第6話 極楽

 僕たちは蹄鉄の音に抜かれた。

 次の村で彼女は目ざとく潰れた木桶を見つけた。そして子どもに何やら尋ねた。同じような背格好なのに彼女は子どもではなく、一人前の旅人に成長していた。わかったことは彼女はコミュお化けだということだ。たいてい好かれる。子どもたちは彼女の手を取り無邪気に裏へと案内した。四角く長い樋から湯けむりが溢れているのが見えた。

「風呂だ」

 この村は山から温泉を引いているようだ。大量に溢れるお湯に頭を突っ込んだ。ぬるいが気持ちいい。脂で固めた灰を頭に塗りつけて髪をこすった。バサバサになるがネチョネチョよりマシだ。彼女も同じようにした。もっと大胆で、軒下に立てかけてあるタライを勝手に使い、全身を洗った。ほっと一息ついたときだった。怒声が響いた。腕が松の木のようにある老人が睨んでいた。彼女は慌てて外套を羽織ると、怒られてる中でも服を着た。

 しっかりしてるというか。

 ちゃっかりしているというか。

 僕たちは直立不動になった。

 どうやら誰が勝手に使っていいと許可したんだと怒っているらしいのだが、普通に考えると、

「謝るしかない」

 子供たちが老人のズボンを引っ張った。ん?どうした?という顔をしていた老人から笑みがこぼれた。そして何やら彼女に話した。

 交渉だ。

 泥棒風呂を許す代わりに、指差して五人、子供たちを湯に入れてやれということだったらしい。

 服を脱がせて、体を洗ってやるのは彼女で、洗濯は僕がした。どこからか話を聞きつけて、子供がどんどん増えた。収拾がつかないようになってきて、干すのは村の若い子、子供を洗うのは老婆となった。終わった頃には日も落ち、自分も入らなければならないくらい汚れた。

 体のゴツい老人は、たらい桶の湯を捨て、新しい湯を溜めた。そして僕たちに、もう一度入ってきれいにしろと笑った。

「極楽極楽」

「ゴクラクゴクラク」

「マネすんな」

 僕は彼女に笑った。

 僕たちは今夜、久々に屋根の下、狭く暗いもののベッドで眠ることができた。たまにこんなこともあってもいい。彼女と寝た。

 翌朝目を覚まし、裏庭でいつものルーティンをし、苦いお茶と暖炉で焼いたじゃが芋を食べた。

 村のはずれまで子供たちがついてきて、派手に何やら歌っていた。やがて石柱のところで、一人大きな子が止まると、持っていた枝で僕と彼女の両肩にトントンと打ち、大げさに空に両腕を広げた。僕たちも同じようにした。身を守るおまじないのようだった。僕たちは彼らと別れた。何度か振り返るうちに、子供たちは山の向こうに消えた。僕も彼女も機嫌が良い。なかなかの食料も補給できたし、気持ちの良い湯も浴びたし、何はともあれ久々の布団で寝られた。自然と笑みがこぼれる。

「僕、マコト」

 僕は自分を指差した後、彼女を指差した。

「名前」

「ボク、レイ」

 と答えた。もちろん本当の名前ではないことはわかる。しかしレイと呼べることが嬉しかった。

「ボク、レイ」

「マコト!」

 何だかお互いに照れ臭くて、少し急ぎ足になった。レイも何度かマコトマコトと呟いていた。

「本当の名前を呼ぶな」

 

 二日ほど歩いた後、雑木林に覆われた山で野宿することにした。誰かが野宿した跡を見つけると、残りの歩く距離と太陽を考えて、場所を決めるのだ。レイはたいてい間違うことはないが、たまに雨にやられてひどい目に遭うこともあった。

 僕が火を起こした。

 ナイフで薄く木を剥いだところに石でできた二本の棒状のものを擦り合わせると、火種が移る。それを少しずつ育てると、焚き火になる。初めは乾いた葉をくべて、少しずつ細い枝、炭があれば炭をくべる。

 レイが取り出したものは、どう見ても魚の干物だ。しかも前に釣ったものと同じ形をしている。レイが少し口をつけてこわごわ前歯で噛み締めた。そして頷いた。どうやら加工して食べるものらしい。半分に割いて、炙るように火を通した。

