第14章 蒸発

 レイが言葉は伝えたものの、言葉を知らない僕も気持ちは伝わってはいないことは理解できた。兵士の剣が僕の頬を撫でたからだ。気持ちを伝えるのは奇跡に近いことではないだろうかと驚きはない。

「コイツラノセイ。ワタシ、シン、嫌イ言ワレタ」

 レイが爆発した。

 比喩ではない。

 爆発したのだ。

 彼女を包んでいた空気が一瞬にして兵士の剣を砕き、校舎の破片が生徒たちの頭に降り注いだ。

 瞬間湯沸かし器娘が。

 一帯が土煙に覆われた。

 僕たちは逃げた。

 この世界に来て、とにかく逃げることがうまくなった。逃げるときのコツは、ただ後ろを気にすることなくひたすら突っ走るのだ。目標を決めて走る。単純なことだ。要するに敵より足が速ければいいことだ。

 何の力もない奴にできること。

 走るしかない。

 いつの世も、どの世界でも弱者にできる手っ取り早いことを無視する奴が多すぎる。まず僕たちは逃げる訓練からすべきだ。嫌なことも逃げていれば追いかけてこない。

 しかし今回は違った。レイが学校を守る塀を力技でぶち抜いたものだから、僕は走って逃げることなどできなくなった。瓦礫を這い、路地に転がり出た。怒号が聞こえた。

 僕は振り返る。逃げるときの心得に反してだ。彼女は瓦礫に仁王立ちしていた。どうせそんなことだろうと思ったが、いざそんなことを見ると溜息が出た。紫の目は厳しく吊り上がり、頭上に大蛇が鎌首を持ち上げていた。額には紅玉の眼が冴えた月のように沈黙していた。

 死の前の静寂。

 突如激しい揺れとともに校舎の壁に大穴が空いた。生徒らは逃げ惑うばかりだ。術を習っているなら抵抗するか抑え込め。割れた窓から炎が溢れ出していた。レイは逃げるなんてことは考えていない。逃げることしかないのだからと、僕は動くものに荒れ狂うレイを肩に抱えた。

「何も起きてません。何も見てません。これは夢です。夢になれ。夢にしてくれ。夢にしてやる」

 と走った。路地裏をできるだけ学校から遠くへと逃げた。レイは何やらわめいていたが、強引に口を抑えた。引っ掻かれた。こんなものは必要経費のうちだ。剣の傷が彼女の爪跡に紛れてわからなくなった。

 川辺の舟の修理工場に隠れた。

「レイ……」

「殺ス気カ」

 レイは僕の手を押し退けた。逃げるのと押さえる必死で口を塞いでいることを忘れていた。彼女は新鮮な空気を求めて深呼吸した。

「ク、クラクラスル」

「ごめんごめん」

「死ヌ、思イタ」

「あのね」

 僕も息を整え、自分に冷静になるように言い聞かせた。

「聞いてくれるかな」

「聞ク」

 彼女は自分の胸に手を合わせて呼吸を深呼吸を繰り返した。

「話セ」

「レイは先生に会いたい、学びたいと伝えたんだよね」

「伝エタ」

「伝えられない?」

「奴、剣……」

「そうだね。レイは僕を守ろうとしてくれたんだね」

「ワタシ、オマエ、守ル」

「ありがとう」

「ドウイタマシテ」

 レイの言葉もやわらいできた。

「デモ、剣、砕イタ、オマエ」

「人のせいにするのはよくない」

「オマエ、剣、砕イタ」

 レイは僕の首についた蛇とツタの首輪のアザを撫でた。少しヒリヒリとして血がにじんでいた。

「コレ、反応シタ。オマエ、気持チ爆発シタ。兵、腕チギレタ」

 まさかと笑ったが、自分でも驚くほど笑っていなかった。

「塀と校舎は?」

「アレ、ワタシ」

 レイは誇らしげに答えた。

「罰食ラウ、イイ。焼イタ。アンナモン、焼キ払エ。消ス、簡単」

 術の使い方を学ぶとか、呪文を覚える必要などない。まず抑える方法を学ぶ必要がある。僕は術など使えるわけもないのにどうしろと?


