5.魔獣と令嬢が奏でる音色
『まぁ、こんなものかしらね』
レミリアが起き上がれるようになった、次の日。
流れる金髪を頭巾で隠し、やや小柄な女性の姿に変身したユーケルンは、手に入れたパンや鍋ごと入ったシチュー、焼いた肉や煮た魚、果物を眺めて満足そうに頷いた。
ここは、ユーケルンの領域からそう遠くはない、港町エリスン。市場にはさまざまな食べ物を売る店が並び、奥に続く町並みには洋服屋や靴の修理屋、珍しい異国の品を取り扱う店などがある。
人間の食事を必要としない魔獣ユーケルンだが、レミリアはそうはいかない。彼女のために、いや彼女と二人きりでずっと一緒にいるために、ユーケルンはこの町までやってきた。目立たないように、わざわざ町娘の姿になってまで。
『とりあえずこれだけあればいいわね』
ひゅるる、と小さな風が巻き起こり、手に入れた食糧が舞い上がる。風の珠の中に閉じ込められ、ふわわと宙に浮いた。
こうして魔法で封じておけば腐ることも無く、必要な時に必要なだけ取り出せばいい。
『あとは……そうね、王都かしらね。どうせなら一流の人間を連れてこないと』
そう呟くと、ユーケルンの姿がみるみるうちに風の渦に消えていく。
つむじ風はエリスンの町を飛び出し、北の王都へと向かっていた。
◆ ◆ ◆
「ん? あれ?」
中年の小太りの男性が、パチパチと何度も瞬きをしながら辺りを見回した。
ふかふかした絨毯、美しく広い部屋……その奥の、白いグランドピアノが目に入る。
「こ、これは……まさか〝エリシャス・ノヴェルヴァリ〟!?」
『気に入りまして?』
「はへ!?」
美しい鈴が鳴るような声が聞こえて振り向くと、そこには淡いエメラルドグリーンのドレスを纏った貴婦人がいた。
顔半分は扇で隠されているものの、その美しい蒼色の瞳といい、流れ落ちる見事な金髪といい、優美な仕草といい、男が度々接する上流階級の人間のそれに間違いなかった。
『そのピアノなんですが、音が狂っているようで……調律してくださる?』
「は、はい! 勿論ですとも!」
首をカクカクと縦に振り、飛びつくようにピアノに駆け寄る。
彼の目には、もうまばゆいばかりの白い鍵盤しか映っていなかった。
◆ ◆ ◆
「〝エリシャス・ノヴェルヴァリ〟……まさか、そんなすごいピアノだったなんて」
とり憑くように調律の仕事にとりかかる男の様子をそっと窺いながら、レミリアが呟く。その左隣にいたユーケルンは、ついとレミリアを見下ろした。
『あら、知ってるの?』
「はい。約800年前、エリシャス親子によって作られた十八台のピアノのことです。その素晴らしい出来に〝
『ふうん、そうなの。一流の調律師を連れてきた甲斐があったわ』
男はワイズ王都でも有名な調律師だった。ピアノを愛し慈しむ彼の仕事はとても丁寧で、ワイズ王侯貴族の間でも評判らしい。
王都でその噂を聞きつけたユーケルンは、風魔法で彼を攫い、この隠れ家に連れてきたのだった。
『本当にレミリアは物知りね』
「いえ、そんなことは……。でも、そんなすごいものがここにあるとわかったらワイズ王国で大騒ぎになるのではないでしょうか」
『ふっ、あり得ないわよ』
ユーケルンがやや得意気に、鼻を鳴らす。
『そのために魔法でここに連れてきたのだし、いまも幻影を見せてるんだから』
「幻影……?」
確かに男は、風の珠から現れたあと、あさっての方向を見ながら何かと会話していた。そのあとはピアノへとすっ飛んでいき、今は血走った目で作業している。
ユーケルンの姿も、そしてその隣にいるレミリアの姿も全く目に入っていないようだった。
『ええ、彼にだけ見える幻影をね。我に返っても、きっと夢だと思うわ』
「そうですか……」
ホッとしたように息をつくレミリア。
「ワイズ王国の人達がここに押し寄せてくるんじゃないかと心配になってしまいました」
『……馬鹿ね』
ユーケルンは右手でそっとレミリアを抱き寄せると、彼女を安心させるように、その小さな頭を何度も撫ぜた。
