第26話 女王
控えの間の脇の扉が開いて、白いローブ姿の老人が現れた。
「お待たせいたしました」
と案内された。
きらびやかな廊下ではなく、薄暗く冷えた石の階段を降りた。レイが僕の裾を持ちながら着いてきた。
「どうした?」
「はぐれたくない」
階段を降りきったところに、アーチ状の両開きの巨大な鎧扉が待ち構えていた。老人はいくつもの鍵から一つを選んで錠を開いた。
「レイ、怖いならここから戻ってもいいんだ。このまま一緒に来てくれることはないんだよ」
「そんなんじゃない。一緒に行くことは問題ない。ただ不気味だ」
レイは囁いた。
僕は気づいた。
「美月さんは棺の中で死者の国へ迎え入れられるのを待っている。この棺の中のすべてのものが生者と死者の狭間にいる」
「シンはどうなる。おまえは死にかけている美月とやらを追いかけてきた。おまえも死にかけているんじゃないのか。おまえの世界で」
「考えてた。美月さんが事故で死にかけている。僕を送ってくれていたときのことだ。僕は死んだのか」
僕はレイに微笑んだ。
「女王はレイの世界に死者の世界を創ったんだよ。だからレイは死んでなんかいない。大丈夫だよ」
「わたしのことなんてどうでもいい。おまえは生きているのか」
レイは掴みかかってきた。
「どうかわからない。僕は異界から招き入れられた。なぜか生者と死者の世界を行き来できている」
「なぜ?」
「だからこれ」
僕は首のリングに触れた。
おまえが好きだからとか言う方が劇的だったかもしれないな。
殴られるかも。
レイは扉が開くが早いか、出入口を吹き飛ばした。まったく友好的ではない。友好的に話し合おうという気配すら見せないのは、ある意味迷いもなく、相手に付け入る隙を与えないのだから尊敬に値する。
レイが踏み込んだ目の前には、青白く冷たい世界が続いていた。アーチ状の天井、天井を支える円柱、壁はなく、どこまでも続いていた。僕が女王と会ったときに見せつけられた世界そのままだ。実際に存在することに驚きと畏怖が混在した。
棺で眠る者たちは、死者の世界へと誘われる。楽園なのか天国なのか極楽なのかはわからないが、永遠に終わることのない、それぞれが暮らしてきた世界に似せた世界だ。
「派手にしてくれた」
遥か遠くに女王がいた。しかし声は耳の近くで囁かれているようにも感じて、思わず振り向いた。
「わたしたちは死者が穏やかに暮らせる世界を創ろうとした。ここにいる者たちも近いうちにその世界へ行くことになる。こうしてわたしは魂を繋ぎ止めることができた」
「術で?」
「すべては術のおかげね」
僕たちは女王の指し示した天井を見上げた。柱から競り上がる美しい襞は闇に消えて見えない。
「おまえは経験した。あの世界は好きなことをして暮らしている。皆が何にも縛られない世界だ」
「お試し期間ですか」
「冗談も通じるのね」やがて美月の顔が現れた。「あなたは苦しみから逃れようと藻掻いていた。そして嫌なことは忘れるようにした」
「前の世界でも忘れの術を学んだことはないんですけどね」
「だから苦しんだわ。でもここでは術は完全に忘れさせてくれる。魂を繋ぎ止めるためには必要な術も創られた。記憶を消す術、肉体を維持する術、肉体から肉体への転生」
それぞれの術には生まれるために理由があるんだなと思った。
「不思議なことにレイのことは忘れられずにいた。僕たちの魂が繋がれてるのかもしれない。僕は逃げることしか考えてませんでしたよ。上の世界は退屈すぎた。ただ楽しく生きているように演技していた。根本は前の世界と同じですよ。僕は演じていたんです。壊れましたけどね」
「忘れれば壊れもしなかった」
美月はレイを見た。
「あなたのせいよ。あなたがいなければ、彼は何の不自由もなく白亜の塔で暮らせていた。あなたに責任は背負えるの。また彼に違う役を演じさせる気なの。この世界に来て多くの試練に耐えて、ようやく白亜の塔に来た。安住の地に。あなたはそんな彼から安らぎを奪うの」
女王の言葉は内なる炎に炙られているかのように熱を帯びた。
「安住の地を求められず、何度も苦しい生を生き続ける魂も多い。汚れて欠けて忘れ去られる。あなたは選ばれた者なのよ。しかも前の世界の肉体も記憶も得たまま世界を跨いできた。力を秘めた魂なの」
間が空いた。
美月は呼吸を荒げていた。
「なぜ僕はここに来ることができたんだ」
「あなたがわたしを救いたいと考えたからよ。でも皆が皆こんなことができるわけじゃないわ」
「信じられないけど。あなたの言いたいことは、それだけなのか」
「何?」
