第11話 墓地
僕は舟に上がると、濡れたドンゴロスとハンドアックスを持ち、できるだけ低い姿勢を維持したまま遠くへ逃れた。どこでもいい。まず人がいなければいい。とにかく人のいないところだ。途中足がもつれて転んだり、泥水を吐いて、その臭さにまた吐いた。裸足の指も爪先もボロボロで、濡れたドンゴロスを被った全身は冷えきっていた。彼女とともに旅をし、湯を見つけて、焚き火を見た景色が浮かんだ。僕は知らず知らずに彼女の眠る墓へ向かった。
墓はあちらこちらが土の重みでへこんでいた。それはもう土の中にいた人は骨になっているということだった。石も筒も傾いて、春の雑草に覆われた墓の間を歩いた。夜なのに妙に視界が広がる。ずっと半地下で屠殺していたから、目が慣れてしまっいるのだ。つまらないことを身につけたものだ。獣の殺し方、飢えのしのぎ方、仕事のもらい方、殺されないような働き方、どれも前の世界ではなかった技だ。いずれここで役に立つのか。我ながら苦笑した。
首がヒリヒリと痛い。
手に血がついていた。足首にも触れたが、べっとりとしていた。
「そもそも奴隷だったな」
と呟いた。
指で触れると、レイに刻まれたリングがわかるのだが、それに血が流れるように染み込んでいた。
僕はレイの墓を探した。しかしどれも同じようなもので見つけられなかった。印すらない。だんだん空が白んでいく中、何千とある墓を見ながらさ迷った。埋めたところすらわからないのか。薄情な奴だ。腕の中で死んだことにも気づかず、一人では弔うこともできなくて……
僕は地面に伏して泣いた。
朝日が空を鮮やかに染めた。
やがて荷車がやって来た。
二人組の影は、ビリケンさんと三つ編みさんだ。僕は彼らの姿をぼんやりと見つめた。彼らも遠くから僕を見つめていたが、気づいた様子だった。彼らは僕の姿を見て、この冬のことを察してくれたようだ。もしかしてこの街ではこんなことはよくあることなのかもしれない。
三つ編みさんが手招きした。僕の体が限界に来ていたが、何とか息をしながら彼らのところに近づいた。
彼らは指差した。
覚えていたのだ。彼らは僕が忘れていたのを覚えていた。山の頂上を指差し、街の塔の一つを指差し、両腕を広げて石が崩れた端と端の結び目に墓がある。それが目標だ。彼らは言葉が通じない僕のために特別に墓を見つけやすいようにしてくれていたのだ。もしかして隣に埋められるようにしてくれてたのかも。
ビリケンさんが曳いていた荷車は空っぽだった。少し遠く、山に近い方を指差すと、若い男と女が肩を寄せ合い泣いていた。
三つ編みさんは、
「違うところに穴を掘る」
と力を込めた表情でジェスチャーで教えてくれた。彼らは墓を掘ることを生業としている。冬には墓が増える。新しい区画では土が新鮮だった。僕は古い墓地と新しい墓地のちょうど境界にいた。
彼女の墓はへこんではいなかった。もう土に新鮮さはないが、ところどころ春の雑草が生えていて、石は露で濡れていた。
そうだ。
この下に財布を埋めたんだ。
僕は石を除けて、固くなりつつある土を掘り返した。まだ形を留めている財布が出てきた。震える手で中身を調べた。街に来たとき、彼女が財布を盗まれたなと懐かしんだ。墓荒らしに合っているかのような墓もあるが、ここは貧しい者が埋められるところだ。掘り返せるものはないだろうに、それでも掘り返さなければならない人もいる。死者は何も持ち合わせてはいないだろうが、服くらいはあるかもしれない。僕は財布から銅貨を取り出して、これで僕は二人に墓を掘ってくれと頼もうと考えていた。膝をついたまま無表情で土を見下ろしていると、視界が揺らいだ。食べるものもほとんど食べていないし、力も使い、体も冷えきっていた。僕は財布を埋め戻したところで俯いたまま力尽きそうだ。
これは死ぬかもな。
喉が軋む。
僕は苦しくて、なぜか彼女の墓を掻きむしるようにした。上半身が届かなくなるくらい掘り返した。
蓋が見えた。
地面が揺れた。強い力で押し上げられる。視界がぐらついて、僕は跳ね飛ばされた。背から落ちた僕は一回転して土に埋もれていた。レイのところに落ちたのかもしれない。このまま彼女と一緒に眠るのもいいと思った。まだ星が見えたので、空に手をかざした。蛇のような深紅の瞳が近づいてきた。まだここでも試練があるのか。
蛇か未知のバケモノか。
白い頬が僕を照らした。
紫の瞳、金の髪、白い頬、鼻柱にどこか面影のある怒りの皺。
「誰だ?」と僕は尋ねた。
