第12話

「このまま塔を攻め落とすか」

 と、レイは朝の街角から塔を遠くに見ながら呟いた。背後で騒ぎが起きていないのは、アラやトトはうまく逃げきれている証拠だ。

「しかしまあ……」

 僕は冷めた目でレイを見た。

 どういう思考回路で、そんな決断になるんだと言おうとしたがやめた。たぶん理由などないな。

「術は使えないんじゃないか」

「まず外からぶっ壊す」

「それで何とかなるんならいいんだけどね」

「もっとおまえも力を込めろ。女王を殺したらおまえのあちらの世界の姉は救われるんだろ」

「力込めろと言われてもなあ」

 僕自身、女王の言葉をにわかには信じられない。ただ僕を騙すつもりで出任せのような気もする。そんなことに世界の命運を委ねられない。

「信じてないのか?」

 レイは尋ねた。

「今思えば、生れてずっと騙され通しだからね。少し神経質なんだ」

「おまえはそんな繊細じゃない」

 やかましいっ。いちばん言われたくない相手に言われた。

「何か隠してる」

 僕は琥珀のことを話さないつもりでいる。そんなこと話せば、レイは複雑な気持ちになるだろう。

「諦めたのか?」

「自分でもわからない」

「そうか」 

 納得していないくせに納得しようとしているのがわかる。あまりにいたいけなので、やはり話そう。僕は琥珀のことを話した。

 レイは聞き終えると、

「それならおまえ自身も何を信じていいかわからないな」

 女王の姿は単なる器で、もはやあの中には何もない。奴はありとあらゆる死者の記憶を食らい、呪術の源として生き続けている。そして生者の世界を浸食するんだ。

「本当かね」

「何となく」

 何となくかいな。

 これまで何となくで行動してろくなことがなかったからなぁ。獣には追いかけられるし、洞窟では食われかけるし、飛び込んだ軒では薪割りにこき使われるし、僕に至ってはレイを死んだと勘違いして埋めてからは奴隷にまでされた。僕たちは計画性のなさが致命的だ。

「奴の中は空っぽだ。ただ薄暗闇が衣装を身にまとい、おまえに話しかけていた。おまえには何が見えていたのかわからないけど」

 レイは額飾りを指差して、

「おまえはわたしから言わせると亡霊と話していた」

「そう見えていたのか」

「わたしは美月という人を知らないけどね」

「きれいな人だよ」

「わたしより?」

「自信あるのか?」

「うるさいな。冗談だ。奴のベールの下は骨にしか見えなかった。もう少しまともに言うんなら骨と皮のババアだった」

「少なくとも美月さんはババアじゃないな」僕は見上げた。「あんなバカでかい城を僕たちだけで攻め落とせるのか。まったく自信がない」

「本当にでかいのか?」

 今度のレイは僕を睨み据えるような表情で問いかけた。僕は本当のことを見ていたのかと。すべてがまやかしかもしれない。そう言いたいのだ。騙そうとする相手だぞ。

「幻想か。それなら僕たちは初めて街へ来て、あの白亜の塔を見たときから騙されていた。近づこうとしても近づけない理由がそれだ」

「そう思う。何となく」

 レイの何となくを信じるしかないのかもと感じていた。頭で考えてどうにかなる世界でも、状況でもないだろうし。かつてこの世を支配したと言われる三つ目族の、しかも選ばれた紅玉の聖眼をもつレイの能力が言うのだから信じるか。

「もう行くしかないだろ。こうしていると、わたしはおまえとならどこへでも行ける気がしてくる」

「僕もだ。学校へ侵入したときも同じ気持ちだった」

「わたしもだ」

「ただ……」

 ここでうじうじ話しているよりも敵に飛び込んでみて、確かめるのが早いのか。しかし飛び込むには、少しくらい根拠もほしい。何度でも言うが、僕たちは勢いだけで生きている。特に街に来てからは顕著だ。

「おまえが何を見せられたのかはわからない」

 レイが言うと、僕は青白い棺の世界を思い出した。続くアーチ状の天井の下、棺の列はどこまでも続いていた。もしあの場に単独で踏み入れられても、美月さんは永遠に探せないだろう。もし他の人々を探していても同じだ。いずれ僕たちは諦めてしまうしかなくなる。レイを墓に埋めたときと同じだ。

