第16話 美月
馬車を降りた僕たちは、雲の上まで続いているかと思うような階段を見上げて息をするのも忘れた。牛乳のように白く滑らかな階段を前にして、二人がぽつんと立っていた。青年はいつの間にか、階段の中腹、あくまでも見えているところまでであるが、そこから僕たちが来るまで待っているようだった。
「今ナラ逃ゲル」
「やめた方がいいと思うけど」
「ココ、好キナイ」
レイは踵を返した。僕が振り向く間もなく、聞いた音がした。
「ほらね」
「痛イナイ」頭を抱えて「チャント覚悟シテタ。ダカラ……」
僕は健気なレイの頭を撫でた。
「痛イナイ」
「行こう」
「ウン」
僕たちは階段を急いだ。しかし行けども行けども青年に追いつかない。息を継いで、ようやく中腹に来たと振り返ると、まだ三段目だった。これには僕もレイも憮然とした。わざわざ連れてきて、これはないだろうと。二人とも頭に来て階段を降りた。今度は見えない壁に当たらないようにし、二人で力任せに蹴飛ばした。結界は水に油を浮かべたように歪んで、足元の階段が崩れ落ち、溶岩のように煮える炎に跳ねて沈んだ。僕は落ちかけたレイの体ごと抱きしめるようにして、階段の上に放り投げた。逆にバランスを崩し、溶岩の中へ吸い込まれた。
レイが叫んだ。
額の虫が弾け飛んだ。
僕の首の文様が照らした。
「苦しい……」
僕は引き上げられた。ぶん投げられた。レイが駆けつけてくる。心底安堵しているような顔だった。
「大丈夫? 生キル?」
僕は「大丈夫だよ」と微笑みを浮かべつつ、油断させておいた。
「良クタ。レイ、偉イ」
「そういう助け方やめい!」
僕はレイの背後に回り込んで首を締め上げた。
「いつか死ぬわ!」
「オマエ、ワタシ、ブン投ゲタ」
奥襟を掴んで背負い投げようとしたので、僕は堪えた。
あれ?
二人は気づいた。
階段の一番上にいた。青年が慌てて追いついてくるのが見えた。これまで見せたことのない驚きの表情をしていた。そして何やら話し、頭上を指差した。巨大なエンタシス状の柱に支えられた、梁、いくつもの格子状で区分けられた天井、そこには大勢の争い、穏やかな空、燃え盛る炎の翼の巨大な生き物、数える気にもならないほどの絵が描かれ、その中で動いていた。
「コンナ早ク着イタ」レイも天井を見上げながら青年の言葉を通訳した「ワタシタチ始メテ」
まだ足場があり、そこには一人の老人が絵を描いていた。金属のような鱗をした胴体、翼、槍のような尻尾、長い首、角の生えたトカゲのようなものだった。口には絵師がすっぽり収まるくらいだ。
「マダ完成スルナイ」
レイは他のところを指差した。薄暗くなっている、部屋の大半の天井には絵がない。よく見ると、僕たちの頭上にだけある。それでも空一面にあるように思えた。こんな絵を描ける人は凄い。あの老人は誰だろうと尋ねた。青年は興味なさそうに答え、レイが訳した。
僕は聞き返した。
「国ノ王」
「は?」
青年は老人のいる下まで歩み寄ると、優雅に膝をついた。老人は頭上の足場でカラカラと笑い、足場から階段へと移動して、たいして急ぐでもなく降りてきた。
「今、逃ゲル」
「本当に逃げたいね」
畏怖というか、こんな気持ちは今までない。あの人が持っているものなのか、この場の荘厳さが創るものなのか。とにかくどうしてよいかわからないまま、僕は膝が震えていることに気づいた。あちらの家族と会うと決まったとき、実際に母に連れられて会ったときを思い出してしまった。怖いのか。不安なのか。後ろに結界があるから、二人で回り込めばなんとかなるかもしれない。
僕たちはそうした。
別々に結界に衝突した。
なぜ僕たちは、こんなところへ連れてこられたのだろうか?
