第18話 剣

 信じていることと現実が違うことがある。自分が積み重ねていた記憶は現実逃避の末、逃げ込んでいた理想の世界だった。僕には家族もいなければ、記憶を繋ぎ止める何気ない日常などもない。あるのはこうあればいいのにという幻想だけだ。

 この白亜の塔の世界は無限に広がっているらしい。澄んだ空もやわらかな風も草の匂いもするし、誰かが鳴らす笛の音も聞こえていた。たいていの病も災害もなく、一年中半袖一枚でも暮らせる。食べるものは欲しければ、どうにでもなる。店に乞えば手に入れることができ、道ばたで乞えば誰かがくれる。もし学びたければ、好きなときに学ばしてもくれる。特殊な能力こそは、本人の力の有無にもよるようだが、諦めても他のことに打ち込める。限界を感じてやめたところで、白い目で見られることもない。世界が前向きだ。

 敷地は無限と豪語するだけのことはある。いくつもの村、街、市場、住まいがどこにでもある。今のところ遠くまで行ってはないが、好きなところに暮らして、好きなことをする。多少の決めごとはある。不愉快な目に遭わされても、忘れの術で忘れることもできるし、矯正が必要な者は呪術で矯正できてしまう。だからこそではないが、何となく人々はのんびりしている気がする。

 僕は芝生に膝を抱えて、目の前の雲海を眺めていた。犬が楽しげに駆け抜けて、学校に行っているなら低学年くらいの女の子が笑いながら追いかけている。女の子を呼ぶパパの声がして、まず犬が戻ってきた。

「明日は学校へ行くかい?」

 とパパが少女に尋ねた。

「行かない」

「そうか。それならサーカスが来てるらしいから行くか?」

「行きたい」

 ここしばらく僕は現地の言葉を理解しつつあった。難しい言いまわしまではわからないが、僕は学校でいくつか学ぶことにしたのだ。理由は暮らしやすくなるからだ。

 芝を踏む足音が近づいてきた。

「慣れたか」

 と頭越しな女剣士が尋ねた。

 僕は「少しは」と答えた。

「いいところだろう」

「穏やかだ。君はなぜ剣士に」

「理由などいるか。まあ単に憧れたからかな。女王様に仕えるとは想像もしてなかったけど」

「好きに生きられると聞いたけど違うんだね」

「嫌味ね」

 僕は少し笑みを浮かべて、耳の上まで伸びた髪を手櫛で後ろに撫でつけた。

「一人で暮らしているなら好きにはできる。みんなで暮らしていると比べるしかない。でもどうしてもできないなら違う道を歩めばいい」

「前向きになれるね。認めたくなければ忘れればいいんだし。君もどこからか来たんだよね」

「忘れたな。覚えているのか」

「ぼんやりとした記憶はあるくらいかな。これがどんどん消されていくのかと思うと、たまに不安になる」

「わたしと同じね。どこからかはわからない。どういうわけか女王様の近くにいると気にならない」

「そう言えば、名前は?」

「フィリよ。よろしく。あなたはシンね。あのときに覚えた。前の姿のまま来れる奴は珍しいんだ」

「驚かせたかな」

「選ばれたんだよ」

「フィリ、君は昔のことを少しは覚えてるのか」

「少しはね。魂の記憶を消すことは簡単でもない。一度にではなく少しずつ消えていくのよ」

「うん。だからだ。戸惑いつつ暮らしていると感じだね」

「もっと薄れるさ」

「しかしここは広いね。いつも探検している気持ちだ。子どもの頃トンネルを古い抜けようとした。でも怖くて帰ってきたのを覚えてる」

「順序立てて消えるわけでもないようだ。他の人を見ているとね。好きに行けばいいけど、立入禁止のところもある。気をつけてな」

 フィリは僕の左隣に腰を降ろして膝を抱えた。これからこの塔で何をするのかと尋ねてきた。

「わからない。とりあえず今は言葉を覚えてるよ。今のところ日常会話くらいなら何とかなるかな」

「話せてる」

「どういたまして。でも呪術はやってみたけど難しいし、どうやら才能がないみたいだ。ひとまず治癒の術を学んでるんだけどね」

「格闘技や剣術は」

「剣はおもしろいね。木だから死なないけど。まるで心理ゲームみたいだよ。一つ一つ先を読んでね」

「才能があるかだな。術使いに頼んでおいてあげようか」

「すぐにうまくなるとか」

「そんなわけはない。それでも基本や定石の理解が早まる」


 僕が髪を後ろでくくるようになる頃には、そこそこ剣を扱えるようになっていた。全身に筋肉も戻ってきたものの、素晴らしい剣士とは言えないと自覚していた。力も速さもそこそこあるというくらいだ。教官やフィリには寸前のところでうまく逃げると言われた。褒められたのかけなされたのかわからない。

「おまえは左利きなのか?」

 とフィリに尋ねられた。普段は右だが、左になると話した。

「それは武器になるな」

 同じ頃に習い始めた連中に負けなくなると、教官がフィリと訓練するように命じた。さすがに勝てなくなった。あちこちおもしろいように打たれ、青あざができた。それも呪術や薬術で治してもらえたので、ムキに稽古したが、フィリには勝てなかった。追い詰めるところまではできるが、もう一つのところでいなされて負ける。フィリ曰く怖がっているからとのことだが、剣だけならカンパに勝てるだろうと。カンパとはあの青年のことだ。フィリの場合、盾は結界の小さい版だが、そこまで実力を発揮できない僕は盾は持たないことにした。重さもあるので扱いきれない。純粋に剣を学んだ。

