第14話

 僕たちは玄関の広間に来た。空気は冷えていて、差し込む光もどこかしら息を殺しているように思えた。

「どう壊すんだ?」

「僕が壊すわけじゃない」

 死者の世界を守るように建つ塔がなくなれば、この世界に生きる者たちの力が流れ込んできて、女王の力も野望も消えるのではないか。

「つながれていた魂は解き放たれるんだ。変幻自在にうろつき回る女王も消える。何となくだけどね」

「何となくか」

「ごめん」

「わたしは信じる。おまえが言うんならそうだ。そうでなくてもかまわない。そのとき、また考よう」

「逆もあるかもしれないな」

 レイはぼそっと言った。

 魂が生者の世界を滅ぼそうとするかもしれない。この世は混沌に飲み込まれる可能性がある。

「そんときはそんときだな。僕たちが救世主になるか、悪魔になるかだよ」

「どっちでもいい。かかってくる奴はみんな敵だ」

 天井の絵は動いていた。巨人は山を越えようとしていたし、うろこをきらめかせた竜は火を噴いて、翼のある馬は羽ばたくたびに火の粉を散らしていた。古びた足場には誰もいない。あれほど血にまみれたところなのに、兵士の死体も見えない。さすがに僕も心がざわめいた。嫌な経験だ。人を殺す音や臭い、自分が死ぬかもしれないという怖さ、息苦しさ。忘れ去れと言わんばかりに、死体は消えていた。呪術の力だろうか。

「おまえには見えるか?見ても気持ちのいいもんでもないけど」

「レイには何か見えているのか」

「うん」

「それなら僕も見る」

 レイが額を僕の鎖骨のくぼみに押し付けてきた。彼女の僕には見せたくないという気持ちがわかる。

「呪術の膜が弱い。何て言えばいいのかわからないけど、初めて来たときは押されるほど感じたのに」

「力が落ちてるんだろうね」

「無限じゃないんだな。魂を使う側はそうでもないのか」

 床にはアクリルのような透明な層がある。死体が血の対流の中、浮き沈みを繰り返していた。頭、腕や足だけの肉の塊が浮かんでは沈む。僕が吐かずにいられたのは、これまでの経験なのかもしれない。僕はレイに額飾りをつけさせた。

 ふと気配がしたので、僕の両手の指はハンドアックスにかかった。

 柱の陰に誰かいる。

 フィリが現れた。僕は理解していた。死者の庭園に入れ、生者の世界まで追いかけてくる。生者と死者の世界を行き来できる獣だ。

「驚かないのね」

「驚いてる。声も出ない」

「わたしはね、女王様に力を与えられたのよ。生きる者の世界にいた兵士もそう。女王様の傍に仕えていれば力を持つ者でいられるの」

「力とは立ち向かうものだ。君の言う力は何もかもから逃げきるためのものだ。でも逃げられないよ」

「わたしに意見するとはな」

「力を維持するために、女王様は忙しい。あちこちの世界の扉を開いては、自分の欲を満たしてくれる者を探し続けなければならない。そんな日々、もう何も楽しむことなんてできないんだ。ただ死なないために生きている」

「うるさい奴ね。小鳥ほどよく鳴くものよ」

 フィリは笑い、広間の真ん中に移動しつつ、自身の体を抱いた。

「結ばれた夜は興奮したわ」

「不思議なことを言うね。力が欲しい人が、力ずくで押さえつけられることを望むなんて変だよ」

「たまにはそれもいい」

(ん?)

