諤諤

大里 易

ある者の告白

 おお、神よ!

 我が行いをお聞き下さい!

 世のため人のためとやったことを、俗物どもは理解できないようなのです。もはや私を理解して下さるのは、全知全能にして清廉なるあなた様しかおられません。使用人という不肖の身ではございますが、今宵ここに全てを告白することをお許しください。

 始まりは数か月前のことでした。我が主たるあの御方の御屋敷に、一人の男が訪ねてきたのです。男は、豪華な紋様をあしらった衣服に銀で出来た花の首飾りを身に着けていました。あまりに煌びやかな服装だったものですから、私も思わず目を奪われたのを覚えています。話を聞く所によると、その男は隣町の若地主であり、我が主を妻に迎えたいと申すのです。我が主はそれはもう見目麗しい方でしたから、この手の者が屋敷に押しかけてくることは珍しいことではありませんでした。我が主はいつものように断りの文句を仰ると、男を丁重にお返しになりました。しかし、来る日も来る日も男は屋敷を訪ねてくるのです。一心不乱に主との見合いを求める男に、私たち使用人は辟易しておりました。何しろ一月ひとつきの間、毎日同じ時間にやってくるのです。制止する気力は日に日に減り、私たちは言い訳を考える日々にほとほと参っていました。そんなある日のことです。我が主が、その男を屋敷に通すように仰ったのです。慈悲深き我が主のことです。男を不憫に思ったのでしょう。ついにあの御方は、屋敷の応接間にて男とお見合いをなさったのです。しかし、それが全ての始まりでした。


 お見合いをしてからというもの、我が主は頻りにあの男の話題を口になさるようになりました。どうやらお見合いの際、男が住所を伝えたようで、二人で文通をしているそうなのです。それはもう驚きましたとも。我が主がたった一人の人間に興味を持たれることなど、今まで一度だってありませんでしたから。ですが、それはあくまで一時的なものだと思いまして、私は特段気にしておりませんでした。私は使用人ではありますが、幼い頃からあの御方の傍でお仕えしておりましたので、あの御方のことは御屋敷の中で誰よりも分かっていると自負しております。もちろん始めは驚きましたが、きっと見合いという慣れないことをしたせいだろうと思い、主に諫言するようなことは致しませんでした。

 しかし、お見合いをしてもう二月ふたつきが経つというのに、我が主がその男を忘れることは一向にありませんでした。挙句の果てには頬を紅く染めて、また会いたいとまで仰る始末です。そしてあの男が話題に挙がる時は、決まってどこか柔らかな笑みを浮かべるのです。主が男について語る時、私の胸には何とも言い難い鬱屈としたものが溜まっていくのが分かりました。重くどろどろとした黒いものが胸を這いずり回るのです。私はこの時、これほどまでに恐ろしいと感じた出来事はありませんでした。純粋無垢で万人を愛するあの御方が、一人の人間に興味を持っている。私にはそれがたまらなく恐ろしかった。いくら不憫に思ったといっても、やはり主がお見合いをなさったのは間違いだったのです。あんなどこの馬の骨とも分からない男に、我が主は会うべきではなかった。多少きつく言ってでも止めるべきでした。私は自分の弱さを恥じずにはいられませんでした。


 それから更に一月ひとつきが経った頃です。

 隣町で舞踏会が開かれることになり、我が主もその場に招待されました。主催者はもちろんあの男でした。私はこれまでの反省を活かし、主へ私が従者として付き添うことを進言いたしました。流石はお優しい主のこと、私の提案に二つ返事で了承し、更には私と一緒に行けて嬉しいと笑顔で仰いました。その花のような笑顔は、重苦しいものが巣食う私の胸を悉く洗い流してくれました。あの笑顔こそ、純粋で美しい本当の我が主。主の笑顔を見ることが、私の何よりの幸せなのです。

