第29話 愛する人
僕たちが現れたとき、天井絵の空気は冷えていて、差し込む光もどこかしら息を殺しているように思えた。
「どう壊すんだ?」
「僕が壊すわけじゃない」
死者の世界を守るように建つ塔がなくなれば、この世界に生きる者たちの力が流れ込んできて、女王の力も野望も消えるのではないか。
「繋ぎ止められていた魂は解き放たれるんだ。変幻自在にうろつき回る女王も消える。何となくだけどね」
「何となくか」
「わからないんだ」
「わたしは信じる。おまえが言うんならそうだ。そうでなくてもかまわない。またそのとき考ればいい」
「逆もあるかもしれないな」
魂が生者の世界を滅ぼそうとするかもしれない。この世界は混沌に飲み込まれる可能性がある。
「そんときはそんときだな。僕たちが世界の救世主になるか悪魔になるかだよ」
「どっちでもいい。かかってくる奴はみんな敵だ」
天井の絵は動いていた。巨人は山を越えようとしていたし、鱗をきらめかせた竜は火を噴いて、翼のある馬は羽ばたくたびに火の粉を散らしていた。古びた足場には誰もいない。あれほど血に塗れたところなのに、兵士たちの死体も見えない。僕も心がざわめいた。嫌な経験だ。人を殺す音や臭い、自分が死ぬかもしれないという怖さ、息苦しさ。忘れ去れと言わんばかりに、死体は消えていた。術の力だろうか。
「おまえには見えるか。見ても気持ちのいいもんでもないけど」
「レイには何か見えているのか」
「うん」
「それなら僕も見る」
レイが額を僕の鎖骨のくぼみに押し付けてきた。彼女の僕には見せたくないという気持ちがわかる。
「術の膜が弱い。何て言えばいいのかわからないけど、初めて来たときは押されるほど感じたのに」
「力が落ちてるんだろうね」
「まだ残っている魂の力を使えれば落ちないはずなんだ」
床にはアクリルのような透明な層がある。死体が血の対流の中、浮き沈みを繰り返していた。頭、腕や足だけの肉の塊が浮かんでは沈む。僕が吐かずにいられたのは、これまでの経験なのかもしれない。僕はレイに額飾りをつけるように言った。
ふと気配がしたので、僕の両手の指はハンドアックスにかかった。
柱の陰に誰かいる。
フィリが現れた。僕は理解していた。死者の庭園に入れ、生者の世界まで追いかけてくる。生者と死者の世界を行き来できるなんて、どちらにも属している人ではない。
「驚かないのね」
「驚いてる。声も出ない」
「わたしはね、女王様に力を与えられたのよ。生きる者の世界にいた兵士もそう。女王様の傍に仕えていれば力を持つ者でいられるの」
「力とは立ち向かうものだ。君の言う力は何もかもから逃げきるためのものだ。でも逃げられないよ」
「わたしに意見するとは」
「力を維持するために、女王様は忙しい。あちこちの世界の扉を開いては、自分の欲を満たしてくれる者を探し続けなければならない。そんな日々、もう何も楽しむことなんてできないんだ。ただ死なないために生きている」
「うるさい奴ね。小鳥ほどよく鳴くものよ」
フィリは笑い、広間の真ん中に移動しつつ、自身の体を抱いた。
「結ばれた夜は興奮したわ」
「不思議なことを言うね。力が欲しい人が、力ずくで押さえつけられることを望むなんて変だよ」
「たまにはそれもいい」
ん?
隣のじっとりとした、重苦しい視線を感じた。何もやましいことはないし、あったとしてもレイに何か言われる筋合いもない。ない。ないよね。何だろうか、この陰鬱さ。
「わたしたちはここで一緒に暮らせるんだと信じたわ。すべてわたしたちの思うようになる世界よ」
レイは離れ、柱の土台に腰を掛けた。僕とフィリの話を聞いてやろうじゃないかという様子だ。
「フィリ、ちょっとしゃべるの待ってくれないか」
僕はレイに向いて、
「レイ、たぶん誤解してる」
「ワタシ、言葉分カラナイ。二人、好キニスル。ワタシ、見ル人」
「何もないんだ」
世界のことなんてどうでもいいと思えるほど、背筋に冷や汗が流れた。レイの瞳孔は引き締まったまま光を失いつつある。あれは獲物を狙う獣の目だ。彼女の指が額飾りに触れた。
「何もしてないのか」
「何もない」
「結んだのか」
「話すと長くなる。何も今じゃなくても。話す話すから。僕が彼女の手を結んだ。お互いにじゃないよ。ベッドに。ん?」
「おまえはそういうことをしていたということでいいのか?」
それには、
「奴はバケモノだぞ」
「おまえもだ。おまえも死者と生者の世界を行き来している」
「リングのおかげだよ。それ言うならレイもバケモノじゃないか?三つ眼で術使いだ」
「じゃここにはバケモノしかいないということがわかった」
「いやいや。落ち着けよ」
「おまえがな」
「わたしたちはお互いに息遣いも聞こえるほど、激しく打ち合った」
フィリは笑みを浮かべた。
「ちょっと黙ってくれないかな」
僕は再びフィリを制した。
「もういい」
レイは額飾りをちぎると、
「話は後で聞く」
ぴょんと土台から降りた。
「まずおまえは死ね!」
まず?
