第7話

 言葉は伝えたものの、こちらの気持ちは伝わってはいないことは理解できた。なぜなら兵士の剣が僕の頬を撫でたからだ。世の中、伝えられるということが奇跡に近いことではないだろうかと思いはじめていたので、驚きはしない。顔が職務に忠実であろうというそのものだ。

 その時だ。

「コイツラノセイ」

「は?」

「ワタシ、シン、嫌イ言ワレタ」

 レイが爆発した。

 比喩ではなく、文字通り爆発したのだ。彼女を包んでいた空気が一瞬にして兵士の剣を砕き、校舎の破片が生徒たちの頭に降り注いで、爆風が他の兵士や野次馬、ついでに僕を吹き飛ばした。ついでだ。

 この瞬間湯沸かし器娘が。

 一帯が土煙に覆われた。

 僕たちは逃げた。

 この世界に来て、とにかく逃げることがうまくなった。

 異世界にいたんですよ。どこかわからないんですけどね。

 何を学んだか?

 そりゃ、異世界ですからね。ここではマネできないこと期待してますよね。剣?魔法?友情?愛?夢?そんなこと学んでたら、帰ってきてませんて。こんな世界に。あっちで好きに生きますよ。そうそう。学んだことを教えてあげますよ。知りたいですか?知りたいですよね。

「逃げることですよ」

 逃げるときのコツは、ただひたすら後ろを気にすることなく突っ走るのだ。うるさい暴走族に教えてやりたいくらいだ。殿(しんがり)なんてどうでもいいから、目標を決めて走る。単純なことだろう。要は敵より速ければいいだけだ。

 何の力もない奴にできること。

 走るしかない。

 いつの世も、どの世界でも弱者にできる手っ取り早いことだ。

 しかし今回は違った。レイが学校を守る塀を力技でぶち抜いたものだから、僕たちは走って逃げることなどできなくなっていた。ただがれきを這い上り、その状態で路地に転がり出た。

 悲鳴や怒号が聞こえた。

 僕は振り返る。もちろん逃げるときの心得に反してだ。彼女はがれきに仁王立ちしていた。どうせそんなことだろうと思ったが、いざそんなことを見ると溜息かま出た。青い目は厳しく吊り上がり、金の髪は炎のように揺らめき、額には紅玉の瞳が冴えた湖面に沈むように黙る。

 死の前の静寂。

 突如、激しい揺れとともに校舎の壁に大穴が空いた。生徒らは逃げ惑うばかりだ。咳き込むほど爆煙が立ち込めて、石壁や瓦が一斉に散らばっている。割れた窓からは、炎があふれ出していた。レイは逃げるなんてことは、はなっから考えていなかったんだ。もう少し考えてくれと思う反面、考えることは逃げることしかないのだかと、僕は暴風のように荒れ狂うレイを肩に抱えた。

「何も起きてません。何も見てません。これは夢です。夢になれ。夢にしてくれ。夢にしてやる!」

 唱えながら走った。路地裏を上へ下へ、右へ左へ抜けて、とにかく学校から遠くへと逃げた。レイは何やらわめいていたが、強引に口を抑えた。やたらめったら引っ掻かれたが、こんなものは必要経費のうちだ。剣で付けられた傷が彼女の爪跡にまぎれてわからない。