「あなたにはこの世界や他の世界で生きているものへの敬意がないんですよ。慈しみがないんだ。僕は魂のことはよくわからない。ただ誰にも魂を繋ぎ止める権利なんてないことはわかる。魂は一つのところに留まるべきじゃない。還るべきところへ還らなければならない。人のことをいうなら、次にどんな人生かあるかわからないけど、新しい器で生きなければならない。桶で飼われている魚のようにしてはいけない」
僕は息を継いだ。
「ましてやこの世界で必死に生きようとしている生者の領域を脅かすのはいけないんだ。魂が還るべきところへ還らなければ、どこかの世界で待っている新しい命はどうなるんですか。まがいものの幸せで満たされた地に留めるのは、これから生まれる生者にも死者にも失礼だ」
僕はレイを引き寄せていた。ビリケンさん、三つ編みさん、アラやトト、旅で出会った村人、獣、洞窟の虫たちのことを思い出した。
「この子も必死で生きてきた。この世界で昔に何が起きたかは知らないけど、この子には関係ない」
「あなたはわたしを救うために来たんじゃないの?」
美月さんは穏やかに話した。
僕の喉は渇いて、喉の下に錘が落ち込んだように息が苦しい。不意にレイの頬の熱が僕の首筋から伝わってきた。改めて僕が地下室で冷たくなっていることに気づいた。
「まだわからないのか。他人の思い出を穢すことがどれだけいけないことか。あなたは凄い呪術使いかもしれない。でも人ではない」
僕はレイを押し退けると、美月さんを斬りつけた。離れていると思えば離れている。近くにいると思えば近くにいる。ハンドアックスは美月さんの首に食い込んだ。
「あなたはこのわたしに刃を向けるのね。どれほど心配していたか知らないからできるんだわ」
ハンドアックスを首から抜いてしまうと、美月の微笑みは赤い飛沫に覆われた。
「捨てられたあなたはわたし以外に頼るところはないわ。わたしたちは肩を寄せ合いながら生きてきた」
「だからこそ救いたいんだ」
そういうことだ。なぜ救いたいのか理解できた。皆で肩を寄せ合いながら暮らしてきたからだ。ボランティアの人や施設の人たちに支えられながら高校受験に挑戦できた。
「ようやく気づけた。あなたの言葉で気づくなんて皮肉だけど」
「シン……」
レイは不安気に僕を見た。
僕は微笑み返した。
美月の傷口が緩やかに塞がっていた。鮮やかなものだ。僕は魅入られてしまった。すでに美月さんは僕の背後にいた。とっさに身をかわそうとしたものの、どこからかの一撃で吹き飛ばされた。肋骨が軋んだ。死を待つ者たちが棺から石畳に転がる。僕が身構えると、すでに彼女は左耳に息を吹きかけた。頭蓋骨がミシミシ音を立てた。僕は持ち上げられ、床に叩きつけられた。跳ねた瞬間、柱を壊して、壁に激突した。歪んだ視界の中、美月さんの体か散り散りになるのが見えた。
レイだ。
僕は察した。
闇の中、妖しい眼が静かに浮かんでいた。レイは身じろぎ一つしないまま、一点を見ていた。美月さんの全身が再生され、再び現れる。
「さすが魔族ね」
「種族でまとめるな」
美月さんは十文字に斬られた。僕は再生される前の肉片にハンドアックスを打ち込んだ。屠殺場でも、これだけ握力がなくなることはないほど、まるで踊らされるように再生を阻止し続けた。これこそ死者の輪舞曲だ。しばらくして僕は棺の角に腰を掛けて休憩した。喘ぐように新鮮でもない地下の空気を求めた。
美月は再生されつつある。
炎も雷も効かない。レイは表情一つ変化しないが、それでもたまに僕を見た。ああ限界か。ふと僕は笑いがこみ上げてきた。レイは僕が狂ったのかと思ったに違いない。美月さんが迫ろうとも揺るがない彼女が僕のところへ走り込んできた。
僕はレイを抱き留めた。
茶番だ。
「消えてしまえ!」
幻術に付き合わされた。
美月さんは消えた。同じく棺も天井も柱も床も消えていた。
「情けない」とレイ。
「眼にも弱点はある」
「おまえがだ」
「あ、僕ね」
確かにそうだなと疲れ果てた顔に小さく笑みを浮かべた。一度見せられていたはずなのに、まただ。
「でもいい。キッカケが見えた」
額の妖しい輝きが、ゆっくりと消えては、また輝いた。
「奴は近くにいる」
「なぜわかる」
「眼の力だ」
「いいね。レイは生まれて間もないんだから、まだ強くなる」
「エセ術使いが、わたしに通じるわけがないことを教えてやる」
なかなか自信があるな。
「奴が死ねば、繋ぎ止められている魂が解放されて、おまえも自分の世界へ戻れるかもしれない」
「この肉体は誰のもんだ。僕は前の世界でも同じ肉体だ」
「信じるのか。この世界で与えられたかもしれないじゃないか」
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