 隣のじっとりとした、重苦しい視線を感じた。何もやましいことはないし、あったとしてもレイに何か言われる筋合いもない。ない。ないよね。何だろうか、この陰鬱さ。

「わたしたちはここで一緒に暮らせるんだと信じたわ。すべてわたしたちの思うようになる世界よ」

 レイは離れ、柱の土台に腰を掛けた。僕とフィリの話を聞いてやろうじゃないかという様子だ。

「フィリ、ちょっとしゃべるの待ってくれないか」

 僕はレイに向いて、

「レイ、たぶん誤解してる」

「ワタシ、言葉分カラナイ。二人、好キニスル。ワタシ、見ル人」

「何もないんだ」

 世界のことなんてどうでもいいと思えるほど、背筋に冷や汗が流れた。レイの瞳孔は引き締まったままだった。あれは獲物を狙う獣の目だ。彼女の指が額飾りに触れた。

「何もしてないのか」

「何もない」

「結んだのか」

「話すと長くなる」

「短くしろ」

「今じゃなくても。話す話す。僕が手を結んだ。お互いにじゃないよ。ベッドに。ん?」

「おまえはそういうことをしていたということでいいのか?」

 それには、

「奴はバケモノだぞ」

「おまえもだ」

「なぜ」

「おまえも死者と生者の世界を行き来している」

「リングのおかげだよ。それ言うならレイもバケモノじゃないか?三つ眼で呪術使いだ」

「じゃ、ここにはバケモノしかいないということがわかった。言い訳してるんだな?」

「いやいや。落ち着けよ」

「おまえがな」

「わたしたちはお互いに息遣いも聞こえるほど、激しく打ち合った」

 フィリは笑みを浮かべた。

「ちょっと黙ってくれないかな」

 僕は再びフィリを制した。

「もういい」

 レイは額飾りをちぎると、

「話は後で聞く」

 ぴょんと土台から降りた。

「まずおまえは死ね!」

 まず?

 レイの体が消え、次の瞬間フィリが跳ねた。レイの呪術の剣とフィリの剣がぶつかる。フィリの剣はレイの光を受け止めて煌めいた。すかさずレイの鞭がうなるが、フィリの速攻で斬り刻まれた。散り散りになった光は、なおも怒りに任せてフィリに襲いかかった。しかしフィリは剣で跳ね除けた。笑っている。あの攻撃を余裕で跳ね返していた。

 まずって何?

「この剣はわざものよ。魂ごと貴様らを葬ることができる」

「うるさい」

「シン、あなたはわたしの両手剣を見たことがないでしょ?」

「相手はわたしだ」

「あなたと同じ。わたしもいざというときのために隠していたの。まずはこの小娘から!」

 フィリの剣はレイをとらえていたが、レイも寸前のところでかわした。しかしレイではフィリに勝てない。逃げながらの呪術がことごとく剣で跳ね除けられている。そうではない。吸い込まれている。フィリの剣はレイの力を吸い込んで、ますますつややかになる。

「レイ、やめろ!」

 僕は叫んだ。

 駆け寄ろうとしたが、すでにレイは暴走していた。我を忘れているのかいないのか、レイはフィリの剣筋に魅入られてしまっていた。かわせると信じているのか。罠に追い詰められているのに気づいていない。

 やられる!

 僕がハンドアックスを投げ込もうとしたときだった。腰が熱い。足がしびれて動かない。

 肩越し、

「この短剣もわざものでね」

 カンパがニヤニヤしていた。

 僕は自分の膝をつかんだ。耐えるんだと言い聞かせ、遠心力でハンドアックスを振るおうとした。

「だがすぐには殺…」

 レイの姿が現れ、

「シンに手を出すんじゃない!」

 拳がカンパの顔を砕き、彼は柱に打ちつけられた。血が後頭部から吹き出して、彼の体を覆った。

「今度したら殺すからな」

 たぶんもう死んでる。

 フィリが得意の袈裟がけを放ってくるのが見えた。僕は腰に刺さった短剣を抜いて受け止めた。

 二つの剣が甲高く共鳴した。

 あのときと同じた。初めて王女に会ったとき、フィリが抜いてカンパが止めたときの悲鳴だ。

 僕は短剣でフィリの剣を何とか跳ね返した。添えた片手から血が溢れた。フィリは間を詰める。

 剣を返すとき、見えた。フィリの癖が出た。両手剣であろうが片手であろうが無意識にかかとが浮く。

 僕は彼女の剣の腹に短剣を突き刺した。そのまま体ご抱えるようにしてひねると、全体重を短剣の柄にかけて床に倒れ込んだ。このもだえ苦しむ剣こそが、今の女王の姿だ。レイの力を吸い取ることで、力を得ていた。フィリは剣から離れ、操り手がいない人形のように倒れた。