 川辺の舟の修理工場に隠れた。

「レイ…」

「殺ス気カ」

 レイは僕の手を押し退けた。逃げるのと押さえる必死で口を塞いでいることを忘れていた。彼女は新鮮な空気を求めて深呼吸した。

「ク、クラクラスル」

「ごめんごめん」

「死ヌ、思イタ」

「あのね」

 僕も息を整え、自分に冷静になるように言い聞かせた。

「聞いてくれるかな」

「聞ク」

 彼女は自分の胸に手を合わせて呼吸を深呼吸を繰り返した。冷静になろうとは思ってはいないようだ。そもそも冷静になろうと思える奴がやることではないだろう。

「話セ」

「レイは先生に会いたい、学びたいと伝えたんだよね?」

「伝エタ」

「伝わってなかった?」

「奴、剣…」

「そうだね。レイは僕を守ろうとしてくれたんだね」

「ワタシ、オマエ、守ル」

「ありがとう」

「ドウイタマシテ」

 ようやくレイの言葉もやわらいできた。

「デモ、剣、砕イタ、オマエ」

「人のせいにするのはよくない」

「オマエコソ、人ノセイスル、ヨクナイ。剣、砕イタ。ワタシ、何スルナイ」

 レイは僕の首についた蛇とツタの首輪のアザを撫でた。少しヒリヒリとした。

「コレ、反応シタ」

 続けて、

「オマエ、気持チ爆発シタ。兵、腕チギレタ」

「まさか」

 笑ったが、自分でも驚くほど笑い声は出なかった。もちろんあんなものを引き起こした記憶にない。しかし瞬間に気持ちが出たのか。

「塀と校舎は?」

 僕は尋ねた。

「アレ、ワタシ」

 レイは誇らしげに答えた。

「罰食ラウ、イイ。焼イタ。アンナモン、焼キ払エ。消ス、簡単」

 呪術の使い方を学ぶとか、呪文を覚えるなどない。まず抑える方法を学ぶ必要があるのではないか。しかも僕に至っては、呪術など使えるわけもないのにどうしろと。


 僕たち遠くの騒動を背に雑踏を歩いた。こんなところで優雅に朝食をしているとは思わないだろう。

 途中、パンを買った。これくらい大きな街になると、あちらで起きた事故や事件などは、こちらの市場では関係ない。

 僕は自分の首を指差した。入れ墨でもないし、やけどでもない。たまに光を反射するように輝くこともあるが、基本的には目に見えない。

「ところでこの輪っかは何?」

「ワタシ、モノ。コレ、手出スナノ印」

 何となくわかる。家畜への標識タグみたいなものだ。それなら、

「なぜ僕が術を使えたの?」

「キミョウキテレツマカフシギ、キソウテンガイシシャゴニュウ」

 どこで覚えたんだ、そんな言葉。

 そうか。ここに来てから、嫌なこと忘れるために、僕自身が呪文のように歌っていたんだ。

「出前迅速落書無用だね」

「ウン」

 すべてなかったことにしよう。学校に忍び込みもしなかったし、捕縛されることもなかったし、校舎を爆破もしていない。朝起きて、宿から出て、市場でパンを買い求めた。

 爽やかな朝だ。

「お風呂へ行く?」

 と誘うと、

「埃マミレ」

 レイは笑った。

 呪術使いの悪党二人組が手配されることになるのは、後で知ることになる。ボニー&クライドになってしまったのかもしれない。


 宿に戻る途中、ふと僕は妙案を思いついた。貴族の紹介状が必要ならば、レイが薪を配達していた貴族がいるではないか。

「思イ出ス、遅イ。先、思イ出シタラ、学校壊スナイ」

 もちろんそうだ。

「デモ貴族、知ルナイ」

「赤毛のお手伝いさんいるところなんてどう?」

「ヨク行ッテタ」

 僕たちは右へなだらかに続く上り坂に差しかかっていた。追われていないので走る必要はない。全然見知らぬ路地へ入ると、昨年の年の瀬に温かいドリンクを飲んで花火を見た広場に出た。あの貴族街の出入口にある広場だ。

 レイは広場を右へ抜けた。僕は一つ一つの豪邸を見ていた。これでも小さいというのだ。庭は街中にあるせいか、そんなに広くはない。薄い褐色のレンガを積んだ、広い道の両脇にはたっぷりとした区画に、二階建ての建物が並んでいた。通りに面した裏には、地下へと続く階段があるので、そこへ薪を置いておくのだと教えてくれた。よく手入れのされた庭は柵で囲まれ、玄関の門扉は背丈の二倍ほどある。掃除が大変だなと思ったが、自分が掃除するわけではないのだから気にすることもないのか。

 レイはとある家の裏口を訪ねた。閑静なところだが、通りには生活のゴミが山のように積まれていた。たしかに集めにくる人たちがいるのだろうが、もう少し何とかならないものかと思っていると、赤毛の女の子が出てきた。それはレイが死んだと知って、駆け出した子だ。僕とレイを見てキョトンとしていた。特にレイへの反応はない。何やら話しているが、表情は曇ったままだ。ずいぶんと僕を気にしていた。薪配達人のときの子供の姿と今の派手な髪のレイが結びつかない様子だ。しかもレイ自身は見た目が変化していることに気づいていないので、話がちぐはぐになる。僕は黙って待った。

 ようやく赤毛の女の子が僕の顔に気づいた。そうだ。僕自身も丸坊主だから印象が違うのだ。彼女は震えるのを抑え、何とか手で待つように制した後、勝手口の奥へ消えた。

 

 僕たちは粗末な、といっても僕たちがいた、どの場所よりもきちんとしていた。分厚い床も磨かれ、壁は漆喰で整えられていた。隙間から覗けるようなところなどない。使用人の設備かな。下級の来客用なのかもしれない。そもそも裏口から入るのは来客ではない。壁に伝票や発注書のようなものがピン留めされ、扉のない出入口を覗くと、かまどのある台所が見えた。

