第35話 ルーシェの前世 最初の舞姫

 ルーシェが落ちていった先は、ずっと昔、古代の小さな村だった。

 そこで、ルーシェはエルシーと呼ばれていた。そして、タクトと幼なじみだった。今のタクトにそっくりな容貌だけど今のタクトよりも幼い『タクト』に、ルーシェはわくわくしながらエルシーと一緒に魂の記憶を追体験していった。



 エルシーは、その村一の舞姫だった。


 名もなき野原に、優しい風が吹き渡る。

 タクトはふと、野草摘みの手を止め顔をあげた。エルシーの歌が聞こえる。

 懐の横笛の存在を確認して、タクトは歌の聞こえる方へ駆けていった。


 野原の真ん中で、少女が舞っていた。白い布は風にのってひらりひらりと宙を舞い、少女の口からこぼれる歌声が聖なる結界のように清らかな空間を紡ぎ出す。

 タクトは微笑んで、横笛を構えた。ゆっくり、少女の歌をじゃましないように息を吹き込む。最初はそっと、少女の歌と舞に寄り添うように。

 エルシーは少し目を開き、タクトと目を合わせて嬉しそうに笑った。笛の音にのせ体を舞わせ、そしていっそう澄んだ歌声で歌い出す。さきほどの囁きのような歌と違い、しっかりと声を出した歌は、笛の音に負けることなく風にのって舞を彩った。


 しゃん、とエルシーの腕に巻かれた石がぶつかりあって鳴り、舞が終わる。

 崩れるように座り込んで、エルシーは破顔した。

「タクト。きてくれてありがとう」

「エルシーの舞に参加できて光栄だよ」

「タクトの笛の音は、誰よりも私を上手く踊らせてくれるの」

 エルシーがにこにこと言った。タクトははにかんで頭をかく。

「まさか。神殿の歌舞音曲隊にはかなわないよ」

「あの人たちはこの村で、ずっと歌舞音曲を奏でているのだもの。上手なんだけど、音がつんと研ぎ澄まされていて優しくないのよ。私はタクトの笛が好き。優しくて心がこもった笛が好き」

 うっとりと笛の音を思い返すように言うエルシーは本当に心の底からそう思ってくれているようで、タクトは嬉しかった。

 おどけるような表情で混ぜっ返す。

「上手くはないけどね」

「それは、否定しないわ」

「もう。否定してよ」

 あはは、と二人は笑った。

 太陽はさんさんと輝き二人を照らしていた。


 村に帰ると、タクトの母親が兎を捌いていた。

「タクト、遊んでいないで手伝ってちょうだい」

 返事をしつつ、素早く居室のかごの中に笛をしまった。生臭いにおいなどついたらイヤだから。それでも、あまり笛を大事にしていたら姉や母にからかわれるので、しっかりとしまっておく習慣だった。

「まったく。野原にいるんなら鷺の一羽でもしとめてくれればいいのに」

「父さんがいっぱい狩ってくるんだからいいだろう」

「あんたももうすぐ十四で成人だろう。一人前の稼ぎをもっておいでよ。姉さんも嫁にいってしまうだろう」

 はあ、とタクトは息をついた。

「わかった、次からそうするよ」


 エルシーは神殿の音曲隊の音に合わせて舞を舞っていた。

 この村では十四で成人、大人と同じだけの仕事が任されるようになる。男衆は狩り、女衆は炊事や繕いものなどをするのが一般的だ。しかし、エルシーは少し事情が違っていた。舞の妙手だったために神殿の巫女姫に選ばれたのだ。

 巫女姫は十二になったら神殿に入り、女神に仕える。それまでの間は、ひたすら舞の修練をしていた。

(何かが違うんだよね)

 野原で聞く、素朴な笛の音を思い出す。音の厚みも譜面通りの演奏も、遙かに神殿の音曲隊の方が巧みだ。あたりまえだ、彼らはそれを職業にしているのだから。でもエルシーは、タクトの吹く笛の音にあわせた方が、より自然に気持ちよく、意識が溶けるような感じに舞うことができるのだ。

(ずっと、タクトの笛で舞っていられたらいいのに)