 僕は女王にまたがり、短剣をかかげた。もう一度突き刺そうとしたが、振りかぶった手が、急に動かなくなった。ハンドアックスよりも軽い短剣なのに、まったくだ。くそったれが。言うことを聞けよ。左腕と腰から足にかけて、何かが這うような感触がした。血だ。シャツもズボンが重くなる。視野が揺れ、地響きに気づいた。とっさに老いさらばえた老女から離れた。声が聞こえた。

「そのへんにしてやってくれ」

 足場を見上げた。

 僕は短剣に呼びかけた。

「国の王」

「気づいたか。おまえたちには彼女のことを話さねばならんな」

「あんたの与太話を聞いている余裕はないよ」

 僕は腕をおろし、ようやく膝をつくことができた。そしてゆっくり体を横たえた。そこには白髪の老絵師が立っていた。

「まあ、そう言うな。腹立たしいだろうが、年寄りの話を聞いておくのもよいだろう。気に食わんか」

「そうじゃない。見てくれ」

 僕は服の下の傷に触れた。左手の平を見せて、腰にも目を向けた。

「もうよく聞こえないんだよ。せっかく話してくれてもな」

 老人は僕の脇にかがんだ。

「自分で治せるもんだと思うておったわ」

「そんな便利なもんじゃないってことはわかってるだろう。ココアを温めるより難しい」

「選ばれし者だぞ」

 と、笑った。

「つまらないよな。たかだかあんたらに選ばれただけだ。気まぐれにつきあわされる身にもなれ。何でもかんでもできないんだよ」

 僕は途中で咳をした。

 レイが僕の頭が持ち上げ、膝の上に乗せた。左手に頬を押し寄せていた。右手で腰の傷を押さえるようにして、耳に唇を近づけた。おまえは死なないと温かい息で囁いた。

 そして、

「さわるな!」

 と、絵師を睨んだ。

「何と気の強い三つ目よな。わしの妻を見ているようだ。とりあえず生者の世界へと移ろうかな。ここではいくら三つ目でも、力を奪われていくだろうからな」

 老絵師は移動の呪文を唱えた。


 僕たちは塔の前庭にいた。

 相変わらず気味の悪い地響きが断続的に起きている。

「ここでなら彼の回復もはかどるだろう。そのまま抱いていてやれ」

「黙れ」

 あくまで静かに、

「おまえに言われなくても」

 塔を見上げる老絵師には、やわらかな笑みが浮かんでいた。レイに厳しく言われても目を細めて、じっと塔を見つめ続けた。

 どれくらい経っただろうか。傷を負った僕には長く思えたが、実際のところはそうでもないのか。レイは傷に手を添え、額を僕の左手に押しつけていた。レイには回復の呪術というものがあるのか。

「もともとはわしがこの世界を望んだようなものだ。戦も貧しさもない世界をな。わしは人のために尽くそうとしたのだよ。呪術で命を永らえてまで。しかし人生というものは短い。千年くらいか。わしの肉体は衰え続けた」

「当然だ」

「いちいち口答えするな。わしはわしの考えた呪術を使い、あとを妻に託すことにした。わしの記憶や力は、その短剣に封じ込められた。あと一歩のとき、わしの考えた呪術は妻の心をむしばんだ」

「あと一歩てのが難しいんだ」

「知った口を利くな。わしは何という愚かなことをしたのか」

 レイはじっと僕の頬に視線を合わせていた。老絵師すら見ない。彼女は彼女で老絵師の言葉を理解しようとしていたのだ。僕は情けないかなふわふわしていた。

「わしの編み出した呪術は強すぎたのかもしれんな。妻は呪術を介して魂の世界に魅入られたのだ。妻はわしの願いを叶えようとしてくれたのだ。何も悪くはない。悪いのはわしだ」