「納得イクナイ」
たかが学校に侵入し、発見され、衛兵を蹴散らかし、校舎を破壊したくらいなのに。大概のことはしているとは思うが、わざわざ宮殿に連れてこられることでもあるまい。
大きな窓から、いくつもの街々の屋根が見え、遠くに冬の雪に覆われた山々が霞んでいた。僕たちは階段、大理石、天井や廊下の縁に張り巡らされた材、刺繍が動いているタペストリー、また階段、たくさんの事務官、衛兵などを連ねながら奥の奥まで歩かされた。どこまでが術でどこからが本物かわからなかったものの、僕もレイも考えるのも面倒くさいという冷めた顔で歩いた。さすがに手枷も足枷もないが、なぜか気が重い。これが警察署ならば、まだ理解もできる。
王宮となると、
「何カ、ムカツク」
のだ。しかも何も言われないまま歩かされる。僕は警戒されているのか、単に役所仕事でたらい回しにされているのかすらわからない。レイはただ単に腹が立つらしい。玄関で国王に会ったのなら、そこで話せばよいのに、青年は国王を止めたように見えた。まずかったのは、逃げようとしたからかもしれない。それでも国王は普通に話そうとしてくれたようにも思えたが、そもそもこんなところにいるのかどうか。
入ってきた扉が背後で閉まり、左の扉が開いて、黒髪の華奢な女性が入ってきた。長靴、革ベルトの腰には細身の剣を携え、薄緑の制服姿は背筋が伸び、凛々しい。彼女は扉のところで立ち止まり、もう一人の質素でありながら、気品のあるドレス姿の女性が入ってきた。彼女は顔をベールで隠していたが、僕たちの前に立つと、小さく会釈をした。
先程の青年が扉を締めた。
女剣士はこの高貴な女性の護衛なのだろうか。青年はいろいろ権限のある人なのだろうか。このベールで顔を隠した女性は、誰なのだろうか。今の僕は疑問だらけだ。
女性は何やら話した。しっとりとした、どこか優しい声だ。聞いたことのある気がした。僕は女性が話し終わると、レイに通訳を求めた。
「マッタク、ワカルナイ」
「え?」
「コノ人、言葉、ワカルナイ」
レイは小首を傾げた。
青年が、
「ようこそ来ていただきました」
と話した。
「日本語?」
「これは日本語というのですか?あなた方が話しているのを聞いて、私の術で予測しました。通じているようでよかった。もっと話していただければ、もっと精度が良くなると思います」
「ソレクライ、ワタシ、分カル」
レイは顎を上げた。どこで意地を張ろうとしているんだ。
「ここにあらせられるのは女王様でございます。今女王様がお使いになられたのは、古代から伝わる王族の正式な言葉です。王族は古代王国語を使わねばなりません」
僕とレイはお互いに顔を見合わせた。沈黙。すべてが演技じみて怪しいんだよな。僕たちはそもそも何のことだかわかっていない。僕はこの世界のことを知らないし、レイは片田舎で育てられたので、街のこともましてや王のことなど知らない。
「あくまで正式にはですが」
青年は沈黙を消そうとするかのように付け加えた。頭には、あの玄関の足場で絵を描いていた国王が浮かんでいるに違いない。
青年は慌てていた。
女王が笑いを殺しているかのようにベールが揺れた。そして何やら青年に話しかけた。青年は溜息にも似た返事をして黙り込んだ。
「何て?」
と僕はレイに尋ねた。
「モウ、イイ」
「もっと長かっただろ?」
「短イシタ」
僕は窓を背にした女王様の正面にいた。彼女の右には剣士、左の後ろに青年。なぜだか不機嫌なレイ。他に何か話していただろう。ちゃんと訳せよとうながした。
「自分ガ学べ」
と素っ気ない。この気まずい雰囲気は何だろうか。僕は青年に救いを求めるように見たが、あからさまに視線を逸らせた。くそ。ちょっと憧れたというのに、余裕ないときはそうやって逃げる奴なんだな。どうせそんな人生を送ってきた奴に違いないな。うん。都合の悪いことを他人のせいに置き替える奴はいるもんだなどと考えていると、女王は静かにベールを上げた。
「美月さん……」
僕は無意識に彼女に近づこうとしていたに違いない。女剣士の細身の剣が革鞘ごと、僕の胸に押し当てられた。ずしりと重みを感じた。とっさにレイの体が低く沈むのが見えたように思えた。女剣士の懐の短剣を力任せで粉々に砕いた。衝撃を食らった剣士は何とかして堪え、革鞘から抜いた長い剣がレイの喉に向いた。レイの額の瞳が妖しく輝いていた。ここでは術は使えないのではなかったのかとはいうものの、何が起きるかわからない。僕は慌ててレイの額を隠し、腕で抱き寄せて、床に転げた。長靴が近づいてきて、刺されると覚悟したが、鉄と鉄の擦れる音が響いた。耳がつんざくような音が、まるで世界中に響いたかのように震えた。肩越しには青年の短剣が、剣士の剣を逸らしていた。やるときはやるのだな。僕の全身から冷や汗が出た。たいして何もしていないのに緊張のせいだ。
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