第8話
馬車を降りた僕たちは、雲の上まで続いているかと思うような階段を見上げて、息をするのも忘れた。牛乳のように白く滑らかな階段を前にして、二人がぽつんと立っていた。青年はいつの間にか、階段の中腹、あくまでも見えているところまでであるが、そこから僕たちが来るまで待っているようだった。
「今ナラ逃ゲル」
「やめた方がいいと思うけど」
「ココ、好キナイ」
レイは踵を返した。僕が振り向く間もなく、聞いた音がした。
「ほらね」
「痛イナイ」頭を抱えて「チャント覚悟シテタ。ダカラ…」
僕は健気なレイの頭を撫でた。
「痛イナイ」
「行こう」
「ウン」
僕たちは階段を急いだ。しかし行けども行けども青年に追いつかない。息を継いで、ようやく中腹に来たと振り返ると、まだ三段目だった。これには僕もレイも憮然とした。わざわざ連れてきて、これはないだろうと。二人とも頭に来て階段を降りた。今度は見えない壁に当たらないようにし、二人で力任せに蹴飛ばした。結界は水に油を浮かべたように歪んで、足元の階段が崩れ落ち、溶岩のように煮える炎に跳ねて沈んだ。僕は落ちかけたレイの体ごと抱きしめるようにして、階段の上に放り投げた。逆にバランスを崩し、溶岩の中へ吸い込まれた。
レイが叫んだ。
額の虫が弾け飛んだ。
僕の首の文様が照らした。
「苦しい…」
僕は引き上げられた。というか、ぶん投げられた。レイが駆けつけてくる。心底安堵しているような顔をしていた。
「大丈夫? 生キル?」
僕は「大丈夫だよ」と微笑みを浮かべつつ、油断させておいた。
「良クタ。レイ、偉イ」
「そういう助け方やめい!」
僕はレイの背後に回り込んで首を締め上げた。
「いつか死ぬわ!」
「オマエ、ワタシ、ブン投ゲタ」
奥襟を掴んで背負い投げようとしたので、僕は堪えた。
あれ?
二人は気づいた。
階段の一番上にいた。青年が慌てて追いついてくるのが見えた。これまで見せたことのない驚きの表情をしていた。そして何やら話し、頭上を指差した。巨大なエンタシス状の柱に支えられた、梁、いくつもの格子状で区分けられた天井、そこには大勢の争い、穏やかな空、燃え盛る炎の翼の巨大な生き物、数える気にもならないほどの絵が描かれ、その中で動いていた。
「コンナ早ク着イタ」レイも天井を見上げながら青年の言葉を通訳した「ワタシタチ始メテ」
まだ足場があり、そこには一人の老人が絵を描いていた。金属のような鱗をした胴体、翼、槍のような尻尾、長い首、角の生えたトカゲのようなものだった。口には絵師がすっぽり収まるくらいだ。
「マダ完成スルナイ」
レイは他のところを指差した。薄暗くなっている、部屋の大半の天井には絵がない。よく見ると、僕たちの頭上にだけある。それでも空一面にあるように思えた。こんな絵を描ける人は凄い。あの老人は誰だろうと尋ねた。青年は興味なさそうに答え、レイが訳した。
僕は聞き返した。
「国ノ王」
「は?」
青年は老人のいる下まで歩み寄ると、優雅に膝をついた。老人は頭上の足場でカラカラと笑い、足場から階段へと移動して、たいして急ぐでもなく降りてきた。
「今、逃ゲル」
「本当に逃げたいね」
畏怖というか、こんな気持ちは今までない。あの人が持っているものなのか、この場の荘厳さが創るものなのか。とにかくどうしてよいかわからないまま、僕は膝が震えていることに気づいた。あちらの家族と会うと決まったとき、実際に母に連れられて会ったときを思い出してしまった。怖いのか。不安なのか。後ろに結界があるから、二人で回り込めばなんとかなるかもしれない。
僕たちはそうした。
別々に結界に衝突した。
なぜ僕たちは、こんなところへ連れてこられたのだろうか?