 僕はレイのうなじに触れた。ハッと気づいた彼女に、ずっと楽になってきたから、もういいと伝えた。

「よくない」

 涙をこぼした。

「止まらないもん」

 心配ないと言ったとき、急におかしさが込み上げてきた。

「楽になってきたんだよ」

「どうして笑う?」

「追われたこと思い出した」

 角の獣に追われて、命からがら逃げたときを思い出した。あのときも笑った。息ができないくらい。

「覚えてる?」

「覚えてる」

「よかった。二人の記憶だ」

「わたしはおまえのことしか覚えてない」

 レイは老絵師を仰ぎ見た。

「心配はいらん、お嬢さん。己の力を信じなさい。おまえは由緒ある三つ目の種族なのだから」

「おまえは……」

 レイが言いかけた。僕は彼女の頬を撫でた。涙が返り血と混じって濁っている。このお転婆のレイが由緒ある種族だとさ。この世界の由緒も知れているな。彼女は僕の頭を抱き上げて、もっと強く額を顔に押しつけてきた。たぶん老絵師に対して言いたいことがあるんだろうな。

「肉体という器を捨てた魂は無限の力を持っていた。妻は触れてはならぬものに触れたのだ。わしは妻を救えると信じていたが、もはや止めることもできなかった」

 とつとつと昔語りをする絵師の涙が目尻から伝った。

「死者は貪欲だ。わしは越えてはならん一線を越えた。死者は生者の世界をおびやかした。だからわしは白亜の塔を建てた。死者の魂が生者の世界に流れ込まぬように。あれは安住の地ではない。魂をせき止めるダムだ」

「レイたちが治めていたという世界を滅ぼしておいて言うことか」

「この世界に塔を作るとき、まだわしの呪術は不完全だった。この世界に暮らしていた三つ目族の力を必要としたが、彼らはわしの言うことに理解を示さないだけか、わしらを追い出そうとした。わしは世界のためにも死者のためにも戦う決意をした。妻も賛同してくれたぞ。わしは他の種族にも精霊と話す術を教え、三つ目族の力を削ぐことに成功した。たしかにこの世界で争いは続いたが、そんなときにでも塔は完成した。わしらは呪術を世の中の者が学べるようにもした。世界は均衡で成り立つものだからな。三つ目族の使う術は誰もが使えるようになり、やがて三つ目族は追いやられた。わしらは世界に新たな光を示した」

 いいことを話してやろうと、

「隣接世界は似ているものになるようだ。こちらは呪術や呪文がある世界だな。精霊が棲む世界、竜の棲む世界。おまえさんの世界も、これらの世界に近いのかもしれんな」

 特にいいことでもない。だから何だというのだ。この老人の昔話につきあうのも疲れてきた。

「僕は美月さんを救いたくて来たんだよ。あなたのためじゃない。この世界を支配するためでもない」

 ひどくがっかりした。体がますます重くなる。この老絵師は、ずっと夢の中にいる。これまで話したことは、都合のいいように捻じ曲げられている。老絵師こそが世界を支配しようとした。どこかの世界の呪術使いが呪術に魅入られ、触れてはいけない魂に触れ、己自身が破滅に追いやられた。あの学校でも衛兵が話していた。ほとんどの者は才能がないことに気づき、辞めていく。なまじ才能があったのが、彼の不幸だなんだろう。

「僕を喚んだのは女王様だよ」

「わしだよ」

「女王様のあんたを救いたいという気持ちだ。この期に及んでまで隠したいんだな。すべてはあんた一人が仕組んだことだ。天井にいろんな人や動物の描いたのも、そこに魂を入れてあんたが好きにするためだ」

「わしは短剣に姿を変えてまで妻を守ろうとした」

 ようやくレイが苦々しげに、

「もういい!逆だ!おまえを好きだった人は、おまえのために魂に喰われた。覚悟の上でな!おまえはそんな人を犠牲にしてまで、こんな世界を欲しがったんだ。なぜ認めようとしない!ガキなのか?」

