第6話

 犬飼が意識を取り戻したのは得体の知れない『人間』が現れてから十時間が経った頃、ふっと眼をあけ、気がついた看護師が慌てて医者数名を呼びに行った。

「犬飼さん、声は出せますか」

 若く優秀な医者が最後に質問した。それに喉仏に手を当て、口を開く。最初は掠れた声だったが、出しているうちにマシになった。ほっと看護師も含めて安堵する。

「首......腐食はどうなっとるんですか」

 例え神獣本局長が相手でも敬語を使わない犬飼が、比較的丁寧な口調で訊いた。色々と弱っているからだろう、医者はそれには触れずに答えた。

「かなり無理な方法で止めています」

 犬飼だからその方法が通用している。だがそれでもじわじわと腐食は進んでいくし、いつまで生きられるかも分からない。何せその方法は、ナンバー十八【限りない女王蜂】から出てくる虫の卵を服用する事。邪神の力を人間相手にそのまま利用している。

「数日で消滅してしまうので溜まる事はないでしょうが、それでも邪神の卵です。定期的に脳洗浄を受けてもらう必要もあります。それに、」

「以前よりも邪神に近づいている」

 トーンを落とす。犬飼は一つおいて笑った。どこか諦めたような笑みだ。

「しゃーないっすわ。そればっかりは。それより俺がおらんあいだは......」

 医者は背筋を伸ばし後ろにさがった。

「それに関しては卯野さんと剛田さんから」

 神獣に配属されている医者や看護師は忙しい、入れ替わるとむさ苦しい男二人に視線を伏せた。

「とりあえず隊長、無事で何よりです」

 卯野が近場の丸椅子に座りながら言った。剛田は後ろで手を組んだまま立っている。

「まず隊長が襲われた相手ですが、蛇塚総隊長が責任を持って自身で調査したみたいです。あと冥界の所長と黒猫商会の会長さんも」

 三白眼でちらりと見る。犬飼はそれにバツの悪そうな顔を浮かべた。こんな事になるなら蛇に黙って言えよ、そう直属の部下二人に無言で詰められそっぽを向いた。

「身元は奈良県在住、当時二十五歳、IT企業に勤務。親とは既に縁を切られており兄弟はなし。恋人もなし。友人関係は程よくあったみたいですが、そこまで仲良くもなく一人が多かったようです」

 卯野の言い方に視線をやる。

「当時? って事は、」

「ええ。“五年前に死亡してます”」

 死亡、その単語をまだ掠れている声で復唱した。手元のタブレットを見ながら続ける。

「その人、長谷 陽子さんは八年ぐらい前から様子がおかしくなったようで、最初は精神病か何かだと思って両親は彼女を病院に連れていったみたいです」

 だが結果は正常。ただ思春期特有のものだと言われ、他の精神科でも似たような結果だった。両親は大人になれば落ち着くのだろうかと自分達を納得させ、彼女を見守る事にした。

 二十歳を過ぎた頃、陽子は一気におかしくなった。陰謀論やオカルトチックな事を意気揚々と語るようになり、否定すると癇癪を起こして暴れる。その力はとてつもなく、父親でさえ押さえる度に怪我をした。

 母親は怖がり、父親は互いの為にも陽子に一人暮らしを提案した。そうして暫くは金銭面で支えつつ、両親は東北の方へと引っ越した。

 二十四歳になった頃、陽子はある団体に加わっていた。新興宗教団体、“蓮華の教え”に信者として。

 そして二十五歳、失踪。一年越しに陽子のDNAと同じ骨の一部が発見され、彼女は死亡扱いになった。

「死因は不明。見つかったのも手の骨の一部。どうして失踪したのか、どうして死んだのか何もかも不明です。ただ、」

 彼女が居なくなる前、蓮華の教えに一千万円以上の金を“寄付”していた事が分かっており、また蓮華の教えの信者が数名、似たような経緯で失踪、身体の一部が見つかるか行方不明のまま情報がない。