「納得イクナイ」
たかが学校に侵入し、発見され、衛兵を蹴散らかし、校舎を破壊したくらいなのに。大概のことはしているとは思うが、わざわざ宮殿に連れてこられることでもあるまい。
大きな窓から、いくつもの街々の屋根が見え、遠くに冬の雪に覆われた山々が霞んでいた。僕たちは階段、大理石、天井や廊下の縁に張り巡らされた材、刺繍が動いているタペストリー、また階段、たくさんの事務官、衛兵などを連ねながら奥の奥まで歩かされた。どこまでが術でどこからが本物かわからなかったものの、僕もレイも考えるのも面倒くさいという無表情で歩いた。さすがに手枷も足枷もないが、なぜか気が重い。これが警察署ならば、まだ理解もできる。
王宮となると、
「何カ、ムカツク」
のだ。しかも何も言われないまま歩かされる。僕は警戒されているのか、単に役所仕事でたらい回しにされているのかすらわからない。レイはただ単に腹が立つらしい。玄関で国王に会ったのなら、そこで話せばよいのに、青年は国王を止めたように見えた。まずかったのは、逃げようとしたからかもしれない。それでも国王は普通に話そうとしてくれたようにも思えたが、そもそもこんなところにいるのかどうか。
入ってきた扉が背後で閉まり、左の扉が開いて、黒髪の華奢な女性が入ってきた。長靴、革ベルトの腰には細身の剣を携え、薄緑の制服姿は背筋が伸び、凛々しい。彼女は扉のところで立ち止まり、もう一人の質素でありながら、気品のあるドレス姿の女性が入ってきた。彼女は顔をベールで隠していたが、僕たちの前に立つと、小さく会釈をした。
先程の青年が扉を締めた。
女剣士はこの高貴な女性の護衛なのだろうか。青年はいろいろ権限のある人なのだろうか。このベールで顔を隠した女性は、誰なのだろうか。今の僕は疑問だらけだ。
女性は何やら話した。しっとりとした、どこか優しい声だ。聞いたことのある気がした。僕は女性が話し終わると、レイに通訳を求めた。
「マッタク、ワカルナイ」
「え?」
「コノ人、言葉、ワカルナイ」
レイは小首を傾げた。
青年が、
「ようこそ来ていただきました」
と、話した。
「日本語?」
「これは日本語というのですか?あなた方が話しているのを聞いて、私の術で予測しました。通じているようでよかった。もっと話していただければ、もっと精度が良くなると思います」
「ソレクライ、ワタシ、分カル」
レイは顎を上げた。どこで意地を張ろうとしているんだ。
「ここにあらせられるのは王女様でございます。今、女王様がお使いになられたのは、古代から伝わる王族の正式な言葉です。王族は古代王国語を使わねばなりません」
僕とレイはお互いに顔を見合わせた。沈黙。僕たちはそもそも何のことだかわかっていない。僕はこの世界のことを知らないし、レイは片田舎で育てられたので、街のこともましてや王のことなど知らない。
「あくまで正式にはですが」
青年は沈黙を消そうとするかのように付け加えた。頭には、あの玄関の足場で絵を描いていた国王が浮かんでいるに違いない。
青年は慌てていた。
女王が笑いを殺しているかのようにベールが揺れた。そして何やら青年に話しかけた。青年は溜息にも似た返事をして黙り込んだ。
「何て?」
と、僕はレイに尋ねた。
「モウ、イイ」
「もっと長かっただろ?」
「短イシタ」
僕は窓を背にした王女様の正面にいた。彼女の右には剣士、左の後ろに青年。なぜだか不機嫌なレイ。他に何か話していただろう。ちゃんと訳せよとうながした。
「自分ガ学べ」
と、素っ気ない。この気まずい雰囲気は何だろうか。僕は青年に救いを求めるように見たが、あからさまに視線を逸らせた。くそ。ちょっと憧れたというのに、余裕ないときはそうやって逃げる奴なんだな。どうせそんな人生を送ってきた奴に違いないな。うん。都合の悪いことを他人のせいに置き替える奴はいるもんだなどと考えていると、王女は静かにベールを上げた。
「あ……美月さん……」
僕は無意識に彼女に近づこうとしていたに違いない。女剣士の細身の剣が革鞘ごと、僕の胸に押し当てられた。ずしりと重みを感じた。とっさにレイの体が低く沈むのが見えたように思えた。女剣士の懐の短剣を力任せで粉々に砕いた。衝撃を食らった剣士は何とかして堪え、革鞘から抜いた長い剣がレイの喉に向いた。レイの額の瞳が妖しく輝いていた。ここでは術は使えないのでは?とはいうものの、何が起きるかわからない。僕は慌ててレイの額を隠し、腕で抱き止寄せて、床に転げた。長靴が近づいてきて、刺されると覚悟したが、鉄と鉄の擦れる音が響いた。耳がつんざくような音が、まるで世界中に響いたかのように震えた。肩越しには青年の短剣が、剣士の剣筋を逸らしていた。やるときはやるのだなと感心もした。僕の全身から冷や汗が出た。たいして何もしていないのに緊張のせいだ。
