第20話 マクシム様の指先
その日、夕方仕事から帰ってきたマクシム様は私と共に夕食をとった。
神経を張り詰めて注意深くマクシム様の様子を観察してみたけれど、やはり不機嫌な様子は見られない。……一体どうして……なぜ寝室にいらっしゃらないのだろう。
(もしかして……、私からお誘いした方がいいの……?)
何の知識もないから本当に困る。何かしきたりがあるのだろうか。たとえば、二度目の夜は妻から誘わなければならない、とか。そうではなくて一定の日数が経ってから次を迎えるものだとか。
どうしよう、どうしようと会話も上の空になりながら悩んでいると、お肉を口に運んでいたマクシム様が突然言った。
「エディット。今夜は湯浴みを済ませたら寝室に行く。お前に渡したいものがあるんだ」
(──────っ!!)
「し、承知しました、マクシム様」
ドクッ、と心臓が大きく跳ねて、返事をする声が上擦ってしまった。
ついに……、マクシム様が夫婦の寝室に……。
安堵と、また別の不安と緊張で、もうそれ以降は食事の味も分からなかった。
その夜。
カロルたちに手伝ってもらって夜着に着替え身支度を終えた私は、先に寝室でマクシム様を待った。
ベッドに腰かけるよりも、ソファーに座って待つべきかしら……。そんな些細なことで悩み部屋の中をウロウロしていると、ふいに寝室の扉が開く。
「……っ、」
あの夜のようにガウンを羽織ったマクシム様が、髪を濡らしたまま部屋の中に入ってきた。胸元の少しはだけたその姿を見た途端、なぜだか私の心臓が大きく跳ねる。……マクシム様は、右手に何か持っているようだった。
「待たせたな、エディット。……おいで」
「……っ、は……はい……」
マクシム様はベッドサイドに腰かけると、自分の隣を大きな手のひらでポン、と叩く。緊張で震える足を無理やり動かしながら、私は彼の元へ向かった。
「……エディット。手を見せろ」
(……?)
何だろう。私はマクシム様の隣に腰かけると、言われるがままに両手を差し出した。するとマクシム様は「片方ずつな」と言って私の右手を取った。
マクシム様は手に持っていた小さな容器をサイドテーブルに置き、片手で器用にそれを開けると、中からその手にクリームらしきものを取り出し、私の手の甲にそっと塗った。
「マ……マクシムさま……?」
「……これは異国の美容に特化した薬品らしい。よく分からんが、保湿効果がどうとか……、傷の治りも早くなるそうだ。覚えているか?あの日の夜会で俺より先にお前に声をかけた男、セレスタンというんだが、奴が手に入れてきてくれた」
「……あ……、はい。覚えております」
マクシム様の言葉に、銀髪に翡翠色の瞳の美男子の顔が頭をよぎる。……あの方か。すごく優しかったのを覚えてる。嘔吐して倒れた私を怒鳴りつける義父母のことも、たしなめてくれていたっけ……。
私が記憶を辿っている間にも、マクシム様は優しい手つきで私の手の甲や指にそのクリームを塗り続けている。……何だか……そのぬるりとした丁寧な指の感触に、腰の辺りがやけにむずむずしてくる。
「……あ、あの……マクシム様……、私、自分で……」
「いい。俺にやらせろ。……最初から気になっていたんだ。こんなに手指を荒らして……。痛々しく思っていた」
「……っ、」
すみません、ありがとうございます。わざわざ異国から取り寄せていただくなんて、きっととても高価なものなのですよね。
そうお礼を言いたいのだけど……、マクシム様の体温の高い、固い指や手のひらの感触が、クリームの摩擦のない滑らかな感触と相まって何とも言えない妙な感覚に陥るのだ。
気を抜けば変な声が出てしまいそうで、私は唇をギュッと引き結ぶ。
「……次はそっちだ」
マクシム様が私の左手を持ち上げ、同じようにクリームを取り丹念に塗り伸ばしていく。カサカサになって赤く割れていた手の甲や指先が、まるでマクシム様に優しく癒やされていくようで、気持ちが良かった。
だ、だけど…………っ。
「……っ、」
腰の辺りがぞくぞくしてジッとしていられず、思わず両足をモゾモゾと擦り合わせる。何だろう、これ……。くすぐったいのか何なのか、マクシム様がぬるりと撫でるように指先を滑らせるたびに、全身がビクリと反応しそうになり、しかもだんだんと心臓の鼓動が激しくなってきた。……体が……、熱い……。
その時、マクシム様のそれぞれの指が私の指の間にずるりと入り込んだ。その瞬間、
「んんっ!」
背筋を駆け抜けた電流のような感触に、思わずみっともない声が漏れてしまった。
(や……やだ……っ!私ったら……!)
何だろう。今の甲高い、甘えたような変な声は。
恥ずかしくて恥ずかしくて、体中がカッカと火照って汗が滲む。たまらず顔を伏せ、ふるふると震えた。
「……エディット」
その時。聞いたことのないようなひどく掠れた声でマクシム様に名を呼ばれ、私は真っ赤な顔をして涙目のままおずおずと彼を見上げた。
「……今夜は、お前に触れさせてくれ」
切ない声音でそう囁いたマクシム様の瞳の奥には、燃え滾るような熱があった。
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