 赤毛の少女が戻ってきて、髪を束ねた痩せた召使い頭が続いた。僕たちを値踏みするように見た後、案内してくれると言った。要するにレイのことしか伝わっていない。

 今度は豪華な客間だ。

 趣味が悪いが。

 窓から差し込む光、暖炉の上にはあくまでも鹿のような、たぶん鹿ではないオーナメント、数々の調度類は海を連想させる貝殻を模したものもある。この世界に海もあるのかななど、ぼんやりと考えていた。

 この世界でも栄養過多や運動不足などあるのか。何を食べ続ければ、何をしていなければ、こんな姿になるのだろうか。でっぷりとした彼は何か気に入らないことがある様子を見せていた。僕に一瞥くれ、二度と見ようとはしない。あ、そういうわけではないのか。レイに目を奪われたのだ。彼女には親しげに話し、ソファに座るように勧めた。レイ自身、自分の姿に気づいているのかいないのか。僕も座ろうとしたが、召使い頭に睨まれた。

 座るなと言うことね。

 召使いか扱いか。

 露骨だな。

 レイは肩越しに怪訝な顔を見せた。なぜ座らないのか?と尋ねたい様子だったが、すぐに太っちょ貴族が早口で何やら話し始めた。レイは心ここにあらずで答えて、人差し指を立てて小さな炎を見せた。

 他の連中は驚いた。

 僕も驚いたものの、他のことを気にかけていた。どうも壁の向こうの部屋か廊下で息を潜めている者がいるようだ。赤毛の少女はあきらかに挙動不審気味だ。この世界に来るまで神経を使い、それはここに来てからますます研ぎ澄まされていた。

 レイは、

「紹介クレル。デモ彼、ワタシ、知ルナイ。信頼イル。ココデ働ク」

 と、僕に告げた。

「オマエノコト、頼ム」

「ああ」

「ドウシタ?」

 扉が開いて、赤ら顔の汚らしい髭面が現れた。彼の後ろには眼光鋭い男たちがなだれ込んできた。切り詰めた槍を手にしている奴に見覚えがある。屠殺場で僕たちをこき使い、死体を蹴飛ばし、人々を絶望させた班長だ。太っちょが指差した。

「何?」

 と、僕がレイに尋ねた。

 太っちょがまくし立てた。

「人買いだ。この貴族様は人の売買を趣味にしている。おまえも商品だよ」

「人買イカ」

 レイは無表情で立ち上がる。

 要約すると、赤毛の彼女が人殺しの僕を太っちょの主人に伝え、主人は警察に届けるのではなく、人買いに売ったということだ。だから赤毛も驚いていたのだ。生きて目の前に現れるなどないはずだった。

 客間で、皆が皆、それぞれに喋るものだから、もう何が何やらわからない。槍は突き立てられるわ、引き倒されるわ、蹴飛ばされるわ。頬を靴で頬を踏まれているとき、レイが額飾りを引きちぎるのが見えた。僕は「レイっ」と手を伸ばした。

 使ってはいけない。

 一瞬、部屋の空気が熱くなる。太っちょの顎、槍の班長の指が歪んだ。赤毛の髪が焼けた。

 蒸発!?

 僕は目を閉じた。

 静かになる。今度は寒さで凍えるかと思うほど、床に伏した僕の全身が強ばる。何も起きない。何か起きたとしても、気配すらないのか。

 低く落ち着いた声が聞こえた。

 多くの新しい靴音がして、よく磨かれた革の長靴が現れた。柄の切り詰めた槍が僕の前で跳ねて、また室内が動いた。班長の顔が僕の前に倒れた。鼻と口から溢れた血が自慢の髭を汚し、折れた歯がこぼれ落ちた。僕は両脇を固めて立たされ、レイと共に壁に押し付けられた。

 銀髪の青年が現れた。

 丈の短い薄緑のローブの前を開き、おしゃれにフランネル風のシャツを着こなしてはいたが、襟には小さな金バッジがついていた。

 室内が常温に戻る。

 彼は何やらレイに話しかけた。

「何て?」

「ヨウヤク追イツイタ」

 と、レイは青年を睨んだ。

「コイツ、呪術使イ」

 そうだろうね。驚く前にレイを止めてくれたことに感謝したい。

 青年は緑色の制服の部下に何やら話していた。彼らは警察のようなものだということだ。青年は隊長というところか。この「ような」という表現は曲者で、僕が街で見かけた警察ではない。警察は何度か見かけたが、紡錘状の帽子で顔を隠すようにして、濃い青色の制服を着て、警棒を持って歩いている。ここに来た数人は、皆、若草に近い色の服をまとっていた。青年は怯える太っちょを指差して、ニコッとした。貴族は歩くことさえままならず、二人の男にしたたかに殴られ、家畜のように引きずられて退室した。