 しかし会場にて、再びあの笑顔が見られることはありませんでした。そう、全てはあの男の仕業なのです。あの男は我が主をダンスに誘うと、主の前で事あるごとに格好つけようとしていたのです。あまりにも滑稽で見ていられませんでした。しかし主はそんな男を見て、また柔らかな笑みを浮かべるのです。私には一度も見せてくれない笑顔です。私は何度も止めたというのに、主は聞く耳をもってはくれませんでした。そんな二人を見ていると、再び私の胸には重苦しいものが巣食っていくのです。私は怖かった。あの男が関わることで、我が主が穢されていくようで。いえ、実際穢されていたのです。ダンスの後、我が主に水と軽食を差し出したのですが、あの御方はそれらをただ見つめるばかりで手を付けようともしませんでした。何があったかを尋ねると、主は夢見心地な目で柔らかな笑みを湛えながら、あの男のことを楽しげに語ったのです。触れた身体が硬くて心地よかったこと。顔が近くてやや恥ずかしかったこと。他にも主は多くの事を語ってくださいました。語っている最中、主の頬は常に紅潮していました。それはあの御方が踊り疲れていたせいかもしれません。しかし、私には分かるのです。それだけが理由ではないと。分かっていたとしても、考えたくなかった。いつだって純粋で見目麗しいあの御方が、ただの男に執心する理由など。恍惚とした表情を浮かべる理由など。

 そしてとうとう、主は私にこう語ってきたのです。

 あの人が好きなの――――と。

 その瞬間、全身から悪寒が止まらず、吐き気が喉元までせりあがってきました。どうやら私の胸中に巣食った黒いものは、その全身にまで広がっていたようでした。だって在り得ないのです。無邪気で尊いあの御方がそのような感情を持つなど、決定的に間違っている。そう、我が主は狂ってしまったのです。

 

 そして舞踏会の翌日、私は生まれて初めてお屋敷の雑務をお休みしました。当然です。狂った主から狂ったことを聞かされれば、ろくに眠ることなど出来ません。あの夜の衝撃が脳に焼き付いて離れないのです。私は寝不足で働かない脳を必死に目覚めさせながら、この絶望を切り抜ける方法を一日中考えていました。すると突然、脳裏に一つの可能性が過ったのです。元はと言えば、あの男が我が主に会ったのがいけなかった。つまり、あの男によって主が狂ったのならば、あの男を消しさえすれば全てが元に戻ることになるのです。それに気づいた時、私は思わず飛び上がってしまいました。これで主が正しくなると。またあの花のような笑みを見せてくれると。そうと決まれば話は早く、私は一週間の御暇を頂きました。そして、私は麗しきあの御方を誑かす不届き者を成敗したのです。男の屋敷に入るのは簡単でした。我が主から御遣いを頼まれましたと言えば、部屋まで案内してくれました。馬鹿な男です。これから自分が消されるということも知らずに。やはり我が主が執心するに値しない男でした。ええ、一思いに背中から刃物を突き立ててやりましたよ。もちろん人を殺めるのなんて初めてですから、証拠の消し方なんて分かりません。すぐにお縄にかかってしまいました。しかし、私は正しいことをしたのです。有象無象には私の崇高な計画など理解できなかったでしょうが、我が主だけは私を理解し、褒めてくださると確信しておりました。だのに、我が主はちっとも喜んではくれなかったのです。この牢屋の中で久しぶりに面会してくださったと思ったら、そのご尊顔に大量の涙を浮かべながら私を罵られたのです。私は酷く驚きました。まさか感謝の言葉が微塵も無いとは思わなかったのです。どうやらあの男のせいで、とうとう我が主は俗物たちと同じところまで穢れてしまったようです。私はただあの御方に、本当の自分を取り戻してほしかっただけなのに。誰か一人の手を掴むのではなく、万人に博愛の手を差し伸べる主を取り戻したかっただけなのに。まったく、酷い話です。

 おお、神よ。あなた様なら、私の善行を理解して下さるはずです。しがないメイドの祈りを聞き届けてくださるはずです。どうかお慈悲を。どうか、どうか。

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諤諤 大里 易 @Ozato_eki

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