第17話 別れ
「女王の御前だ」
と僕にわかる言葉で告げた。そして僕にはわからない言葉で、
「双方、控エナサイ」
と続けた。
青年は、
「お連れの方を落ち着かせてください」
僕は二つほど頷いて、床に大の字になるレイを抱き上げた。
女王は微動だにしていない。目の前で起きたことを気にしていないのかのような様子だった。それどころか楽しんでいるような印象もうかがえた。僕は美月さんの少し意地悪くするところを思い浮かべた。
とりあえず引き剥がしたレイを羽交い締めにしたまま、壁際にまで連れて行こうと必死だった。動こうとしない人を抱き上げるのに骨が折れた。絨毯に踵の跡がついた。むくれたまま動く気がない。彼女を埋めたあの日は、もっと軽かった。両腕に抱いても何とも思わなかった。
ようやく壁際に立たせ、
「落ち着いて」
僕はレイの頬を両手で包んだ。
じっと見て、
「何を聞いたの? 話して。怒らないから」
「奴、オマエ…」
無理に息を吸い込んで、
「ワタシ、去ル。オマエ、残ル」
飲み込んだ気持ちの代わりかどうか見る見る涙があふれてきた。
「離レルナイ」
僕はすぐに、
「そうだね」
とは言えなかった。
「ちゃんと話してみないと」
もし暮らしていたの世界に帰ることができるのなら、たぶん僕は帰るのだろう。すなわちそれはレイと別れるということになる。僕にしてみればよくわからない世界に飛ばされたが、レイにしてみれば、僕は頼るべき存在なのだ。こんな心もとない僕であろうとも。とにかく話を聞かないとどうにもならない。何て言い訳がましいんだ。僕は背でレイを壁に押しつけるようにして、女王と警護の女剣士、青年を見つめた。
「いい顔つきね」
女王が僕にも分かる言葉で言った。女王が話せるということは、青年も学んでいたのか。僕もレイの言葉を学ばなければならない。そうでなければ不公平だ。レイは必死で分かろうとしてくれたのに、僕はただ甘えていた。結果がこれだ。僕は僕のことしか考えていない。こんなことでは、すぐにでもレイを失う。
「この世界に来て、これが夢なのか現実なのかもわからないまま生きてきた。この子と旅をしてきて、ようやく現実なのだと思えるようになったんだ。それなのにまたわからなくなった。あなたに会って」
女王は「そうでしょうね」と微笑んだ。少しバカにされたような不愉快な気持ちが込み上げてきた。
「確かにあなたはこちらの世界に来たわ。どこから話そうかな」
と彼女は曲げた人差し指を唇に添えた。
「この世界は一度滅んだ。人と人でない者たちの争いで。あ、言い換えるわね。わたしたちとわたしたちでない者の争いで」
女王は小首を傾げて、笑みを浮かべた。興味があるだろうと。
「それでもわたしたちは諦めなかったわ。いつかわたしたちの世界を取り戻せると信じてね」
彼女は淡々と続けた。
「あなたの世界でも数々の争いが起きた。歴史で学んだわよね。今も大小様々な争いが起きてる。仮にどこかの世界で争いが起きれば、それはどこかの世界に飛び火する。そのときはたくさんの魂が放たれる」
僕はじっと聞いていた。おどけるように顔を覗き込んできた。美月さんが暇なとき、そうしていた。
「どの世界も繋がれている?」
僕が尋ねると、彼女はわざと驚いたように見せた。
「だから来れたの」
「でも誰も行き来していない」
「誰も彼もが行き来できれば大変なことになるわ」
「なぜ僕はここへ?」
「あなたが知ってるはずよ。なぜ来ようとしたのか」
僕はこめかみを押さえた。じんじんと脈打つのだ。
「もう何を信じればいいかわからないんだ。美月さんはあっちの世界では生きているのか」
「今のところはね」
「今の僕には美月さんはいるのかいないのかわからない」
すでに僕は考えることが億劫になっていた。この世界は存在しているのか?あの世界は?僕は?
