第2話 うけておう
目の前には重ねた手があり、
「ここに出たら、あちらへ着くまで私の手を離さないで。そして、何も話さないで。此処に見つかりたくないなら、其処へ留まりたいのならば。私が共で在れば、君が存在を明かさなければ、此処は君をこの場所に戻せないから。できるかな?」
「……え?」
「うん?」
聞いた憶えのある話に顔を上げたなら、柔らかく笑んだまま、不思議そうに首を傾げた斜陽がそこにいた。
それは記憶にない表情。
驚いて後退り、離れた手を胸に周囲を見渡せば、出たはずの部屋にいる。
「あ、もしかして」
深結が混乱していれば、斜陽は呑気に言った。
「もうすでに、私の手を離すか、声を発してしまったのかな?」
「!」
驚いた様子を受け、斜陽がにっこり笑う。
「なるほど? つまり前回は先ほどの説明だけで此処を出てしまったわけか。失敬、失敬。まあ一度経験したのだから、特別説明を必要とするものでもないかもしれないが、補足をさせて貰うとしよう。君を見つけた此処が戻すのは見ての通り、ここの時点だ。私が伸べた手を君が取った時点。ここより先でも、後でもない。これから先、もしもこの時点が消されることがあるとすれば、それはたぶん、今の君にとって最も望ましくないこと――私との婚姻が果たされた時だろう」
「戻るのは、この時……? 此処を出て、どのくらい経っても?」
「そう、此処が君を戻すのはこの時だ。そして戻されるのは君という存在の位置であって、君が此処を出た先の記憶は保たれる。この説明で気づいたかもしれないが、君以外の、たとえば今の私がいい例だろうが、他の者は全て戻される。……というのも少し違うか。そうだな、そう……なかったことになるんだ。君は戻るが、君が戻るまでの間の出来事は、君が此処に戻った途端、
「私以外、全て……?」
オウム返しになぞった深結は、途方もない責任を負ったように肌を粟立たせた。
生まれてこの方請け負った役目など、甥と姪のお目付役ぐらいなもの。それも聞き分けが良く、幼いながらも分別のある子どもたち相手だからこそ、そこまで気負わずに成し遂げられたに過ぎない――というのは、少々叔母馬鹿かもしれないが。
ともかく、それが打って変わって世の中全部の時間の中心にいると告げられては、自分の気持ちだけで動いて良いのか分からなくなってきた。
斜陽はそんな深結の気持ちを汲んだのか、微笑みながら首を振った。
「大層なことではないさ。君の行いはあくまで君だけの行いだ。この先の時間が失せたところで我々が死ぬわけでもない。先にも述べたが、この時点へ戻った時、過ごした時間は君の見る夢か、幻に近い。元よりなかった未来を気に病む必要は一切ない。一切ないが……君が相手にしている此処は、そういうモノということだ。そういうことを可能にするモノ、それから逃げようとしているという事実は、残念ながら軽減させられない」
「そう、ですか……」
気に病む必要はないと言われて、本当に気が楽になったものの、改めて自分が何から逃げようとしているのかを突きつけられては、俯くしかない。
と、深結の肩を叩く者がある。もちろん相手は斜陽であり、
「だからと諦めるものでもないだろう。君が此処から逃げたいというのならば私は手を貸すよ。何度でも。ああ、しかし、さしあたっては何故君が私の手を離したか、あるいは声を発したか、その原因を解消してから臨むべきかも知れない。というわけで、何があったのか話して貰えるだろうか」
自身は此処の者だというのに、迷いなく深結を逃がすという斜陽。
面食らう深結だが、言葉通り、逃げること自体は大したことではないのだと言われている気がして、また少しだけ気持ちが落ち着いた。
(自分の花嫁が逃げるのに手を貸すって、変な人。……人、ではないんだっけ)
花嫁として深結を歓迎すると言いながら、逃げることも推奨してくる。
本当は斜陽も望んでないのでは、と思うものの、そういうわけではないことは、短い間でも、饒舌に語る彼の様子から容易に想像がついた。
どちらも本心なのだ。そしてたぶん、結果はどちらでもいいのだろう。
深結が花嫁になっても、逃げ出せても、どちらでも斜陽は満足げに笑う。
ならば問題は、逃げ出した深結が逃げ切れるかどうか。
心を決めた深結は自分の足元を指差すと、先ほど此処を出ると同時に喋ってしまった理由を告げた。
