第9話 花火
少なくとも数日前から割る量が増えていたのだが、屋根のない貯木場には木が貯まる一方だ。何を考えてるんだろうかと思っていた。これまでに見たことのないくらいの荷車がやって来て、それぞれ薪を積んでいった。それが数日続いて、彼女も懸命に働いていた。行くときはモコモコした格好だったが、戻ってくるときは防寒着を脱いでいた。それを何度も繰り返したある日の夕暮れ、老主人がいつもより早くに仕事を終わらせて思った以上の額をくれた。
いい人だな。
今日はここまでということで、いつもより早く終わった後、僕は大衆浴場に誘われた。こちらも混雑していて、結局僕たちは寒空の中で待たされた末、皆の垢で汚れて、生ぬるいお湯で体を流した。今はそんなことはどうでもよいと思えた。ここに来てどれくらいだろうか。旅の初めはストレスで死ぬかもしれないと思ったものだったが、たいていのことは我慢できた。レイがいてくれたからだ。話せればいいのにな。どこかで学べるなら学びたい。彼女は僕の言葉を覚えた。疲れた、風呂、メシ、寝る、逃げる、痛いくらいは苦もなく出てくるようだ。
小ざっぱりしたところで、帰る気でいたところ、彼女は一緒に来いと僕の手を掴んだ。革紐で繋がれていた頃から違った。何だかんだで衣食住も良くなり、僕も彼女も肌にハリが出ていた。毎日が強烈な肉体労働の日々なので太ることはない。
ここが貴族街なのか。
「風呂アルナイ」
「ない?」
「ヌルイ」
貴族街にある広場は雨の日にはぬかるんだ下々と違い、土留め石が敷き詰められて汚らしさがない。
ランプで照らされた広場のあちらこちらには、丸や長方形、大小のテーブルが置かれ、僕たちはというか、僕は彼女に言われて二人掛けのテーブルに並んで腰を掛けた。
広場を囲うように露店が並び、僕が留守番をして、彼女が揚げ物と湯気のある飲み物を買ってきた。僕たちは文明に近づいていたのだ。訂正する。彼女は。街に来た僕は話せないし、日がな一日を手斧の習得に過ごしていた。丸太を切るためのノコギリの扱いも慣れた。大きな斧も見様見真似で使えた。少なくとも世界を股にかける勇者や魔王などにはなれない。この街の片隅で名もなき人として一生を終わるのだろうな。
僕は心細くなってきた。見知らぬ広場で一人にされて、手持ち無沙汰でいると、レイは何人かに声をかけられて笑っていた。老若男女それぞれ小ぎれいな服を着ていた。質素ではあるが、しつらえの良いものだった。そんな中精一杯のものを着込んだ僕は野暮ったかった。赤毛の女の子がレイと楽しげに話していた。
「知り合い?」
レイは首を傾げた。
「トモダチ?」
「ナイ」
銅貨をあちらと自分に移動させて見せた。薪を買い、チップをくれる人か。もともと気のいい子だ。一緒にいてそう思う。憎らしくない。イタズラをしても、されてもどこかしらで許してしまえる。
「ワタシ、シン、好キ」
「ありがとう」
「ドウイタマシテ」
レイは木のマグカップに入ったチョコレートのような飲み物を持ってきた。小指大ほどのつぶつぶの塩味のフライ、モコモコの服の下から焼き立てのパンを取り出した。
彼女はホットチョコレートに口をつけると、楽しそうに肩を揺らしながら空を眺めていた。
良いことでもあるのか。
冷えた夜空に星々が哀しほと澄んで輝いている。日本の冬の空に見える星座はなかった。僕は分厚くなった手にできたマメを見た。この飲み物はアルコールが入っているようで、体がホクホクとしてきた。
もう考えるのはやめよう。
そのとき遠くの空が輝いた。
空気が爆ぜた。
花火だ。
人々は口々に何か言い合い、誰からともなくハグをし、握手を求め合い、持っていたコップを花火に掲げた。僕たちも彼らにならって互いに照れながら握手をし、大きなコップを次々に上がる花火に掲げた。どこからともなく楽しげな音楽が流れてきて、場は一層騒がしくなる。僕たちはお祝いムードの中、何度か味の違う飲み物を飲んで過ごした。
どうやら新年を迎えたようだ。
寝るとき、
「ワタシ、冬、好キナイ、タ。デモ今、冬好キ。オマエ、ヌクイ」
いずれこの子も成長して、互いに違う道を歩むようになるんだな。
翌朝、彼女は死んでいた。
何の前触れもなく、彼女は僕の懐で胎児のように丸まったまま冷たく動かなくなっていた。
僕は老主人を彼女の亡骸の前に連れてきた。老主人は烈火のごとくわめき散らして、僕に部屋を出ていくように命じた。僕は荷物をまとめて彼女を外套にくるんで、蹴られるように部屋を後にした。厄介者は追い出されたのだ。無性に腹が立っていたのか、いつもなら絶対しない、自分で研いでいたハンドアックスをくすねてきた。こんなことに別に意味はなかった。ただただ気持ちのままの行動だった。外套の中、コートを着込んだ彼女は動かなかった。頬は冷たく、心臓は動いてもいなくて、袖から出た拳は握り締められて固い。
僕は何度もレイに呼びかけた。
「もう朝だよ。昨夜一緒に花火見ただろう。ここでチョコ飲んだよ」
