第22話 姫

 水の音がしていた。

 わずかな落差を落ちる水がむき出しの岩に響いていた。

 僕は壁に掘られたくぼみに寝ていた。大人二人が入れるほどの空洞になっている。汗を拭いて、新しい部寝巻きに取り替えられた。ランプの光がわずかに揺れる中、二人の会話を聞くともなしに聞いていた。どこかしら幼さの残る話し方と馴染みのある声が静かに話していた。

 子守歌のようだ。

「これが王子様なの?」

「そうね」

 抱きかかえ直したのか、衣擦れの音がした。

「少しがっかりかなあ」

「ん?そう?」

「王子様はお姫様を迎えに来てくれるものよ」

「これじゃあべこべね。でもどうして王子様だとわかったの?」

「う〜ん……」

 僕は心の中で笑い、彼女は声に出して笑う。答えはないらしい。

「でもね、もうお兄ちゃんから離れちゃダメよ。お兄ちゃんたち必死で探したんだから」

「ちゃんと言う」

「それがいいわ。トトがいなくなっちゃうと、みんな悲しむ」

「でもね、でもね」

「うん。わたしのために探してくれたのよね。見つけてくれてありがとう」

「どういたまして」

「いたしまして」

「いたまして」

 舌足らずだった。

「王子様ね、パンをくれたの。そのときね、レイの匂いがした。何となく王子様だって。パンの匂いじゃないの。よくわかんない。やさしい匂い」

「わたしと同じ?やさしい?」

 レイは静かに笑った。

「王子様、まだ起きないね」

「きっと疲れてるのね。必死で逃げてたもんね。どれくらい逃げてきたのかな。もうそろそろわたしたちも寝ようか。みんな寝てるかな」

「お兄ちゃんらはお宝を盗みに行くって話してた。できたら王子様の武器も持って帰るって。レイは一緒に寝てくれるの?あ、王子様のところで寝るよね。わたし、邪魔ね」

「そんなことないわよ」

「わたし、我慢する。王子様と一緒にいてあげて。わたしはみんなと寝るから大丈夫よ。お姫様はね、王子様の傍にいてあげないとね」

 二人の声は離れた。そして一人だけが戻ってきて、僕を覆う掛け布の中に入り込んできた。

「いつ目を覚ますの?覚ましてもわたしのこと忘れてる?」

 僕は彼女の声を聞いて、トトの言葉を思い出して笑った。

「起きてるの?」

「おませさんだね」

「聞いてたの。意地悪だ」

「うつらうつらとね」

「いい子よ」

「いい子だ」

 ややもすれば冷たく見える顔が近づいてきて、青や紫が入り混じる瞳孔が輝いて、絞った灯りの下、見る見る涙に沈んだ。レイは額飾りを頬に押しつけてきた。

「バカ」

「ようやく白亜の塔から抜け出してきたのに。もっと喜んでくれよ」

「死んだかと思った」

「守ってくれたんだろう」

 僕は重い腕を上げて、指で首のリングを撫でた。レイが額飾りを首筋に押し付けて、何度も静かにしゃくり上げた。

「待ってた」

「わかってる」

「わかってない」

「悪いことをしちゃったね。騙すつもりはなかったんだ。ああするしかなかった」

「今はいい」

「そうか。少し会わないうちに大人になったね」

「元気になったらぶん殴る」

「覚悟するよ。でも僕は妙な連中を連れてきたみたいだ。ここの子供たちは、レイがかくまってるの?」

「逆よ」

 レイは顔を埋めたまま、

「わたしがあの子たちにかくまわれてる。おまえと別れてから、わたしは村へ戻ろうと考えてた。そこに一人の子が近づいてきて、尾行されてると教えてくれた。どうしていいかわからないでいると、俺たちのところへ来いと。この地下の隠れ家に連れてきてくれたの。あの子たち、皆捨てられたり、親を亡くしたり子なのよ。不憫に思ったし、おまえにムシャクシャしたし……」

「月影の姫……」

「どうしてその名を?わたしがつけたわけじゃないけど」

「ビリケンさんらと三つ編みさんを覚えてる?僕は白亜の塔が出た後、墓場に行った。君に会えるかどうか期待してたんだけど、少なくともビリケンさんたちには会えたから正解だね。あの人らから聞いたんだ」

「生き埋めにされたところにいるわけないわ。トラウマ」

「まあそりゃそうだね」

 僕自身、人を殺しておいて言うことでもないなと思いつつ、奴隷商人の吊るし首に貴族街での強盗、焼き討ちはよくないと話した。レイは自分ではないと答えた。

 間があいた。

 水の音が響いていた。

「吊るしてない?」

「首に付けた縄を枝にかけて引き上げた」

「言葉変えてるけど、それを吊るすというんだ。火は?」

「暖かい」

「連想ゲームじゃないよ。つけたんじゃないの?」

「つけてない。貴族街ごと薙ぎ払ったらあちこちで燃え始めた」

「ごとって」

「奴隷商人と手を結んでる連中なんて生かしておく気はない」

「やることが派手だな」

「怒ってる?」

 僕を不安そうに見た。

「怒ってるわけじゃないよ。僕も人を殺してる。覚悟はしてたけど、それでもひどい気持ちがするよ。慣れたくないけど、これは慣れるね。そんな気がするよ」

「うん……でもね……」

 レイは言いにくそうに話した。

 この子のたちは焼跡から手に入れたものを拾ってきては売るのだという。そうして暮らしている。市場で財布に手を出す連中、火事場泥棒、空き巣、人殺し、何でもして生き抜いている。この冬も何人も死んだと。春まで生き抜いても、まだまだどうにもならないことがある。次の冬まで生きなければならない。仕事なんて奴隷くらいしかない。そんな目に遭うなら、自分たちで生きようと考えているらしい。もちろん子供たち用の施設もあるが、たいていは散り散りに田舎の農家へと売られるのだということだった。誰も知らない土地で働くくらいなら、街で犯罪を犯してでも自由でいる方がマシだということか。

「わたしはあの子たちの英雄になろうなんて思わない」

「決めるのはあの子たちだね」

「ここにいるだけで十八人。他のところにもたくさんいる。この冬もたくさん死んだみたい。わたしは埋められていたからわからないけど」

「言葉に棘があるなあ。他にもいるのか。貴族街の焼け野原で襲われたのは、そういうことだったんだ」

「あそこは別の集団ね。あちこち縄張りがあるらしい。子供たちだけなのもあるし、大人もいるところもあるし、武装化してるところもあると聞いてる」

「屠殺場を襲撃しているとか」

「それはわたし。連中はおまえをひどい目に遭わせた。当然の報い」

 なぜか僕は安心した。レイは揺らいではいないな。やられた分はやり返して何が悪いという主義だ。おまけに月影の姫などという立派な通り名までもらって。こうしている僕もお尋ね者なのかもしれない。かもしれないどころではないな。女王様はに逆らうことになるのだし。

 以後月影の姫は、僕たちについてまわるようになるが、それはまた別の機会に話そう。まったくもって異世界のボニー&クライドだ。

「何か食べる?」

「喉が渇いた」

 レイはカップに水を注いだ。僕は上体を起こして、飲もうかどうか迷ってしまった。下水の中だ。

「煮てある」

 レイは背を腕で支えてくれた。

「旅のときに教えてくれた。水には見えない毒があるって」

「そうだったかな」

 僕は思い出そうとしたが思い出せなかった。まだ熱の残る水を少しだけ飲んだ。そして軋む体を気づかいながら横たわった。弱いところを見せたくないが、レイは気にもかけていない。僕を介助してくれた。

「ありがとう。僕は弱すぎる」

「気にしないで。おまえは呪術であの子の喉を治した」

「違うよ」

 僕は首からぶら下げた革袋がなくなっていることに気づいた。レイが自分の首から革袋を外した。

「これか?」

「その中の石のおかげだ」

「何もないぞ」

 レイは袋を指で指で裏返しにしてみせた。それから紐をくるくると巻いた。そうか。使ったから消えてしまったのだな。僕自身、使った覚えはないが、たぶん使ったんだ。

「よかったの?」

 膝を抱えたレイが心配そうに覗き込んだ。よかったも悪かったもない。あの子が生きているんだ。

「お守りを入れていたんだけど追われてるときに落としたみたいだ」

 僕は天井に絵を描いていた老人の話をした。レイも不思議な雰囲気に圧倒されたことを覚えていた。

「治癒の術、壊れたものを戻す術を覚えたつもりだったけど、実際にやるのは難しい。疲れ果てたよ」

「言葉も術も覚えた」

 レイは膝に顎を乗せて、

「あれだけ剣も使える。もうわたしはいらないかもしれない」

「つまんない。必要だとか不要だからじゃなくて、ただ会いたいから逃げてきた」

「でもいずれおまえはあちらの世界へ戻らなければならないんだ」

「勝手に決めつけるな」

 水を飲んだら眠くなってきた。重い瞼を閉じると、レイが隣に入ってくる気配がしつつ眠りに就いた。

「強くなりたいよ」

 二日後ようやく起き上がることができた。穴蔵の下には血まみれの二本のハンドアックス、外套とリュックが置かれていた。子供たちが現場で集めてきたものだ。その中に琥珀のカケラもあった。幾分小さくなっているような気もするが、紛れもない革袋に入っていたものだ。しばらくあらゆる方向から眺めていたが、これが力を貸してくれたのかどうかわからない。この石が呪術の源ならば消えているだろうし、もしこれさえ持っていれば誰でも使えるとなると、呪術など学ばなくてよいようになる。など考えつつ、琥珀を革袋に戻した。

 僕は壁の窪地から這い出して、全身の筋肉を伸ばし、下水や排水が地下水と一緒に流れる小さな流れに用を足した。もぐらのような生活でも、あちらこちらから漏れ入る光が、少なくとも昼夜くらいは教えてくれる。あちこちが軋んだ。

 体の怠さも、一時を思えばとれてきたものの、しかし治癒の呪術というのは、とんでもなく反作用があることを思い知らされた。もはや使う者の命を与えているのではないかと感じるほどだ。

 倒れて丸々、五日くらいか。

 上流から声が聞こえた。

 僕は壁沿いに声へ近づいた。歩くたびに、まだふわふわする。

 そこは少し広い穴で、何やら揉めていた。わたしが作るという声はレイだが、必死で止めようとしているのは子供たちだった。

「どうしたの?」

「おじ、王子様」

 おじさんって言いかけた?

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