 僕たち遠くの騒動を背に雑踏を歩いていた。よそで優雅に朝食をしているとは思わないだろう。

 途中重いパンを食べた。これくらい大きな街になると、起きた事故や事件など市場では関係ない。

「ところでこの輪っかは何?」

「コレ、手出スナノ印」

 何となくわかった。家畜などの標識タグみたいなものだ。

「なぜ僕が術を使えたの?」

「キミョウキテレツマカフシギ、キソウテンガイシシャゴニュウ」

 どこで覚えたんだ。

 そうか。ここに来てから、嫌なこと忘れるために、僕自身が呪文のように歌っていたんだ。

「出前迅速落書無用だね」

「ウン」

 今日は何も起きていない。

 爽やかな朝だ。

「そうだ。お風呂へ行く?」

「埃マミレ」

 レイは埃をはたいた。

 やがて術使いの悪党二人組が手配されることになるのは、後で知ることになる。ボニー&クライドになってしまったのかもしれない。


 僕は考えた。貴族の紹介が必要だと言われたが、レイは貴族街に薪を配達していたはずだ。

「遅イ。先、思イ出シタラ、学校壊スナイ。デモ貴族、知ルナイ」

「思い出せ」

「思イ出シタ。ヨク行ッテタ」

 僕たちは右へなだらかに続く坂を上った。僕の全然見知らない路地へ入ると、年の瀬に温かいドリンクを飲んで花火を見た広場に出た。

「よく覚えてるね」

「ワタシ、賢イ」

「賢いよ」

「ふふん♪」

 レイは広場を右へ抜けた。僕は一つ一つの豪邸を見ていた。これでも小さいというのだ。薄い褐色のレンガを積んだ、広い道の両脇にはたっぷりとした区画に、二階建ての建物が並んでいた。通りに面した裏には、地下へと続く階段があるので、そこへ薪を置いておくのだと教えてくれた。よく手入れされた庭は柵で囲まれ、玄関の門扉は背丈の二倍ほどある。掃除が大変だ。本人が掃除するわけではないのか。

 レイは裏口を訪ねた。閑静な住宅他のようだが品性がない。裏に生活ゴミが積まれていた。集めにくる人たちがいるのだろうが、何とかできないのかと考えていると、赤毛の女の子が出てきた。僕とレイを見てキョトンとしていた。特にレイへの反応はない。表情は曇ったままだ。ずいぶんと僕を気にしていた。薪配達人のときの子供の姿と今の派手な髪のレイが結びつかない様子だ。しかもレイ自身は見た目が変化していることに気づいていないので、話がちぐはぐになる。僕は待った。

 ようやく赤毛の女の子が僕の顔に気づいた。そうだ。僕自身も丸坊主だから印象が違うのだ。彼女は震えるのを抑え、何とか手で待つように制した後、勝手口の奥へ消えた。


 僕たちは部屋へ通された。分厚い床も磨かれ、壁は漆喰で整えられていた。隙間から床下を覗けるようなところなどない。それでも使用人の設備かな。下級の来客用なのかもしれない。と思わせるような雰囲気はあるりそもそも裏口から入るのは来客ではない。壁に伝票や発注書のようなものがピン留めされ、扉のない出入口を覗くと台所が見えた。

 赤毛の少女が戻ってきて、髪を束ねた痩せた召使い頭が続いた。僕たちを値踏みするように見た後、案内してくれると言った。要するにレイのことしか伝わっていない。

 今度は豪華な客間だ。

 趣味が悪いが。

 窓から差し込む光、暖炉の上にはあくまでも鹿のような、たぶん鹿ではないオーナメント、数々の調度類は海を連想させる貝殻を模したものもある。この世界に海もあるのかななど、ぼんやりと考えていた。

 この世界でも栄養過多や運動不足などあるのか。何を食べ続ければ、何をしていなければ、こんな姿になるのだろうか。でっぷりとした彼は何か気に入らないことがある様子を見せていた。僕に一瞥くれ、二度と見ようとはしない。あ、そういうわけではないのか。レイに目を奪われたのだ。彼女には親しげに話し、ソファに座るように勧めた。僕も座ろうとしたが、召使い頭に睨まれた。

 座るなと言うことね。

 召使い扱いか。

 露骨だな。

 レイは肩越しに僕に怪訝な顔を見せた。なぜ座らないのかと尋ねたい様子だったが、すぐに太っちょ貴族が早口で何やら話し始めた。レイは心ここにあらずで答えて、人差し指を立てて小さな炎を見せた。

 他の連中は驚いた。

 僕も驚いたものの、他のことを気にかけていた。どうも壁の向こうの部屋か廊下で息を潜めている者がいるようだ。赤毛の少女はあきらかに挙動不審気味だ。この世界に来るまで神経を使い、それはここに来てからますます研ぎ澄まされていた。

 レイは、

「紹介クレル。デモ彼、ワタシ、知ルナイ。信頼イル。ココデ働ク」

 と僕に告げた。

「オマエノコト、頼ム」

「ああ」

「ドウシタ?」

 扉が開いて、赤ら顔の汚らしい髭面が現れた。彼の後ろには眼光鋭い男たちがなだれ込んできた。切り詰めた槍を手にしている奴に見覚えがある。屠殺場で僕たちをこき使い、死体を蹴飛ばし、人々を絶望させた班長だ。太っちょが指差した。

「何?」

 と僕がレイに尋ねた。

 太っちょがまくし立てた。

「人買いだな。この貴族様は人の売買を趣味にしている」

「人買イカ」

 レイは無表情で立ち上がる。

 要約すると、赤毛の彼女が人殺しの僕を太っちょの主人に伝え、主人は警察に届けるのではなく、人買いに売ったということだ。だから赤毛も驚いていたのだ。生きて目の前に現れるなどないはずだった。

 客間で、皆が皆、それぞれに喋るものだから、もう何が何やらわからない。槍は突き立てられるわ、引き倒されるわ、蹴飛ばされるわ。頬を靴で頬を踏まれているとき、レイが額飾りを引きちぎるのが見えた。僕は「レイっ」と手を伸ばした。

 使ってはいけない。

 一瞬、部屋の空気が熱くなる。太っちょの顎、槍の班長の指が歪んだ。赤毛の髪が焼けた。

 蒸発!?

 僕は目を閉じた。

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