「塩辛い……」

 あの泥の臭みは消えていた。おいしいとまでは言えないが、パンと干物で腹を満たすことができた。

 しばらく旅は続いた。


 僕たちは洞窟の前にいた。背後には背の低い草原が広がる。空は雲一つなく、薄い青がどこまでも続いていた。足を止めたのは僕だ。

「洞窟だ」と見たまんまを言ったことが恥ずかしかった。

「入る」

「ハイル?」

 レイは首を傾げて、不思議そうに僕を見上げて、よりいっそう首を傾げた。入ろうとしていること察してくれたようだが、バカじゃないのかと言わんばかりの顔をしていた。

 確かに薄気味悪い。しかしこの世界へトンネルから来たということは、逆に洞窟はトンネルにつながっている可能性があるのだ。水平に来たのだから水平なところに入れば戻れる。何という安易な発想だと笑われるかもしれないが、そんなことわかってはいる。しかし何もしないわけにはいかない。むしろ何かしなければどうなることでもない。

「行こう」

 僕はレイの手を取ると、彼女は病院へ連れて行かれるのを察した犬のように抵抗した。それでも連れて行こうとしたら、本気で殴られた。

「痛っ……」

 レイは倒れた僕を呼んで、どこからか持ってきた石ころで地面に絵を描いた。長い棒にやたらと髭を付けてから棒の頭に一つ目玉、まん丸な口に牙のようなものを描いた。

「絵、下手くそだな」

 何となくニュアンスが伝わったようで、また殴られた。せっかく絵まで描いて説得したのにだな。

 それでも僕は行かなければならないと訴えた。一人でも行くという決意を示すために、洞窟の入口に頭を入れた。レイは溜息をついて、石ころを洞窟の中へ投げ込み、岩場に腰を掛けて、膝で頬杖をついた。

「一緒に」

 レイは横を見た。

 ここで怯んでいてはどうしようもないぞ。やるんだ。トンネルに出られるかもしれない。とにかく自分の勘を信じるんだ。信じさえすれば願いは叶うはずだ。存在すら知らずにいたのに、この世界に来たのだぞ。 

 僕は入ろうとしたが、不意にレイに止められた。僕はよほど悩んでいたらしく、レイは腰に縄を縛りつけてくれていた。松明と古い手斧を渡してくれて、気のないように行ってらっしゃいと手を振った。一緒に来てくれてもと思うが早いか、早く行けと蹴飛ばされた。

 ええい、ままよ!

 とにかく僕は飛び込んだ。

 しかし洞窟は意を決して飛び込むほど大したことはなく、しばらくなだらかな平地が続いていた。

 やがて背後の光が点になる。

 洞窟は右に弧を描いていて、光は消えた。湿気塗れの世界だ。松明に照らされたとろ、天井や壁で無数の何かが陰に逃げた気配がした。

 寒気がした。

「虫なんて怖くない」

 そもそも勇者とか何の目的でダンジョンに入るんだろうか。こんな気味悪いところに入ろうとする連中が理解できない。つまらないことを考えながら歩いた。不意にほぼ崖の坂を転げ落ちた。落ちた地面はぬかるんでいたのか、衝撃は少ない。しかし全身が泥まみれだ。

 もうすでに帰りたい。

 炎が襲ってきた。

 僕は慌てて逃げた。 

「何だ。自分の松明かよ」

 しかし拾い上げるとき、脂の煤が天井の小穴に吸い込まれていることに気づいた。無数に空いた小穴に吸い込まれた後、それらは一気に吐き出され、洞窟全体が揺れた。

 僕は縄に引っ張られた。崖を引きずられ、あちらこちらの岩でぶつけて、勢いよく青い空の下へ放り出された。そして遠心力で洞窟のある山肌の雑木林にめり込んだ。

 レイが飛び退いた。

 ミミズにいくつものオレンジの足がはえていて、丸い口に無数の細かな牙を持つ動物が、洞窟から飛び出してきた。それは脇目も振らずに草原を掘るように進み、天へと頭を掲げて、緑の液体を飛ばし、同じところを勢いよく洞窟へと戻った。

「気持ち悪っ」

 僕はレイを見た。ほら見たことかという顔で、僕を見ていた。

 元の世界へ戻るどころか、知らない世界へ行くところだった。

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