第27話 地下
僕は戻れないな。
僕は僕自身が死んでいることに気づいてしまった。どうにかレイは誤魔化したものの、いつまでも嘘をついているわけにもいかない。僕の魂はこの世界へと導かれた。美月さんを救いたいという気持ちが世界と世界を跨いだのかもしれない。
僕は呼ばれた者だ。
誰に?
もし僕が魂を繋ぎ止める鎖から放たれたとしても、美月さんのところへ帰ることはない。ここに残ることもできない。還るべきところへ還ることになるんだ。魂の流れる河のようなものがあるのかもしれない。
白亜の塔の魂と同じく、すべて忘れて河を流れ、また新しく生まれ変わるのだ。新しい人生か、獣なのか虫なのかわからないが、いずれにしてもすべて消えて、それぞれの新しい道を歩むことになる。考えてみれば合理的ではない。絵師の話していたように、もう少し続けたくもなるだろうし、一緒にいたくもなる。
ハンドアックスが僕の手からバルコニーに滑り落ちた。白亜の塔のバルコニーを歩いた。バルコニー自体が整備された庭園を抱えていて、手すり越しには青空の下、眩しい雲が流れ、果てしない世界が続く。
この世界はどうなる。
白亜の塔で暮らしているあらゆる死者にも、この世界で暮らしているあらゆる生者にも世界を奪われるいわれはない。ろくでもなあたシステムで成り立つ世界であろうとも、すべてが失われていいのか。
壊せばどうなる。
確かに魂は還るだろうが、彼らは救済されるのか。白亜の塔で暮らしていたすべてを奪われたものは幸せになれるのか。彼らは今ここにいることが幸せではないのか。
奪うのか。
どんな理由をつけたとしても納得などしてくれないはずだ。僕が彼らなら納得できるはずがない。
僕は湧き水から流れてくる桶の水を片手ですくい、顔に撫でつけるようにした。この冷たさも嘘だ。
そうだ。
僕がこの世界に来た理由だ。
美月さんの魂が戻ればいい。こんなところに繋ぎ止められて、彼女の世界で尽き果てることなどない。
他のことは寄り道だ。
そういうことか。
なぜ僕に琥珀をくれたのかが理解できた。魂はくれてやるが、僕はこの世界から去れということだ。
正解はあるのか。
肉体から離れた魂は、本来ならば還るべきところへ還る。次の世代かもしれないし、まだ戻れる姿があるのなら、そこへ戻らなければならない。少なくとも美月さんには、まだ戻れるところがあるはずだ。
僕はバルコニーの手すりに額を押しつけて考えた。美月さんの魂は繋ぎ止めてあえる鎖さえ外れれば戻れるはずだ。でもどこにいる。誰かに案内してもらわなければ、あの棺の並んだ世界へ行くことも、彼女を探すことすらできないのはわかる。
美月さんは親のいない、施設で育てられた世界へ戻りたいのか。事故で死にかけているのならば、癒えない傷も抱えるかもしれない。彼女のことだけではない。他の魂にも同じことが言える。
誰かが近づいてきた。長靴の紐がだらしなく垂れ、疲れを紛らわせようとラフな姿をしていた。
「シン、気分はどう?」
「どうしてここに?」
「どこにいてもわかる」
レイはリングを撫でた。
「確かにね。まあ気分は良くも悪くもないかな。疲れたよ」
「そうだな」
レイは不意に話し出した。
「もし魂になるんなら、もう一度わたしのように生まれ変わりたくはないかな。親も知らないし、村で冷たくされ、その村からも厄介払いのように捨てられるなんて嫌だ。そういう可能性もあるんだろう」
「あると思う」
「不幸から解放されたのに、また不幸になるかもしれないのか」
「誰かに繋がれたまんまじゃね」
とは答えたものの、僕はわからないと話した。さっきからレイの言った問いに悩んでいるんだ。しかし僕が答える前に彼女は続けた。
「そんなことなら、わたしはまがいものでも、ここに暮らしている方がいい。苦しみのない世界で。みんなそうじゃないか。今のおまえが一緒ならもっと楽しく暮らせる」
レイは青空に顎を上げた。その表情には、まったく曇りがない。
