第33話 打ち明ける

 滞在から五日目の朝、ついに私たちはお屋敷へ戻ることとなった。


「次に会うのはお式の準備の時ね。ドレスの相談もあるし、お手紙を送りますからね。……ああ、寂しいわ。元気にしていてね、エディットさん。……あなただけあと数日いてくれてもいいのよ?」

「勘弁してくれ。もうそろそろ離れてくれるか」


 馬車に乗る前、私の手を握っては何度も頬や頭を撫でてくれていたお義母様から、マクシム様が私を引き剥がした。何だか私も寂しくて、離れがたい。この短い滞在の間に、私は優しいお義父様とお義母様のことが大好きになっていた。


「私がこんな体なものだから遠出をするのがなかなか難しくてね。こちらから出向いていくことができずにすまない。二人の結婚式には必ず行くよ。また遊びに来ておくれ、エディット嬢」

「ありがとうございます、お義父様。……はい、また必ず伺います。楽しい時間をありがとうございました。父の手紙も、嬉しかったです、とても。大切にします」


 そう答え、私はお義父様の手を両手でしっかりと握りしめた。感謝の思いが伝わるように。


「マクシム、しっかりな」

「エディットさんをお願いするわよ。ちゃんと守ってあげてね」

「ああ、もちろん」


 ご両親の言葉に短くそう答えると、マクシム様は私をエスコートし、馬車に乗り込んだ。

 お義父様とお義母様は、こちらの姿が見えなくなるまでずっと馬車を見送ってくださっていた。






 その夜。

 夫婦の寝室で、私はマクシム様に全てを打ち明けた。

 ずっとオーブリー子爵夫妻から虐げられ、抑えつけられてきた私にとって、彼らの言いつけを破るということはとても勇気のいる行動だった。口を開こうとするたびに、彼らの怒鳴り声や折檻の痛みを思い出し震え、喉がきゅうっと狭まるような感覚がした。心臓がドクドクと大きな音を立てて、狂ったように暴れ出す。


「……あ……あ……、あの……、」

「……大丈夫だ、エディット。俺がお前を守る。お前をひどい目に遭わせた奴らに、二度とお前を触れさせるものか。何も心配しなくていい。……大丈夫だ」


 私がガクガクと震え言葉を詰まらせるたびに、マクシム様は辛抱強く待ち、私の背中を撫で、顔中に優しく唇を押し当て、髪を撫でてくれた。そして冷たくなった指先を大きな手でそっと包み込んでくれる。そうされることでまた気持ちが少しずつ落ち着いてきて、私は長い時間をかけてようやく全てを話すことができた。


 両親が馬車の滑落事故で亡くなってすぐの6歳の時、オーブリー子爵家に引き取られた私が、ずっと両親のことで責められ続けてきたこと。

 バロー侯爵夫妻が莫大な借金と私という娘を残して死に、その借金の肩代わりと私の養育でオーブリー子爵夫妻にどれほど大きな負担がかかったか理解しろと、恩を感じ、オーブリー子爵家のために死にもの狂いで働けと言われていたこと。

 屋敷から一生一歩も出てはいけないときつく言われていたこと。何か少しでも失敗するたびに、あるいは失敗などしなくても夫妻の機嫌が悪い時に、激しい折檻を受けていたこと。成長した姉妹にも同じように扱われ、殴られたり蹴られたりしていたこと。

 他のどの使用人たちよりも長時間働かされていたこと。日に二度だけの粗末な食事を与えられていたこと。

 ここに嫁いでくるにあたり、絶対にマクシム様にも他の誰にも余計な話をするなと、これまでになく何度もきつく言い含められていたこと。泣き言を言わずただマクシム様の要求に応え、決して返品されることにならぬようにと繰り返し言いつけられてきたこと……。


 時折マクシム様に質問され、それに答えるようなかたちになりながらも、私は何もかもを打ち明けた。途中から涙が止まらなくなった。ああ、ついに言いつけを破ってしまった。そんな恐怖心が、まだどうしても拭いきれなかった。


 全てを聞き終えたマクシム様は、私を強く抱きしめると深いため息をついた。


「……そう、か……。俺の要求にただ黙って応えるようにと……。そう厳しく言いつけられていたから、初めての夜、お前はあんなにも……」


 マクシム様は苦しそうに呻くと、私の肩に顔を埋めるようにして謝罪を繰り返す。


「……すまなかった、エディット……。お前は夫婦の交わりのことなど、何一つ知らなかったのに……。どれほど怖い思いをしたことか。まさか俺が、お前をそんなに傷付けていたとは……」

「……っ!マクシム様……っ!」


 震えながら涙を零していた私は、その言葉に慌てて反論する。


「それは違います……っ!たしかにあの夜、私はマクシム様から何を問われているのか、何も分かっていませんでした。とにかくあなたのご機嫌を損ねぬようにと、言われたことには全て従おうと、そう思って訳も分からぬままに頷いたことも事実です。ですが……っ、」


 私は無我夢中でマクシム様の頬を両手で挟むと、真正面からしっかりと目を合わせた。悲痛な色を湛えたグレーの瞳の中に揺れる、神秘的な銀色の光。私はその輝きを見据えて強く言った。


「あの夜の私は、たしかに初めての交わりに怯え、痛みにショックも受けました。けれど、あなたの私への労りや優しさを、ちゃんと感じていました。ちゃんと伝わっていました。だから、その、……お、終わった後に、マクシム様の腕の中で眠りに落ちる時、本当に気持ちよくて、これまで経験したことがないほどの心からの安らぎを感じたんです。ちゃんと分かっていました。この方は、私を傷付けようとしたり、痛めつけたりしたわけじゃないんだって」

「……エディット……」

「だ、だから……っ、そんなこと、仰らないでください。今の私にとって、あなたと過ごしたあの初めての夜は、とても素敵な思い出の夜なんです。本当ですよ。日が経つごとに、幸せを噛みしめています。だって今ならよく分かるから。……あなたが、どれほど強く私を想って、求めてくださっていたのかが……」


 初夜のことを熱く語るなんて、本当は恥ずかしくてたまらなかった。けれど、私たちの初めての夜を、マクシム様に決して後悔してほしくなかったから。

 あの日からずっと私が幸せであることを、マクシム様に分かってほしかったから。


 ふいに、マクシム様が私を強く掻き抱き、性急に唇を重ねた。熱い吐息を交わしながら舌を絡め、より深く交わろうとする口づけに懸命に応えながら、私はマクシム様の大きな肩に腕をまわす。


 やがて彼の唇が離れ、長い時間をかけた濃密な口づけがようやく終わった時、私は勇気を振り絞って伝えた。


「……だから、マ、マクシムさま……。……あの時のように、してください。……あの、初めての夜のように……」

「……っ、……エディット……!」


 顔が真っ赤に火照っているのが自分でも分かる。恥ずかしさのあまり体温がどんどん上がり、体中が熱くて仕方ない。

 だけど、信じてほしかった。私にとって彼と交わった初めての時が、どれほど素敵な思い出として心に残っているのかを。

 マクシム様に、ほんのわずかでも後悔してほしくなかったから──────


 言葉の意味を悟ってくれたマクシム様が私を抱き上げ、大きなベッドの真ん中にふわりと私を下ろして抱きしめる。


 指と指を絡め合ってしっかりと互いの手を握り、私の体中に刻印のような口づけを繰り返しながら、マクシム様が掠れ声で囁いた。


「ああ……、エディット……、お前が可愛くて仕方がない……。誰にも触らせるものか……!もう決して、お前を誰にも傷付けさせない……」



 


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