第2話

 僕は進化したのか?

 首の金属の輪っかも皮膚になじんで、入れ墨のように変化していた。金属消えた!指で触れると、かすかに凹凸がわかる。

 サンダルの上から、一枚の革を足裏と甲と足首に巻いた。巻き方は彼女が教えてくれた。踵を使わずに歩けるようになるまで、少しコツが必要だが、しばらくして慣れた。

 また山を越えるのか。

 なだらかな斜面に枯れ草が続いていた。中腹に道が敷かれていて、簡素な木組みの柵がある。僕たちは道沿いに、山を目指して歩いた。

 白い毛で覆われた獣がいた。

 放牧かな。

 毛で覆われている子象をイメージするとわかりやすい。地面に垂れる毛の下、枯れ草を食べていた。

 ときどき頭を上げては、こちらを警戒していた。一頭が上げると、何頭もが同じようにした。 

仲間と思われたかな。

 僕も髪は後ろで結わえなければならないくらい伸び、顎から頬に生えていた無精髭もみっともない。

 それにしても、

「でかい」

 と、呟いた。

 独り言が増えた。

 遠くに山の裾がある。牧草地帯が薄れていき、低木林から木立が増えていく。つづら折りの小路は空まで登るのかよと溜息が出る。

 少女は僕を手招いた。僕が頭を出すと、垂れた髪を一本抜いた。

「痛いな…何だよ…」

 抜いた髪を見せて、次に子象ほどある生き物を指差した。僕は理解するために少し考えた。いや。理解したくないと考えた。どうやら抜いて来いということらしい。

「ふざけるなよ。あんなもんに近づけるか」

 強い口調も面倒臭いので、ぶっきらぼうに答えると、彼女は片手で首を絞める真似をした。

 何だよ、まったく。

 僕は息苦しさを感じつつ、外套を脱いで荷を降ろした。ここに来た頃から着ていた半袖のシャツはビンテージ感満載になっていた。形あるものというのは、いずれなくなるということを身を以て理解した。

 命令ならしようがないな。

 しかしこの扱いは元の世界よりひどいんじゃないか。元の世界がどうであろうと、この世界で勇者や呪術使いになれるなど思わないが、それにしても情けない。人はそれぞれの人生の主役だ。むなしい。

 僕は柵の隙間から敷地に入る。

 理科の知識からすると、草食動物は後ろの視界も広い。前からは立体に見えないだけで、見えているから近づけるわけもない。ということは後ろしかない。結局、近づくためにはリスクしかないんだよな。

 予想以上に草の背が高い。

 メチャクチャでかい。

 親の象ほどある。

 頭の毛は風になびいた。薄のろそうな感じもする。ずっと枯れ草を食べていて、こちらのことを気にもしていない。僕は這うようにして、恐る恐る地面から手を伸ばした。一本に触れたが、特に反応もない。

 僕は息を殺した。

 振り向くと、柵に腰を掛けた彼女がニニヤしていた。

 やってやる。

 とりあえず逃げるのは、あそこだな。死なばもろともだ。道連れにしてやる。ただここまで近づいて気付かないくらいのろまだとはな。

 僕は垂れ下がった一本を指に絡めた。意外に太い。もっとさらさらしてると思っていたが、剛毛だ。こんなもの抜けば気づかれるのでは?

 一息に抜いた。

 かすかに目が見えた。

「前にも目がある!」

 額に角もある。

 毛むくじゃらのサイだ。

 目が開くのを感じた。見えたのではない。まさしく感じたのだ。

「ヤバいだろ!」

 僕は来たところへ、すなわち彼女の待つところへ一目散に逃げた。

 なぜ?

 そりゃ、猛追してくるからだ。

 怒ってる!

 そりゃ、そうだ!

 機嫌よくメシ食べてて、知らない奴が毛を抜いたら怒るたろう。

 僕だって怒るよ。

 メチャクチャ速いじゃん!