「どう考えても蓮華の教えが怪しい。だが著名人や政治家、なんなら警察、公安関係者も信者にいると言われてます。そう簡単に行くどころか、ワンチャンもみ消されるでしょうね。かなりの額が動いてるみたいなので」

 はあと卯野が溜息を吐く。剛田が続けた。

「ルートは分かってませんが、邪神の卵を持っているのは確かです。恐らくこの一件も何かしらの卵の力で起きてるんだと思います」

 彼らの情報に犬飼は首を触った。包帯のざらりとした感触が指の腹を撫でる。

「そんで、それだけやないやろ」

 放り投げるように手を離す。剛田が十時間前の事件を簡潔に説明した。

「結論から言えば、隊長を襲った......長谷 陽子さんを含めた彼らは人間と邪神のハーフみたいなもんでした。そして彼らに対邪神の力は通用しない」

「だから、最終的にそいつらを蹴散らしたのはコイツだけです。あとは七泉総隊長補佐のドローン数機と俺のヘリぐらい」

 親指で剛田を指す。デカい壁のように立つ男を一瞥し、眉根を寄せる。

「っちゅー事は、その......」

「あー、緊急でつけたのが、キメラって名前ですね」

 卯野のサポートに「そのキメラ達は」と言い直して続けた。

「対人間の武器しか通用せんって事なんか?」

 犬飼の疑問に卯野は「さあ」と無感情に返した。

「ただ確実なのは、BEAST発現体、我々の手ではキメラを殺せません。寧ろ殺られる一方。簡単に言えば、うちらを殺す為に作られた人間そっくりの化け物」

 世の中の殆どは発現体であり、不可能体は少数派だ。勿論一般人も簡単に殺せる。

「武器は、あいつらの武器はなんなんや。ヘリまでおんなじやったんやろ?」

 苛立っているのか、感情を表に出す犬飼に対し、卯野は無表情に肯いた。

「蓮華の教え側に我々の武器を作ってる連中の誰かがいるか、そういう力を持つ卵を持ってるかの二択です。対邪神の武器は少しでも傷を作れば勝手に死にますからね」

 どちらにせよ、蓮華の教えが神獣を潰しに来ているのは明白だ。この一件で一式式長が発現不可能体である事はバレただろうし、強い力を持つ犬飼でも彼らキメラには勝ち目がない。

