第4話 成長
僕は成長しているのか。
首の輪っかも皮膚になじんで、いつの間にか入れ墨のように変化していた。指で触れると、かすかに凹凸がわかるくらいになっている。
サンダルの上から、一枚の革を足裏と甲と足首に巻いた。巻き方は彼女が教えてくれた。踵を使わずに歩けるようになるまで、少しコツが必要だが、しばらくして慣れた。
また山越えか。
なだらかな斜面に枯れ草が続いていた。中腹に道が敷かれていて、簡素な木組みの柵がある。僕たちは道沿いに、山を目指して歩くと、白い毛で覆われた獣がいた。放牧か。咀しゃくする音が聞こえた。ほとんど歩かないようなので、連中はずっと食っていた。毛で覆われている子象をイメージするとわかりやすい。地面に垂れる毛の下、枯れ草を食べていた。ときどき頭を上げては、こちらを警戒していた。一頭が上げると、何頭もが同じようにした。 そのときには咀しゃく音が消えて静かになる。仲間と思われたかな。僕も髪は後ろで結わえなければならないくらい伸び、顎から頬に生えていた無精髭もみっともない。にしてもでかいと呟いた。独り言が増えた。
遠くには丘陵地がある。牧草地帯が薄れていき、低木林から木立が増えていき、山へと繋がる。つづら折りの小路は空まで登るのか。
溜息が出る。
少女は僕を手で招いた。僕が頭を出すと、垂れた髪を一本抜いた。抜いた髪を見せて、次に子象ほどある生き物を指差した。僕は理解するために少し考えた。いや。理解したくないと考えた。どうやら抜いて来いということらしい。あんなもんに近づけるかと強い口調も面倒なので、ぶっきらぼうに答えた。彼女は片手で首を絞める真似をした。
まったく何だよ。
僕は息苦しさを感じつつ、外套を脱いで荷を降ろした。ここに来た頃から着ていた半袖のシャツはビンテージ感満載になっていた。布はすぐ消えることを身を以て理解した。
命令ならしようがない。
まさかこの世界で勇者なんてものになれるなどと思わないし、なろうとも思わないが、それにしても普通以下の扱いは情けなくはなる。
僕は柵をくぐった。
理科の知識からすると、草食動物は後ろの視界も広い。前からは立体に見えないだけで、見えているから近づけるわけもない。ということは後ろしかない。結局近づくためにはリスクしかないんだ。予想以上に草の背が高い。少女の姿が見えなくなった。獣もでかい。頭の毛は風になびいた。鈍そうな動きだ。ずっと枯れ草を食べていて、こちらのことを気にもしていない。僕は地面から手を伸ばした。触れてみたが、特に動きはない。僕は息を殺した。柵に腰を掛けた彼女がニニヤしていた。
まず逃げるのは、少女のところしかない。死なばもろともだ。覚えてみろ。道連れにしてやる。ただここまで近づいて気づかないかな。
僕は垂れ下がった一本を指に絡めた。意外に太く、さらさらしてると思っていたが剛毛だ。こんなもの抜けば気づかれるのでは?
一息に抜いた。
かすかに目が見えた。
「前にも目がある!」
額に角もある。
毛むくじゃらのサイだ。
目が動くのを感じた。見えたのではない。まさしく感じたのだ。
ヤバいだろ。
僕は来たところへ、すなわち彼女の待つところへ一目散に逃げた。
猛追してくる。
怒ってる。
当然だ。
機嫌よくメシ食べてて、知らない奴が毛を抜いたら怒るだろう。
メチャクチャ速いじゃん。
てっきり彼女が救ってくれるものだと思っていた。彼女は目を丸くしていた。慌てて柵から飛び降りると、彼女は僕の外套と荷物を抱きかかえて路を駆け出した。
「おまえも逃げるのかよ」
僕は柵を乗り越えた。
猛獣は柵を破ると、路で転がるように向きを変えた。
「待て」
僕は彼女を追いかけた。
違う。
獣から逃げた。
「このくそったれがっ!」
僕は叫んだ
彼女も何やら答えた。
たぶん、
「こっち来るな!」
だろう。
そっちしかないだろ。
「こ、殺される!」
僕は足がもつれた。
それでも走る。
トンネルのときのように。これで美月さんに抱き止められるんだ。
そんなわけはなかった。
地面に滑り込んだ。
踏み潰される。
「こんなところで死ぬのか」
と覚悟した。
できるわけがない。
こんなことで死にたくない。異世界で追いかけてきた獣に踏み潰されましたなんて嫌だ。
体を丸めた。
奇跡的に獣は僕をまたいだ。踏みつけられた気がした。僕は獣の長い毛をつかんでいた。立ち込めた土煙が風に流れる。獣臭い地面越しに覗くと、埃の向こうに彼女が追いかけられるのが見えた。
僕は膝で立ち、
「ざまあみろ!」
笑いが止まらない。
笑いすぎて涙まで出てくる。
すぐに笑うのをやめた。
「さすがに助けないとな」
とは思わない。
柵越し、何頭かと目が合う。
「そういうことね」
僕は急いで立ち上がると、転げるように走った。背後で柵が弾ける衝撃がして、木片が頭上から降ってきた。慌てて逃げた。景色は雑木林に変わっていた。路は続くが、倒れ込んだときには、後ろの気配は消えていた。林までは追いかけてこないようだ。僕は仰向けになると、秋を思わせる木々の間の遠い空を乾いた目で見つめた。心臓は暴れるように脈打ち、激しく咳き込んだ。
「吐きそう」
指には路に落ちていたであろう猛獣の毛が束で絡まっていた。わざわざ抜きに行かなくても、道で拾えば済んだのだ。くそガキが。僕で遊んだのだ。何という奴だ。
霞んだ視界に放り出されたリュックが見えた。どうにかこうにか起き上がると、僕は足を絡ませながらリュックと外套を拾い上げた。
いやがった。
倒れた彼女が路の上で荒い呼吸をしていた。シャツ越しの汗ばんだ薄っぺらい胸が新鮮な空気を求めて上下していた。
僕は彼女の脇に倒れた。殴ってやろうと思っていたのに、体が言うことを聞かない。何とか彼女に覆いかぶさるように突っ伏した。
「このガキが」
呟いたきり、しばらく動けないままでいたが、やがて彼女の体が小刻みに揺れた。声を殺して笑っていた。やがて堪えきれず、声を出して笑い出した。体を丸めて必死にこらえようとしたが、それでも笑いは止まらなかった。僕の頭を何度も何度も叩いて、苦しげに笑っていた。
僕は怒る気が失せた。
眩しい笑顔だった。これまで見せていた能面のような顔、威嚇するような尖った目や、いつも固いものを噛み砕こうとしているかのような下がった口角は消え、涙が溢れる瞳は輝いていた。黒髪が乱れ、汗でまとわりつくのも構わずに笑った。咳き込んでも笑いは止まらない。苦しさに耐えられず、何か吐こうとしたが何も出ないで、胃まで吐こうとしているようだ。僕はゆっくり彼女の背をさすってやった。それでも彼女の笑いが止まるまで、もうしばらく必要だった。笑いは僕にも移った。
もうどうでもよくなった。
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