第10話 奴隷

 気がついたときは、首と左足に枷を付けられて、獣の肉を解体する屠殺場で働かされていた。枷には一つの鎖と文字が刻まれていた。逃げないようにではなく、逃げた後、どこから逃げてきたのか識別できるようにしているのだ。要するに街も信頼できないし、誰も信頼できない。

 僕は殺した。あれからどれくらい過ぎたのかもわからない。すべて夢だったのかもしれない。食べていなかったのかもしれない。どこで寝起きをしているのだろうか。たまに息をしていない同類が運ばれていくのを眺め、充満する肉と血の臭いの中、石の壁で覆われ、あちらこちらで獣の断末魔の悲鳴が響く中、僕は無表情で屠殺用の包丁を振った。血飛沫にまみれるが、どれが今浴びたものか以前からのものかもわからない。僕は半地下に連れてこられた暴れる動物の息の根を止める。次、次、次。L字の先が尖った引っ掻き棒のようなのような道具があるのだが、僕の力ではそれでは致命傷を負わせられないので、樵用の斧を振り下ろした。その方が苦しませずに殺せた。そしてまだ生ぬるい血を噴き出す肉塊を天井から吊るされたフックに掛ける。このときうまく掛けないと革の鞭で殴られる。鞭というものは小さくても威力がある。背が裂けていた。肉は別のところで手慣れた人が皮を剥いでいた。皮を剥がれた肉は各部位に大雑把に分けられ、それらをある程度の塊にする人々がいる。もう一つ位が上がると、肉片を塩漬けにする工程に従事するらしい。連中は僕たちに挨拶すらしない。この仕事でも位がある。三日に一度、水車の下の流れに立たされた。体を洗うのは、彼らの役目だ。木の棒の付いたデッキブラシのようなもので適当に洗われる。長い髪は無造作に刈られ、髭と一緒にはナイフで剃られる。服はドンゴロスを頭から被らされて、腰で結わえたような一枚のシャツで、布団は藁を布で包んだものだむたが、布がどす黒く変色していて臭い。黒いものは垢や前の者が死ぬ前に吐いた血の跡だった。生きるとか死ぬとか考えたこともなく、ただ起きて獣を殺し、食べて、糞をして寝る。口鬚の濃い班長がせせら笑いながら、僕を小突くが、何を言っているのかわからないし、興味もない。いつも具の少ないスープのようなものが出るが、これは薪屋と同じだ。ゆっくり飲む。パンもゆっくり食べる。中には肉の内臓をくすねて食べる者もいたが、見つかるとマズイ割には殴る蹴るの虐待を受けるので、一度だけやってやめた。信頼というものはどこで得られるかわからないもので、給仕のとき班長がパンの量を増やしてくれた。文句も言わずによく働くからだろうが。次第に寒さも終わりに近づいてきて、相変わらず川の水は冷たいが、風も温かく、土には新しい雑草が芽吹いていた。食えそうな気もしたが食えなかった。束の間の休憩のとき、この村は都の外、山脈の側にあることがわかった。だから僕たちが来た反対側にあたるのだった。ここで作られた肉は都の市場やレストランや家庭に並ぶのだろうか。たまに僕たちを追いかけてきた毛の長い獣の子供が入ってきた。たいていは弱っていた。毛は削がれていたので、初めは気づかず、首を刎ねていた。肉は細く切られる。僕たちが少しずつしがんでいたのは、この獣の肉だった。

 春というのは、この世界で春があるのかわからないが、いろいろ活動が始まるときだ。僕も頭が回るようになってきたらしく、少しずつ考えることも増えてきた。もちろんたいしたことは考えてはいない。ただ見たまま反すうしているだけなのだった。木材は筏で街の外れへと運ばれて、そこで薪になる。肉は郊外で加工され、それは街へ運ばれる。野菜や果物もも郊外で作られ、市場やどこかへ行く。僕は土手で考えた。人は街へ来て、街で死ぬ。塔なんてくそったれだ。何が都だ。僕は足枷を指で撫でた。血を浴び続けていて錆びてきていた。どうもこの世界の鉄類は錆に弱い。首の枷も同じだ。こいつがとれたところで、逃げようと考えた。暖かくなるなら、何とか生きられる。生きられるのか。何のために生きるんだ。皆、幸せに暮らしているのか。都が憎い。僕は薪割りの老主人を殺してやろうと思った。あんな仕打ちは、今さらながら我慢できない。冬の間どす黒い負の感情が熟成されていた。


