第8話 街の生活

 僕は起き上がると、土の上に塔の絵を描いた。そして「塔を見に行こう」と彼女に伝えた。初めは虚ろな目をしていたが、僕は塔のあるだろうところを指差した。何となく理解してくれたようだが、まだ元気になってくれそうにはない。立ち上がつわた僕は彼女を軽く抱き上げた。

 大きな街路に出た。通りに面したところは窓にはガラスがはめ込まれていた。ガラスまで作れるのかと感心した。路地裏は蔀窓だったし、黄褐色の壁も薄汚れていた。動物の糞尿の臭い、肉の臭いもした。ひょっとして屠殺場があるのかもしれない。街の中の丘まで行くと、また川があり、その向こうには大邸宅が並んでいた。僕たちがいる橋の外側は庶民、あちらは貴族というところかなと考えた。明らかに雰囲気が違うから正解だろう。それにしても住んでいるのは貴族なのか商人なのか。

 僕たちは川沿いに歩いた。

「あっちだ」

 特に言わなくてもいいのに、彼女の気持ちを思えば口数が増えた。

「大丈夫だよ。こっちだ。ほら。また同じところだ」

 露店で野菜や肉がえる。野菜や肉の種類は少ない。日本が多すぎなのかもしれない。ところどころでは木造家屋も見られる。酒を飲ませる店は何となく看板でわかる。服も露店で売られていた。揚げ物があるのに驚いた。鉄の鍋で揚げているのか。立派な店構えの刀剣屋を覗くと、薄暗い中に大きな剣が浮かんで見えた。背丈ほどもある剣だ。彼女を誘ってみたが、まだ反応は示さなかった。それにしてもいくら歩いたのかわからない。塔すら見えない。まさか象牙の塔ではないだろうか。近づけば近づくほど遠ざかる。答えは簡単だった。要塞化していた。まっすぐに城へは行けなくなっているらしい。僕はひょっとして木造の建物を崩せばまっすぐつながるのかなと気づいた。それでめ潰して行くわけにもいかず、結局のところ単に貴族屋敷の反対側に出てきただけだ。

 川には筏舟が流れる。

「疲れた」石畳と土道の違いがこうも足にきた。「どこか座ろうか」

 ふと振り返ると、彼女は通りに面した板壁に掲げられた黒板の文字を見ていた。

「読めるの?」

 と僕が尋ねると、レイは壁紙を指差した。縦に二本、斜めに一本の線が書かれていた。薄暗い路地を邸宅とは逆の方へ行くと、そこには広い敷地に材木が置かれていた。

「薪割り場だ」

 と僕は思った。

 すると一人の目の細い老人が現れ、僕に話しかけてきた。何を怒っているのかさっぱりわからない。薪を指差した。割ってみろと言うのか。僕はやってみせた。 

「ふっ!」

 と笑い、箱を指差した後、親指と人差し指、中指を立てた。彼女は何やら老人に言うと、今度は僕に割れと命じた。僕が薪を割り、彼女が荷車に積む。薪割りは旅の途中で覚えたことをやった。老人はずっとキセルをふかしていたが、突然何やら言葉を発した。彼女と会話らしきものをしていたが、僕は止められるまで黙って割り続けた。老人は建物の二階を指差した。言葉が通じないとあうことは不便なものだ。僕たちは上へ案内された。住み込みで働くということか。小さな部屋に蔀窓が一つとテーブルと椅子一つずつ、古びた木のベッドにドンゴロスのような敷布がある。老人はテーブルの上に黒い碁石のようなものを三枚置いた。これがさっきのアルバイト代ということか。納得していると一つを取り上げた。僕は老人を見た。たぶん田舎もん丸出しの顔だからだ。老人は床を指差した。あ、家賃ね。この碁石で何を買えるのだ。ちゃんと生活くらいできるのだろうか。そもそも皆は何を食べるのだろうか。それはともかく下へ戻ると、また同じ作業を何度か繰り返した。交代交代にしたが、二人ともヘトヘトになってしまった。作業は荷車何台分だろうか。昼ご飯はパンが出た。ほとんど野菜で塩気もないスープをカップに入れた。二人分で一碁石だった。家賃と同じかよと思ったが、食事代は二日ほど払わなくてよかった。とはいうものの、こんな大きな都に来て、やっていることといえば、ずっと薪割りというのも情けない。敷地では複数の人が働いてたが、たいていは一人黙々と割り、黙々と荷車に積んでいた。職業に貴賎はないというが、この世界でも、たぶん上等な仕事ではないのだろうなと思った。メシが食えて雨露がしのげるなら、まだましだと考えることにした。仕事は朝明るくなれば始まり、夜暗くなれば終わる。灯りがないのだ。ないわけではないが、灯りをつけてするまでもないらしい。