「サテ、人買イ、見テシマッタモノ、シヨウガナイ」

 レイが耳もとで通訳した。

「必要悪だね」

「ヒツヨウアク?」

「世の中、悪いことでも、どうしてもいることはある」

 僕は冷めた調子で答えた。レイに理解してもらおうとは思わない。僕自身、屠殺場のことを思い出して、自分で昇華しようと必死だった。それをレイは僕が怒っているととらえたようで、黙ってうつむいてしまった。そんな寂しそうな顔するなよと言いかけたとき、青年が笑顔を向けた。

 穏やかなフリは理解した。

 やってることは鬼畜だ。

 部下が班長を蹴り上げて、両手に手枷をした。無抵抗の人買いも顔が歪んでいた。青年は床に落ちているものをつまみ上げると、興味がなさそうに暖炉に投げ込んだ。黒ずんだものは、レイが放ちかけた呪力で焦げた指だった。

 僕たちもお互い、僕の右、彼女の左手を枷で繋がれた。ついでに彼女の額には、青年自ら銀の鎖に宝石の付いた額飾りを結んだ。あくまでも丁寧に。しかしそれは宝石ではなかった。宝石なら売れたのになと、レイは僕だけに聞こえるように言った。能天気だな。それはコガネムシのようなもので、六本足が額に食い込んでいた。外れそうになると、勝手にもぞもぞ位置をなおした。

 僕たちは外で待機した二頭立て四輪馬車に乗せられた。放り込まれるわけでもなく、乗るように、手を添えてくれた。椅子もない、単なる箱だだったが。外から錠をかけられた。また捕まった。乗る際、青い制服に囲まれた太っちょと人買いは追い立てられるように押し込められていた。

 馬車が動き出した。

「逃げるか」

「ウン」

 レイは手枷を睨んだ。手枷は枷のところでねじ切れた。すると御者の窓がスライドして、青年が何やら話しかけた。

「ダメ」

 レイが僕に答えた。

「コノ箱、壊レルナイ。呪術使い、閉ジ込メタ」

 おもむろに僕は彼女の額飾りを外そうとした。虫は好きではないので、デコピンしてみた。デコピンで返された。僕は身悶えを我慢して額を抑えた。何するねん。虫は剥がれそうだが、触りたくはないけど、顔を背けて引っ張った。剥がれないことに気づいて諦めた。彼女は頭を何度も床に打ち付けた。痛みで痛みを紛らわすしかないようだ。涙を溜めて、僕に真っ赤な顔を向けた。「殺ス気カ」と。御者台から青年の笑いが聞こえた。お見通しなのだ。

 僕たちは仰向けになった。旅の途中、どうにもならないとき、二人はこうすることで時間を学んだ。旅をしているとき、生活しているとき、自分たちでは解決できないことがある。悩みが悩みを雪だるまのように大きくし、重くする。こうして頭をリセットする。たいてい寝てしまうが。寝相の悪いレイに蹴飛ばされて起きたとき、もちろん悩みが解決してはいないし、たいした閃きもない。


 延々と続く緑の丘が飛び込んできた。護送車から降ろされ、寝すぎて痛い背中を伸ばして、あちこちの骨を鳴らした。

「ヨク寝タ」

「うん」

 丘の向こうには、高台があり、石壁が左右に連なる。

「ココ、ドコ?」

「あの壁は街の出入口のところじゃないかな。去年、」

「デモ、山ナイ」

「奇想天外」

「マカフシギ」

 青年の声がしたので、御者台の方を覗き込んだ。レイの頭越し、ポカンとしてしまった。涎が彼女の顔に付いた。レイもそんなことすら気にしていない。二人は青年のことなどまったくどうでもよくなった。

 白亜の塔がそびえていた。

 まだ遠くなのだということは理解できたが、頂で輝く琥珀の宝石が夕日に照らされて、一帯を染めるのが美しい。まるで僕たちが琥珀に閉じ込められたように感じた。

 レイが何やら呟いた。

 そして、

「キレイ」

 と、僕を見上げた。

 僕は目を奪われたまま頷いた。

 青年は両腕を広げ、歓迎するかのようにお辞儀をしてみせた。

「こちらへ」

 と、うやうやしく促した。

 僕たちはどちらともなく引き寄せられるように歩いた。護送車が去っていく音が聞こえた。蹄と車輪の音が遠ざかる。僕が振り返ると、青年は小さく頷いた。再び僕はレイに近づいた。そして耳もとで、

