第7話 絆が溢れる
僕は成長しているのか。
首の輪っかも皮膚になじんで、いつの間にか入れ墨のように変化していた。指で触れると、かすかに凹凸がわかるくらいで、光の具合で見えることもあれば隠れることもある。
サンダルの上から、一枚の革を足裏と甲と足首に巻いた。巻き方は彼女が教えてくれた。踵を使わずに歩けるようになるまで、少しコツが必要だが、しばらくして慣れた。
また峠越えか。
なだらかな斜面に枯れ草が続いていた。道が敷かれた道沿いに簡素な木組みの柵がある。白い毛で覆われた獣がいた。放牧か。青い空には悠々と鳥が舞い、牧草地では草を食む音が聞こえた。ほとんどの子はずっと食べていた。たまにこちわを見る子もいた。毛で覆われている子象をイメージするとわかりやすい。地面に垂れる毛の下、ただただ枯れ草を食べていた。一頭が上げると、何頭もが同じようにした。たまに食む音が消えて静になる。仲間と思われたのかもしれない。僕の髪は後ろで結んでいた。顎から頬に生えていた無精髭は、たまにナイフで剃る。
「にしてもでかいと呟いた」
独り言が増えた。
遠くの丘陵地では、牧草地帯が薄れていき、低木林から木立が増えていき、峠へと繋がる。あのつづら折りの小路は空まで登るのではないかと思い、溜息を吐いたところで、僕は彼女に手招きされた。僕が頭を出すと、垂れた髪を一本抜いた。抜いた髪を見せて、次に子象ほどある生き物を指差した。僕は理解しようとしてではなく理解しないように考えた。おそらく試しに抜いてこいということだが、あんなものに近づけるものかとぶっきらぼうに拒否したところ、彼女は片手で首を絞める真似をした。僕は絞められていないのに息苦しさを感じつつ、外套を脱いで荷を降ろした。ここに来た頃から着ていた半袖のシャツは、すでに肩や袖は破れていて、意外に布はすぐ消えることを身を以て理解した。
「主の命令ではな」
まさかこの世界で勇者なんてものになれるなどと思わないし、なろうとも思わないが、それにしても普通以下の扱いは情けなくはなる。
僕は柵をくぐった。
理科の知識からすると、草食動物は後ろの視界も広いが、前からは立体に見えないだけで、見えているから近づけるわけもない。ということは後ろしかない。結局近づくためにはリスクしかないんだ。予想以上に草の背が高く、隠れて行動できそうだと思った。獣の頭の毛は風になびいた。鈍そうだ。ずっと枯れ草を食べていて、こちらのことを気にもしていない。地面に潜んだ僕は手を伸ばして毛に触れてみたが、特に警戒しているような動きはない。僕は息を殺した。肩越しでは柵の上に腰を掛けた彼女がニヤニヤしていた。逃げるときは、奴のところしかない。
死なばもろともだ。
覚えていろ。
道連れにしてやる。
ただここまで近づいているのに気づかない獣も獣だなと思いつつ、僕は垂れ下がる一本を指に絡めた。風に揺れていたので柔らかいと思っていたが、意外に剛毛だ。
一息に抜いた。毛の下の額に牙に似た角が覗いた。これは毛むくじゃらのサイだ。目が合うや否や僕は来たところへ、すなわちニヤニヤした彼女のところへ一目散に逃げた。
猛追してくる。
怒ってる。
当然だ。
機嫌よくメシを食べていて、知らない奴が毛を抜いたら怒る。
メチャクチャ走るのが速い。
てっきり彼女が救ってくれるものだと思っていたが、目を丸くして慌てて柵から飛び降りると、外套や荷物を抱えて路を駆け出した。
「おまえも逃げるのかよ」
僕は柵を乗り越えたが、猛獣は柵など気にせず突き破ると、路で転がるように向きを変えた。僕は獣から逃げながら彼女を追いかけた。
「このくそったれがっ!」
僕は叫ぶと、彼女も何やら背中で叫び返してきた。たぶんこっち来るなだろうが、道は他にない。僕は足がもつれた。倒れかけながらも何とか走ると、あのときには美月さんに抱き止められた。また同じような奇跡が起きてくれるわけはなく、ただただ地面に野球のように滑り込んだ。踏み潰される。こんなことで死ぬのかと覚悟するはずはない。こんなことで死にたくない。異世界で追いかけてきた獣に踏み潰されましたなんて嫌だと体を丸めた。奇跡的に獣たちは僕をまたいだ。獣臭い土埃の地面越し、彼女が追いかけられるのが見えた。
「さすがに助けないとな」
とは思わない。
柵越し、何頭かと目が合う。
「そういうことね」
僕は急いで立ち上がると、転げるように駆け出した。背後で柵が弾ける衝撃がして、木片が頭上から降ってくる下、逃げた。いつしか景色は雑木林に変わっていた。倒れ込んだときには、後ろの猛獣の気配は消えていた。僕は仰向けになると、木々の間から覗く空を見つめた。心臓は暴れるように脈打ち、激しく咳き込んだ。指には路に落ちていたであろう猛獣の毛が束で絡まっていた。わざわざ抜きに行かなくても、道で拾えば済んだのに、彼女は退屈しのぎに僕で遊んだのだ。霞んだ視界に放り出されたリュックが見えた。どうにかこうにか起き上がると、僕はリュックと外套を拾い上げた。倒れた彼女が路の上で荒い呼吸をしているのを見つけた。彼女のシャツ越しの汗ばんだ薄っぺらい胸は新鮮な空気を求めて上下していた。殴ってやろうとして近づくと、言うことの聞かない体は彼女に覆いかぶさるようにして突っ伏すのが精一杯だった。
「このガキが」
呟いたきり、しばらく動けないままでいたが、やがて彼女の体が小刻みに揺れた。声を殺して笑っていた。やがて堪えきれず、声を出して笑い出した。体を丸めて必死にこらえようとしたが、それでも笑いは止まらなかった。僕の頭を何度も何度も叩いて、苦しげに笑っていた。
僕も怒る気が失せてきた。
眩しい笑顔だった。これまで見せていた能面のような顔、威嚇するような尖った目、いつも固いものを噛み砕こうとしているかのような顎の筋肉は消え、涙が溢れる瞳は輝いていた。黒髪が乱れ、汗でまとわりつくのも構わずに笑った。咳き込んでも笑いは止まらない。苦しさに耐えられず、何か吐こうとしたが何も出ないので、胃まで吐こうとしているようだ。僕はゆっくり彼女の背をさすってやった。それでも彼女の笑いが止まるまで、もうしばらく必要だった。いつしか僕も一緒に笑っていた。お互いに笑い疲れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます