第7章 塔の街
この世界で走ることの理由は当然二つしかない。追いかけているか逃げているかだ。レイはずっと前を走っていたが、夜に走るものだから根につまずいてベルを落とした。ベルが間抜けな音を立てて転がる。追いついた僕はレイの襟首から体を持ち上げて逃げた。だいたいから樵から盗もうとするからだ。樵は本業が何かわからないくらい荒くれ者だ。しかし空腹の僕たちは肉を焼いている匂いにつられた。数人の樵が小屋の前で焚き火をしていた。生臭い内臓が捨てられていたので、たまたま捕まえた獣をさばいたのだ。怪しい道を避けようと決めていたはずなのに、レイは悪巧みを考えた。僕が樵の気を引いている間、肉を奪おうとした。茂みの上の岩の上で踊らされた挙げ句、まったくの失敗に終わったのだ。肉だけで済ましておけばいいのに、荷物まで手をかけたとき、それに獣除けのベルが入っていた。
僕は岩から飛び降りて、彼女は茂みの獣道を抜けて逃げた。結局夜の森は怖いという経験を得たが、夜の森よりよっぽどレイが怖い。樵の逆襲を警戒しながらも何とか逃げきれたとき、逃げている途中て肉の塊を落としたことがわかった。
ようやく深い森を抜けた頃、すでに空が白んでいた。それくらい深い森だった。僕たちはほぼ二日中森を歩いていた。異世界の森で遭難死なんてバッドエンドも嫌だ。どの世界でも同じだと思うが、夜に森を歩くものではない。三つ学んだうちの一つだ。後二つは獣の毛を抜くなということと無闇に洞窟には入るな。グロテスクな魚は食うなということも学んだことに入るかもしれない。
ベルがカランコロンと脳天気に響いた。頭に来て、捨てさせた。ベルは断崖に吸い込まれた。もう少しで崖から落ちるところだったのだ。
浅い湿地帯の中、森からの道は延々と続いていた。出会う人、十字路を左右へ行く荷車、人、獣畜なども見られた。汚れた防寒着、サッパリとした外套を羽織る者、痩せている若者、腹の出ている中年など様々だった。腕が長く、身長が低い男は数人で何やら話しながらすれ違った。男でも長い髭を三つ編みにしている者もいた。挨拶もなく、視線を合わせることもなく、僕と彼女は人波の邪魔をしないように歩いた。
やがて道には石畳が混じるようになってきた。かつては整備されていて町が近づいてきたのだろうか。不思議と僕たちの足は速くなる。
低い枯れ草で埋め尽くされた土地には、入るせないように左右に石垣が連なっていた。近づくにつれて、すべての石が体の半分ほどの大きさでできていた。冷えた溶岩のような歪な形の岩は姿こそは乱雑ながら簡単に侵入者を寄せつけないほど精巧に組まれていた。この世界の経験の浅い僕には特別な職人が積んだのか巨人が積んだのかわからない。ただこの立派な石塁も遠い昔に捨てられた遺産のような扱いだった。
夕暮れが近づいてきて、僕たちは人気のいない道に逸れた僕たち何とか登れるようなところを探した。
結局、風も強く諦めた。
二人して焚き火を囲み、それでもどうしても見たいよなと、レイは訴えたので僕が肩車をした。彼女は僕の肩に立ち、何とか石塁の上に這い上がった。僕があまりの必死さに笑うと、レイは機嫌を悪くした。冬を思わせるきつい風が彼女の外套の裾を吹き抜けた。激しく揺らす音がして、彼女は持っていかれそうになるのを堪えて、肩を竦ませて冷たい手を擦りながら火へと戻ってきた。
彼女は僕を見上げて、唇の両端を上げた。むろん興味が湧く。僕も見たいと指差したが、彼女は首を横に振った。外套を引っ張られた僕は強引に焚き火の側に戻された。
「自分だけ見て」
僕は拗ねた。一時間も岩にもたれて肉片を噛み続けた。彼女はチラチラと様子を伺いつつ、枯れ枝をくべている。悪巧みの表情だ。
「もういいよ」
僕はわざとらしく彼女に背を向けて横たわった。すると彼女は石垣と僕の間に体をねじ込んできた。悪びれる様子もない。僕はしようがなく外套を上げて、彼女を包んだ。相変わらず寝つくのが早い。すでに寝息をたてていた。背後で火の爆ぜる音を聞いていたが、やがてそれが遠ざかる。僕も疲れていた。
朝焼けが眩しかった。
露に濡れた外套から抜けると、低層木は一面が霧で覆われていた。冬の到来を告げる風が石塁の縁を抜けて笛のような音を立てていた。
荷物を整え終えた僕は昨夜のように彼女を岩に登らせた。そして荷物を投げて渡した。伏せた彼女は僕の手を掴んで、膝で立ち、反動で僕を引き上げた。反対側に倒れそうになるくらい力任せに持ち上げられた。
霧が右から左へ流れる。
どこまでも街が続いていた。盆地の中が丸ごと街だ。遥か彼方に山々が連なる。左の奥に塔らしいものが見えた。街を縫うような川がキラキラと光っていた。まるで模型のようだと思った。彼女はこの光景を見せたかったのだ。しかも朝に。
レイは街を紹介するように外套を広げた。彼女の顔がニヤニヤしていた。ここに来たかったのか。
僕たちは怪我をしないように壁から降りると、二人して枯れ草の草原を駆けた。しかし次第に二人とも走るのをやめた。まだ走るには早すぎたのだ。どこまでも続く草原の丘を登り、また下る。それでも彼女も僕も笑っていた。息継ぎをするのでさえ苦しいが、自然と街への近づく速度が上がる。草原は消え、広い土の道に出た。二頭立ての二輪獣車が通り過ぎる。二本の角の生えた牛のようなものが曳く荷車、人力の荷車には青い白菜らしいものが積まれていた。朝市に間に合うように城へと向かうようだ。僕たちはそれに着いていくことにした。キョロキョロするのは格好悪いと考えているのか、堀に沿った道をまっすぐ進んだ。ただ僕の心臓は激しく打ち、手に汗をかいていた。これほどの都市を見るのは初めてで期待しかなかった。
ときどき動物が落とす糞を避けて歩いたり道沿いにはその糞をシャベルですくい取る者たちがいた。彼らの格好は薄汚れていて、腕や脚は細く、髪のお洒落まで気が回らない様子だったが、糞を見つけては奪ううように急いだ。背丈はレイと同じほどだが、顔はしわがれた大人か老人のもので、そういう人種らしい。またそれぞれの持ち場のエリアがあるらしく、ずっと動物を追いかけてくるわけではなかった。
やがて堀の水面にアーチが美しく映る石橋が見えてきた。この堀の幅はとんでもないぞと思ったのは、このときだ。石橋の向こうの市門が小指ほどに見える。たぶん守衛だろうか。黄色い服の人など表情もわからない。敷き詰められた石は、モザイクのように意匠されていて、形が違いこそすれ大きいものはベッドくらい大きい。彼女は僕を見上げてモザイクを指差した。いろいろな形があるのだと楽しんでいた。何やら早口で話していたが理解はできなかったが、ただうれしいんだなということはわかった。村を出たときの無表情や粗暴さなど一つもない。
あのときの彼女は旅に出ることに緊張していたのか、それとも捨てられたことに気づいていたのだ。僕は途中で気づいたが、追い出された彼女は僕などという頼りのない下僕を与えられて、冬になる前にこの街に来ることができた。どんな気持ちで出発したのか知らないが、彼女はここに来るためだけに生きてきた。
市門の下から見上げると、よろめくほど高かった。途中壁の何か所は覗き窓になっていて、内部を行き来できることがわかる。守衛は鮮やかな黄色の制服姿でピカピカの槍を持っていた。兜の下から黒い目が一睨みしてきたが、すっと視線を逸らした。もちろん僕たちがである。
街は靄に覆われていた。城壁の内側にも堀があるが、こちらは流れが悪いのか少し淀んでいた。
どこまでもなだらかな上りが続いた。左右には、いくつもの路地が広がり、すぐに階段があるところもあれば、ただ緩やかに下っているところもある。確かに整っている区画ではなかった。ここは城壁都市でも外れの方なのかもしれない。焼け落ちて廃墟と化したものも見えた。たいていの人は大通りをまっすぐ進んだので、僕たちも荷獣車に着いて左に曲がり、やがて広場へと出た。あれだけの塔も街並に隠れた。
人が集まる広場では売り買いが行われていた。荷車ごと買う人もいる。銅のメダルのようなものを渡していた。持ってきた人は空の荷車を曳いて戻っていく。途中どこかで商売が成立して空の荷車が野菜で一杯になるのを眺めていた。持ってきたものと違うものを積んで帰るのかもしれない。ここでは生活の匂いがした。ぼうっと眺めていた僕は彼女に外套を引っ張られた。こんなところではお金が必要なのだ。僕の心臓が跳ねた後、血の気が引いた。
僕は慌てて彼女に尋ねた。もちろんジェスチャーである。他人の商いを指差して、コインの輪を指で作った。ここではお金がなければどうしようもない。動悸と冷や汗が止まらない。彼女は胴巻きの下から紐で巻かれた革の袋を取り出した。安心したのもつかの間、雑踏が押し寄せてきて、僕と彼女は倒れされた。広場の真ん中で突っ立っているのが悪い。驚いた顔をして、僕たちは石壁の建物の脇へと移動した。彼女は目を見開いていた。手に持っていたはずの胴巻きが消えて、レイは残された紐のところを持っていた。慌てて一団を追いかけたが、ときすでに遅しだった。彼女は膝から崩れ落ちてしまった。僕はしょうがなく彼女の両腋に腕を入れて、人の少ないところへ運んだ。彼女は何やら叫ぶように言いながらいっぱいの涙を散らした。僕に対して謝っているように聞こえた。僕は暴れているような力で叫ぶ彼女の頭を力一杯腹に押しつけるように抱き締めた。
こんな訳のわからない世界に呼ばれるように来て、今さらお金がないとか考えてもしようがない。
いくらここまでアルバイトで貯めたとしても、食費や服代などで使えばそんなに入っていたわけではないだろうう。僕はひとまず落ち込んだ彼女を外套で隠して歩いた。街の中ですることも同じだ。野宿。広すぎるほど広いので、いくらでも寝るところはあるだろう。路地に入って、どぶ川を前にした空き地にある石に腰を掛けた。ちょうど壁が風を防いでくれて、焚き火もそんなに揺れずに燃えてくれた。そして肉片をナイフで切り、彼女に渡した。
僕はうなだれたままの彼女の口に肉片を押し込んだ。口には入れたが、噛もうとはしなかった。確かに落ち込むよなと思いながら、僕は何度も何度も噛んだ。そもそもレイは街に来て、何をする気でいた。
ふと疑問が湧いた。
村から捨てられ、どうにかこうにか街に来たものの、何とか食い繋ぐとなれば、働くしかないのか。
彼女は無言である。ただ来ただけなのかな。観光みたいな。見たいものがあるとか。僕は体の節々を伸ばすようにして考えた。あちこちがミシミシ鳴っていた。石造りの廃墟跡から覗く朝の青空が眩しかった。逆に清々しい気持ちが溢れてきた。寒くなる前に街に来れてよかったのではないだろうか。財布を盗まれて悔しいものの目的は果たせた。
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