第6話 療養の日々
「いやあああああっ」
自分の叫び声で、クレアは目を開けた。
シーツを握りしめる。悪夢をみていた。内容はよく覚えていない。心臓がどきどきと音を立て、いやな汗が流れた。
息を吐いて落ち着けて、まわりを見回すと、窓辺に小さな花が飾られた、穏やかな客室のようだった。鳥の声が聞こえた。
扉がコンコンとノックされた。
「お嬢さま、体調はいかがですか?」
入ってきたのは、見覚えのある侍女だった。幼い頃の、王宮図書館に来た帰りなどに、タクト殿下の離宮で、なにかれと世話をやいてくれていた人だ。
「お食事をご用意いたしました。まだ消化の良いものがよいそうで、あまり食べ応えはないのですが」
「ありがとう。そちらのテーブルでいただくわ」
半身を起こすと信じられないくらい体が重かった。頭の位置がかわっただけでくらりとめまいがする。とても立ち上がれそうになかった。
左手の傷に包帯が巻かれていた。誰かが治療してくれたのか。
「医師の先生が、極度の衰弱状態にあると言われていました。ご無理なさいませんように、そちらにお持ちいたしますよ」
侍女はクレアを支え寝台に座らせると、背もたれをクッションで整えた。寝台側の小卓に少しずつ入れた皿を用意する。誰かに優しくされることが新鮮で、また涙がこぼれてきた。
「さ、お召し上がりください」
ゆっくりと、温かいパン粥を口に運ぶ。どうしよう。美味しくて、嬉しくてたまらない。
泣いてばかりの自分がおかしくて、泣きながらクレアは笑った。
「ありがとうございます。……マーサ、だったかしら」
「あら、覚えていてくださったんですか。そうです、マーサと申します。坊ちゃんと殿下からクレア様のお世話を承りました。何でも言ってくださいね」
マーサはほがらかに笑った。
「ありがとう。あの、もしできれば、動けるようになったら体を清めたいの。こんなままでは寝台を汚してしまっているわ」
「あら、寝具はお気になさらないで大丈夫ですよ。ですがそうですね、お体のためにもさっぱりしたほうがよいでしょうね。まだ入浴はお体に障りそうですし、お食事の後で良ければおふきいたしますよ」
身体はこの数年で見るも無惨に汚れている。井戸水をかぶるしかできなかったから。自分で拭く、といいたかったが、食事の為に腕を動かすのもしんどいような状況だ。諦めたように力を抜いて微笑んだ。
「お願いするわ」
身体を清潔にしてまた眠り、起きたらアルフレッドがいた。
「おはよう、クレア」
「アルフレッド様。……わたくし、寝てばっかりで。働かなければなりませんのに」
動かない体を、困ったようにクレアは見下ろす。
アルフレッドは寝台に腰掛け、クレアの髪を撫でた。
「今はしっかり回復することに専念していいんだ。少しずつ、少しずつだよ」
「ありがとうございます」
クレアはもどかしく感じながら微笑んで礼を述べた。
「クレア、教えてくれるかい。君は今までどうしていたんだ。君の父君からは、君は外国へ留学していると聞いていたんだけど」
「留学……」
そんな、美しい話になっていたのか。現実とのあまりの差異に寒気がして、クレアは身震いした。
今朝の夢の恐怖がよみがえってきそうになったので手で顔を覆い、深呼吸する。
(大丈夫、言える)
アルフレッドが心配そうにクレアの手を握った。その温もりに、呼吸が穏やかになるのがわかった。
「わたくしは、母が亡くなってから一歩も、クレール侯爵家のタウンハウスから出ていません。留学など……。夢まぼろしのようなお話です。
母が亡くなってから、わたくしの部屋は物置部屋の片隅になりました。父に反論することは許されず、義母と義妹に命じられた下働きのようなことをしていました。婚約者はおりましたが、実質的にはわたくしは、家の継承権のおまけのような扱いで。もちろん、学園にも行けず学ぶことも満足にはできない状況でした。父の仕事の代行をするかたわらで、少しずつ情報収集をしていたくらいです。
それでもわたくしの支配者が義母義妹から夫に変わるのであればと、期待していたのですが、婚約破棄になり、夜会から帰ってきた義妹に頭を踏まれ唯一持っていた服を汚されまして、このままでは殺されてしまうのではないかと恐怖を、感じたので、…………っ」
クレアは自身の身体をきゅっと抱きしめた。ふるえが止まらない。
「こわかった……っ」
アルフレッドがクレアを抱きしめた。温かい人の温度に、とくとくと聞こえる心臓の音に、クレアの荒くなっていた呼吸音がゆっくりと落ち着いていく。
「つらかったね。もう大丈夫だよ、クレア。君をそんな環境に、もう絶対落とさないから。大丈夫。私を信じて」
繰り返しささやかれる「大丈夫」という言葉がしみこんで、クレアはゆっくりと目を閉じた。アルフレッドの腕の中でことりと額を預けて脱力する。
未だ指先は震えていたけれど、息はゆっくり穏やかにすることができるようになっていた。
「アルフレッド様。ありがとうございます……」
そうして、クレアは目を閉じた。
***
眠ってしまったクレアを寝台に戻し、掛け布をかけてアルフレッドは部屋を出た。
拳を握りしめる。何ということだ。
「留学している」という侯爵の言葉を何も疑わずに信じていた過去の自分を殴りたくなった。
何ということだ。
マーサがそっと報告する。
「殿下。クレア様のご希望もあって身体を清めさせていただいたのですが、」
マーサは思い出して目を伏せた。
「酷い、ものでした。痣だらけで、傷も多数見受けられました。ひどい火傷もありました」
アルフレッドは目を瞑り、息を吐いた。何も知らずのうのうとしていた自分が悔しい。
「……クレール侯爵邸の調査を進めるよ」
「何度もうなされて父君に謝っていらっしゃいました。二度とそのようなところへお嬢さまを戻さないでくださいませ」
「もちろんだ」
それだけではない。ぜったいに、報いは受けてもらう。
アルフレッドは固く誓った。
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