「何を見たのか。そこまで気が回らなくてすまない」

「謝るなよ。あのとき僕を救ってくれたのはレイなんだよ」

「嘘でもうれしい」

「嘘じゃない。レイのぬくもりが僕を引き留めてくれた」

「もおまえは記憶を奪われて、わたしにサヨナラした」

「だからあれは演技だよ」

「そうか」

 レイの指がそっと頬に近づいてきて、いきなり耳たぶを弾いた。

「痛いなぁ」

「わたしは捨てられたかと思ったんだぞ。おまえはうれしそうな顔をしてたし、わたしには引き留める資格なんてないし」

「村へ帰ろうとしたんだろ」

「そうだ。わたしを捨てた村を焼き尽くしてやるつもりだった」

 穏やかな話にはならないな。

「あの女王はレイたちに滅ぼされた種族の末裔だと話してた。レイを自由にしてやるには、あれしかなかった。今は、あの女王の言葉のどこからどこまでが本当か嘘か判断できない。だから殺せばいいのか実際に、石ころが必要なのかわからん」

「わたしはおまえがいない世界の自由なんていらない。おまえはわたしと旅をしてくれた。ほぼ死ぬための旅だ」

「そんな過酷な仕打ちだったのか」

 旅をするしかなかった。持ちつ持たれつだったんだよ。そんなにまで言われると、正直心苦しい。僕もレイがいたから生きられたんだ。

 レイは拳を握り締めた。

「まやかしの世界は、もう一度わたしたちが滅ぼしてやる。女王の欲のための世界なんていらない!わたしはこの世界を救う英雄になる」

「力を込めてるところ悪いんだけどさ」

 僕は後ろ髪を束ねなおした。紐に伸びがないので、すぐ緩む。

「レイは英雄にはなれないんじゃないかな」

「おまえだけなる気か」

「何でだよ。ほら、そういうんじなくてさ。この春からたいがいのことしてるだろ?」

「誰が」

「気にしてないならいい」

 彼女はいつまでささいなことにこだわるんだと言うが、少しもささいなことではない気がするぞ。あのアラですら考えたんだぞ。彼は子供たちを救うためなら何でもするような度胸があるさ、知恵もある。そんな彼でさえ、悩んだくらいだぞ。

「とはいえ、どうしておまえは記憶を消されなかったんだろうか」

「よくわからん。レイとのことは消したくなかったんだろうな」

 僕が何となく言うと、急にレイはうつむいてさっさと歩き出した。

「冗談は置いといて、実は首のリングのおかげで守られたんじゃないかと思うんだ。証拠はないけど」

 ピタッと歩みが止まる。レイは鼻っ柱に狂犬のようにシワを寄せていた。喉を絞められ、背中から壁に叩きつけられた。そして振り返りもせずに大股で歩き出し、すでに塔へ向かおうとしていた。二人で乗り込むなんて無茶苦茶だが、他に救いがあるわけでもないな。それにしてもなぜ僕が首を絞められ、叩きつけられなければならないんだ。


 二日後、僕たちは唇を結んで、白亜の塔を見上げていた。首が痛くなるほどの角度だ。塔の頂は雲が流れるたびに見え隠れしていた。レイは額飾りを外した。

 聖眼がつややかに輝く。

「でかい」

 と、レイ。

「ん? いやいやいや。何て?」

「とても大きい」

 レイは素で答えた。

「丁寧に言い替えただけだよ。そんなこと求めてないし。ちゃんと大きいよね。幻じゃないんだよね」

「奇妙奇天烈摩訶不思議だ」

 あんたの思考の方が不思議だ。魔眼さんよ、働いてくれ。信じて歩いてきたのが間違いだ。白亜の塔エリアを覆う都市城壁から、ここに来るまで敵の目を盗みつつ、二日もかかったんだぞ。

「ここまで来たから、大きいとか小さいとか関係ない」

「むしろここまで来れたからこそ関係あるだろ。マジかよ」

「焼き払ってやる」

 レイは両腕を左右に広げた。

 白亜の塔を閉ざしていた鉄の門が融けて、門を支える石塀が消し飛んだ。地響きとともに庭前の草原は暴風でえぐられ、焼けただれた土が舞い散る。

 僕は押し返してくる熱波を浴びながら溜息をついた。

「あのさ……」

「刃向かう奴はかかってこい!」

 そう叫んだレイは左右の手に眩しいくらいの剣を握っていた。どこかで覚えたのか、はじめから身に付いているのか。それは剣にもなるし鞭にもなる武器だ。また煤けた銀のような鱗を持つ大蛇が彼女の体にとぐろを巻いている。はこれくらいあればドラゴンでも勝てるだろう。

