第4話
この日は、朝から慌ただしかった。少なくとも数日前から割る量が増えていたのだが、屋根のある貯木場には貯まる一方だ。何を考えてるんだろうかと思っていたが、これまでに見たことのないくらいの荷車がやって来て、それぞれ薪を積んでいった。それが数日続いて、彼女も懸命に働いていた。行くときは頭巾の付いたダッフルコートでモコモコした格好だったが、戻ってくるときはダッフルコートを荷車に積んで汗をかいていた。それを何度も繰り返した夕暮れ、老主人が、いつもより早くに仕事を終わらせて、思った以上の額をくれた。
(いい人だな)
二人は目顔で笑い合った。
今日はここまでということで、いつもより早く終わった後、僕は彼女に誘われて大衆浴場に行った。こちらもとても混雑していて、結局、僕たちは寒空の中で待たされた末、皆の垢で汚れて、生ぬるいお湯で体を流して夜を迎えた。いくら風呂でも冬の夜の露天は辛いので、汚くても浴場がよい。ただ湯気も寒さにかき消された。もうそんなことはどうでもよいと思えるようになった。
旅の初めはストレスで死ぬかと思ったくらいだったが、人というものはたいていのことは慣れるのだなと感じていた。たぶん一人ではないというところも大きな理由なのだろうが、話せればもっと楽しいのかもしれない。学ぶしかないのか、学ばせるしかないのか。お互いに意味がわかる単語も増えてきつつあるし。「風呂・メシ・寝る・痛い」は、彼女が覚えた。僕は覚えられない。
小ざっぱりしたところで、彼女は僕を広場に行こうと誘った。村を出たときの陰鬱な表情もなく、何だかんだで衣食住も良くなり、僕も彼女も肌にハリが出ていた。しかし強烈な肉体労働なので、極端に太ることはない。細マッチョだ。あちらの世界では憧れていたが、いざなってみるとプロセスに難があるせいか、少しもうれしくはなかった。鍛えたものでもなく、しようがなくなったのだからだろう。代謝が良くなったせいでやたら汗は出るし、すぐに体は冷えるし、座っていると尻は痛いし。
僕は初めて貴族街へ入った。僕にとっては屋敷なのだが、彼女が言うには(もちろんジェスチャーで)、こんなものは屋敷ではないらしい。もっと大きなのが他のところにはあるということだった。
「掃除、大変だろうな」
「風呂アルナイ」
「ない?」
「ヌルイ」
貴族街にも広場があった。下々と違うのは、すべて石畳がきれいに並んでいるところくらいだ。下の広場は雨の日はぬかるんでもいた。ここならそんなこともないだろう。
照らされた広場のあちらこちらには、丸や長方形、大小のテーブルが置かれ、僕たちはというか、僕は彼女に言われて二人掛けのテーブルに並んで腰を掛けた。
広場を囲うように露店が並び、僕が留守番をして、彼女が揚げ物と湯気のある飲み物を買ってきた。僕たちは文明に近づいていたのだ。訂正する。彼女は。僕は街に来たのに、日がな一日を手斧の習得に過ごしていた。丸太を切るためのノコギリの扱いも慣れた。大きな斧も見様見真似で使えるようになった。この世界では樵にでもなれるかな。
見知らぬ広場で一人にされて、僕が目で追っていると、彼女は何人かに声をかけられて笑っていた。老若男女、それぞれ小ぎれいな服を着ていた。質素ではあるが、しつらえの良いものだった。そんな中、精一杯のものを着込んだ僕は野暮ったかった。少し嫉妬した。
「知り合い?」
レイは首を傾げた。
「トモダチ?」
「ナイ」
銅貨をあちらと自分に移動させて見せた。薪を買い、チップをくれる人か。
こうして彼女は交友を広げているのかもしれない。元来、気のいい子だ。一緒にいてそう思う。憎らしくない。イタズラをしても、されても本気でケンカはない。いつも僕を気遣ってくれていた。ひょっとして僕の性格に似てるのかもしれない。気を遣うのは似ているが、僕はなかなか心を開けないでいたしな。
レイが持ってきたのは、木のマグカップに入ったチョコレートのような飲み物と小指大ほどのつぶつぶの塩味のフライ、モコモコの服の下から熱いパンを取り出した。