 老人を睨んだ。

 聞いていたのか。そっちの方が驚きだ。興味などないと思っていたのに。そういうことだ。僕はあの老人になりかけのところだった。レイを僕の尺度で測っていたのだな。

「わしは平和な世界を作ろうとしたのだぞっ!」

「わたしたちを一掃してな。でもそんなことはどうでもいい。世の中に争いなんて数えきれないほどあるからな。わたしが許せないのは、おまえはおまえを愛してくれる人を道具にしたことだ!」

 ひときわ大きな地響きがして、背後の石壁が波打つように倒れ、壁に沿って埃が立ち込めた。塔が雄叫びを上げているように感じた。

「妻は魂の群れに負けたのだ。わしの術を信じきれずにっ!」

「おまえは、おまえは愛してくれる人の何を見ていたんだ!何も与えようとせず、与えられることばかり望んでいたんだ!わきまえろ!」

「わしは妻は世界でいちばん強い剣にしてやった。そしてようやくわしと対になれたのだ」

「もう喋るな!そんなことに何の意味がある!それがどうした!まだおまえは彼女に守られ、ぬくぬく都合のいいことだけを並べ立てる」

 レイの怒りが頂点に達した。悔しくて何も言えなくなった。女王は国ノ王に操られていた。いや。国ノ王に操られるふりをして、彼の暴走を止めていた。では国ノ王はどうだろうか。彼は己の欲に飲まれた。

「レイ?」

「ごめんなさい」

「謝らないでいい。泣かないで。君は何も間違えてなんていない」

 頭を撫でて慰めた。

 そんな様子もお構いなしに、

「わしが望んだのは平和だ」

「おまえは散々、愛してくれる人の好意を弄んだ。自分のために」

 消えそうな声だった。込み上げてくる悲しみが声を抑えていた。その代わりに涙がこぼれ落ちた。

「そんな悲しいこと……」

「わしは妻を世界に一つとない剣にしたのだ。ずっと一緒にいられるために。この剣を持つものは世界を治めることができるのだよ」

 老人は酔いしれて泣いた。

 話しても無駄だ。

 白亜の塔の一部が崩落して、そこから弦楽器の低音をこするような音がもれでた。と、巨大な石の像が現れ、角の生えた巨人、サイクロプスや異形の獣が足音と息づかいを残して駆け抜けた。駆け抜けたときには、もうすでに姿が消えていた。

 塔の先端は倒壊して、仰々しく飾られていた琥珀が塔の中へ融けるように落ちた。流れた液体は触れるものを蒸発させた。黄昏のような光を放ちつつ、それらに包まれた死者の世界の住人は低いうめき声を出して悶えた。悲鳴が聞こえる。まるで地獄絵図の苦しみを表現するのにも近い。魂は与えられた肉体から離れ、空一面を覆い尽くした。皆、それぞれの世界へと還るのだ。僕は壮大な終わりの姿を目にしていた。

 絵が飛び出してきた。

「魂が解き放たれるとき、器がなければいかんと考えてな。わしの見たことのあるものは忠実に描いたつもりだ。型はソレに囚われると邪魔になるが、それでも型がなくていけないのだよ。意識しすぎても、しなさすぎても災いになる。解放された魂は戻れるようになるといいが」

 国ノ王は、どこまでも認めようとしていないんだ。彼がどこでむしばまれていたのかわからない。ただこれまでうそで酔いしれていた。

「もうあんたの声は聞き飽きた」

 僕は老婆の姿を見た。黒い服を着た彼女は、まったく動かない。それでもたぶん聞いていただろう。

 レイも女王を見ていた。

 こんな「眼」もするんだ。

 そうか。

 「眼」は見通していたんだ。

「レイ、いつから気づいて……」

「わたしはバカだから気づかなかった。眼は見ていたのに。女王様は救いを求めていた。自分の中に閉じ込めてまで、奴を守ろうとした」

「迷路で会ったの?」

「うん。老人は迷路でぶつぶつ話していた。いろんな部屋があったけど、案内されたところはすべて同じなんだ。だからほっといてきた。おまえの声が聞こえたから。おまえが信じてくれたから迷わず来れた」