 王女曰く「わたしたち」でないも者の攻撃に対し、「わたしたち」の兵は即座に反応した。一斉に矢が放たれ、曇天の上から降り注いだ。おびただしい数の矢は、近辺に空気を割いて突き刺さる。続いて炎の中から剣と盾を持った連中が現れた。盾で押し退けて、剣で叩き伏せようとしているのだ。そして僕たちが斬り結んでいる間、階段の上にいたローブ姿の呪術師が呪文の詠唱を終え、レイの攻撃に対して防壁を築いた。

 すでに兵士たちの退路はない。

 僕は盾の上を走るようにして、鎧の間にハンドアックスをぶち込んで、剣を奪い、どんどん突き進んだ。レイの操る鞭が僕を援護してくれた。たまにやられたと思うが、首のリングが一瞬煌き、斬りつけた側の全身が焼け焦げた。散り散りに引き裂かれる者もいた。

 どちらが悪者なんだ!?

 この絵面は、

「神聖な城を攻める鬼だな」

 僕が結界に突き入れた剣を下段から払い上げると、できた間からレイが光の矢を放った。一本が途中で枝分かれし、数本が呪術師の額や背後から貫いた。呪術師は育てるのが難しいから、できるだけ安全なところにいるらしいのだが、レイの矢はお構いなく、あるものはエンタシス状の柱を砕いて、またあるものは弧を描いて呪術師に襲いかかった。

 逃げることさえも許さない。

 僕はレイを抱き寄せると、階段を駆け上がった。一瞬で最上段に立っていた。この階段は長く思う者には長くそびえ、何かの欲ある者は迷路に誘い込み、怯える者は地の底へ突き落とし、揺るぎない目的ある者にはそこへと案内してくれる。

「シン、凄い!」

「レイもね」

「わたし、凄いの?」

 目がキラキラしていた。凄いどころか恐ろしい。アラが話していたことも頷けた。これは屠殺場以外にも相当暴れたんじゃないか。

「役に立つ?」

「とても」

 僕たちは取り囲む兵士とともにホールへなだれ込んだ。巨大な柱に隠れて弓を放つ者、ボーガンをつがえようとして、僕のハンドアックスの餌食になる者、柱の陰に隠れたものの柱ごとレイの鞭に突き刺されて立ち尽くしたままの者、その他多くの血が牛乳色の床を染めた。