 あれほどあった薪が敷地からきれいさっぱりとなくなったときは、僕も彼女も達成したぞという気持ちに満たされた。次の日にはどこからか新しい木がやって来たのだが。

 風呂に入りたくなったが、もちろんそんなものはない。貴族街とを隔てる川から水を汲んできて、廃墟でくすねてきた鉄のような鍋に入れ、売り物にならない薪をくべて温める。布を浸して、石鹸を付けて体を洗うことをした。こいつらは何をやってるんだという顔で見られたが、そんなことはどうでもよい。僕と彼女の気が合うところは、湯が好きだというところか。敷地の隅でやっているのだ。貴族街を見上げながら体でも洗おうかと、二人で岸辺降りて川に飛び込んだら、心臓が止まるかと思うくらい冷たかったので、しようがなくこうしている。初めは見ているだけの主だったが僕たちに木端を売り始めた。くそ。なんてがめつい奴なんだ。しかも他の連中の「何をしているのだ?」という表情の理由もわかった。近くに公衆浴場のようなものがあるのだ。変な目で見られるはずだ。

 僕たちが都で目にするものは冬の訪れを待っている陰鬱な街並みだけだ。漫画やアニメで見たことのある華やかな生活とは程遠い。これではまるで奴隷である。ときどき老主人に鉈を投げつけてやろうかと思うときもあったが、それ以外は「まあまあ」な生活だった。馴染んでどうするんだと。これからずっとこんなことするのか。そんなわけにもいかない。帰らなければならない。

 彼女は薪割りを手伝わなくなったかと思うと配達をしていた。小さなロバを操り、荷車に積んだ薪を貴族屋敷やその他のところへ配達に行くのである。半日ほどで戻ってきては、また半日ほど配達する。

 夜は二人で稼ぎを出し合うのが楽しみになってきた。ドアに楔を差し込んで押し込まれないようにし、わずかなロウソク(どう見てもロウソク)の灯の前で、僕は黒い碁石をどんと置く。いや、嘘だ。摘んでパチンパチンと置く。しかし彼女は銅貨を置くことがある。石粒四つで一銅貨ということらしい。僕はどうしたの?という表情をしていたのだろう。しばらぬ彼女は難しい顔をした。そして僕の手を取ると、そこに銅貨を握らせた。

「チップか」

 給料は石粒で、貨幣はチップということだった。冬が深まる中、宵の口に運ばなければならないときなど、チップをはずんでもらうこともあった。少しずつ金持ちになっていくような気がした。気がしただけだが。冬の服を買うこともできた。夏にはいらないので売るらしいが、これはどこかで見た毛糸だと思ったら、追いかけてきた奴らから採ったものだった。朝昼と働いてくたくただったので、不安で眠れないことはなかった。むしろ不安を消すために黙々と薪を割っていたくらいだ。ここに来ている誰もが話さない。僕は話すことができないのだが、他の連中は干渉を拒むという表現が合う態度だった。この世界では珍しくないようで、たまに頭の尖った、まるでビリケンさんのような大男が現れては、あちこちの薪を一気に割って人の稼ぎを奪う連中がいた。しばらく来ないで、またふらっと来てはアックスでガンガン砕く。さぞ老主人は喜んでいるだろうと様子を窺うと、僕と目が合い、溜息混じりに首を横に振った。言葉が通じないことがわかっていたので、彼は僕の割った薪を並べ、そして連中の割った薪を並べた。大きさが均一でないことが気に入らないらしい。僕の方には二銅貨、彼らの方には一銅貨置いてみせた。僕が納得すると、さもうれしそうに銅貨をポケットに入れた。何だかんだ、この冬は老主人ともうまくやっているということだ。

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