第30話 秩序

 前庭に敷かれた芝生は昼からの熱を帯びていた。相変わらず気味の悪い地響きが断続的に起きている。

「ここでなら彼の回復もはかどるだろう。そのまま抱いていてやれ」

「黙れ」

 あくまで静かに、

「おまえに言われなくても」

 塔を見上げる老絵師には、やわらかな笑みが浮かんでいた。レイに厳しく言われても目を細めて、じっと塔を見つめ続けた。

 どれくらい経っただろうか。傷を負った僕には長く思えたが、実際のところはそうでもないのかもしれない。レイは傷に手を添え、額を僕の左手に押しつけていた。

「レイ、治癒が使えるのか」

「使えない」

「そうか。でももう少しこうしていてほしい。何か治る気がする」

「うん」

「この世界のことだ。昔この世界は滅びかけた。精霊が消え、それまでの秩序が失われた。儂の妻がそんな世界を救おうとした。儂は妻のために多くの術を開発したんだ。魂を繋ぎ止める術もその一つだ。しかし儂らは衰えてきた。混沌はひどくならないように、儂らは何度も魂を転生して食い止めた。ただすべてがうまくいかわけではない。儂は自分の寿命が尽きる前に剣に姿を変えた。この剣だ。妻にも持てるように片手の剣に変えた。儂は考えた術をすべて妻に託すことにした」

 老人は青銅のように輝く剣を階段に立て掛けた。

「しかしこの世界に残った妻は魂の持つ力に魅入られた。儂は妻ほど強い女ならば、力に魅入られることなどないと信じていた」

 レイは必死で老絵師の言葉を理解しようとしていた。情けないことに僕は膝の上でふわふわしていた。

「儂の開発した術の数々は強すぎたのかもしれん。妻は術を介して魅入られたのだ。儂のせいだ」

 僕はレイのうなじに触れた。飛び上がるほどに驚いた彼女に楽になってきたから、もういいと伝えた。

「よくない」

 涙が溢れた。

「止まらないもん」

 心配ないと言ったとき、急におかしさが込み上げてきた。

「楽になってきたんだよ」

「どうして笑うんだ」

「追われたこと思い出した」

 角の獣に追われて、命からがら逃げたときを思い出した。あのときも笑った。息ができないくらい。

「覚えてる?」

「覚えてる」

「二人の記憶だ」

「おまえとのことしか覚えてない」

「心配はいらん。己の力を信じるんだ。おまえには力がある」

「おまえは……」

 レイが言いかけたとき、僕は彼女の頬を撫でた。涙が返り血と混じって濁っている。彼女は僕の頭を抱えるように背を丸めた。この老絵師に対して何か言いたいのか。

「妻は触れてはならぬものに触れたのだ。気づいたときには、もはや儂は妻を止めることもできなかった」

 老絵師の頬に涙が流れた。

「おまえには魂を繋ぎ止めなければならない理由は話したな。白亜の塔は死者の魂が流れ込まぬように建てたダムのようなものだ」

「混沌は解消されたのか」

「儂らは多くのものに魂の術を教えたからな。今ようやく解消されつつあるのではないか」

「そうは見えないけどね」

「好きに言うがいい。だがおまえごときに儂らのしてきたことが理解できるものか。儂らはどれほどの争いをしてきたかわかるまい」

 僕はいつまで老人の昔話に付き合わなければいけないのか。

「力を手に入れた妻は世界を支配しようと考えた。もはや老いた儂にはどうすることもできない」

「ちょっと理解できない」

 僕は呟いた。

 レイの瞳が頷いた。

「あなたはすべてを妻のせいにしようとしている。なぜなんだ。あなたが世界を支配しようとしたことを認めればいいのに」

 この老絵師こそが世界を支配しようとしていた。触れてはいけない力に触れて破滅に追いやられた。僕は塔の街の学校の衛兵が話していたことを思い出した。ほとんどが才能に気づいて辞めていく。少し才能があったのが、彼の不幸なんだ。