「まだ出てくるぞ」

 二人がホールの奥へと行こうとすると、あちこちからの扉から新しい兵士が姿を現した。しかも背後では死んだ兵士たちが起き上がる。僕はさすがに息を飲んだ。

「不死なのか」

「あれ、味方だから」

 レイが軽く言う。

「操ってるの?」

「操れない。動くものを勝手に殺そうとする」

「あ、あぁ?」

 何とも言えない。どう考えても僕たちが悪どい気もする。重ね重ね言うのも妙だが、塔に暮らす者からすれば、僕たちが悪魔だろう。

「おまえさんたち、何をしているんだ」

 足場の上から声がした。いつもの絵師の声だが、この状況でも彼の声は一段とよく通る。

「帰ってきました」

「そうらしい」

「成り行きでして」

「おまえさんらには言葉というものがあるだろうが。話し合うことくらいするべきだと思うがな。しかし難儀なことだ。姉とやらは救えたのか?」

「あの石、違うことに使ってしまいまして、小さくなりました」

 僕は二人を斬り捨てた。視界の脇を黒い影が走り抜けると、控えの間までの廊下は血煙が遮った。赤い霧の中、立ち尽くしたレイの姿に光の鞭がとぐろを巻いていた。

「話し合えますかね」

「どうかな」と、老人。「少なくとも黙ってはいまいて」

「そりゃそうですよね」

「あれもあれで弱くはない呪術使いだからな」

「ご存知なのですか?」

「少しな」

「では……」

 どのように現れるかと尋ねようとしたとき、レイが控えの間の扉を蹴破った。どんどん進む。まだ僕は絵師と話したいのだが、とりあえず追いかけた。とにかく止めよう。

「とりあえずここまでだ。ここは控えの間だ。女王様がお呼びになるまで少し待とう」

「今さら?」

「たしかに今さらだけど」

 蹴破られた扉の向こうには殺戮の跡が残されていた。死んだ兵士が生きた兵士と戦う無惨な姿だった。

 やめさせるように言うと、

「兵士、こちらへ来るぞ」

「どっちの」

「そりゃ、生きてる方よ」

「結界を張ればいいだろ」

「どうやって?」

 僕は「じゃ、お互いがんばってもらうか」と呟いて、ハンドアックスをホルスターに差し入れた。

「知らないんならしようがない」

 レイは右手を廊下に向けて差し出した。一瞬にして兵と死兵が斬り刻まれた。おかしいなと呟く。

「結界、難しいね。何かうまく想像できない」

 では全身を守るようにとぐろを巻いている蛇は想像できているのかと聞いたところ、蛇は消えた。

「あれ?よくわかんなくなった」

「今?」

 控えの間の脇の扉が開いて、ローブ姿の白髪の老人が現れた。

「お待ちしておりました」

 うやうやしくお辞儀をした。

 ではこちらへと案内された。

 以前のきらびやかな迷路のような宮殿の廊下ではなく、ジメジメとした薄暗く寒い石の階段を下へ下へと降りてゆく。レイが僕の裾を持ちながら着いてきた。階段を降りきったところに、アーチ状の両開きの巨大な鎧扉が待ち構えていた。ローブ姿の老人は、いくつもの鍵から一つを選んで、重々しく錠を開いた。

「レイ、大丈夫?」

「何か出そう」

「ここには死者の国の空気が漏れ出ている」

 僕は囁いた。

「ようやく気づいた。美月さんは棺の中で死者の国へ迎え入れられるのを待っている。この棺の中のすべてのものが生者と死者の狭間にいる」

「じゃ、シンは?」

 胸ぐらをつかむ勢いだった。

「わたしは?」 

「ここの主はレイの世界に死者の世界を作ったんだよ。だからレイは死んでなんかいない。大丈夫だよ」

「シンは?」

 僕は彼女の泣きそうな顔に複雑な笑みを浮かべた。

「僕もだ」

「うそ!」

 レイは扉が開くが早いか、聖眼で出入口を吹き飛ばした。


 レイが踏み込むと、青白く冷たい世界が続いていた。アーチ状の天井、天井を支える円柱、壁はなく、どこまでも続いていた。ここで眠る者たちは、やがて死者が暮らす世界へと誘われる。永遠の楽園と呼ばれる世界へと。

「派手なことをしてくれたな」

 遥か向こうにベールで顔を隠した女王がいた。しかし声は耳もとで囁かれているようでもある。

「わたしたちは死んだ者が安らかに暮らせる世界を作ってきた」

 女王は見渡した。

「ここにいる者たちも、近いうちに天上の世界へと誘われる」

 上を指差した。

 僕たちは天井を見上げた。柱から競り上がる美しい襞は、天井の闇に消えて見えない。

「あの世界では好きなことをして暮らしている。ただ生きるために生きているのではない。そんなものなどに縛られぬ世界だ。比べて、おまえたちの世界はどうだ?何のために生きてきた。ただただ生きるために苦しんできたのであろう」

 僕からレイに目を向けた。

「おまえたちの世界もだ。一歩この白亜の塔から出るやいなや、皆どす黒い煤で汚れてしまう。食うために生きる。生きるために食らう。そんな世界など守る理由があるか?」

 女王は全身で訴えた。まるで何かに取り憑かれ、その言葉は炙られているかのように熱を帯びた。

「おまえはこの世界に来て、数多くの試練に耐え、この塔に来た。旅も、冬の薪割りも、奴隷としての屠殺も苦しい試練だったであろう。しかしおまえはここに来た。おまえは選ばれし者なのだ!」

 酔いしれた者が戻るように、荒い息を整え、乱れた姿に気づいた。ベールはとっくにめくれて、レイの言うように老いさらばえた老婆の骨と皮、飛び出した眼球が見えた。

「死後、安住の地を求めても叶わぬ者も多い。わたしはおまえたちのために尽くしてきた」

「それだけなのか?」と、僕。

「何?」

「言いたいことは、それだけなのかと聞いたんだ」

 老婆はまじまじと見た。彼女には信じがたいことなのだろうか。

「おまえには、この世界に住む者たちへの敬意がない。おまえには生きる者に対しても、死んだ者に対しても慈しみがないんだ。僕には生者が死者より偉いのかどうかわからないし、逆もわからない。でも必死で生きようとしている者の地を脅かすのは違うと思う。魂なのか何なのかわからないけど、それは還るべきところに還さなきゃ。こんなまがいものの地に引き留めていいわけがないんだ。死んだ者たちにも生きる者たちに失礼なことをしてるんだ」

