第15話 塔へ

 静かになった。

 僕は床に伏した。

 何も起きない。もし何か起きたとしても、もはや気配すらないのか。

 やや高い声が聞こえた。

 多くの新しい靴音がして、よく磨かれた革の長靴が現れた。柄の切り詰めた槍が僕の前で跳ねて、また室内が動いた。班長の顔が僕の前に倒れた。鼻と口から溢れた血が自慢の髭を汚し、折れた歯がこぼれ落ちた。僕は両脇を固めて立たされ、レイと共に壁に押しつけられた。


 銀髪の青年が現れた。

 丈の短い薄緑のローブの前を開き、おしゃれにフランネル風のシャツを着こなしてはいたが、襟には小さな金バッジがついていた。

 室内が常温に戻る。

 彼は何やらレイに話しかけた。

「何て?」

「ヨウヤク追イツイタ」

 とレイは青年を睨んだ。

「コイツ、術使イ」

 そうだろうね。驚く前にレイを止めてくれたことに感謝したい。

 青年は緑色の制服の部下に何やら話していた。彼らは警察のようなものだということだ。青年は隊長というところか。この「ような」という表現は曲者で、僕が街で見かけた警察ではない。警察は何度か見かけたが、紡錘状の帽子で顔を隠すようにして、濃い青色の制服を着て、警棒を持って歩いている。ここに来た数人は、皆、若草に近い色の服をまとっていた。青年は怯える太っちょを指差して、ニコッとした。貴族は歩くことさえままならず、二人の男にしたたかに殴られ、家畜のように引きずられて退室した。

「サテ、人買イ、見テシマッタモノ、シヨウガナイ」

 レイが耳もとで通訳した。

「必要悪だね」

「ヒツヨウアク?」

「世の中、悪いことでも、どうしてもいることはある」

 僕は冷めた調子で答えた。レイに理解してもらおうとは思わない。僕自身、屠殺場のことを昇華しようと必死だった。それをレイは僕が怒っている思ったらしく、俯いてしまった。寂しそうな顔するなよと言いかけたとき、青年が笑顔を向けた。

 穏やかなふりは理解した。

 やってることは鬼畜だ。

 部下が班長を蹴り上げて、両手に手枷をした。無抵抗の人買いも顔が歪んでいた。青年は床に落ちているものをつまみ上げると、興味がなさそうに暖炉に投げ込んだ。黒ずんだものは、レイが放ちかけた呪力で焦げた指だった。

 僕たちもお互い、僕の右、彼女の左手を枷で繋がれた。ついでに彼女の額には、青年自ら銀の鎖に宝石の付いた額飾りを結んだ。あくまでも丁寧に。しかしそれは宝石ではなかった。宝石なら売れたのになと、レイは僕だけに聞こえるように言った。能天気だな。それは六本足が額に食い込んでいた。外れそうになると、もぞもぞ位置をなおした。

 僕たちは外で待機した二頭立て四輪馬車に乗せられた。放り込まれるわけでもなく、乗るように、手を添えてくれた。椅子もない、単なる箱だった。外から錠をかけられた。また捕まった。乗る際青い制服に囲まれた太っちょと人買いは追い立てられるように押し込められていた。

 馬車が動き出した。

「逃げるか」

「ウン」

 レイは手枷を睨んだ。手枷は枷のところでねじ切れた。すると御者の窓がスライドして、青年が何やら話しかけた。

「ダメ」

 レイが僕に答えた。

「コノ箱、壊レルナイ。術使い、閉ジ込メタ」

 おもむろに僕は彼女の額飾りを外そうとした。虫は好きではないので、デコピンしてみた。デコピンで返された。僕は身悶えを我慢して額を抑えた。何するねん。虫は剥がれそうだが、触りたくはないけど、顔を背けて引っ張った。剥がれないことに気づいて諦めた。彼女は頭を何度も床に打ち付けた。痛みで痛みを紛らわすしかないようだ。涙を溜めて、僕に真っ赤な顔を向けた。「殺ス気カ」と。御者台から青年の笑いが聞こえた。お見通しなのだ。

 僕たちは仰向けになった。旅の途中、どうにもならないとき、二人はこうすることで時間を学んだ。旅をしているとき、生活しているとき、自分たちでは解決できないことがある。悩みが悩みを雪だるまのように大きくし、重くする。こうして頭をリセットする。たいてい寝てしまうが。寝相の悪いレイに蹴飛ばされて起きたとき、悩みが解決してはいないし、たいした閃きもなかった。


 延々と続く緑の丘が飛び込んできた。護送車から降ろされ、寝すぎて痛い背中を伸ばして、あちこちの骨を鳴らした。

「ヨク寝タ」

「うん」

 丘の向こうには、高台があり、石壁が左右に連なる。

「ココ、ドコ?」

「あの壁は街の出入口のところじゃないかな。去年」

「デモ、山ナイ」

「奇想天外」

「マカフシギ」

 青年の声がしたので、御者台の方を覗き込んだ。レイの頭越し、ポカンとしてしまった。涎が彼女の顔についた。レイもそんなことすら気にしていない。二人は青年のことなどまったくどうでもよくなった。