「美月は存在するし、あなたも存在した。今のあなたはこちらの世界にいるから過去形ね。でもそんなことはどちらでもいいかな。そんな怖い顔しないで。見せてあげるわ」
女王はサッと両腕を広げた。ショールの陰、僕の足の下に暗い宮殿が現れた。僕は浮かんでいた。アーチの天井の下、無数に棺のようなものが並び、青白い光の中、たくさんの顔の人が眠っていた。
「これがわたしたちよ」
僕は帽子を脱いだ。髪を剃った頭が熱く火照り、むず痒い。どこかで見たことがある。そうだ。この街の隅から山の下まで、遥かに広がる、あの土の墓と同じだ。一つ一つに筒と石が添えられた墓だ。
「どれくらいの数かしらね。わたしにも数えられない。ここは死を待つ控えの間よ。棺に入るのは今の魂の持つ姿ね。まだ記憶があるから前の世界にある体が透いて見える。そこへ戻れば生き返ることになる」
「戻れなければ?」
「生きていた世界での肉体は朽ち果てる。記憶は消えてしまい、魂は新しい世界へと旅立つことになる」
彼女は僕の耳に囁いた。そっと自分の子宮に手を当てていた。
「でもね、ここの魂は還ることはできないの。この世界には魂が少なすぎるのよ。どこかの世界から持ってくるしかない。わたしたちがこの世界を支配するためには、まだまだ魂が必要なの。ここに魂は留まる」
重い言葉とは裏腹に、
「あれよ」
軽く跳ねるように指差した。
「ほら。見えるでしょう」
青白い炎で包まれた棺の中、裸の美月さんがいた。眠っているのか死んでいるのか。両手で自分の胸を抱くような格好だった。
「あちらの世界で美月さんは死にかけているんだ」
「さっき聞いた」
「死んでほしくないんだ」
「どうして?」
ここにいるわ。違うんだ。あちらの世界での思い出が消える。あなたには死ぬということの意味がわからないのか。僕は女王を見た。美月さんの顔をしていた。匂いもぬくもりも同じだ。でも何か違うんだ。二人で共有するものがない。
「あそこは魂の控の間だと話したわよね。見て、あれを」
一つの棺から人が消えた。
「生死の間で迷う者が決断の時を迎えたの」
「死んだの?」
「暮らしていた世界での話?戻れたのかもしれない。もしくは白亜の塔の世界へ繋ぎ止められてる」
「どうすればあそこにある魂を戻すことはできるんですか」
「魂というものはね、生きているうちは肉体と繋がれている。いかにわたしでも剥がせない」
「難しく考えたくない。美月さんを救う方法を教えてほしい」
「こだわるわね」
彼女は手をひらつかせた。
「彼女が蘇ろうともあなたは会えないのよ。あなたはここにいる」
「構わない」
僕は彼女が生きているというだけでいい。会えなくてもいい。ただ理不尽な目で死んでほしくない。
「わからないわ」
「家族だからだ」
「偽のね」
「やさしくしてくれた。僕のことを考えてくれた。僕のことを思ってくれた人のことは偽なんて言わない」
「わかったわ。戻る術はあることにはあるんだけど」
「教えてほしい」
「この世界を滅ぼすこと。魂は放たれて繋いでいた鎖も解ける」
女王は上目遣いで微笑んだ。
僕の意識が遠のきかけた。それを救ってくれたのは、レイの鼓動だった。背に感じる押し殺した息、緊張で速く刻む鼓動が僕を包んだ。
「この世界は滅びかけた。今もたくさんの魂を繋ぎ止めることで存在し続けている。だから新しい魂はいつでも繋ぎ止めておくのよ」
僕は女王の間に戻っていた。改めて背中にレイの鼓動とぬくもりを感じた。彼女は慣れない日本語を何とか理解しようと聞いていた。
「わたしがひどいことを話しているように聞こえるでしょう。ここの生活に馴染んでくれば、そんなことは忘れる。この白亜の塔は無限に続いているの。あなたはここで生きる」
女王は窓際に立ち、
「ここであなたは何をしてもいいのよ。ずっと絵を描いていてもいいし、畑を耕してもいいし、学校で学んでもいいかもね。少しはルールはあるけど。すぐにあちらの世界での苦しみも悲しみも忘れるわ」