 僕はレイを引き寄せていた。ビリケンさん、三つ編みさん、アラやトト、旅で出会った村人、獣、洞窟の虫たちのことを思い出した。

「すべての記憶を自由に操ろうとするおまえは、己の欲求のために、たくさんの魂を引き留めて力にしようとする、ただの魔術使いの成れの果てだ。自己中な婆さんだよ」

 老婆は美月さんに姿を変えた。僕は心の底に鉛がへばりついたような重苦しい気持ちになった。そんな僕にレイのぬくもりが伝わる。

「どう?わたしと話さない?あなたはわたしを救うために来たのよ」

「まだわからないのか、あんた」

「どうしたの?」

「他人の思い出を穢すことがどれだけいけないことか。あんたは凄い呪術使いかもしれない。でもあんたはな……」

 僕はレイを押し退けると、美月さんの顔をした女王を斬りつけた。離れていると思えば離れている。近くにいると思えば近くにいる。ハンドアックスは老婆の首を刎ねた。頭が薄暗がりの中を飛んで、棺の隅に跳ねて、石畳に転がる。

「まがいものの斧でわたしを殺すことなんてできないわ」

「死者の打った斧が、僕の武器になるんだよ。なぜなら彼らは懸命に打ったからな。レイから与えられたリングは、僕を生者と死者を繋ぎ止めてくれる。このハンドアックスは天上のものでもあるし、この世のものでもあるんだ」

「講釈などいらんわ」

 美月さんの顔が消え、すでに胴体につながっていた。僕の背後にいたものだから、とっさに身をかわそうとしたものの、一撃で吹き飛ばされた。肋骨が軋んだ。死を待つ者たちが棺から石畳に転がる。僕が身構えると、すでに彼女は左耳に息を吹きかけていた。頭蓋骨がミシミシ音を立てた。僕は持ち上げられ、床に叩きつけられた。跳ねた瞬間、柱を壊して、壁に激突した。歪んだ視界の中、老婆の体が内部から散り散りになるのが見えた。

 レイの力だと

 僕は察した。

 闇の中、妖しい眼が静かに浮かんでいた。レイは身じろぎ一つしないまま、一点を見ていた。老婆の全身が再生され、再び現れる。

「さすがこの世界を支配していた種族のことだけはある。力を発するときも、まったく気配も感じぬな」

 と、言い終わる前に、老婆は十文字に斬られた。僕は再生される前に老婆の肉片にハンドアックスを打ち込んだ。屠殺場でも、これだけ握力がなくなることはないほど、まるで踊らされるように再生を阻止し続けた。これこそ死者の輪舞曲だ。しばらくして僕は棺の角に腰を掛けて休憩した。ハンドアックスと僕の手とを布を巻いて固定した。その間にも老婆は再生されつつある。

「キリがない」

 炎も雷も効かない。レイは表情一つ変化しないが、それでもたまに僕を見た。あぁ、限界か。ふと僕は笑いがこみ上げてきた。レイは僕が狂ったのかと思ったに違いない。老婆が迫ろうとも揺るがない彼女が僕のところへ走り込んできた。

「消えろ!」

 僕はレイを抱き留めて叫んだ。とんだ茶番だ。まやかしにつきあわされた。老婆は消えた。同じく棺も天井も柱も床も消えていた。

「情けない」と、レイ。

「そんなに自分を責めるな」

「おまえがだ」

「あぁ、僕ね……」

 たしかにそうだなと疲れ果てた顔に小さく笑みを作った。一度見せられていたはずなのに、まただ。

「でもいい。キッカケが見えた」

 額の妖しい輝きが、ゆっくりと消えては、また輝いた。

「奴は近くにいる」

「なぜわかる」

「何となく」

「いい感じだね」

「エセ呪術使いが、わたしに通じるわけがないことを教えてやる」

 交通事故で死にかけているのは美月さんだけではない。同じ車に乗っていた僕もだ。そしてわからないが、拓也もそうかもしれない。

「奴を殺せば、奴が引き留めている魂とやらが救われ、おまえは元の世界へ戻れるかもしれない。わたしは魂とやらを見たことはないけど」

「僕もだ」


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