「此処から元の場所……ゴールまでの道のりって、外ですよね? でもって、聞く限り近くではない。なので、靴とか何か履ける物はありませんか? さっきはそれに気づいて声を出してしまったんです」
「ああ……! これは気づかず申し訳ない。すぐに用意しよう」
斜陽は盲点だったと言わんばかりに頷くと、障子とは反対側の襖を薄く開けて腕を突っ込む。手持ち無沙汰の深結は何ともなしにその背を見守り、目線は自然と襖の隙間にも向けられる。
「!」
瞬間、冷や水を浴びせられたような感覚に襲われた。
細く開いた襖の先には、行灯の僅かな光も拒む闇しかなかったのだが、そこから何か、視線のようなモノを感じたのだ。少しでも目をこらせば見えてしまいそうな、嫌な予感に喉が鳴る。だというのに視線を外せないのは、外した瞬間、無数の手が伸び、そのまま襖向こうへ引きずられてしまいそうな不穏な気配があるため。
(此処は、そういうところなんだ。……やっぱり、帰りたい。帰らなくちゃ)
と、急に襖が閉じられ、一気に緊張から解放された身体が畳にへたり座る。
「ほら、これなら――どうしたんだい?」
靴を手に振り返った斜陽は、深結の様子に目を瞬かせた。
「少し休んでからにしようか」
深く聞くことのない気遣いはありがたかったが、深結は首をぶんぶん振った。
「いえ、大丈夫です。行きましょう」
一刻も早く此処から出たい。
強い思いを抱いて斜陽へ手を伸ばせば、引き上げられて靴を渡される。
「そうかい? まあ、君がそう言うなら私は構わないけれど。此処や道中で花嫁に害が及ぶことはない。でも、別段君自身の基礎が此処の基準に近くなったわけでもないからね。無理や無茶は極力しないように。私も君ではない以上、君の疲労を汲み取ることは難しいんだ。それじゃあ、改めて。行こうか」
「はい。お願いします」
差し出された手をしっかり握る。
何としてでも帰るという思いを強く胸に抱いて。
手を離さないよう、声を発しないよう気を引き締めながら。
ピタリと合った靴に驚きつつも、障子から外へ出れば踏みしめられた土の感触。
靴底越しの、二度目の感触。
(これなら無理なく歩けそう)
そう思って斜陽を見上げたなら、伺うような微笑みが向けられていた。
問題ない、と頷けば、にっこり笑って先を指差す。
(あっちに行くってこと?)
障子の外の世界は、暗かった。
陽のない世界とは聞いていたが、本当に暗い。
しかし、段々と目が慣れていけば、暗さの中にも違いが見えてくる。
星の瞬かない黒い空にも関わらず、地平線に近づくほど薄青のグラデーションとなり、周囲の輪郭が陰影として浮き彫りとなる。
さやぐ木と草むら、平坦な道……。
(まるで影絵の中みたい)
不思議な感覚に数度瞬きをしてから、斜陽に向かって再度頷く。
これを再びの笑顔で迎えた斜陽は歩き始め、手を繋ぐ深結は従い歩き出す。
(……そう言えば、私は手を離しちゃいけないし、声を出してもいけないけど、この人もここではそうなのかな?)
あれだけ饒舌に喋っていた青年は、此処を出てから一言も発していない。
気になってじっと見つめても、にこにこ前を向く顔はこちらを振り向かず、一定の速度を保って歩き続けている。
ただ黙々と。
(なんか……思ったより、楽かも)
ゴールまでの距離は分からない。
それでも握る手に自ら離そうと思うような不快さはなく、喋らなくても度々気に掛けてくれる斜陽の微笑が、見知らぬ暗い道でも深結の心を穏やかにさせていた。
(これならなんとか頑張れそう)
歩幅を合わせてくれているのか、ひょろりとした長身の斜陽の隣でも、深結の足運びがもつれることはない。
しばらくは深結の靴と、この場所に目が慣れてから気づいた、斜陽の下駄とが、交互に畦道らしき道を進んでいく。
――と。
「!」
不意に斜陽の足が止まり、握る手と反対の手が深結の前に伸びた。通せんぼする様になんとか驚きを喉に押し止めた深結は、一体何が、とその背の向こうを見て――
「ひっ!?」
堪えきれなかった短い悲鳴が、深結の意識を、時間を、あの場所へと引き戻す。
全てがふりだしに戻る――しかし、それも仕方なきこと。
何があったのか、再び問う斜陽への答えは、
「か、顔が……頭だけの顔が、大きくて、歪で、それで……」
――
今はもう存在しない時間とはいえ、鮮明に焼きついた姿はおぞましく、深結は今後逃げる度に味わうだろう恐怖を思い、自分の身体を抱くように腕を巻きつけた。
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