 てっきり彼女が救ってくれるものだと思っていた。彼女は目を丸くしていた。慌てて柵から飛び降りると、僕の外套と荷物を抱きかかえて、小路を駆け出した。

「おまえ、逃げるのか!」

 僕は柵を乗り越えた。

 猛獣は柵を破ると、小路で転がるように向きを変えた。

「待ちやがれ!」

 僕は彼女を追いかけた。

 違う。

 角の獣から逃げた。

「このくそったれがっ!」

 僕は叫んだ

 彼女も何やら答えた。

 たぶん、

「こっち来るな!」

 だろう。

 そっちしかないだろ。

「こ、殺される!」

 僕は足がもつれた。

 それでも走る。

 トンネルのときのように。これで美月さんに抱き止められるんだ。

 そんなわけはなかった。

 地面に滑り込んだ。

 踏み潰される。

「こんなところで死ぬのか」

 と、覚悟した。うそだ。できるわけがない。もちろんこんなことで死にたくはない。異世界で追いかけてきた獣に踏み潰されましたなんてエンドは嫌だろう。体を丸めた。すると奇跡的に角の獣は、僕をまたいだ。神様を信じた。まだ僕は獣の長い毛をつかんでいた。立ち込めた土煙が風に流れる。獣臭い地面越しに覗くと、彼女が追いかけられるのが見えた。ざまあみろ。

「やった!」

 僕は膝で立ち、

「ざまあみろ!」

 笑いが止まらない。

 笑いすぎて涙まで出てくる。

 やがて笑うのをやめた。

「……さすがに助けないとね」

 なんて思わない。

 柵越し、何頭かと目が合う。

「そういうことね」

 神様を信じるのをやめた。

 僕は急いで立ち上がると、さっき以上の速さで走った。陸上ならフライングだな。でも彼らは命まで失わない。こっちは殺される。背後で柵が弾ける衝撃がして、木片が頭上から降ってきた。そんな中、どれくらい走りきったのだろうか、景色は雑木林に変わっていた。小路は続くが、倒れ込んだときには、後ろの気配は消えていた。短距離走の後、マラソン完走すれば、こんな気持ちになるのだろうか。また違うような気がしたが、とりあえず生きてはいるのは間違いない。

 僕は仰向けになった。赤や黄に変化した葉の間の空を見つめた。心臓は激しく脈打ち、乾いた喉で咳が止まらなくなった。

「吐きそう」

 大の字に開いた腕には、小路に落ちていたであろう、猛獣の毛が束で絡まっていた。慌ててつかんだ土とともにくっついていた。わざわざ抜きに行かなくても、道で拾えば済んだのだ。

「あのクソガキが!」

 かすむ視界に、放り出されたリュックが見える。どうにかこうにか起き上がると、自分の足と足が蹴つまずくようになりながら、それを拾い上げた。外套が絡まっていた。

 彼女も大の字に倒れ、荒い呼吸をしていた。彼女自身の外套ははだけて、シャツ越しの汗ばんだ胸が新鮮な空気を求めて上下していた。

 僕は彼女の脇に倒れた。殴ってやろうと思っていたのに、体が言うことを聞かない。何とか彼女に覆いかぶさるように突っ伏した。

「こ、このガキ……」

 呟いたきり、しばらく動けないままでいたが、やがて彼女の体が小刻みに揺れた。声を殺して笑っていた。やがて堪えきれず、声を出して笑い出した。体を丸めて必死にこらえようとしたが、それでも笑いは止まらなかった。僕の頭を何度も何度も叩いて、苦しげに笑っていた。

 僕は怒る気が失せた。

 眩しい笑顔だった。これまで見せていた能面のような顔、威嚇するような尖った目や、いつも固いものを噛み砕こうとしているかのような下がった口角は消え、涙が溢れる瞳は輝いていた。黒髪が乱れ、汗でまとわりつくのも構わずに笑った。咳き込んでも笑いは止まらない。苦しさに耐えられず、何か吐こうとしたが何も出ないで、胃まで吐こうとしているようだ。僕はゆっくり彼女の背をさすってやった。それでも彼女の笑いが止まるまで、もうしばらく必要だ。笑いは僕にも移った。

 それから僕たちは土のくぼみに入ると、身を寄せ合わせて寝た。僕の外套の下、外套姿の彼女が寝る格好て、何度か蹴飛ばされ、肘打ちを食らったが、不思議と朝は清々しかった。二人で昨日のことはなかったようにしていたが、たしかに空気が和んでいた。

 それからは二人の旅になった気がした。少なとも僕はだが。朝になると、歯を磨き、顔を洗い、体を拭いての繰り返しにも慣れた。日が昇りきらぬ間に歩き始める。夜になるとともに寝て、朝とともに起きる二人の旅だった。