彼女はホットチョコレートに口をつけると、楽しそうに肩を揺らしながら空を眺めていた。良いことでもあるのか。冷えた夜空に星々が哀しほと澄んで輝いている。日本の冬の空に見える星座はなかった。僕は分厚くなった手にできたマメを見た。どうやらこの飲み物はアルコールが入っているようで、体がホクホクとしてきた。
もう考えるのはやめよう。
そのときである。
遠くの空が輝いた。
空気が爆ぜた。
花火だ。
人々は口々に何か言い合い、誰からともなくハグをし、握手を求め、持っていたコップを花火に掲げた。僕も彼女も彼らに倣って互いに照れながら握手をし、大きなコップを次々に上がる花火に掲げた。どこからともなく楽しげな音楽が流れてきて、場は一層騒がしくなる。僕たちはお祝いムードの中、何度か味の違う飲み物を飲んで過ごした。
どうやら新年を迎えたようだ。
寝るとき、
「ワタシ、冬、好キナイ、タ。デモ今、冬好キ」
「どうして」
「オマエ、ヌクイ」
くっついて顔を埋めた。
湯たんぽか。
猫か。
次の朝、彼女は死んでいた。
何の前触れもなく、彼女は僕の懐で胎児のように丸まったまま動かなくなっていた。
僕は老主人を彼女の亡骸の前に連れてきた。老主人は烈火のごとくわめき散らして、僕に部屋を出ていくように命じた。僕は荷物をまとめて彼女を外套にくるんで、部屋を後にした。蹴り出された。厄介者は追い出されたのだ。無性に腹が立っていたのか、いつもな絶対しない、自分で研いでいた鉈とハンドアックスをくすねてきた。こんなことに別に意味はなかった。ただただ気持ちのままの行動だった。外套の中、ダッフルコートを着込んだ彼女は胎児のように丸まっていた。頬は冷たく、心臓は動いてもいなくて、袖から出た拳は固い。
「レイ?」
何度も呼びかけた。
呼びかけながら歩いた。
「ほら。朝だよ」
「花火見ただろ?」
「ここでチョコ飲んだよね」
夕べの広場の跡、まだ祭りの余韻の松明の燃えかすが残る中、食い散らかした食べ物が残る中、凍るような寒さの中、僕は昨夜と同じ椅子に腰を掛けた。音もなく、風もなく、冷たさもなく、僕には彼女以外の何も見えず、涙が溢れてきた。ギュッと抱きしめたまま泣いた。彼女の首に顔を埋めるようにして肩を震わせた。
「こんなのズルいよ」
と、呟いた。
「レイ…」
日が高くなると、誰かに揺り起こされた。夢か。僕は顔を上げた。それはビリケンさんと呼んでいた粗野な仕事をする大男だった。ヒゲを三つ編みにした小さい男が一緒にいた。顔を覗き込んで薪割りの格好をしてみせてくれた。彼も口を利かないのだが、僕は彼らに彼女の亡骸を見せた。
すると二人は驚いて、互いの顔を見合わせてレイを覗いた。三つ編みの彼はレイの頬に手を触れ、喉に指を当てら深くため息を付いた。獣の毛で覆われたベストを着た男は大男はムスッとしていた。三つ編みの方は寒さが嫌いなのか着ぶくれしていたが、ゆっくり鬚面を横に振った。
二人は僕から荷物を取り上げて、何やらわめきながら去っていった。僕は彼女を抱きしめたまま見送った。彼女以外、何も残らなかった。しばらく無表情のまま過ごしていたに違いない。何かを奪われても何も感じなかった。続いて数人が来たが、またかというような顔をする者もいた。そばかすだらけで、赤い髪を後ろで結わえた女中の格好をした少女も彼女を覗いた。
そして、
「レイ?」
と尋ねた。
僕は小さく頷いた。
「シン?」
指差してきたので、それにも無言で呟いた。マコトは言うな、シンでいろと、レイが地面にバツをした日が浮かんだ。
赤毛の女中は慌てて駆け去った。