 女王様は話しはじめた。

「ここ数十年、わたしにも限界が来ていたわ。あの人の執念を抑える力も薄れるくらいまでにね」

 僕は老婆の傍まで這うようにして行くと、乱れたベールをそっと上げた。そこにはシワに刻まれた青白い肌、薄い唇の老婆が、穏やかな表情で目を閉じていた。

「動いちゃいけないわ」

 老婆は目を開けた。

「聞いてたんですか」

「ええ。はじめは夫の野心を封じ込めていたけど、ときどき解放することにした。そうしないとわたしが潰れそうになるの。そのときの彼はいいこと話してたでしょ?」

「絵を描いていたときですね」

「あの人が穏やかなときを見つけては好きなことさせてあげた」

「なぜあなたは彼の面倒を見続けたんですか。あなたの夫はすでに狂っている。何をしていたのかしているのかわかっていない」

「でもね、好きな人なのよ。いいときだけを見て、悪いときは捨てられないわ。自己満足なんだけど」

 レイが僕を支えなおした。彼女は王女様の顔を見つめていた。僕はそんなレイの顔を見つめていた。

「ごめんなさいね。わざと嫌なことをして。すべてはうそなの。お嬢さんも傷つけたわね。でもわたしはあの人については何も言わない」

「わかりました」

 僕はレイと目を合わせた。

「あなたたちはやさしいわね」

「まだまだです。女王様は何人の魂に会いましたか」

「たくさんよ」

 僕を抱えるようにしたレイの涙が老婆の頬に落ちた。

「三つ目のお嬢さん、わたしのために泣いてくれるの?」

 僕はレイのお腹のぬくもりを感じながら、老婆の横顔に話した。

「ではある呪術使いがこの世界を支配しようとした。そして魂の力に気づいた。還るべき魂を集めた」

「そうね」

 老絵師はほうけた顔を上げて、自分が描いた絵を眺めていた。もはや話すことなどできない顔をしていた。それを女王様が見て、

「でももうおしまい。あなたが終わらせてくれた」

「すべて女王様の予定でしたね」

「まさか。買いかぶらないでちょうだいな。あなたはわたしの気持ちに触れただけなのにね。こんな災難に引きずり込まれて。本当にごめんなさいね」

「レイに会えました」

「お似合いよ」

 女王様はさく笑った。

「どんな記憶でも忘れてはいけないと思うの。あの人について、たくさん忘れたいことがあるわ。でもどうでもいいような小さい、ひどい記憶と思えるようなものでも、すべての積み重ねが思い出になる。あなたも死ねときに気づくわ」

 嫌味はなかった。

「三つ目のお嬢さん、これをあなたにあげるわ。あなたのものよ。物置を探したの。ずいぶん古いものだから、わたしの思い違いかもしれないと諦めたけど、見つけられたわ」

 女王様はレイに握らせた。細かなギョーシェに金と銀で彫刻を施した額飾りだった。レイは僕を支える手と反対の手で受け取った。

「探したのよ。もう少しうやうやしくしなさいな」

「しつけが至らずすみません」

「まじめな子ね。魂はこの世界へ押し寄せてはこない。わたしが管理していたから。塔の琥珀が魂をそれぞれのところに導いてくれるわ。魂の軍を率いて、世界を征服する。あの人は望んだけど、もうそれもおしまい。早くお逃げなさい」

 陸に棲む者、海に棲む者、空に棲む者が旅立った。圧巻は竜が羽ばたいたところだ。がれきから首を突き出し、重い体を持ち上げるようにすると、翼が熱風を巻き起こして空へ消えた。

 僕はレイに、

「逃げてくれ」

 と、告げた。

 レイはうなずくと、力任せに僕の体を抱き上げた。

「マジか」

「マジ」

 つづいて琥珀色に染まった空へ魂が解き放たれる。音もなく、まるで粉雪のようだった。久々の自由は戸惑うかもしれないが、苦しみも含めて受け入れてくれればいいけど。

 降り注ぐがれきの中、レイは一歩一歩、僕を運んだ。女王様の指がかすかに動いた気がした。

 頭上に結界の道ができた。




 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る