 春めいて来た頃、とうとう逃走の準備ができた。むろん冬の間に動物を殺しまくったハンドアックスが武器だ。着るものは班長のものを盗む。着たくはないが、裸よりマシだろう。むろん班長を殺してからだ。街へ来た人を奴隷のように扱い、その死体をゴミのように捨てていた連中に何の同情も未練もない。夜、皆が寝静まった頃、枷を鳴らしながら大部屋を出て、廊下を歩く。監視人は便所だと油断していた。僕は便所で足と首の枷を引きちぎるように外し、便所の天井に隠しておいたハンドアックスを取り出して、あくびをする監視人に忍び足で近づいて襲った。呆気ないものだった。首に一撃、悲鳴もない。ハンドアックスを抜く。血飛沫が廊下の壁や天井に飛んだ。続いて地上へと駆け上がる。そして二階部へ続く階段を静かに上がる。その突き当りの部屋に班長がいる。寒さも和らいだ夜のことだ。仲間を含めて三人の男が賭け事をしていたところを、ハンドアックスで脳天と側頭部を叩き割った。人も動物も急所など似たものだった。急いで血塗れの体を拭いて、クロゼットから新しい服を取り出した。隠してある床下から金銀銅貨の入った財布を懐に入れた。そのときだった。もう一人が戻ってきた。テーブルにはカップが四つ、椅子が四つだ。戻ってきた男は班長の次に汚く、僕たちをこき使う、神経質な奴だったが、惨事に腰が抜けたまま廊下の壁に背を預けた。殺さないでと嘆願してるのだろうが、僕は彼の怯えた顔を見下ろした。ハンドアックスを一気に振り下ろした。廊下の壁ごと削れて、奴の鎖骨から肋を砕いた。殺さないで、助けて、少し休ませてと言われながら、夜の寒空に捨てられた人が何人いたことか。僕は庭へ出ると、頭で描いていたように必死に小川へと走った。低い土手で囲まれた小川の下流は、やがて石でできた水路で城壁都市へと続いている。それは舟で解体した肉を運ぶのに使われ、小川そのものは城の外をへと逸れていく。屠殺で汚れた水、死体を解体したものが流れ、都市の遥か彼方へ遠ざけられる。そうやって皆は見なくてもいいものを隠して、街は存在しているのだ。そのまま小川に沿って夜のうちに城から離れてもよいが、僕は絶対に違うと感じた。このままでは浮かばれないものがいる。この手を血に染めてでもやらなければならない。街には、僕たちを犬ころのように捨てた薪割りの老主人が待っている。もし街へ入れば、警察など(見たことはないが)に追われるのだろうか。小舟を漕いで、城壁をくぐり、夜の水路を街へと進ませた。今は人の死の上に建つすべてが許せない。興奮が冷めてきた気もしていた。こんな僕をレイはこんな僕を悲しむだろうか。僕は人を殺した。どんな理由があろうとも、僕は人を殺めた。