本当にわからない。どこかでお会いしましたかというレベルだ。
「オマエ!」
首が締まった。額の紅深の眼と紫の瞳が僕を睨んでいた。
「苦しい」
首が締めつけられた。手が無意識に藻掻いた。ますます首が締まってきた。体が浮いて、止まるやいなや、地面に叩きつけられた。
なぜこんな仕打ちをされなければならないんだ。せっかく逃げてきたというのに、報われもしない。
僕の視野が歪んだ。
人の影は墓穴に飛び降りると、引きずり出した外套をまとい、ゆらゆらと戻ってきた。一瞬、僕は何も考えずにタックルした。突然のことで相手も虚を突かれたのか、バランスを崩して倒れた。僕はヤケクソになっていて、誰かわからないがやってやろうじゃないかと殴った。こちらは死ぬ覚悟で逃げてきたのだ。組み伏せようとしたとき、みぞおちを蹴飛ばされて、喉を掴まれ、そのまま後頭部から地面に叩きつけられた。
「シン、ワタシ、殺ス気カ」
片言の日本語が聞こえた。少し低い声が耳に染み込んできた。離れていたビリケンさんも三つ編みさんも動きを止めていた。新しい墓で悲しんでいた男と女は慌てて逃げていた。死者の蘇生を願い、空気穴を差し込んであるとしても、誰も本気で生き返るなんて信じていない。僕たちは儀式にすぎないと知っている。
「誰、埋メタ」
「え?」
僕は恐る恐るビリケンさんと三つ編みさんを指差した。
「あの人たち」
二人は慌てて首を横に振る。
「彼ラ仕事。誰、彼ラ命ジタ」
「誰だ」
「忘レタ?」
額の眼が近づいてきた。
「オマエワタシ捨テタ」
「どちら様ですか」
とせせら笑った。この街で僕は知り合いなどいない。唯一の友人は死んでしまって、すでにはいない。
「ムカツク。オマエ、カネ」(独り占めするために)「殺ス、シタ。誰、一緒ニ。仲間、誰イル。女カ」
「だからあんた誰だ!」
「レイ!」
「は?」
「見テワカラナイカ」
「わからんわ」
僕の手は彼女の顔に触れた。白い肌の下で筋肉が緊張していた。彼女は転がっていたハンドアックスに自分を映して、
「誰、オマエ!」
僕はこのバカバカしさはレイしかいないなと思い、今ある力でレイを抱き締めた。肩まである金の髪は光とともに煌めいた。肌も瞳も冬前とは違うし、身長も僕の肩ほどまでに成長していた。何よりも額に眼が生まれていた。
「月影のようにきれいな髪だよ」
彼女は僕の胸ぐらを掴んで投げ飛ばした。僕は褒めたのに投げ飛ばされれば世話はないなと笑った。
「オマエワタシ、好キナイ」(邪魔だから)「埋メタ!」
「違うわっ!」
首が熱い。
体が地面から浮いた。
瞬間湯沸かし器女が。
僕は必死でビリケンさんと三つ編みさんを指差した。が、彼らは荷車を放り出して遠くへ逃げていた。
背中が遠ざかる。
また地面に叩きつけられた。今度は彼女が埋められた墓の中だ。生ぬるい土と石で覆われていた。激怒したレイが何かの力で持ち上げた土が、僕の体に降り注いできた。
笑けてきた。
生きてるじゃないか。どういうことだ。埋められるのか。再会した今、今度は僕が埋められるのか。レイに殺されるならいい。生きてくれていることがうれしい。あれほど生きたいと考えたのは、彼女に会うためだったんだ。僕は自分の気持ちを知ることができて満足だ。
すべてが遠ざかる。
寒さとひもじさと緊張の中、夜通し走ってきたのだから、何もかも限界に達していた。そして何の前触れもなく意識が消えた。
視界は霞んでいた。どこからか幾筋もの細い光が差し込んで、頬にポタポタと落ちる蛇口の水が跳ねる音と息づかいがした。頭をきつく抱き締めるしなやかな腕、まるで子守歌のような鼓動と汗ばんだ肌。
美月だ。
帰れたんだ。
暗幕の下、僕は膝枕の上で抱かれていた。僕は邪魔な暗幕の縁を開けようとしたが、どうしても腕が上がらない。かすかに開いた間に見えたのは荒涼とした地平線、果てしなく連なる土まんじゅうの列、遥か彼方で冷たくたたずむ山脈。
「シン……」
少しハスキーな声がした。
「心配ナイ」
それから知らない言葉がどんどん聞こえた。レイが泣いていた。
なぜか僕は安心した。帰れなかったという失意よりも、レイが生きているということが勝るのはどうしてだろうか。わずかなときを一緒に旅をしてきただけなのに、彼女が生きている喜びが染みた。しかしなぜ彼女が生きているのだ。この世界では蘇るのか。なぜ泣いている?
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