「女王の御前だ」
と、僕にわかる言葉で告げた。そして僕にはわからない言葉で、
「双方、控エナサイ」
と、続けた。
青年は、
「お連れの方を落ち着かせてください」
僕は二つほど頷いて、床に大の字になるレイを抱き上げた。
女王は微動だにしていない。目の前で起きたことを気にしていないのかのような様子だった。それどころか楽しんでいるような印象もうかがえた。僕は美月さんの少し意地悪くするところを思い浮かべた。
とりあえず引き剥がしたレイを羽交い締めにしたまま、壁際にまで連れて行こうと必死だった。動こうとしない人を抱き上げるのに骨が折れた。絨毯に踵の跡がついた。むくれたまま動く気がない。彼女を埋めたあの日は、もっと軽かった。両腕に抱いても何とも思わなかった。
ようやく壁際に立たせ、
「落ち着いて」
僕はレイの頬を両手で包んだ。
じっと見て、
「何を聞いたの? 話して。怒らないから」
「奴、オマエ…」
無理に息を吸い込んで、
「ワタシ、去ル。オマエ、残ル」
飲み込んだ気持ちの代わりかどうか見る見る涙があふれてきた。
「離レルナイ」
僕はすぐに、
「そうだね」
とは言えなかった。
「ちゃんと話してみないと」
もし元の世界に帰ることができるのなら、僕は帰るのだろう。すなわちそれはレイと別れるということになるのだろう。僕にしてみればよくわからない世界に飛ばされたが、レイにしてみれば、僕は頼るべき存在なのだ。こんな心もとない僕であろうとも。とにかく話を聞かないとどうにもならない。くそ!何て言い訳がましいんだ。僕は背でレイを壁に押しつけるようにして、女王と警護の女剣士、青年を見つめた。
「いい顔つきね」
女王が僕にも分かる言葉で言った。女王が話せるということは、青年も学んでいたのか。僕もレイの言葉を学ばなければならない。そうでなければ不公平だ。レイは必死で分かろうとしてくれたのに、僕はただ甘えていた。結果が、これだ。僕は僕のことしか考えていない。こんなことでは、レイを失う。
「この世界に来て、これが夢なのか現実なのかもわからないまま生きてきた。この子と旅をしてきて、ようやく現実なのだと思えるようになったんだ。それなのにまたわからなくなった。あなたに会って」
女王は「そうでしょうね」と微笑んだ。少しバカにされたような不愉快な気持ちが込み上げてきた。
「たしかにあなたはこちらの世界に来たわ。どこから話そうかな」
と、彼女は曲げた人差し指を唇に添えた。
「この世界は一度滅んだ。人と人でない者たちの争いで。あ、言い換えるわね。わたしたちとわたしたちでない者の争いで。どの世界を手に入れるのも簡単じゃないの。ある者は巨大な炎や爪で殺され、ある者は今となっては時代遅れな呪術に惑わされ、ある者は棍棒や斧で叩きのめされた。生まれた地を追われた」
女王は小首を傾げて、笑みを浮かべた。興味があるだろうと。
「でもわたしたちは諦めなかったわ。いつかわたしたちの世界を取り戻せると信じてね」
彼女は淡々と続けた。
「あなたの世界でも数々の争いが起きたわ。歴史で学んだわよね。今も大小様々な争いが起きてる。現実の世界の均衡が崩れるとき、そのたびにこちらの世界でも微妙な均衡が崩れるものよ。過去、大きく崩れたのは二つの大戦のとき。そしてわたしたちは完全ではないにしろ、今の世界を手に入れた。わたしたちは無限の力を手に入れたの。他の世界で肉体を失った魂を喚ぶことでね」
僕はじっと聞いていた。おどけるように顔を覗き込んできた。美月さんが暇なとき、そうしていた。
「二つの世界はいつもつながっているの?」
僕が尋ねると、彼女はわざと驚いたように見せた。
「だから来れたんじゃない。それに二つじゃないわよ。互いに数えきれない世界とつながってるわ」
「でも誰も行き来していない」
「そんなこともないわよ。識らなかっただけよ。あなたは来ることができてる。もちろん簡単には行き来できないけど。誰も彼もが行き来できれば大変なことになるわ」
「じゃ、なぜ僕はここへ?」
「あなたが望んだから」
「望んでない」
「怖い顔ね。あなたはわたしを蘇らせようと望んだじゃない」
「どこまで知ってる?」
「少なくともあなた以上には」
僕はこめかみを押さえた。じんじんと脈打つのだ。
「信じられない?」
「もう何を信じればいいかわからないんだ。美月さんは死んでない?」
「今のところね」
「今の僕には美月さんはいるのかいないのかわからない」
すでに僕は考えることが億劫になっていた。この世界は存在しているのか?あの世界は?僕は?