「すべてあなたがしようとしていたことだろう。あの天井にたくさんの絵を描いていたのも、そこに魂を入れて好きにしようとしたからだ」

「儂は剣に姿を変えても妻を守りたいと願っていた。これからすべてが我が手にできるというときだ」

「もういい!」

 レイが吐き捨てた。

「おまえを愛した人はおまえのために尽くした。なぜおまえは気づかないんだ。こんな世界のためにおまえはかけがえのないものをなくしたことに気づかないのか」

 レイは震えていた。

「儂は世界のために働いた」

「世の中に争いなんて数えきれないほどある。そんなものは権力のある連中で好きにすればいい。わたしが許せないのは、おまえは愛してくれる人を道具にしたことだ」

 ひときわ大きな地響きがして、背後の石壁が波打つように倒れ、壁に沿って埃が立ち込めた。塔が雄叫びを上げているように感じた。

「妻は儂の開発した術のおかげで世界を支配できるまでになった」

「これまでおまえの妻はシンの前に現れたことがあるのか。一度も姿を見せていない。あのときシンを苦しめたのはおまえ自身だ。わたしが何も見えていないと思ったか」

「儂は妻は世界で一番強い剣にしてやることにした。そしてようやくわしと対になれたのだ」

「だから何だ!そんなことに何の意味がある。剣になったのは彼女自身の判断だ。おまえは彼女に守られて都合のいいことを並べ立てているんだ。わたしは見てきたんだ!」

 レイの怒りが頂点に達した。悔しくて何も言えなくなった。女王は国ノ王に操られていた。いや。国ノ王に操られるふりをして、彼の暴走を止めていた。では国ノ王はどうだろうか。彼は己の欲に飲まれた。

「レイ?」

「ごめんなさい」

「謝らないでいい。泣かないで。君は何も間違えてなんていない」

 頭を撫でて慰めた。

 そんな様子もお構いなしに、

「儂が望んだのは平和だ」

「おまえは散々愛してくれる人の好意を弄んだ。自分のために」

 消えそうな声だった。込み上げてくる悲しみが声を抑えていた。その代わりに涙がこぼれ落ちた。

「そんな悲しいこと……」

「儂は妻を世界に一つとない剣にしたのだ。ずっと一緒にいられるために。この剣を持つものは世界を治めることができるのだ」

 老人は酔いしれて泣いた。

 話しても無駄だ。

 白亜の塔の一部が崩落して、そこから弦楽器の低音をこするような音がもれでた。巨大な石の像が現れ、角の生えた巨人、サイクロプスや異形の獣が足音と息づかいを残して駆け抜けた。駆け抜けたときには、もうすでに姿が消えていた。

 塔の先端は倒壊して、仰々しく飾られていた琥珀が塔の中へ融けるように落ちた。流れた液体は触れるものを蒸発させた。黄昏のような光を放ちつつ、それらに包まれた死者の世界の住人は低いうめき声を出して悶えた。悲鳴が聞こえる。まるで地獄絵図の苦しみを表現するのにも近い。魂は与えられた肉体から離れ、空一面を覆い尽くした。皆それぞれの世界へと還るのだ。僕は壮大な終わりの姿を目にしていた。

 絵が飛び出してきた。

「魂が解き放たれるとき、器がなければいかんと考えてな。儂の見たことのあるものは忠実に描いたつもりだ。型はソレに囚われると邪魔になるが、それでも型がなくていけないのだよ。意識しすぎても、しなさすぎても災いになる。解放された魂は戻れるようになるといいが」

 国ノ王はどこまでも認めようとしていないんだ。彼がどこでむしばまれていたのかわからない。ただこれまでは嘘で酔いしれていた。

「もうあんたの声は聞き飽きた」

 僕は老婆を見た。黒い服を着た彼女は、まったく動かない。それでもたぶん聞いていただろう。

 レイも女王を見ていた。

 こんな「眼」もするんだ。

 そうか。

 「眼」は見通していたんだ。

「レイ、いつから気づいて……」

「わたしはバカだから気づかなかった。眼は見ていたのに。女王様は救いを求めていた。自分の中に閉じ込めてまで、奴を守ろうとした」

「迷路で会ったのか」

「うん。老人は迷路でぶつぶつ話していた。いろんな部屋があったけど、案内されたところはすべて同じなんだ。だからほっといてきた。おまえの声が聞こえたから。おまえが信じてくれたから迷わず来れた」

 そこで女王様は話し始めた。

「ここ数十年、わたしにも限界が来ていたわ。あの人の執念を抑える力も薄れるくらいまでに。昔から執念は人一倍だった。だから混沌を抑え込むための術も開発できたのね」

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