第5話 冬支度
僕たちはよろよろと歩いて、すぐに山の途中で夕暮れを迎えた。つまらないことをしたせいで歩くのもつらくなってきた。岩の陰で焚き火をして、干し肉を食べ、寝ることにした。彼女は僕の外套の下、うずくまるようにして寝た。夜中何度も蹴飛ばされて起きたが、目覚めは清々しい気持ちがした。彼女も同じらしくて表情が柔らかくなっていた。
少なくとも僕は、ようやく二人の旅になったような気がした。夜になる前に焚き火をして、二人で粗末な夕食をしがんで、僕が彼女を抱えるように寝た。朝は二人で一緒に歯を磨いて、顔を洗い、日が昇りきらない間に歩き始める。夜には寝て、朝とともに起きて、昼はひたすら歩いく二人の旅だ。食べられるものは食べて、盗めるものは盗む。しかし人殺しはしない。何が起きるかわからないのに、起きていないことで頭を悩ましている暇などない。
とある日の昼過ぎ、僕は川の畔で洗濯をした。寒いので水には入れないものの、粗い目の布巾で体を拭うことくらいはできた。これだけでも清潔に保てるので心地よい。ちなみに僕は彼女の下着(褌)も洗わされた。単なるさらし布だが。どうも気にもしていないらしい。この世界では下着を気にしてるのは僕だけなのかもしれない。確か僕が女の子の入浴を覗こうとしたときは叱られた記憶がある。この世界の常識は自分自身で経験するしかなかった。この世界に限らず、どの世界でも同じようなものかもしれない。経験ほど強いものはないということかなど考えながら洗濯をして、枝に干した。
岩の向こうでは、彼女が焚き火をしていた。白い煙が立て昇るのが見えた。洗濯も乾きにくい。
今日はここで泊まるのか。
僕は気づいた。
「あれ?ひょっとしてこれは?」
魚だ。
魚の焼ける匂いだ。
懐かしい。肉派で魚など家では食べなかったのに唾が溜まる。
外套にくるまった彼女の背が見えた。淵を向いている彼女は枝に獣の毛を結びつけて釣りをしていた。
今夜は魚か。
僕は洗ったものを岩に干し、石ころで飛ばないようにした。
焚き火を覗いた。
すでに火の縁では、口に枝を刺された三匹の魚が焼かれていた。丁度手の平サイズのものだ。ナマズに似た格好だからナマズだろう。
僕は匂いを嗅いだ。
白身の魚の匂いだ。
「懐かしい」
と涙が溢れてきた。
彼女がぼそっと言った。勝手に食うなよとのようなことだろう。
彼女は一匹釣り上げた。片腕ほどの大きさがあるのだから、これは大きい。格闘の末、岸に引きずり上げたのは、焼かれているナマズに似てはいるが、緑と青の混じったような色で、ヌメヌメとした皮をしていてた。目はなく、顎の下には鮫肌のようなブツブツがある。
「食えるの?」
尋ねると、彼女は焼かれている魚と釣ったのを交互に指差した。
う~ん……
革のホルスターから包丁ほどのナイフを抜いて、頭を突き刺した。何だか呟いているが、ジェスチャーで言うところの、ここを突き刺すと死ぬということらしい。僕は頷く。いつものことだ。彼女は僕が理解したことに満足そうに水辺で、今度は腹を割いた。内臓が溢れ、そして僕たちは逃げるようにして、川に向かって吐いた。いつまでも吐いた。
「臭っ!」
忘れていたタンクの水を捨てるとき以上、カメムシ以上、もはや公害レベルで臭かった。何とか二人で焚き火に戻ると、彼女は焼けた魚を食えと差し出してきた。食うのか。食えるのか。彼女は食う真似をして寄越すと、素早く頷いてみせた。こういうときの彼女は怪しいのだ。旅で気づいたが、嘘をついているときの彼女は動きが忙しくなる癖がある。
僕はかじったふりをして、
「うまっ!」
と笑った。彼女も背にかぶりついて、それから二人で吐いた。
何度歯を磨いても臭いと味は落ちず、歩いていても数日は藻のような臭いがこみ上げてきた。しばらく僕たちは口数が少なかった。誰も釣らないはずだ。だから釣れるんだ。
比較的大きな村が現れた。まさに出くわした。あれからしばらく彼女の急ぎ旅は影を潜めていた。少し休憩がてらに寄ろうということ話になった。ここは彼女のいた村とは大違いで、宿や食堂がある。どちらも贅沢すぎて使えないが、お互いに興味は捨てきれない。さすがに覗かせてくれとは言いにくいが、彼女は食堂の女主と話をつけてしまった。
暗いので、僕たちは道に面した窓際の薄い板のテーブルについた。入って右にカウンターテーブルがあるのだが、暗くて見えない。頭上にはむき出しの梁が通っていて、二階の床と天井が一体になっていた。これではすき間から丸見えだなと思っていると、彼女はすき間と自分の股を交互に指差した。情けないくらい考えていることは変わらない。
違うぞ。
僕は気づいた。
素早く彼女はテーブルの上のランチョンマットを指差した。カーペットがあるから肝心なところは見えないんだな。肝心なところとは。
