第32話 湖のほとりで

 ナヴァール辺境伯領の別邸での滞在は、本当に楽しいひとときとなった。毎日お義父様やお義母様、マクシム様とともに食卓を囲んでは父や母の在りし日の思い出話を聞いたり、お義父様の若かりし頃の武勇伝を聞いたりした。マクシム様の子どもの頃のやんちゃ話は特に聞いていて楽しくてたまらなかった。

 お義母様とは二人でお茶をして女同士の会話も楽しんだ。私のウェディングドレス姿がとても楽しみだと言ってくださったので、


「私はドレスを選ぶことに全然慣れていなくて……。もしよかったら、お義母様にアドバイスをいただけるとありがたいのですが……」


とお願いしてみると、


「まぁっ!もちろんよ!嬉しいわ。任せておいて。エディットさんにピッタリの最高の一着を作らなくちゃね」


と言って、満面の笑みでいろいろとアイデアを出してくれた。仕立て屋は素晴らしい人を知っているのよ、生地はやはりどこどこ製のものにしたいから……、と、今にも小躍りしそうな勢いで喜んでいるお義母様を見て、私も嬉しくなった。




 時折マクシム様と二人で周辺の散策にも出かけた。


「……はぁ。やっとお前と二人きりになれた。母が四六時中お前を独占しているものだからかなわん。そろそろ屋敷に戻りたくなってきた……」


 滞在して三日目。近くの美しい湖のほとりまでやって来た私たちは、木陰の下にシートを敷いてもらって腰かけた。するとすぐさま、マクシム様が背後から私の腰を引き寄せるように抱きしめ、首筋に唇を押し当てため息をついた。

 その熱い吐息のかかる感触にピクリと反応しながら、私は自分の腰にまわされたマクシム様の大きな手の上に自分の手をそっと重ねた。


「マ、マクシム様……。二人きりといっても、使用人たちもカロルたちも見てますから……っ」

「別にこれくらいいいだろう。ここに来て以来両親にすっかりお前をとられてしまって、面白くない」


 そう言うとマクシム様はますます密着してくる。それどころかついに私を膝の上に乗せ、私の髪を手でそっと避けると、首筋や耳に何度もキスをしはじめた。


「……っ、ん……っ」


 や、やだ……。

 慣れ親しんできたマクシム様の唇の感触と、腰の辺りを優しく撫で回すように触れてくる大きな熱い手の感触に、背筋がぞくりとし、体温が上がってくる。心臓がドキドキと高鳴りはじめ、私は焦った。


(ま、まずい、気がする……。なんかこれ、ダメ……ッ)


「……エディット……」


 私の些細な変化を敏感に察したのか、耳元で囁くマクシム様の声が熱を帯びる。こ……っ、このままこんなところで、昼日中ひるひなかから変な雰囲気になるわけには……っ!


「マ、マクシム様っ!私、も、もう少し湖を近くで見てみたいですっ」

「っ!あ……、おい、待てエディット……ッ」


 使用人たちがお茶の準備を始めてくれているというのに、私は慌ててマクシム様の腕の中から逃れると立ち上がり、急いで湖の方に歩いていった。後ろからマクシム様の「そんな……」という小さな落胆の声が聞こえた。ごめんなさい、マクシム様……でも恥ずかしいものは恥ずかしい。せめてこういうのは二人きりの時だけに……。




(……綺麗……)


 湖のすぐそばまで来ると、日の光が水面に反射してキラキラと輝き、踊っている。いつまでも飽きずに見ていられそう。マクシム様と結婚してから、私はたくさんの新しい景色を見せてもらっている。

 けれどすぐさま右手を力強く掴まれ、私は振り返った。少し困った顔をしたマクシム様が私のそばにいる。


「危ないだろう。水辺に一人で来るんじゃない」

「は、はい。ごめんなさいマクシム様。……でも、見てください。本当に素敵……」

「ああ。お前が気に入ってくれてよかった」


 マクシム様は私の手にチュ、と軽くキスをすると、そのまま離すことなく手を握ってくれている。私もそっと握り返しながらしばらく美しい水面を見つめ、マクシム様にお礼を言った。


「……ありがとうございます、マクシム様。こんな素敵なところに連れて来てくださって。お義父様にもお義母様にも、お会いできて本当に嬉しかった。……私幸せです、とても」

「……エディット……」


 慈しむように私の頬を撫でると、マクシム様がそっと身をかがめ私に唇を寄せる。もう抵抗しなかった。木の陰になっているし、カロルたちは気を利かせて向こうを向いてくれている。

 ゆっくりと唇を重ねて互いの体温を確かめあうと、しばらくして私から離れたマクシム様は、もう一度私の頬を撫でた。


「エディット、俺はお前の夫だ。お前のことを生涯この手で守り抜くと心に決めている。お前の心をわずかでも曇らせる苦しみがあるのなら、俺が全て払ってやりたい。お前にはただ、笑っていてほしいんだ。俺の隣で、ずっと幸せに笑っていてほしい」

「……マクシム様……」


 突然の愛の言葉に喜びを感じつつも、水面のきらめきの映るその瞳は真剣そのもので、私はそんなマクシム様から目が逸らせずにいた。


「だから、教えてほしい。お前が自分の中にだけ溜め込んでいる苦しみがあるのなら、俺を信じて、打ち明けてくれないか。実の両親の人となりや愛を知った今のお前なら、きっとそれができるだろう」

「……っ、」


 ドクッ、と、心臓が音を立てた。途端にオーブリー子爵夫妻の恐ろしい顔が頭の中に浮かび上がる。


 ……全て、話すべき……?私があのお屋敷の中で、長年どうやって暮らしてきたのか。彼らに何をされてきたのか。


 今、ここで……?


 だけど……。


 悩み出した途端、頭の中のオーブリー子爵夫妻の顔つきが変わる。

 血走った目で私をギッと射抜くように睨みつけ、歯を剥き出しにして怒鳴りつける二人。余計なことは一切喋るなと、あれだけ何度もきつく言って聞かせただろうが!この馬鹿娘が!そう怒鳴って私に向かって杖を振り上げるオーブリー子爵。


「……っ、」


 ドクッ、ドクッ、と脈打つ自分の鼓動を聞きながら逡巡していると、ふいにマクシム様が私の頬からその大きな手を離した。そして私を安心させるように優しく微笑むと、私の両肩にそっと手を置き静かに言った。


「……まぁ、今すぐとは言わない。いつかお前に心の準備ができたら、その時は話してくれ。……おいで、戻って茶を飲もう」

「…………はい」


 マクシム様は気付いてる。私の心を捕え、縛りつけているものがあることに。


 誰よりも信頼できる、温かくて大きな手のひらに自分の小さな手を預けゆっくりと歩きながら、私は勇気を振り絞り、少しずつ決意を固めていった。




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