアルバード侯爵は、ただただ口を開け、真っ暗な空を見上げるしか無かった。



   * * *



 レミリアが家出したことを知った母、セレスは狂ったように暴れまわった。その魔精力は本邸から首都ロワネスクの城下町にも被害が及びそうになり、聖女騎士団アルバード隊により拘束された。

 完全に精神に異常をきたしていた彼女は、アルバード領のはずれにある鎮めの塔に幽閉されることになった。姉のその処遇に、弟のフォンティーヌ公爵も異議を唱えることは無かった。


 実は侯爵家に嫁いだ後も我が物顔でフォンティーヌ家のもの――使用人や家臣、騎士団や人脈などありとあらゆるもの――を使おうとする姉の対応に苦慮していたらしい。アルバード侯爵とフォンティーヌ公爵の間である程度の根回しは済んでいたようだった。


 レミリア失踪から一週間という短期間にこれらの処置は終わり……誰も、レミリアの行方を探そうとはしなかった。



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