 とある日の昼過ぎ、川の畔で洗濯をした。寒いので水には入れないものの、粗い目の布巾で体を拭いた。ちなみに彼女の下着?ふんどし?も洗う。さらし布だが。気にもしていないらしい。この世界、僕だけだよな、下着を気にしてるのは。

 岩の向こうでは、彼女が焚き火をしていた。白い煙が立て昇るのが見えた。洗濯も乾きにくい。

 今日はここで泊まるのか。

 僕は気づいた。

「あれ?ひょっとしてこれは?」

 魚だ。

 魚の焼ける匂いだ。

 懐かしい。肉派で、魚など家では食べなかったのに唾が溜まる。

 外套にくるまった彼女の背が見えた。丸まった体で、淵と向かい合っている。枝に角の獣の毛を結びつけて釣りをしていた。

 今夜は魚か?僕は洗ったものを慌てて岩に干し、石ころで飛ばないようにして、焚火に向かった。

 すでに火の縁では、口に枝を刺された三匹の魚が焼かれていた。丁度、手の平サイズのものだ。ナマズに似た格好だからナマズだろう。

 僕は匂いを嗅いだ。白身の魚の匂いだ。

「懐かしい」

 と涙が溢れてきた。

 彼女が一言言った。

 たぶん勝手に食うなよとのようなことだろう。

 彼女は一匹釣り上げた。片腕ほどの大きさがあるのだから、これは大きい。格闘の末、岸に引きずり上げたのは、焼かれているナマズに似てはいるが、緑と青の混じったような色で、ヌメヌメとした皮をしていてた。目はなく、顎の下には鮫肌のようなブツブツがある。

「これ、食えるの?」

 尋ねると、彼女は焼かれている魚と釣ったのを交互に指差した。

 う~ん……

 革のホルスターから包丁ほどのナイフを抜いて、頭を突き刺した。何だか呟いているが、ジェスチャーで言うところの、ここを突き刺すと死ぬということらしい。僕は頷く。いつものことだ。彼女は僕が理解したことに満足そうに水辺で、今度は腹を割いた。内臓が溢れ、そして僕たちは逃げるようにして、川に向かって吐いた。吐いても吐いても吐き気は止まらなかった。

「臭っ!」

 忘れていたタンクの水を捨てるとき以上、カメムシ以上、もはや公害レベルで臭かった。何とか二人で焚き火に戻ると、彼女は焼けた魚を食えと差し出してきた。食うのか?変えるのか?彼女は食う真似をして寄越すと、素早く頷いてみせた。こういうときの彼女は怪しいのだ。嘘をついているとき動きが忙しくなる癖がある。

 僕はかじったふりをして、

「うまっ!」

 と笑った。彼女も背にかぶりついて、そらから二人で吐いた。

 何度歯を磨いても臭いと味は落ちず、歩いていても数日は藻のような臭いがこみ上げてきた。しばらく僕たちは口数が少なかった。そりゃ誰も釣らないはずだよな。


 比較的、大きな村が現れた。彼女のいた村とは大違いで、宿屋や食べ物屋、露店のようなものがある。

 道は昨日の冷たい雨でぬかるんでいたが、二頭立ての馬車が僕たちの背後から追い越した。馬は馬のようなものでなく、馬そのものに見えるものだ。

「馬だ」

 僕が呟くと、

「ウマ」

 彼女が呟いた。僕は四つ足の格好をして駆ける振りをした。

「おお」と頷いた。

 指についた泥を拭い取り、村の中央を抜けた。そしてしばらくぬかるみを行くと、僕たちは粗末な家の前で立ち止まった。冬になりきるまでに旅は終えたい。彼女も同じことを考えているのかもしれない。

 彼女は庭で薪割りをする老婆に話しかけた。何度か指を立て、三本ということで話を終えた。

 薪割りを命じられた。

 アルバイトね。

 年季の入った切り株に丸太を置いて、重い手斧を振り下ろした。ハンドアックスと呼ばれる斧はコツさえつかめば、薪などすぐ割れる。これで何度か目のアルバイトだ。初めは力任せで、ろくにできなかったものが、今では軽く力をかけるだけで、遠心力のまま、そこそこの太い丸太でも割れた。マイハンドアックスが欲しくなった。彼女は何をしているかというと、割れた薪を屋根のついた薪置場に並べる。その間に枯れた枝を束ねる。二人でやると、効率もよい。どれくらい稼げたのかはわからないが、村の数軒で同じようなことをした。たいてい口コミで仕事が集まる。礼を言われ、少しパンをもらい、塩漬けの魚をもらいしていると、そこそこの荷物になった。食べ物を持つ担当は彼女になっている。ふと一軒で、彼女は目ざとく、潰れた木桶を見つけた。そして子供に何やら尋ねた。子供たちは彼女の手を取り無邪気に裏へと案内した。四角く長い樋から湯けむりが溢れているのが見えた。