 また治癒の呪術や薬術も万能ではないのだからやたら滅多に突っ込んでいると、治せないことに出くわすから気をつけろと注意された。

 誰かの影響だ。

 住むところも快適だった。どういう仕組みかわからないが、夜も使える風呂まである。聞いてみれば仕組みは簡単だった。敷地の一画に高温の温泉があるのだそうだ。そこから水道管を通り、湯が張り巡らされていた。いつかの誰かがアイデアを出して作ったらしい。たまに誰かが修理をしている。頼まれたのかどうかすらわからないが、壊れたことは聞いたことがないので、いつも点検しているのだろう。夕食は肉を食べたければ肉、野菜なら野菜、魚なら魚、ワインならワイン、ビールならビール、水なら水と何でも揃う。もともとこ自炊という考えはないらしく、皆インかテイクアウトだ。

 朝から語学を学び、昼から剣を学んで、時間があるときは農業や工場の生活を見て、夜は語学の復習をした。たまに玄関で天井絵を描いている老人を尋ねた。僕は老人の好きなココアを薬缶ごと携えた。彼の足場へ上がるのは、初めこそは嫌がられたが、差し入れをしてから快く迎えてくれるようになった。現金なものだと思った。老人は国ノ王と言う名であり、国王ではないと話した。

 僕は足場に腰を掛けて、動く天井画を眺めるのが好きだった。ただ高いところは苦手で、老人がココアにつられて降りてきたとき話した。

「なぜそんな名前に?」

「名前に意味はない。とりあえず付けたんだ。意味ありげだろ」

 とごま塩の無精髭がココアをすすった。まんざらでもない顔だ。

「動く絵なんて凄いですね」

「つまらん。魂がないから天井や壁で動くことしかできない」

 僕はクッキーをかじりながら絵師を見た。彼は遠くの絵を見つめながら、あれは本で見たものに過ぎないと呟いた。実際に存在を見ていないことを、絵師は嘆いた。

「昔は頭ん中にあったんだが、今じゃ本などに頼らざるをえん」

「昔にいたんですか」

「いた。今はあれらに与えるだけの魂が足らんのだ。話せば長い」

 ココアを唇で味わった後、

「ところでおまえさんどうやってここに来た。変わり種だと聞いた」

「好きな人を救うためにトンネルを抜けたら、この世界にいました」

「好きな人は救えそうなのか」

「わかりません。魂は地下に並んだ棺の中にいるようですけど」

「なるほどな。この世界に繋ぎ止められた鎖を断つしかないな」

「そうなんですね。あの棺の地下がどこにあるのかもわからない」

「探すしかない。探しても棺を見つけることが難しいかもな」

「この世界には魂が少ないとはどういうことですまさか。他の世界から集めているということですか」

 老人は中央、いちばん高いところにある天井画を指差した。黒いキャンバス、白い粒は星々のように見えたが、それが何を意味して描かれているのか理解はできない。

「集められたらいいがな。迷い込んでくるものは繋ぎ止める」

「僕ですかね」

「この世界におまえさんが来たのは偶然ではない。呼ばれたんだ」

「誰に」

「救いたい気持ちかもな。彼女の魂かもしれんし、他の何かかも」

 老人は改めて向きなおると、

「答えにならんな。よろしい。おもしろいことを話してやろう」

 僕は脇にカップを置いた。

「この白亜の塔は魂を繋ぎ止めていくための港だ。この世界は別の世界と接している。本来は魂が行き来しているんだが、この世界では魂を繋ぎ止める術がある。わかるかな」

「難しいですね。なぜ魂は繋ぎ止められなければならないんですか」

「もしおまえさんが滅びかけた世界を再建しようとする。数百年かかるならばどうする」

「次の世代へ任せるかな」

「次の世代はおまえさんの思うようにしてくれるかね」

「してくれないですよね」

「もう一つ聞こう。次の世代を生むための魂がなければどうする」

「他の世界から連れてくる」

「もしかしてそれがおまえさんがこの世界に来た理由かもしれんな」

「でも僕には再建する志がないかもしれません。ないんですけど」

「他の理由かもしれん。それはともかくとして、心配した連中は魂を繋ぎ止めることを考えた。数百年一人で同じことができるようになる」

 老人は薬缶から冷めたココアを注いだ。彼は手をかざして、すぐに冷めるのと呟いた。呪文で温めればと提案すると、そんなもんのために使ってられるものかと叱られた。

「僕は好きな人の魂が戻るだけでいいんですよね。でもこの記憶も近いうちに忘れるんですかね」

「昔話でも話してみるか。かつてこの世界は精霊に支配されていた。儂が描いている絵にもある聖獣などもいたんだが、ほんのささいなことで秩序が失われた。精霊なき世、すぐに各地で争いが起きた。力のある者が力のない者を支配する。富める者が貧しい者を支配する。どこにでもある。白亜の塔は魂を繋ぎ止めることで世界に新しい秩序をもたらそうとした。そのまま次の世代へ託すには混沌すぎたからな」

「確かにカオスな世界の再建なんて託されたら堪らないですもんね」

「しかも魂は術の源にもなる。精霊なき後、魂を力として術も含めて世界の秩序を守ろうとしている」

「今も?」

「今からだよ」

 カップの底に残った冷めたココアのチョコレートをクッキーで拭い取って、それごと口へ入れた。

「魂は肉体という器を維持した後は次の肉体へ行くために、空か海のようなところで漂うべきだがな」

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