 卯野と剛田が去ったあと、朝烏が見舞いにきた。夜も深く、私服姿のまま手に持っている紙袋を腹の辺りに置いた。

「犬のキーホルダー、壊したんですってね」

 胸の下で軽く腕を組む。紙袋に手を伸ばしつつも「壊されたんや」と反論した。

「貴方の愛人達から散々連絡が来て迷惑だったわ。どうして私が対応しなきゃいけないのかしら」

 長い髪を耳にかけ、息を吐いた。紙袋にはタッパーと、袋に入ったプラスチック製のスプーンがあった。

「......貴方、暫くモルモットにされるわよ」

 朝烏の低いトーンにタッパーの蓋を開ける。

「キメラに対抗出来るよう改造しても耐えられるのは、貴方しかいないから」

 スプーンを取り出し、細かい肉や野菜の入った炒飯を掬った。

「情でも湧いたんか? 俺に」

 ぱくっと口のなかに入れる。まだ暖かい。作ったばかりなのが分かる。

「蛇塚総隊長に言われてるからよ。貴方を利用している以上、返す義務があるって」

 咀嚼し、飲み込んだ。少し醤油辛く、べちゃべちゃとした炒飯。朝烏は料理が苦手だ。

「ふーん。やったらお前、俺の性処理もせえよ」

 スプーンを向けて言うと彼女はきっと睨みつけた。

「嫌よ。誰が貴方みたいな気まぐれで自分勝手で怒りっぽいしかも力もバカみたいに強い奴の相手なんか......」

 いつもの調子で捲し立てたが、どんどんと声が小さくなり俯いた。髪で横顔が隠れる。

「いつまで、いつまで人間として生きられるの」

 それに少し間を置いてから残りの炒飯をかきこんだ。ぱんぱんに口を膨らませて飲み込むが、そのせいか傷口側に痛みが走った。

 思わず吹き出す。朝烏が驚きつつも少し怒ったような表情でヒールを鳴らし、近くにあるティッシュをとった。

「いっつもいっつも、BEASTの怪我の時もそうよ。自覚してほしいわ」

 吹き出した分を拭き取っていく。犬飼は首を押さえて「いたあい.......」と小さく唸った。

「顔あげて」

 口元を拭う。ぶつぶつと文句を言いつつも綺麗に拭き取ると、ゴミ箱に投げ入れた。

 然しぐっと羽織っているジャケットの襟元を掴まれ、引き寄せられる。驚いて眼を丸くした時には唇に感触があった。

 ややあって離れる。

「俺が死んだ後も利用してくれや」

 桃色の瞳を見つめる。だがぎゅっと皺を寄せて言った。

「めちゃくちゃ食べカスついてる状態でキスするのやめてくれるかしらめちゃくちゃ感触気持ち悪い」

 早口で言うと犬飼の手首を掴んで上体をあげた。掴んだまま自身の口元を軽く拭う。

「当たり前よ。私が死ぬまで、死んだ後まで私の為に使わせてもらうわ」

 その黄色く鋭い眼つきにふっと笑い、包帯を撫でた。

「ところで、お前太ったやろ」

 いい雰囲気のままにっこりと笑う。そのデリカシーの欠片もない台詞に声に出しながら溜息を吐き、「タッパーは後日取りに来るから」と立ち去った。

 蓮華の教えに関する調査は難航しており、第一機隊の総隊長として顔が割れている以上、蛇塚も直に接触して探る事は出来なかった。またセンターから消失した邪神の卵についても、内部調査を何度繰り返しても問題はなく、接触があった外部の企業や組織を洗ってみても不可解な点はなかった。

 黒貓貓に関してもそうで、マフィアというだけあって手荒な調査の仕方だったがそれでも吐くものは居なかった。そのせいで零式に携わっていた職人の一人が行方不明にされている。

 そうして何も進展がないまま、キメラ対策としての実験が行われた。被検体は犬飼のみ。医者が数名立ち会い、家族として卯野が呼ばれた。

 ミラー越しに呑気に手を振ってくる犬飼に、卯野は元々皺の深い眉間を更に深くさせた。

「何もかもあのガキに背負わせすぎだよ」

 彼は生まれつき、邪神に対する本能的な恐怖心が欠如している。最近になって判明した難病、奇病であり、恐怖欠乏症として二千十九年頃から認知されるようになった。

 邪神は性質上、眼を見た相手の精神力を奪い狂わせる。その為目元を隠す仮面が開発され、一般でも咄嗟に使える消耗品のものが売られている。だが恐怖欠乏症の場合、精神力を奪われる事もなく狂う事もない。

 そして例え眼を隠したとしても、訓練を重ねている神獣の隊員達でも、本能的にまさぐってくるような嫌な恐怖心を抱く。どんなに対策し慣れたところでずっとついてくる。その為隊員達は二年に一度のペースで脳洗浄を行い、精神力をリセットする必要がある。

 この脳洗浄は一般の病院でも行っており、邪神によって精神力が基準値を下回った場合は更に強力な脳洗浄や強い薬の使用を繰り返し、基準値を下げる。だが一度基準値を大きく下回った状態、所謂狂気、狂乱の状態になると向こう十年は幻覚や幻聴に頭を抱える事になる。狂気狂乱で死亡するより、その後の後遺症で自殺する者の方が多い程だ。

 恐怖欠乏症はこれらのリスクが丸っきりない。邪神に囲まれたとしても狂う事はなく、なんの影響も受けない。

 それだけならばBEASTとは別の特殊な能力として持て囃されていただろう。だが難病指定の立派な病だ。

 彼らの身体の一部は邪神と同じ、CT一九二八と呼ばれる体組織になっており、それに反応するスキャナーでは必ず【人間(恐怖欠乏症患者)】と表示される。ようは邪神に似た存在であり、発現不可能体よりも差別が強い。