すぐに荷車の音が近づいてきた。大男のビリケンさんが怒鳴り散らしていた。僕に対して怒っている様子だった。僕は理不尽な仕打ちに込み上げてくるものがあったのだが、それが怒りなのか悲しみなのか寂しさなのかわからなくて唇を噛み締めたまま二人を見据えた。気が狂うということはこういうことなのかもしれない。今の瞬間を記憶しておこうと思ったが、すぐに忘れた。僕は三つ編みさんに荷車に引き上げられた。ビリケンさんが荷車を曳いた。ずっとブツブツ叫んでいた。薪屋からくすねてきたものらしく、隅に焚付に使うくらいの木屑が溜まっていた。三つ編みさんがしわがれた声で呟くように歌い始めた。ドナドナのように聞こえた。僕は売られていくのだろうか。僕はもうどうでもいい。この子は故郷から捨てられ、旅をして、憧れていた街で何もすることなく死んだ。どうやら僕はやりきれなさで暴れたらしい。気がつくと三つ編みさんの太い腕で押さえつけられていた。ビリケンさんが肩越し、何度か僕に怒りか哀れみを含んだ目を向けていた。すべての光景が写真のように記憶に残った。写真はいくらでもある。病室で眠る美月さんの姿、激怒する義理の兄、二人で旅をして笑い合ったレイの姿。まるで僕は神様になり、世界を見下ろしているようだ。運ばれているのも、空から見ていた気がする。
やがて荷車が止まる。
ビリケンさんと三つ編みさんが僕を荷車から降ろした。立たせようとしたが、僕は人形のように崩れて膝立ちした。
荒涼とした景色だった。
遥か彼方の山脈に連なる大地、遠くまで大小様々な盛り土が続いていた。僕は促されるまま山脈に向かい、歩き続けた。山脈なんて近づいきやしないが。新しい盛り土が増え始めたところに立ち、ようやくここは墓だということに気づいた。
また三つ編みさんが歌を始めた。
穴が掘られていて、そこに歪な石が敷き詰められ、土壁には貯木場からくすねてきた細い丸太が土留に重ねられた。彼らが掘ってくれたのだった。三つ編みさんが僕の腕からそっと彼女を抱き上げ、穴の中のビリケンさんに渡した。ずいぶん浅い墓穴だが、ビリケンは貯木場からくすねてきた板で彼女の姿を隠すように蓋をした。三つ編みさんが棒きれを渡してきて、板の隅に棒を刺せと指差した。僕は言われるがままにした。それは空洞になっていた。そしてビリケンさんが土をかぶせた。僕も湿った土を投げ入れた。泥まみれのビリケンさんは、墓穴を掘ってくれたのだ。墓を掘りに来なかったことに怒っていたのかもしれない。三つ編みさんは、また違う言葉を口ずさんでいた。どことなく弔いの言葉に思えた。あちこちのまんじゅう塚に木の筒が出ていることに気づいた。ようやく盛り土ができた頃、ビリケンさんは筒に息を吹き付ける仕草をして、僕にもやれと促した。僕もそうした。そして三つ編みさんが丸い石を置いた。改めて僕はうなだれた。
ビリケンさんは僕の肩を叩いて、革財布の中から銅貨を一枚取り出して、自分のポケットに入れた。石と筒代、労賃だと言うことらしい。そして革財布をきつく紐で縛り、僕の胴巻きの中へ力強くねじ込んだ。励まされた気がした。歌うのをやめた三つ編みが、僕に親指を立てた。それはグッドではなく、僕が一人になったという意味だった。悲しげな笑みが見えた。
一人だ。
言葉もわからないまま残された。二人ではどうにかなるものの一人ではどうにもならない。改めて彼女がいたこと、いや、いてくれたことのありがたみに気づいて、涙が靄になるまで泣いた。やがて霜になり、日が昇り、霧になる。都を覆い隠していた霧の正体は、こうして死んでいったものへの涙なのかもしれない。
ビリケンさんと三つ編みさんは荷車とシャベルとツルハシとともに消えた。くすねたものを売るのだと笑った気がした。僕も小さく笑った気がした。彼らはたくましく、そして優しい。それはレイが彼らと交友していたのかもしれない。そうか。彼らは僕たちが薪割り場を追い出されたことに腹を立ててくれたのだ。
僕は起き上がることはできなかった。ハンドアックスで土を掘ると、財布を埋めた。そして旅で散々食べた肉を食べ尽くし、ここで死んでしまおうかと、土葬の山々を見つめながら考えていたような気がする。寒さが身にしみ、土はぬかるんで、これからもない、暗闇が続いた。
気がついたときは、首と左足に枷を付けられて、動物の肉を解体する屠殺場で働かされていた。枷には一つの鎖と文字が刻まれていた。逃げないようにではなく、逃げた後、どこから逃げてきたのか識別できるようにしているのだ。要するに街も信頼できないし、誰も信頼できない。