『アタシは魔獣よ? 人間なんかに邪魔させないわ』
だから安心して傍にいなさい――。
耳元でそう囁くユーケルンに、レミリアは瞳を潤ませ、かすかに頷いた。
* * *
『ただいま、レミリア! 弾いてみてどうだった?』
調律を終えた男をワイズ王国に送り届けて帰ってきたユーケルンが、上機嫌に広間の扉を開ける。
レミリアがさぞかし嬉しそうに弾いているのだろうと思っていたのだが、彼女は目をキラキラさせて両手を頬に当てたまま、くるくるとピアノの周りを歩き回っているだけだった。
『……どうしたの?』
「見れば見るほど素晴らしいんです、このピアノ……!」
レミリアが開けてある屋根の下、内部の鍵盤側を指差す。
「ここに番号が記載されているんですが、なんと〝2〟なんです。つまりこれは、ワイズ王宮にあるピアノの次に製造されたもの! 公爵、いえひょっとしたらかつてのワイズ王族が所有していたと思われる、由緒ある……」
『別にいいじゃない、弾きましょうよ』
「でも、私なんかが……」
『嫌だわ、レミリア。私なんか、なんて言わないで。レミリアに弾いてほしくて直したのに』
両手を腰に当て、むくれたような顔をするユーケルン。その表情に、レミリアの胸がチクリと痛む。
確かに、ユーケルンがわざわざ王都まで出向き、調律師を連れてきたのだ。魔法を駆使し、二人の生活が何物にも脅かされないようにと苦慮して。
ユーケルンと白いグランドピアノを見比べていたレミリアは、しばし考えると、「あっ!」と声を上げ、ユーケルンの方に駈け寄ってきた。
その左腕を取り、ピアノの方へと促す。
「ケルン様、一緒に弾きましょう!」
『え、ええ!?』
「このピアノはケルン様が所有されているんですもの、ケルン様が弾かないと!」
どうやらレミリアなりに考えた結果、納得できるのが“一緒に弾くこと”だったらしい。
わからないでもなかったが、美しいものを眺めることが好きなだけで触れたことは無いユーケルンは珍しく戸惑った表情を見せた。
『アタシ、音なんてわからないわよー』
「大丈夫です。私が弾くのに合わせて、この白い鍵盤を一緒に叩いてください」
椅子に腰かけたレミリアが蓋を開け、右側の白い鍵盤をポーンと鳴らす。
それは、ちょうどレミリアの笑い声に似た、高らかな音。
『ここ?』
「そうです。そうすれば二人で弾けるでしょう?」
『まぁ……そうね』
「では……1、2、3、はい!」
レミリアが楽し気なメロディを奏で、ユーケルンを促す。
いきなり指示されたユーケルンはとりあえず叩いてみるが、レミリアの奏でる音と微妙に合わない。
『もう、よくわからないわ!』
「これぐらいのテンポですよ。1、2、3、4、1、2、3,4……」
ニコニコしながら両手を叩くレミリア。
初めて弾いた、一人のときよりもよほど嬉しそうなその表情に、ユーケルンの頬も緩んだ。
『こう?』
ポーン、ポーン、ポーン、ポーン……と、レミリアの手拍子とユーケルンの鍵盤の音が軽やかに響き合う。
「はい! それでは弾きますね」
右側に佇むユーケルンを見上げ微笑んだレミリアが、すっと両手を鍵盤の上に広げる。
彼女の両手が奏でる美しい旋律に、ユーケルンの一本指から広がる高らかな音が絡み合い、広間に広がる。
二人が奏でる音色は、ユーケルンが知らず知らず溢れさせていた魔精力に紛れ、家全体に広がって包み込んだ。
魔獣と令嬢、二人きりの時間と空間を守るかのように。
* * *
ユーケルンの領域に守られた、小さな島の小さな家。
二人はつねに寄り添い、時には一緒にお茶を飲み、時には一緒にピアノを弾き、とても穏やかで幸せな日々を過ごした。
しかしそれは、本当に限られた時間だった。
人と魔獣は、共に在ることはできない。
どれほどレミリアがユーケルンを慕おうとも、どれほどユーケルンがレミリアを愛そうとも。
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