「もし忘れるんだとしたら、その前に何とかしたい」
「自己犠牲?ふさわしいわ。ますますわたしの傍にいて。この意味がわかるわね。誰もがこの世界で必要なわけじゃない。あなたはわたしに選ばれたのよ」
女王は白く細い人差し指で僕の鼻をつついた。美月さんがよくしてくれたことだ。僕が彼女の作る料理を喜んだり、送迎のことありがとうと言うと、指で鼻の前をつつく仕草をしてくれた。ありがとうと。
「この塔にいれば、どんどん記憶は消えていくわ。一緒に旅していた人もいなくなる。記憶なんてつまらないものよ。記憶や肉体という鎖につながれた魂は、もっと自由になれるの。そんなもの捨てなさい」
女王はくったくなく笑った。
僕はレイの鼓動と汗ばんだ肌から伝わる熱を感じていた。たしかに忘れてしまえば、そんなものかもしれないが、まだこの子を忘れたくはない。たしかに記憶の一つ一つは砂粒のようなものかもしれないが、寄り添えばずっしりとなる。必要なのは一つ一つのカケラではない。それらをつなげる糊のような、何気ない言葉や態度、忘れるくらいのやり取りがあるからこそじゃないのか。
「まだ悩むのね。この子のことなら約束してあげるわ。あなたがここにいてくれるなら、この子は帰れる」
女王は付け加えた。もう考えることもできない。こいつが本当のことを話しているのか、ただ僕に言うことを聞かせるために、適当なことを話しているのか。そもそもこの世界もあの世界もあるのかないのか。
「あなたはこの世界に来た。たくさんの道があるにも関わらずにここに来たの。これこそ運命よね」
彼女はこの幸運を我が物にしなければいけないと話した。さして重要なことでもないかのように。
「すべての魂は還るところがあるとは限らない。幸運にもあなたは戻るべきところに戻れた」
ますます混乱してきた。現実の世界で生きているだけで精一杯だったのに、こんな現実を突きつけられれば、どうすればいいんだ。こちらに来れば、好きに生きていける。
「ここで暮らして嫌なことがある場合はどうなる。ここの暮らし自体が嫌な場合は」
「記憶を消せばいい。嫌なことをずっと覚えている必要はないわ。忘れてしまえばいいの。あなたがお母さんに捨てられたことのように」
とっさにレイが前に出て、僕の体をこれまでにない強さで腕で抑えた。逆に僕は壁に背を預ける格好になる。僕は痺れたように動けなくなっていた。レイの右手には光る剣が握られていた。
「モウ、イイ!」叫んだ。「シン、苦シメテ、楽シイカ、貴様!」
「苦しめる? これは救いよ。思い出すのもつらいことを持ちながら生きてきた彼への」間「救い」
背後の扉、脇の扉から兵士がなだれ込んできた。皆、持っているのは室内でも振るえる剣と小さな盾だった。女剣士は女王を隠し、兵士は僕とレイへ敵意を向けていた。
「レイ、やめよう」
僕は記憶を消していた。母は再婚したわけではなかった。僕は一時施設に預けられ、三ヶ月後、里子に出されたのだ。楽しい思い出は父ではなくボランティアの人だ。美月さんも拓也も同じだ。皆、親がいない生活をしていた。僕は自分に都合の悪いことを捻じ曲げていたんだ。
僕は両手で顔を覆い、壁際に尻から崩れ落ちた。涙なんて出ないくらい苦しくて、声にならない声を発していた。獣のような声がした。
のしかかるように、レイは僕を守ろうとしていた。彼女の腕が僕の頭を力強く抱き寄せてくれた。
「もういい。僕は残る」
「ダメ。ダマサレテル。コノ女、ウソツキ!」
「うそでもいい」
僕は静かながら力強く、
「もう疲れたんだ」
レイを押しのけて、
「この子はこの世界の子だ。街へ戻してあげてほしい。僕の覚えているうちに約束してほしい」
「もちろんよ」
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