 白亜の塔がそびえていた。

 まだ遠くなのだということは理解できたが、頂で輝く琥珀の宝石が夕日に照らされて、一帯を染めるのが美しい。まるで僕たちが琥珀に閉じ込められたように感じた。

 レイが何やら呟いた。

 そして、

「キレイ」

 と僕を見上げた。

 僕は目を奪われたまま頷いた。

 青年は両腕を広げ、歓迎するかのようにお辞儀をしてみせた。

「こちらへ」

 とうやうやしく促した。

 僕たちはどちらともなく引き寄せられるように歩いた。護送車が去っていく音が聞こえた。蹄と車輪の音が遠ざかる。僕が振り返ると、青年は小さく頷いた。再び僕はレイに近づいた。そして耳もとで囁いた。

「こいつ、信じる?」

 レイは首を小さく横に振る。ということは逃げるしかないのだが、一面がなだらかな草原だから、逃げるにも逃げられない。額に貼りついた封印も外さなければならない。

「虫、どうする」

 僕は額を指差した。

「ドウセ死ヌ」

 子供相手に封印に虫を使うことがあるそうなのだが、虫も生き物なので死ぬということだ。では今使えるのは呪術ではなく、単なる身体能力だな。この世界に来てからというもの、こんなのばかりだ。派手な剣や不思議な術、竜退治などないものなんだな。どの世界も世知辛いもんだ。そもそも僕は呪文も剣も使えないから、どうしようもないのだけれども。

 僕とレイは呼吸を合わせて踵を返し、背後を無防備で歩く青年に肩から突っ込んだ。押し倒した後はひたすら来た道、といっても窓がない護送車からは見ていないのでわからないが、一本道を城壁まで走るしかない。と、考えるまでもなく、結界に吹き飛ばされた。忍び込んだ学校と同じ失敗をしたのだ。しかも今度はレイも警戒していなかったので、二人とも見事に跡形を残していた。

 青年は笑顔でレイを見下ろして何やら話した。学校に引っ掛けった際の痕跡を通じて、僕たちを追いかけてきたということだった。結界に残った形はしばらく結界にも本人にも残るのだと、レイが頭を押さえながら話してくれた。レイも知らなかったのだから、僕も知らない。僕たちはとてつもなくバカをしていたわけだ。どこかで身を潜めているべきだったのに、相手の懐に飛び込むように行動していたということだ。

 少しは頭を使わないとな。

 あれに乗るように、レイが指差したところに二頭立ての四輪馬車があった。御者は背筋が伸び、馬車自体にも華美ではないくらいの装飾がなされ、一見して護送車ではなかった。レイ曰く「出世した」と。

 窓に流れる草原は消え、やがてまた城壁が現れ、巨大な石橋を越えて城門を潜った。とんでもない広さの屋敷が整然と並び、入り組んだ路地がない。しかし路地の向こうは霧で覆われたように見えない。

「街、全体、術カケラレテル」

 レイが話した。

「ココ、ワタシ、術使エルナイカモシレナイ」

「マジか」

「マジ」

 レイは僕を見据えて、

「マジヤバイ」

 と答えて僕の横に移ると、外套の下に体を預けてきた。

「寝ル」

 ぼんやりした声で、

「ズット術使ウ、頑張ルタ。デモ、疲レタ。トニカク、ダメ」

 僕は熱を帯びた彼女の頭を抱くようにして、神経と体力の消耗が激しいんだろうなと考えた。

 ふわふわとした椅子と蹄鉄の音と車輪が石畳を行く感触が子守歌のように思えてくる。やがて蹄鉄の音が薄れ、石畳の震動も消え、宙を走っているような気がした。ふと窓の外の霧が雲に見えたので、石畳があるべきところに街がある。

「飛んでる……?」

 僕はレイを放りだして、天井で頭をしたたかに打ったことも忘れて扉を開けてしまった。勢いよく風が舞い込んできて、馬車が大きく揺さぶられ、僕はバランスを崩して扉にぶら下がった。寝ぼけ眼のレイが、

「着イタ、降リル」

 と這って来た。

「ダメダメ!」

 僕はドアハンドルを握る手に力を込めて、ステップに何とか片足をかけて、レイを奥へ蹴飛ばした。

「オマエ!」

 レイは目を覚ました。

「蹴ル、ヨクナイ」

 襲いかかろうとしたとき、僕とレイの体は強制的に椅子に戻され、扉が閉じた。屋根から固いものでコツコツとやられた。騒がしい。静かにしていろということらしい。レイは頬を押さえたまま睨んでいた。

「外見ろ」

「痛クテ見ルナイ」

 と言いながらも窓に顔を押しつけた。瞳孔が拡大していた。

「街、沈ンダ」

「違う違う」

「飛んでるんだよ」

「オカシイ」

「沈む方がおかしい」

 僕は言ったが、少し自信がなくなった。もはや何が起きてもおかしくない世界だ。窓の下を覗くと、街は水に沈んでいるようにも見える。青年が顔を覗かせて、レイに話した。

「術」と訳した。「簡単ニ城、近ヅクナイタメ。迷路、術」

「凄いね」

「凄イ」

 僕たちは「そういうこともあるんだな」と受け入れた。もっと驚くと思っていたのか、青年は首を傾げて御者台へ戻った。それよりも青年が御者台にいることに驚いた。

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