 そして寿命は基本短く、治療方法はない。場合によってはCT一九二八が細胞分裂を始め、邪神の成分が強くなる可能性もある。

 もしそうなった場合、人間として居られるかどうかは不明だ。細胞分裂を始めた記録は幾つかあるが、そのどれもが十年ももたずに死亡している。これが恐怖欠乏症によって殺されたものなのか、それとも密かに処分されたものなのかまでは分かっていない。

 ただ確かなのは、邪神が圧倒的恐怖の対象であるこの世の中で、邪神に恐怖を覚えず同じ細胞を持ち、尚且つ人間でなくなる可能性がある彼らを受け入れられる者は少ない。難病指定を受けただけマシな方だが、それでも世間の風当たりは強い。

 犬飼は恐怖欠乏症を世間には公表していないが、仮面を持っていない姿を何度も撮られており、本人も記者からの質問に一度「恐怖とか俺は感じませんねー」と口を滑らせた事がある。日本一の隊長なら寧ろ頼もしいという意見もあれば、やはり差別的な意見も多い。

 恐怖欠乏症、ただの病気のせいでまだ三十になったばかりの彼に更に重荷を乗せられていく。女王蜂の卵を服用していればそのうちCT一九二八の細胞分裂は始まるし、これからするキメラ対策の実験も邪神の卵を幾つも使用している......元々細胞があるというだけで耐性があり、尚且つBEAST本家帯の影響で普通より死ににくいタフな身体だ。

 本当に、四十になるどころか、三十五を迎える事もなく爆散してしまいそうな状態に、小さい頃から彼を知っている卯野は無意識に踵を鳴らした。まるで兎が苛立って足を踏み鳴らすように。

 結果としては成功した。だが同時に体内のCT一九二八が一瞬にして増殖、今まで入れていなかったが恐怖欠乏症患者にも効果があるため、魔除けのタトゥーを彫る事になった。

 魔除けのタトゥーはゼンマイのようなくるりとした模様が様々な角度で入っており、その隙間を埋めるように歪な形が配置されている。大昔の魔女が考案したものだが邪神に対して効果的であり、以降少しデザインが変わりつつも受け継がれてきた。

 朝烏は右の太ももの内側に、卯野は顎下から鎖骨まで前後左右全てに、剛田は左の肩甲骨辺りに、白鷹は右の肩から手首まで全体に、猿楽は両手の甲から肘の手前まで一面に。勿論所長や七泉もどこかしらに彫ってある。神獣に身を置く者は殆どだ。

 ただ犬飼は特に必要だと感じる事もなく、周りも問題はないと放っていた。

「魔除けのタトゥーは痛ないって聞いたけど、ホンマやねんなあ」

 絶対に見える事のない左右の足首から足の甲に黒いタトゥーが彫られ、それを面白そうに指で触った。

「カオル」

 顔をあげる。実験と手術の両方が出来る部屋のなかで、卯野は強いLEDライトを背にして言った。

「お前、ホントにこれでいいのか」

 隊長補佐ではなく、義理の兄としての声音で問いかけた。犬飼は少しおいてから笑った。

「何を今更言うとんねん。ばにぃ」

 手術台から降りる。ぺたりと裸足で歩いた。

「俺しかおらんのならしゃーない。それにあの女は俺の手で殺す。なんやっけ、名前」

「......長谷 陽子」

「あー、そいつ、自分でやらな気い済まん」

 そう首元の包帯に手をかけ、解いた。右側に大きくついた傷跡がよく見える。元々首に一周してあった傷が霞む程に酷く、そこを中心に皮膚がどす黒く変色していた。

 軽く顎から頬にかかっている。中もかなり腐食が進んでいる事だろう。

「これ、ほかしといて」

 包帯を渡し、実験室兼手術室を後にした。

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