 タクトの成人と、エルシーの神殿入りが迫っていた。それがきてしまえば、もう以前のようには会えなくなる。

(……ああ。私、タクトのことが)

 神殿の巫女姫でいる間は婚姻が許されない。巫女姫を降りたあとならば嫁ぐこともできる。ならば、タクトに告げなくては。

(待っていてください)


 とりあえずその日の食い扶持は採集した昼下がり、タクトはエルシーが舞の修練を休憩するのにあわせて野原で水分をとっていた。

 竹筒から水を飲んで、息をつく。舞い用の装飾品を飾ったエルシーはちらりとタクトをみた。最近は大人と一緒に行動することも増えて、こうやって一緒に過ごす時間が少ない。

「ねえ、タクト」

「なに?」

「……やっぱりなんでもない」

「なんだよ、言って?」

「あのね。じゃあ、言うけど。あのね、私、タクトの笛が好きなの」

(笛、ね)

 ちょっと肩すかしを食らった気分でタクトはうなずく。

「ずっとタクトの笛で舞いたいの。だから、タクトは私と一生一緒にいてください」

(……っ、それは)

「私が舞姫のおつとめを終えたら。そうしたら、タクトのお嫁さんにしてください」

(っ……)

 タクトは赤くなった顔を隠すように手で覆った。

「エルシー。それは、僕が言いたかった」

「あら、どっちから言ってもいいじゃない」

「よくないよ……」

 二人は目を合わせ、そして微笑んだ。相手も同じ気持ちだ。それが、とても幸せだった。小指を絡めた。

「約束ね」

「約束。僕はずっとエルシーの側にいるよ」



    *



 エルシーの昇格が決まったのは十四の春のことだった。

ふたつ年上のタクトはそのとき、街を守る衛士の見習いとしてくたくたになるまでしごかれていた。だから、エルシーの話に気がつくのが遅れた。


「タクト。どうしよう、私、王都の神殿になんて行きたくない」

 泣きじゃくるエルシー。だけど、神殿で、認められて巫女姫になればお姫様のような生活ができるのだ。国中のあこがれだ。それでなくても歌舞音曲は女神に奉納するものだから、その道をゆくのならいずれ避けられぬ道だった。

 タクトにはわかっていた。エルシーがただの村人のままで終えられるはずがないのだ。ただの村の衛士の妻として、炊事洗濯木の実拾いしかしないエルシーなんて、タクトには想像できなかった。それほどにエルシーの舞はこの二年でますます磨きが掛かり、美しく神懸かっていった。

 タクトは、ぎゅっと拳を握りしめた。

「行きなよ。エルシー」

 エルシーが目を見開く。口をはくはくとあけて、言葉を絞り出した。

「……私が王都の神殿に行くと、会えなくなっちゃうよ。王都の巫女は、終わりがないんだよ」

 タクトは苦い笑みを浮かべた。エルシーから目をそらす。

「うん。知ってる。僕たちが、……むすばれることがとてもむずかしくなってしまうことは」

「なら、」

「でも!」

 タクトは荒ぶる感情のままに、エルシーの言葉を遮った。

「でも君は、このまま誰も知らない野原の舞姫でおわっちゃだめだ。君のその舞はこの国の民皆を幸せにできる舞だ。君が、やらなきゃ」

 誰よりもエルシーの舞をみてきたからこそわかる。エルシーはこのちいさな村だけで独り占めしていい宝じゃない。国の宝になる舞だ。

 エルシーが、そっとタクトの手を握る。

「タクト」

 タクトは涙をにじませつつ、無理矢理に笑った。

「君は、王都へ行かなきゃ。たくさんの人の心に残る舞をするんだ。君の舞は、多くの人の心をうつだろう。疲れた心を癒し、鼓舞して、魅了するんだ。その心が、生きる力になるんだ。だから、行って」