「風呂だ」

 この村は山から温泉を引いているのだった。大量に溢れるお湯に頭を突っ込んだ。ぬるいが気持ちいい。脂で固めた灰を頭に塗りつけて髪をこすった。バサバサになるがネチョネチョよりマシだ。彼女も同じようにした。もっと大胆で、軒下に立てかけてあるタライを勝手に使い、全身を洗った。ほっと一息ついたときだった。怒声が響いた。腕が松の木のようにある老人が睨んでいた。彼女は慌てて外套を羽織ると、怒られてる中でも服を着た。しっかりしてるというか、ちゃっかりしているというか。

 僕たちは直立不動になった。

 どうやら誰が勝手に使っていいと許可したんだと怒っているらしいのだが、普通に考えると、

「謝るしかない」

 子供たちが老人のズボンを引っ張った。ん?どうした?という顔をしていた老人から笑みがこぼれた。そして何やら彼女に話した。

 交渉だ。

 泥棒風呂を許す代わりに、指差して五人、子供たちを湯に入れてやれということだったらしい。

 服を脱がせて、体を洗ってやるのは彼女で、洗濯は僕がした。どここらか話を聞きつけて、子供がどんどん増えた。収拾がつかないようになってきて、干すのは村の若い子、子供を洗うのは老婆となった。終わった頃には日も落ち、自分も入らなければならないくらい汚れた。

 体のゴツい老人は、たらい桶の湯を捨て、新しい湯を溜めた。そして僕たちに、もう一度入ってきれいにしろと笑った。

「極楽極楽」

「ゴクラクゴクラク」

「マネすんな」

 僕は彼女に笑った。

 僕たちは今夜、久々に屋根の下、狭く暗いもののベッドで眠ることができた。たまにこんなこともあってもいい。彼女と寝た。

 翌朝、目を覚まし、裏庭でいつものルーティンをし、苦いお茶と暖炉で焼いた芋をご馳走になった。

 村のはずれまで子供たちがついてきて、派手に何やら歌っていた。やがて石柱のところで、一人大きな子が止まると、持っていた枝で僕と彼女の両肩にトントンと打ち、大げさに空に両腕を広げた。僕たちも同じようにした。身を守るおまじないのようだった。僕たちは彼らと別れた。何度か振り返るうちに、子供たちは山の向こうに消えた。僕も彼女も機嫌が良い。なかなかの食料も補給できたし、気持ちの良い湯も浴びたし、何はともあれ久々の布団で寝られた。自然と笑みがこぼれる。

「僕、マコト」

 僕は自分を指差した後、彼女を指差した。

「名前」

「ボク、レイ」

 と答えた。もちろん本当の名前ではないことはわかる。しかしレイと呼べることが嬉しかった。

「ボク、レイ」

「マコト!」

 何だかお互いに照れ臭くて、少し急ぎ足になった。レイも何度かマコトマコトと呟いていた。

「本当の名前を呼ぶな」

 

 二日ほど歩いた後、雑木林に覆われた山で野宿することにした。誰かが野宿した跡を見つけると、残りの歩く距離と太陽を考えて、場所を決めるのだ。レイはたいてい間違うことはないが、たまに雨にやられてひどい目に遭うこともあった。

 僕が火を起こした。

 ナイフで薄く木を剥いだところに石でできた二本の棒状のものを擦り合わせると、火種だ移る。それを少しずつ育てると、焚き火になる。初めは乾いた葉をくべて、少しずつ細い枝、炭があれば炭をくべる。

 レイが取り出したものは、どう見ても魚の干物だ。しかも前に釣ったものと同じ形をしている。レイが少し口をつけてこわごわ前歯で噛み締めた。そして頷いた。どうやら加工して食べるものらしい。半分に割いて、炙るように火を通した。