僕はたくさん浮かんでくる言葉を整理しながら話そうとした。信じていた村の人から生きるか死ぬかわからない世界に捨てられたんだ。
「でもね、大きな流れを止めるべきではないんだよ。すべてのものが生まれて、死ぬ。これは代え難いものだと思う。与えられたことやものを恨むのではなく、与えられたところで生きていかなければならないような気がしてるんだ」
僕はレイに殴られるかもしれないと覚悟した。捨てられた者にはひどい言葉だとわかっていた。お互いに酷な言葉だ。僕自身がも涙が溢れてきそうだった。そんなはずあるわけがない。僕にはテレビで映る家族のドラマ、CMなんて記憶にない。必死で忘れようとしていたのだ。忘れようとして、逃げようとして、追いつかれた末、こんなところに来た。
「わたし自身、難しいことはわからない。でもわたしはおまえと一緒にいられるなら、おまえの言うようなことなんて気にしない。二人で納得すればいい」
僕は手すりに背を預けて、両腕を左右に伸ばした。白亜の塔を裏から見上げる形になるが、ここから見ていると巨大さが頷ける。ここが表なのか。死者がいるから裏だと決めつけられるか。白亜の塔には生者でも死者でもない者が控えている。ここには繋ぎ止められた魂が暮らしている世界がある。どちらも表だ。
「特別に頼んで、美月さんの魂とやらをあちらの世界に戻してもらえばいい。おまえの願いは叶うし、互いに戦わずにも済む」
「彼女に頼むか。ついでに僕も前の世界へ帰れるかもしれない」
忘れたわけではない。美月さんへの願いを叶えようとして、他のことを犠牲にしてもいいのかと考えていたことを。また意識しないで同じことを繰り返している。美月さんならどう言うのだろうか。これから生まれる者たち、まだ生きようとしている者たちを解放すべきだ。この世界のに来た僕にはできるんだ。前の世界でなら考えもしないが。又は美月さんはわたしを助けてと言うかもしれない。決断を美月さんに頼るのは違うと思う。今こそ僕自身が覚悟しなきゃいけないんだ。
「どうした。わたしはここにいてもいい。みんなは幸せそうだ」
「ただ肝心の女王様がいない。僕が覚悟したところで、彼女は消えちゃったんだ。僕たちの強さに逃げてくれればいいんだけどね。今は女王不在の世界でただ死者の住人が楽しそうに暮らしている。そして僕はそれを眺めている。まず交渉だな」
レイも世界を見下ろした。犬が駆けまわる。親子連れが笑い合う。大道芸がおどける。好きなときに好きなことができるし、嫌なことは術を使えばすぐ消し去られる。
「レイ、君の額の眼でも幸せそうに見えているんだね」
「うん。寒さも飢えもない、寂しさもない。すべてが満たされた世界に見える。ずっと春みたいだ」
「冬は嫌いだもんな」
「うん」
「ひょっとして魂がここに繋ぎ止められたせいで、本当は生まれてこなければならない人が生まれることができないのかもしれない」
「また話を戻すのか。誰にも気づかれないことだろうが」
レイは穏やかさをなくさないように答えると、
「おまえの持つ琥珀の石ころの力があれば、美月さんとやらは自分の世界で蘇られるんだろう」
「そうなのかな」
「そう話していたじゃないか」
「どうして怒るんだ」
「怒ってなんていない。ただシンの気持ちがはっきりしないから」
「話を戻してるんじゃないんだ」
決断をした。
僕は清々しい気持ちだ。
「でも美月さんはどこにいるかわからない。この白亜の塔のどこかにはいる。たくさん棺が並ぶ空間にいるんだけど、僕はそれがどこかわからないんだよな。女王が見せてくれたくらいしかヒントがない」
「わたしの眼なら見つけられるかもしれない。あのときわたしも一緒にいたし、さっきも戦った」
「頼むよ。ありがとう」
「気にするな」
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