 ぐっと、握りしめた手をみる。

 エルシーの手を、そっとふりほどいた。

「……僕は、さえない衛士見習いだからさ。何もできないけど。でも、この国ごと君を守る、衛士になるから。だから、……生きて」

 神殿の巫女への誘いを断ると言うことは国の政に反逆すると言うことだ。それを越えてまで、エルシーを腕の中にとどめる決断はタクトにはできなかった。

 ぽろぽろと、エルシーの柔らかな頬を粒のような涙がこぼれる。

 エルシーもまた、舞の道へ進みたい想いとタクトへの想いに引き裂かれてここしばらく悩んでいた。


「ねえ、エルシー。巫女は女神に仕えるから生涯独身だろう? 僕も誰とも妻問わない。僕は生涯、君だけを想うよ。そうしたらもう結婚しているようなものじゃない?」

 タクトは野の花を摘み、小さな輪にした。そっと、エルシーの指に通す。

「いま、君と僕のこころは結ばれた。だから、いつまでもずっと一緒だ。たとえ何千年たったって、僕と君は結ばれているんだ。だから逢える。……愛してる、エルシー」

「タクト。笛を吹いて」

 エルシーは涙目で笑った。

 タクトの笛の音で、エルシーは最後の舞を舞った。しゃん、と、手首の鈴が鳴った。



    *


 エルシーが十五歳になった年の夏至の頃、エルシーは王都の巫女姫に選ばれた。この小さな村から国を支える巫女が選ばれることはとてもめでたいことで、村中が祭りのような喧騒に包まれた。

 王都に行くまでの間、エルシーは禊ぎをし、領主の館に滞在していた。

 もう、明日には巫女の王都への輿がでるという夜のこと。タクトはたまらず、危険を犯して領主の館へ忍び込んだ。


「エルシー。もうすぐ王都へ参るのだ。楽しみであろう」エルシーの見返りに巨額の富を得た領主が目を細める。

(領主様。……わたくしは、野山を駆け回っていた幼い頃がいちばん幸せでございました)

 などと言えるわけもなく、エルシーは微笑んで目を伏せた。

 明日は、この領を離れる日だ。エルシーは浮かぶ月を見上げた。

 と、塀の方から笛の音が聞こえた。懐かしい旋律。

 震える声で、エルシーは歌った。笛と歌が絡み合う。月夜の庭に、優しい音楽が満ちた。

 領主はお酒を飲んで眠っている。侍女もいない。今しかない。エルシーはそっと庭へ出た。

 池の岩の影から、姿を表したのはタクトだった。

 エルシーが駆け寄る。タクトは一歩、下がった。

「タクト?」

「綺麗になったね、エルシー。まるで天上のお姫様だ」

 淋しそうにタクトは笑う。

「君の幸せを、遠くから祈ってるよ」

 花を模した指環。あの日、タクトの指にはまった花。

 この指輪が目に入ったときには、あの野原を思い出してもらえたら嬉しい

 エルシーは、タクトのその伸ばした手をぎゅっと握り、引き寄せ、距離を縮めた。驚くタクトに抱きつく。

「わたし、ずっとあなたを想っているわ。おばさんになってもおばあさんになっても、あなただけを想う。あの野原の日々と、この夜を想う。……大好きよ。ありがとう、会いにきてくれて」

 タクトは嬉しそうに破願した。

 そして、現状を思い出したようにせつなげに目を細める。

「僕も、忘れないよ。この夜を。約束を。ずっと、忘れない。愛してる」

 そっと、手を合わせた。ぎゅっと抱きしめた。

「……行くね?」

「うん」


「はなれられなくなっちゃうから」

「うん」


「……行くね」

「うん」

 タクトはエルシーをぎゅっと抱きしめ、そして離した。

 エルシーは小走りで池の向こうへ戻った。涙をたたえた目でタクトをみつめ、そして頭を下げると、襖の奥へ消えていった。

 タクトはひとり、指輪をにぎりしめた。


 王都でも評判の巫女姫エルシーが代替わりしその役目を終えたのは彼女の晩年のことだった。

 王都の外れの小さな屋敷で、残り少ない生を過ごした。近くに住む子どもたちにお話を語ったり、童歌を歌った。

 タクトは、武官になり、華々しい功績をたて、王都へ屋敷を構えた。いくつもの縁談があったが、生涯独身を貫いた。

 晩年の彼は、郊外のとある屋敷の前の山で、よく笛を吹いていたという。その顔は、誰よりも幸せそうに微笑んでいた。


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