「塩辛い…」が、あの泥の臭みは消えていた。「おいしい」とまでは言えないが一欠片のパンと干物で腹を満たすことができた。

 しばらく旅は続いた。


 僕たちは洞窟の前にいた。背後には背の低い草原が広がる。空は雲一つなく、薄い青がどこまでも続いていた。足を止めたのは僕だ。

「洞窟だ」と、見たまんまを言ったことが恥ずかしかった。

「入る」

「ハイル?」

 レイは首を傾げて、不思議そうに僕を見上げて、よりいっそう首を傾げた。入ろうとしていること察してくれたようだが、バカじゃないのかと言わんばかりの顔をしていた。

 たしかに薄気味悪い。しかしトンネルからこちらへ来たということは、逆に洞窟はトンネルにつながっている可能性があるのだ。水平に来たのだから水平なところに入れば戻れるかもしれない。何という安易な発想なのか。そんなことわかってはいる。しかし何もしないわけにはいかない。むしろ何かしなければ。

「行こう」

 僕はレイの手を取ると、彼女は病院へ連れて行かれるのを察した犬のように抵抗した。それでも連れて行こうとしたら、本気で殴られた。

 レイは倒れた僕を呼んで、どこからか持ってきた石ころで、地面に絵を描いた。

 長い棒に。

 やたらと髭を付ける。

 棒の頭に一つ目玉。

 丸い口に牙。

「絵、下手くそだな」

 何となくニュアンスが伝わったようで、また殴られた。せっかく絵まで描いて説得したのにだな。

 それでも僕は行かなければならないと訴えた。一人でも行くという決意を示すために、洞窟の入口に頭を入れた。レイは溜息をついて、石ころを洞窟の中へ投げ込み、岩場に腰を掛けて、膝で頬杖をついた。

「一緒に」と、ジェスチャーで示したが、レイは横を見た。

 ここで怯んでいてはどうしようもないぞ。やるんだ。トンネルに出られるかもしれない。とにかく自分の勘を信じるんだ。信じさえすれば願いは叶うはずだ。存在すら知らなくても、信じていなくても、この世界に来たのだぞ。 

 僕は入ろうとしたが、不意にレイに止められた。僕はよほど悩んでいたらしく、レイは腰に縄を縛り付けてくれていた。松明と古い手斧を渡してくれて、気のないように行ってらっしゃいと手を振った。一緒に来てくれてもと思うが早いか、早く行けと蹴飛ばされた。

 ええい、ままよ!

 とにかく僕は飛び込んだ。

 飛び込むほど大したことはなく、しばらくなだらかな平地だった。

 やがて背後の光が点になる。

 洞窟は右に弧を描いていて、光は消えた。湿気塗れの世界だが、松明に照らされたとろ、天井や壁で無数の何かが陰に逃げた気配がした。

 寒気がした。

「虫なんて怖くない」

 そもそも勇者とか何の目的でダンジョンに入るんだろうか。こんな気味悪いところに入ろうとする連中が理解できない。できるだけつまらないことを考えながら歩いていたせいか、足を踏み外して、ほぼ崖の坂を転げ落ちた。落ちた地面はぬかるんでいたのか、衝撃は少ない。しかし全身が泥まみれだ。もうすでに帰りたい。

 炎が襲ってきた。

 僕は慌てて逃げた。 

「なんだ、自分の松明かよ」

 しかし拾い上げるとき、脂の煤が天井の小穴に吸い込まれていることに気づいた。無数に空いた小穴に吸い込まれた後、それらは一気に吐き出され、洞窟全体が揺れた。

 僕は縄に引っ張られた。崖を引きずられ、あちらこちらの岩でぶつけて、勢いよく青い空の下へ放り出された。そして遠心力で洞窟のある山肌の雑木林にめり込んだ。

 レイが飛び退いた。

 ミミズにいくつものオレンジの足がはえていて、丸い口に無数の細かな牙を持つ動物が、洞窟から飛び出してきた。それは脇目も振らずに草原の途中まで行くと、天へと飛ぶかのように頭を掲げて、何度か緑の液体を飛ばし、同じところを勢いよく洞窟へと入り込んだ。

「気持ち悪ぅ!」

 僕はレイを見た。ほら見たことかという顔で、僕を見ていた。

 元の世界へ戻るどころか、知らない世界へ行くところだった。


 



 

 

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