「美月は存在するし、あなたも存在した。あっ!あなたはこちらの世界にいるから過去形ね。でもそんなことはどちらでもいいかな。そんな怖い顔しないで。見せてあげるわ」
女王はサッと両腕を広げた。ショールの陰、僕の足の下に暗い宮殿が現れた。僕は浮かんでいた。アーチの天井の下、無数に棺のようなものが並び、青白い光の中、たくさんの顔の人が眠っていた。
「これがすべてわたしなの」
僕は帽子を脱いだ。髪を剃った頭が熱く火照り、むず痒い。どこかで見たことがある。そうだ。この街の隅から山の下まで、遥かに広がる、あの土の墓と同じだ。一つ一つに筒と石が添えられた墓だ。
「どれくらいの数かしらね。わたしにも数えられない。ここは死を待つ控えの間よ。棺に入るのは魂の持つ姿ね。まだ記憶があるから。元の世界にある体が透いて見えるの。そこへ戻れば生き返ることになる」
「戻れなければ?」
「元の世界の肉体は朽ち果てる。記憶は消えてしまい、魂は新しい世界へと旅立つことになるわ」
彼女は僕の耳に囁いた。そっと自分の子宮に手を当てていた。
「でもね、ここの魂は還ることはできないの。他の世界と同じく、こちらの世界も争うことなくして平和ではいられないの。わたしが世界を支配するためには、まだまだ魂が必要なのよ。それらが持つ力がね」
重い言葉とは裏腹に、
「あれよ」
軽く跳ねるように指差した。
「ほら。見えるでしょ?」
青白い炎で包まれた棺の中、裸の美月さんがいた。眠っているのか死んでいるのか。両手で自分の胸を抱くような格好だった。
「あちらの世界で美月さんは死にかけているんだ」
「さっき聞いた」
「死んでほしくないんだ」
「どうして?」
ここにいるわ。違うんだ。あちらの世界での思い出が消える。あなたには死ぬということの意味がわからないのか。僕は女王を見た。美月さんの顔をしていた。匂いもぬくもりも同じだ。でも何か違うんだ。二人で共有するものがない。
「ここは魂の控の間だと話したわよね。生死がわからない人々が、ここの棺に収められる。見て、あれを」
一つの棺から人が消えた。
「生死の間で迷う者が決断の時を迎えたの」
「死んだの?」
「死んだかもしれないし、元の世界へ戻ったのかもしれない。わたしに言えることは、もうここにはいないということだけよ」
「あそこの人の魂を手に入れることはできないのか」
「魂というものはね、生きているうちは強い鎖でつながれてる。舟がもやいでつながれてるように。いかにわたしでも剥がせない」
「美月さんを救う方法を教えてほしい」
「こだわるわね」
彼女は少し面倒くさそうに手をひらひらとした。
「彼女が蘇ろうともあなたは会えないのよ?」
「そんなことは問題じゃない」
僕は彼女が生きているというだけでいい。会えなくてもいい。ただ理不尽な目で死んでほしくない。
「わからないわ」
「家族だからだ」
「偽のね」
「優しくしてくれた。僕のことを考えてくれた。僕のことを思ってくれた人のことは偽なんて言わない」
「うーん……死なない方法がないこともないんだけど」
「教えてほしい」
「美月の魂が元の世界の肉体へ戻ればいい。前で蘇れと言うこと。からかわれてると思ってるわね。でも本当のことなの。呪術使いが必要になるし、簡単ではないけど」
女王は上目遣いで微笑んだ。
「もう一つはね、もっと難しいかもしれない。わたしたちの世界を滅ぼすこと。ここにある魂はそれぞれへと戻れる。でもそれをするにはわたしを殺すしかないわ」
僕の意識が遠のきかけた。それを救ってくれたのは、レイの鼓動だった。背に感じる押し殺した息、緊張で速く刻む鼓動が僕を包んだ。
「あなたにできる?」
僕は女王の間に戻っていた。改めて背中にレイの鼓動とぬくもりを感じた。彼女は慣れない日本語を何とか理解しようと聞いていた。
「わたしがひどいことを話しているように聞こえるでしょう。でもね、ここの生活に馴染んでくれば、そんなことは忘れる。この白亜の塔は無限に続いているの」
女王は窓際に立ち、