二人の前に冷えたどろっとしたものが運ばれてきた。豆のようなものが入っていて、肉のようなものも入っている。焦がしたシチューのようなものだが、これは食べてみなければならない。一緒に出された丸い焦げたものは湿気たパンだな。フォークもスプーンもないが、どうやって食べるのかお互い観察した。
僕はパンをちぎった。
これですくって食べる。冷えきってはいるが、まさしく素材の味しかしないシチューだ。パンは膨らんでいないが、味はパンそのものだ。がっつりと食べ終えた頃、女主人がフォークとスプーンを持ってきた。
僕は指で呼ばれた。
「どうした」
彼女は目で入口を見た。そして頷いたかと思うと、荷物を抱えて一目散に逃げ出した。まさかなあ。もちろん僕は逃げ遅れたが、ここで謝っていてもしようがないことくらいはわかっている。追いかけられながら村を駆け抜けた。こうなれば二度と村には来ることなどできない。
来ないけど。
来ないからいいのか。
なるほどなるほど。
三日後、道は昨日の冷たい雨でぬかるんでいた。二頭立ての馬車が僕たちの背後から追い越した。馬は馬のようなものでなく、馬そのものに見えるものだ。何と呼ぶのかわからないが馬と呼ぶことにした。
「馬だ」
僕が呟くと、
「ウマ」
彼女が呟いた。僕は四つ足の格好をして駆ける振りをした。
「おお」と頷いた。
僕は指についた泥を拭うと、ぬかるんだ道から逸れたところに村があることに気づいた。そこそこ大きな道の脇へと逸れると、何となく村がある気配がしてくるのだ。雑木林や道一つにしても、村があるとどこかしら整備されているものだ。ただ誰も来るなと掲げているところもある。そんなところに入ると鎌や槍で脅されて逃げることになる。
何度か野宿を繰り返した後、僕たちは比較的穏やかだと思われる村を訪れた。旅の行商人や往来がある道に近ければ近いほど緩い空気に満たされている。ただこれは入ってみなければわからない。村が盗賊なのかもしれない。僕が経験者だ。彼女の村は暴力に満ちていた。
僕たは集落の真ん中を走る道を抜けると、粗末ながらも掃除が行き届いた家の前で立ち止まった。冬になりきるまでに旅は終えたいが、そろそろ万が一のために冬支度も考えた方がいいような気もする。たぶん彼女も同じことを考えている。まだ秋のような気もするが、突然冬に襲われることもあるかもしれない。自分のいた世界の常識は信じきるな。
彼女は庭で薪割りをする老婆に話しかけた。何度か指を立て、三本ということで話を終えて戻ってきた。
僕は薪割りを命じられた。
アルバイトね。
これができるんなら前の村でも食い逃げなどせずに何とかできたんじゃないのかと思った。それでも今から戻ってお代を払う気はない。そもそも払えるものもないんだ。
村から捨てられたときに持たされた資金はとっくに底をついているとのことだった。彼女は薄暗い表情で胴巻きを裏返して見せてくれた。
働くしかない。
たまに僕は美月を救うために来たはずなのに、いったい何をしているんだと思うことがある。何度試みても生きるためには食わなければならないという結論にしか至らない。
トンネルで美月を捕まえそこねたことがすべての元凶だ。まさかあんなところにいるとは思わなかったんだし、これはしようがない。
こちらでもトンネルのようなところがあれば入ればいいのか。そうすれば戻れるかもしれない。あくまで可能性の問題になるが、それこそやってみなければわからない。
僕は年季の入った切り株に丸太を置いて、重くて汚い手斧を振り下ろした。ハンドアックスと呼ばれる斧はコツさえつかめば、薪などすぐ割れる。これからはアルバイトで稼げばいい。初めは力任せでうまく割れなかったが、続けているとコツが掴めてきた。薪割りとはよく言ったものだ。薪切りではない。これは割るのだ。軽く力をかけるだけで、遠心力なのかどうか、そこそこの太い丸太でも割れた。力点と作用点か。
マイハンドアックスが欲しくなってきた。もちろん僕は盗むことなど考えたことはない。ちなみに彼女は何をしているかというと、遊んでいるわけではなく、割れた薪を屋根のついた薪置場に並べる。その間に枯れた枝を束ねる。二人でやると効率もよい。一軒についてどれくらい稼げたのかはわからないが、村の数軒で同じようなことをした。たいてい口コミで仕事が集まった。誰しも疲れることはしたくないらしい。
僕たちは礼を言われ、仕事代に加えて少しパンをもらい、塩漬けの魚をもらいしていると、そこそこの荷物になった。今は食べ物を持つ担当は彼女だった。密かに僕は彼女が食料を持ち逃げふるのではないかと警戒しているが、驚くことにすべて半分ずつしてくれた。少し世間を知らないところがあるものの、根はいい子なんだな。まあ食い逃げなんて世間を知る知らない以前の問題だ。覗き見はいけなくて食い逃げやこそ泥はいいのか。
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