「こいつ、信じる?」

 レイは首を小さく横に振る。ということは逃げるしかないのだが、一面がなだらかな草原だから、逃げるにも逃げられない。額に貼り付いた封印も外さなければならない。

「虫、どうする」

 僕は額を指差した。

「ドウセ死ヌ」

 子供相手に封印に虫を使うことがあるそうなのだが、虫も生き物なので死ぬということだ。では今使えるのは呪術ではなく、単なる身体能力だな。この世界に来てからというもの、こんなのばかりだ。派手な剣や不思議な術、ドラゴン退治などないものなんだな。どこの世界も世知辛いもんだ。そもそも僕には呪文も剣も使えないから、どうしようもないのだけれども。

 僕とレイは呼吸を合わせて踵を返し、背後を無防備で歩く青年に肩から突っ込んだ。押し倒した後はひたすら来た道、といっても窓がない護送車からは見ていないのでわからないが、一本道を城壁まで走るしかない。と、考えるまでもなく、結界に吹き飛ばされた。忍び込んだ学校と同じ失敗をしたのだ。しかも今度はレイも警戒していなかったので、二人とも見事に跡形を残していた。

 青年は笑顔でレイを見下ろして何やら話した。学校に引っ掛けった際の痕跡を通じて、僕たちを追いかけてきたということだった。結界に残った形はしばらく結界にも本人にも残るのだと、レイが頭を押さえながら話してくれた。レイも知らなかったのだから、僕も知らない。僕たちはとてつもなくバカをしていたわけだ。どこかで身を潜めているべきだったのに、相手の懐に飛び込むように行動していたということだ。

 少しは頭を使わないとな。

 あれに乗るように、レイが指差したところに二頭立ての四輪馬車があった。御者は背筋が伸び、馬車自体にも華美ではないくらいの装飾がなされ、一見して護送車ではなかった。レイ曰く「出世した」と。

 窓に流れる草原は消え、やがてまた城壁が現れ、巨大な石橋を越えて城門を潜った。とんでもない広さの屋敷が整然と並び、入り組んだ路地がない。しかし路地の向こうは霧で覆われたように見えない。

「街、全体、術カケラレテル」

 レイが話した。

「ココ、ワタシ、術使エルナイカモシレナイ」

「マジか」

「マジ」

 レイは僕を見据えて、

「マジヤバイ」

 と、答え、僕の横に移ると、外套の下に体を預けてきた。

「寝ル」

 ぼんやりした声で、

「ズット術使ウ、頑張ルタ。デモ、疲レタ。トニカク、ダメ」

 僕は熱を帯びた彼女の頭を抱くようにして、神経と体力の消耗が激しいんだろうなと考えた。

 ふわふわとした椅子と蹄鉄の音と車輪が石畳を行く感触が子守歌のように思えてくる。やがて蹄鉄の音が薄れ、石畳の震動も消え、宙を走っているような気がした。ふと窓の外の霧が雲に見えたので、石畳があるべきところに街がある。

「飛んでる…?」

 僕はレイを放りだして、天井で頭をしたたかに打ったことも忘れて扉を開けてしまった。勢いよく風が舞い込んできて、馬車が大きく揺さぶられ、僕はバランスを崩して扉にぶら下がった。寝ぼけ眼のレイが、

「着イタ、降リル」

 と、這って来た。

「ダメダメ!」

 僕はドアハンドルを握る手に力を込めて、ステップに何とか片足をかけて、レイの眠た顔を奥へ蹴飛ばした。

「オマエ!」

 レイは目を覚ました。

「蹴ル、ヨクナイ」

 襲いかかろうとしたとき、僕とレイの体は強制的に椅子に戻され、扉が閉じた。屋根から固いものでコツコツとやられた。騒がしい。静かにしていろということらしい。レイは頬を押さえたまま睨んでいた。

「外見ろ」

「痛クテ見ルナイ」

 と、言いながらも窓に顔を押し付けた。「オォ?」

 瞳孔が開いている。

「街、沈ンダ」

「違う違う」

「飛んでるんだよ」

「オカシイ」

「沈む方がおかしい」

 僕は言ったが、少し自信がなくなった。もはや何が起きてもおかしくない世界だ。窓の下を覗くと、街は水に沈んでいるようにも見える。青年が顔を覗かせて、レイに話した。

「術」と、訳した。「簡単ニ城、近ヅクナイタメ。迷路、術」

「凄いね」

「凄イ」

 僕たちは「そういうこともあるんだな」と受け入れた。もっと驚くと思っていたのか、青年は首を傾げて御者台へ戻った。それよりも青年が御者台にいることに驚いた。




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