僕は殺した。あれからどれくらい過ぎたのかもわからない。すべて夢だったのかもしれない。一日一食も食べていなかったのかもしれない。どこで寝起きをしているのかすらわからない。たまに息をしていない同類が運ばれていくのを眺め、充満する肉と血の臭いの中、石の壁で覆われ、あちらこちらで動物の断末魔の悲鳴が響く中、僕は無表情で屠殺用の包丁を振った。血飛沫にまみれるが、どれが今浴びたものか以前からのものかもわからない。僕は半地下に連れてこられた暴れる動物の息の根を止める。次、次、次。L字の先が尖った引っ掻き棒のようなのような道具があるのだが、僕の力ではそれでは致命傷を負わせられないので、樵用の斧を振り下ろした。その方が苦しませずに殺せた。そしてまだ生ぬるい血を噴き出す肉塊を天井から吊るされたフックに掛ける。このときうまく掛けないと革のベルトで殴られる。皮が傷むのだということらしい。皮を剥ぐのは、別の手慣れた人がしていた。皮を剥がれた肉は各部位に大雑把に分けられ、それらをある程度の塊にする人々がいる。もう一つ位が上がると、肉片を塩漬けにする工程に従事するらしい。彼ら彼女らは僕たちに挨拶すらしない。三日に一度、水車の下に立たされ、体を洗うのは、彼らの役目だ。木の棒の付いたデッキブラシのようなもので適当に洗われる。長い髪は無造作に刈られ、髭と一緒にはナイフで剃られる。服はドンゴロスを頭から被らされて、腰で結わえたような一枚のシャツで、布団は藁を布で包んだものだむたが、布がどす黒く変色していて臭い。黒いものは垢や死ぬ前に吐いた血の跡だった。生きるとか死ぬとか考えたこともなく、ただ起きて動物を殺し、食べて、糞をして寝る。口鬚の濃い班長がせせら笑いながら、僕を小突くが、何を言っているのかわからないし、興味もない。いつも具の少ないスープのようなものが出るが、これは薪屋と同じだ。ゆっくり飲む。パンもゆっくり食べる。中には肉の内臓をくすねて食べる者もいたが、見つかるとマズイ割には殴る蹴るの虐待を受けるので、一度だけやってやめた。信頼というものはどこで得られるかわからないもので、給仕のとき班長がパンの量を増やしてくれた。文句も言わずによく働くからだろうが。次第に寒さも終わりに近づいてきて、相変わらず川の水は冷たいが、風も温かく、土には新しい雑草が芽吹いていた。食えそうな気もしたが食えなかった。束の間の休憩のとき、この村は都の外、山脈の側にあることがわかった。だから僕たちが来た反対側にあたるのだった。ここで作られた肉は都の市場やレストランや家庭に並ぶのだろうか。たまに僕たちを追いかけてきた一角獣の子供が入ってくるが、たいていは弱っていた。首を刎ねて、ツノをノコギリで落とし、毛は他へ送られ、肉は細く切られる。僕たちが少しずつしがんでいたのは、この獣の肉だった。覆っていた毛を剃ると、馬のような姿だとわかる。馬車もこの獣なのかもしれないと思った。春というのは、この世界で春があるのかわからないが、いろいろ活動が始まるときだ。僕も頭が回るようになってきたらしく、少しずつ考えることも増えてきた。もちろんたいしたことは考えてはいない。ただ見たまま反すうしているだけなのだった。木材は筏で街の外れへと運ばれて、そこで薪になる。肉は郊外で加工され、それを街へ運ばれる。野菜や果物もも郊外で作られ、市場やどこかへ行く。
僕は土手で考えた。
人は街へ来て、街で死ぬ。
塔なんてくそったれだ。
何が都だ。
僕は足枷を指で撫でた。血を浴び続けていて錆びてきていた。どうもこの世界の鉄類は錆に弱い。首の枷も同じだ。こいつがとれたところで、逃げようと考えた。暖かくなるなら、何とか生きられる。
生きられるのか?
しかも何のために生きるんだ。
皆、幸せに暮らしているのか。
都が憎い。
僕は薪割りの老主人を殺してやろうと思った。あんな仕打ちは、今さらながら我慢できなくなっていた。冬の間、どす黒い負の感情が熟成されていた。
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