「ここであなたは何をしてもいいのよ。ずっと絵を描いていてもいいし、畑を耕してもいいし、学校で学んでもいいかもね。少しはルールはあるけど。すぐにあちらの世界での苦しみも悲しみも忘れるわ」
「もし忘れるんだとしたら、その前に何とかしたい」
「自己犠牲?ふさわしいわ。ますますわたしの傍にいて。この意味がわかる?この世界に来た誰もが、この世界で必要なわけじゃない。あなたはわたしに選ばれたのよ」
女王は白く細い人差し指で僕の鼻をつついた。美月さんがよくしてくれたことだ。僕が彼女の作る料理を喜んだり、送迎のことありがとうと言うと、指で鼻の前をつつく仕草をしてくれた。ありがとうと。
「この塔にいれば、どんどん記憶は消えていくのよ。一緒に旅していた人もいなくなる。記憶なんてつまらないものよ。記憶や肉体という鎖につながれた魂は、もっと自由になれるの。そんなもの捨てなさい」
女王はくったくなく笑った。
僕はレイの鼓動と汗ばんだ肌から伝わる熱を感じていた。たしかに忘れてしまえば、そんなものかもしれないが、まだこの子を忘れたくはない。たしかに記憶の一つ一つは砂粒のようなものかもしれないが、寄り添えばずっしりとなる。必要なのは一つ一つのカケラではない。それらをつなげる糊のような、何気ない言葉や態度、忘れるくらいのやり取りがあるからこそじゃないのか。
「まだ悩むの?この子のこと?約束してあげるわ。あなたがここにいるなら、この子は街へ帰れる」
女王は付け加えた。もう考えることもできない。こいつが本当のことを話しているのか、ただ僕に言うことを聞かせるために、適当なことを話しているのか。そもそもこの世界もあの世界もあるのかないのか。
「あなたはこの世界に来て、幸いにもわたしのところへ来た」
彼女はこの幸運を我が物にしなければいけないと話した。さして重要なことでもないかのように。
「この世界に来たものの、どうすることもできない者たちもたくさんいるわ。その子に感謝するのね」
ますます混乱してきた。現実の世界で生きているだけで精一杯だったのに、こんな現実を突きつけられれば、どうすればいいんだ。こちらに来れば、好きに生きていける。
「ここで暮らして嫌なことがある場合はどうなる。ここの暮らし自体が嫌な場合は?」
「記憶を消せばいい。嫌なことをずっと覚えている必要はないわ。忘れてしまえばいいの。あなたがお母さんに捨てられたことのように」
とっさにレイが前に出て、僕の体をこれまでにない強さで腕で抑えた。逆に僕は壁に背を預ける格好になる。僕は痺れたように動けなくなっていた。レイの右手には光る剣が握られていた。
「モウ、イイ!」叫んだ。「シン、苦シメテ、楽シイカ、貴様!」
「苦しめる? これは救いよ。思い出すのもつらうことを持ちながら生きてきた彼への」間「救い」
背後の扉、脇の扉から兵士がなだれ込んできた。皆、持っているのは室内でも振るえる剣と小さな盾だった。女剣士は女王を隠し、兵士は僕とレイへ敵意を向けていた。
「レイ、やめよう」
僕は記憶を消していた。母は再婚したわけではなかった。僕は一時施設に預けられ、三ヶ月後、里子に出されたのだ。楽しい思い出は父ではなくボランティアの人だ。美月さんも拓也も同じだ。皆、親がいない生活をしていた。僕は自分に都合の悪いことを捻じ曲げていたんだ。
僕は両手で顔を覆い、壁際に尻から崩れ落ちた。涙なんて出ないくらい苦しくて、声にならない声を発していた。獣のような声がした。
のしかかるように、レイは僕を守ろうとしていた。彼女の腕が僕の頭を力強く抱き寄せてくれた。
「もういい。僕は残る」
「ダメ。ダマサレテル。コノ女、ウソツキ!」
「うそでもいい」
僕は静かながら力強く、
「もう疲れたんだ」
レイを押しのけて、
「この子はこの世界の子だ。街へ戻してあげてほしい。僕の覚えているうちに約束してほしい」
「もちろんよ」
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