 頭の中で思い描いたようなことができるわけでもなく、ただ日々が過ぎていく。このまま野垂れ死ぬ未来しかないのに、まだこの期に及んでも何とかなるのではないかという楽天的なおめでたい思考がよぎる。何とかなるわけがない。しかし人を殺せる自信はない。とにかく敵などに背を向けて逃げる。ひたすら夕闇を走るしかない。ルートはわかっている。どうせこのまま死ぬんならレイの傍で死にたい。僕は夜、便所へ立った。監視人はいないようだった。外へ通じる鎧戸は頑丈で、重々しい錠で閉ざされていた。便所の天井に隠しておいたハンドアックスを取り出した。便壺槽へ降りた。ためらいはない。糞尿は肥やしになるので貯めてある。たしか地獄絵図にこんな地獄があったような気がした。糞尿の中を泳いで、外へと通じる蓋を開いた。刺激臭と情けなさで涙が出そうになるが、生きるために選んだ道だからと自分を鼓舞した。何とか便槽から這い出して、息を詰めたまま敷地を走り抜けた。それから音を立てないように小川に身を沈ませた。汚物を流せたのはよいが、冷たすぎる。下流へ下流へ泳いだ。途中、計画に描いていた水車小屋に寄る。ドンゴロスに穴を空けて頭からかぶる。小川沿いに駆け抜けた。ここでためらってはいけない。火の一つでも付けてやりたいところだが、他の奴隷も犠牲になると考えた。嘘だ。単に度胸がなかったのだ。一人でも死んだり、逃げたりすれば、班の連中全員が罰を受ける。僕も受けた。それで死んだ者もいた。ただ見えさえしなければいいのか。自問自答が頭を回る。足をもつれさせながら、小川に繋がれた舟に忍び込んだ。誰も追ってこないでくれ。揺れが止まるのを待ちながら来た道に注意を払う。小舟のもやいを外して流れのまま川を下る。舟には肥壺が積まれていた。また糞尿だ。どこまでも糞尿に縁がある。城内へ入るのか、外へ逃げるのか。悩んだ。外へ逃げれば遠ざかることができるが、一人では食うことに困るだろう。レイがいたからこそたくましく生きられた。そんなことくらい理解している。城内へ入れば食うには何とかなるだろうが、屠殺場が近くにあるので見つかる可能性は高い。捕まった経緯までは記憶にないが、どうせ誰かに売られたのだろうから、また連れ戻されるかもしれない。もちろん同じ屠殺場ではないかもしれない。ただすることは似たようなものだ。僕は考えがまとまらず、苛立ちに任せて足枷と首枷の残骸を捻じるようにしてちぎる。舟は自然と城内へ流された。選ぼうにも選べないままだった。ここまで来ても、僕一人では何一つ判断できずにいた。舟は関に食い止められて、僕は目を覚ました。こんな状況なのに眠ってしまったらしい。もはや呆れるほど愚かな奴に思えた。水路は木の格子で通行止めとされていた。どうすべきかあたふたしていると、柵の奥、城内側から複数の声がした。僕は慌てて船べりから水へと沈んだ。眠そうな声で「小舟が流れて来やがった」とでも話しているようだ。「なんとかしろ」ともっと遠くから叫んでいるかのようだ。

 僕は舟の際で息を継いだ。柵が少しずつ上がると、誰かのサンダル履きの足が見えた。彼が鼻をつまんだような声で 「くせぇ!」とでも叫んでいるのだろう。同時に棒で水路の壁に船を遠ざけた。僕は舟と壁に挟まれた頭を何とか抜いて船底にしがみついた。柵が再び降ろされて、水中が泥で濁った。数人のくぐもった声が会話している。息がもたない。しかしここで顔を出せば、いくら暗いからとしても気づかれてしまう。兵士が水の中に鉤爪のついた棒を突き刺している。仕事はしっかりとしているようだった。鉤爪が被っていた袋に引っかかった。異変を察した様子で棒が動いた。僕は身を何度か捻じるようにしてドンゴロスを脱いだ。兵士たちが、それに気を取られている間に息を継いで、舟を川下へと押した。流れるまま声が遠ざかると、背中越し水に濡れた袋が舟に投げ込まれたのを感じた。舟の陰に隠れて進む。冷えた体には限界が近づいていた。とにかく早く兵士たちから離れたいが、急げばバレる。それでも気持ちが急く。ゆっくり流れに従うように臭い水路を泳いだ。不意に舟は動かなくなった。鉤つきの棒で止められたのだ。兵士たちが舟を岸へ寄せる。斧も舟に積んだままだ。殺すしかない。息を。ハンドアックスを持ち上げる音が舟底に響いた。こんなところで捕まってたまるものか。冷たさで感覚がなくなる頭上、松明が水面を照らした。ハンドアックスはどこにでもあるものだから、兵士も何の疑問も持たないか、やはり売れるものなら持ち帰るのか。どちらでもいい。とにかく気づかないで去ってくれ。舟はもやいで固定されたが、ハンドアックスにも興味がないらしく、乱暴に舟に投げ込まれて、松明と明るい話し声が遠ざかっていった。

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