レイの体が消え、次の瞬間フィリが跳ねた。レイの輝く剣とフィリの剣がぶつかる。フィリの剣はレイの光を受け止めてシャボン玉のように色を変えた。すかさずレイの鞭がうなるが、フィリの速攻で斬り刻まれた。散り散りになった光はフィリに襲いかかった。しかしフィリは笑みを浮かべつつ跳ね除けた。あの波状攻撃を余裕で跳ね返していた。あれはフィリの力だけではないような気がする。
「この剣はわざものよ。この剣を前には術なんて意味ないの」
「うるさい」
「シン、あなたはわたしの両手剣を見たことがないでしょう」
「相手はわたしだ」
「あなたと同じ。わたしもいざというときのために隠していたの。まずはこの小娘から殺してやる」
フィリの剣はレイをとらえていたが、レイも寸前のところでかわした。しかしレイではフィリに勝てない。術がことごとく剣で跳ね除けられている。そうではない。吸い込まれている。フィリの剣はレイの力を吸い込んで、艷やかに変化した。
「レイ、やめろ!」
僕は叫んだ。
駆け寄ろうとしたが、すでにレイは暴走していた。我を忘れているのかいないのか、レイはフィリの剣筋に魅入られてしまっていた。かわせると信じているのか。罠に追い詰められているのに気づいていない。
やられる!
僕がハンドアックスを投げ込もうとしたときだった。腰が熱い。足がしびれて動かない。
肩越しに見ると、
「この剣もわざものでね」
カンパがニヤニヤしていた。
僕は自分の膝をつかんだ。耐えるんだと言い聞かせ、遠心力でハンドアックスを振るおうとした。
「だがすぐには殺っ」
レイの姿が現れ、
「シンに手を出すんじゃない!」
拳がカンパの顔を砕き、彼は柱に打ちつけられた。後頭部から吹き出した飛沫が、すぐに彼を覆った。
「今度したら殺すからな」
たぶんもう死んでる。
不意にフィリが得意の袈裟がけを放ってくるのが見えた。僕は腰に刺さった剣を抜いて受け止めた。
二つの剣が甲高く共鳴した。
あのときと同じだ。初めて女王に会ったとき、フィリが抜いてカンパが止めたときの悲鳴だ。
僕はカンパの剣でフィリの剣を何とか跳ね返した。腰に添えた手から血が漏れた。フィリは間合いを詰めてくる。しかし彼女が剣を返すときに見えた。フィリの癖が出た。両手剣であろうが片手であろうが無意識に右のかかとが浮く。
僕は彼女の持つ剣の腹にカンパの剣を突き刺した。すぐに全体重をカンパの剣の柄にかけて、フィリごと床に倒れ込んだ。この悶え苦しむ大剣こそが、今の女王の姿だ。僕はフィリを蹴飛ばした。剣から離れたフィリは操り手がいない人形のように倒れた。カンパも同じく人形だ。
僕はとどめを刺そうとして、持っていた剣を上段に構えたが、急に体が動かなくなった。ハンドアックスよりも軽い剣なのに、誰かに掴まれているように動かない。くそったれが。ここで言うことを聞けよ。左腕と腰から足にかけて這うように血が流れた。シャツもズボンが重くなる。視野が揺れ、地響きがした。
声が聞こえた。
「そのへんにしてやってくれ」
僕が手にした剣が話した。
「国王か」
「気づいたか。おまえたちには彼女のことを話さねばならんな」
「あんたの与太話を聞いている余裕はないよ」
僕は剣を捨てると、ゆだくりと膝をついた。息を整えながらカンパの持っていた剣を見すえた。ようやく老絵師の姿が浮かんできた。
「まあそう言うな。腹立たしいだろうが、年寄りの話を聞いておくのもよいだろう。気に食わんか」
「そうじゃない。見てくれ」
僕は服の下の傷に触れた。左手の平を見せて、腰にも目を向けた。
「よく聞こえないんだよ。せっかく話してくれてもな」
「治癒の術を学んだんなら、自分で治せるもんだ」
「才能がないんだろうよ」
僕は途中で咳をした。
レイが僕を寝かせた。頭を膝に乗せて左手を頬に添えて、右手で腰の傷を押さえてくれた。耳に唇を近づけて、おまえは死なないと温かい息で吹き込んできた。
そして、
「さわるな!」
と絵師を睨んだ。
「何と気の強い三つ目よな。ひとまず生者の世界へと移ろうかな。ここではいくら三つ目でも、力を奪われていくだろうからな」
老絵師は移動の呪文を唱えた。
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