昨夜の広場の跡、まだ祭りの余韻の松明の燃えかすが残る中、食い散らかした食べ物が残る中、凍るような寒さの中、僕は昨夜と同じ椅子に腰を掛けた。音もなく、風もなく、冷たさもなく、僕には彼女以外の何も見えず、涙が溢れてきた。ギュッと抱き締めたまま泣いた。
「こんなのズルいよ」
日が高くなると、誰かに揺り起こされた。夢を見ていたのか。
「レイ!」
僕は顔を上げた。それはビリケンさんと呼んでいた粗い仕事をする大男だった。ヒゲを三つ編みにした小さい男が一緒にいた。顔を覗き込んで薪割りの格好をしてみせてくれた。彼も口を利かないのだが、僕は彼らに彼女の亡骸を見せた。
二人は互いの顔を見合わせてレイを覗いた。三つ編みの彼はレイの頬に手を触れ、喉に指を当てら深く溜息を吐いた。獣の毛で覆われたベストを着た男は大男はムスッとしていた。三つ編みの方は寒さが嫌いなのか着ぶくれしていたが、ゆっくり鬚面を横に振った。
二人は僕から荷物を取り上げて、何やらわめきながら去っていった。僕は彼女を抱きしめたまま見送った。僕のところには彼女以外何も残らなかった。しばらく無表情のまま過ごしていたに違いない。何かを奪われても何も感じなかった。続いて数人が来たが、またかというような顔をする者もいた。そばかすだらけで、赤い髪を後ろで結わえた女中の格好をした少女も彼女を覗いた。
「レイ?」
僕は小さく頷いた。
「シン?」
指差してきたので、それにも無言で呟いた。マコトは言うな。シンでいろと。レイが地面にバツをした日が浮かんだ。しばらくして荷車の音が近づいてきた。大男のビリケンさんが怒鳴り散らしていた。僕は理不尽な仕打ちに込み上げてくるものがあったが、何の気持ちなのかわからないまま唇を噛み締めたまま俯いた。三つ編みさんかま僕の肩を抱くように荷車に引き上げた。怒ったいるビリケンさんが荷車を曳いた。
この子は故郷から捨てられ、心細い旅をして、憧れていた街で何もすることなく死んだ。僕はやりきれなさで暴れたらしい。気がつくと三つ編みさんの太い腕で押さえつけられていた。僕の中には二人で旅をして笑い合ったレイがいた。この子の人生は何だったんだ。せっかく憧れの街へ来たのに、どうして……。
やがて荷車が止まった。
ビリケンさんと三つ編みさんが僕を荷車から降ろした。僕は人形のように崩れて膝で立ちした。
荒涼とした景色だ。
遥か彼方の山脈に連なる大地、遠くまで大小様々な盛り土が続いていた。僕は促されるまま遥か山脈に向かい、歩き続けた。山脈なんて近づいきはしないが。新しい盛り土が増え始めたところに立ち、ようやくここは墓だということに気づいた。
三つ編みさんが呟くように歌い始めた。すでに穴が掘られていて、そこに歪な石が敷き詰められ、土壁には貯木場からくすねてきた細い丸太が土留に重ねられた。三つ編みさんが僕の腕から彼女を抱き、穴の中のビリケンさんに渡した。ずいぶん浅い墓穴だが、ビリケンは貯木場からくすねてきた板で彼女の姿を隠すように蓋をした。三つ編みさんが棒きれを渡してきて、板の隅に棒を刺せと指差した。僕は言われるがままにした。ビリケンさんが少し土をかぶせた。僕も同じようにした。泥まみれのビリケンさんは墓穴を掘ってくれたのだ。墓を掘りに来なかったことに怒っていたのかもしれない。三つ編みさんは、また違う言葉を口ずさんでいた。どことなく弔いの言葉に思えた。一帯のまんじゅう塚に木の筒が出ていることに気づいた。ようやく盛り土ができた頃、ビリケンさんは筒に息を吹き付ける仕草をして、僕にもやれと促した。僕もそうした。そして三つ編みさんが丸い石を置いた。これでおしまいだ。
ビリケンさんは僕の財布から銅貨を一枚取り出して、自分のポケットに入れた。石と筒代、労賃だと言うことらしい。そして財布をきつく紐で縛り、僕の手に持たせた。励まされた気がした。三つ編みがさんが僕に親指を立てた。それはグッドではなく、僕が一人になったという意味だ。一人だ。言葉もわからないまま残された。改めて彼女がいてくれたことに気づいて、涙が土に溜まるまで泣いた。やがて霜になり、日が昇り、霧になる。都を覆い隠していた霧の正体は死んでいったものへの涙なのかもしれない。
ビリケンさんと三つ編みさんは荷車とシャベルとツルハシとともに消えた。くすねたものを売るのだと笑った気がした。僕も小さく笑った気がした。彼らはたくましく、そしてやさしい。それはレイが彼らと交友していたからかもしれない。彼らは僕たちが薪割り場を追い出されたことに腹を立てていたのだ。
しばらく僕は墓の前で起き上がることができなかった。ハンドアックスで土を掘ると、レイと稼いだお金の入った財布を埋めた。そして旅で散々食べた肉を食べ尽くし、ここで死んでしまおうかと、土葬の山々を見つめながら考えていたような気がする。寒さが身にしみ、ぬかるんだ土の上に未来のない闇が続いた。
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