第20話 王子

 僕は足場の上にいる人影に「こんばんは」と声をかけた。彼は一服していた。

「こんな夜にどうした」

「散歩です。夜も描くんですね」

「たまにな。こんな夜は風や石がいろんなことを囁やき合うんだ。昔はこんなことがあったとか、あちらでは起きていることか。儂は耳を澄ましているだけだがな」

「昼ではダメなんですか」

「連中の呪術とやらがやたらにガジャガジャとやかましいんだ。おまえさんが持ってる短剣のようにな」

「邪魔しましたか」

「気にするな。衛兵の術をかけたもんだろう。それがあれば階段なんてすぐ降りられるし、正門までひとっ飛びだ。敷地は好きに歩ける」

 僕は玄関ホールのど真ん中を歩きながら頭上の絵師と話した。

「いつもはどこに」

「倉庫だな。どこかもわからんところだ。たいていは整理して過ごしておる。そしてたまにここに来て絵を描く。記憶を失っちゃいないのか」

 あのまやかしの巨大な階段を降りる前、僕は振り向いて、かかとを合わせた。姿勢を正した。わずかに頭を上げたところに絵師がいた。

「僕はこんなまがいものであふれた白亜の塔には飽きました」

 僕は続けた。

「僕はね、守りたいものがあったんですよ。前の世界でね。そのために来ました。でもこの世界でも守りたいものができてしまいました」

「殺されるかもしれんし、殺さなければならんぞ」

「何とかします」

 覚悟はしているつもりだが、いざとなればどうだろうか。言葉にすることでさえためらうのに。

 苦笑した国ノ王は僕に小指ほどの琥珀を投げて寄越した。

「世界は救えんが、人一人救うくらいはできる。救いたい人の魂に捧げてみるんだな。石ころの力はこの絵の具が証拠だ。なくさんように袋にでも入れて首からぶら下げとけ」

「どこに棺の並んだ地下室があるか教えてくれませんか」

「多すぎて教えられん。しかも棺の数も多いときた。探せんよ」

「そうですよね。まずは捕まえられて記憶を消される前に逃げます」

「好きにしろ」

 むくれたように答えた。嫌なことから目をそむけて、筆を持とうとする姿は、まるで子供のようだ。

「これからどうする気だ」

「残してきた人に会いたい」

 僕は階段を降りた。あれほど遠かった正門の前にいた。カンパの呪術なんて、しょせん子供だましだということか。僕はハンドアックスを振り上げると、正門脇の詰め所を襲撃した。衛兵は肋が折れたかもしれないが、死にはしない。殺さなければならないか。屠殺場の日々が浮かんできた。声にならない声を出しながら死んだ獣たちを。

 格好つけて出たものの「普通に遠いな」と思いながら街へ歩いた。二日かかると、街を抜けて、貧民街へと戻る頃には、すでにくたびれていた。こんなことなら山ごもりでもして体力をつけておけばよかった。


 僕は墓に向かった。遠くの山脈の雪は頂に残るだけで、近くの山はほとんど新緑に包まれていた。

 僕は背後、山脈の頂、東西南北を確かめて、何となくながら一つの墓穴を見つけた。たぶんここだ。まだ穴が空いていて、底の泥には緑の雑草が薄いピンクの小さな花をつけていた。しばらく墓を前にあぐらをかいていると、荷車の音と歌が聞こえてきた。朝日とともにビリケンさんと三つ編みさんが現れた。

「やあ」と僕。

「おまえさん、言葉を話せるようになったのか」

 三つ編みさんが歌を止めた。

 僕は少し恥ずかしい。話せるのかと言われれば話せるという程度のものだが、通じるのはうれしい。

「友人を探している」

「月影の姫だろう」

 ビリケンさんが懐からパイプを取り出しながら答えた。

「レイですよ。ほら。肌が白くて金髪の紫の瞳をした」

「そうだ。春から街の貴族を震え上がらせたんだ。奴隷商人と結託した貴族を広場に吊し上げた。貴族街の木の枝にな。もう枝もないが」

「奴らは捕まったんじゃ?」

「すぐ釈放だよ。冬に燃料や食料を買い占めた貴族もだ。他には屠殺場の奴隷を解放した。肉もな」

 僕はさすがに、

「何をしてるんだ」

 と呆れた。ヤケクソになった彼女の姿が目に浮かんだ。暴走したら止められない性格なのか。

「多少の悪は赦そう」突然ビリケンさんが叫んだ。「しかし人の命を奪うことは赦されることはない」

「何?」

 三つ編みさんが、

「月影の姫の言葉」

 と答えた。そう言ったか言わなかったか、本当のところはわからないということらしい。あのレイがそんな粋なことを言うのかな。

「会いたいんですけど」

「姿は見とらん」

 ビリケンさんは腰にぶら下げた種火からパイプに火を移した。

「誰も場所を教える奴はいねえからな。街にいるのかすら怪しい」

「広場のある貴族街は?」

「行ってみなよ」

 ニヤニヤ笑いながら、パイプを荷車の縁に叩いて灰を落とした。

「ありがとう」

「俺たちはいつもここにいる。死人が減ることはないから、一日や二日待てば、ここに来るよ」

「だから待ってたんですよ」

「幸運を」

 二人は言った。

 この街に来てからいちばん話しているのが、どういうわけかこの二人のアウトローなのは不思議だ。


 僕は貴族街の広場で立ち尽くしていた。あちらこちらに燃えた残骸が置かれ、広場は廃材置き場のようになっていた。やけに材木を運ぶ荷車や人足、坂道で荷車を手助けする立ちん坊が多いなと感じていた。

 貴族街は更地に近い。爆撃でもされたのか。一帯が火災に襲われたようだ。さすがにこれはやりすぎだ。もしレイの仕業にしても許していいものか迷うぞ。貴族が吊るされたとされる木も焼け焦げていた。やりすぎなような気もしながら通りを歩いていると、三人に囲まれた。特に殺気らしいものもない。もちろん僕が相手の殺気までわかるはずもないのかもしれない。三人とも同じような背格好で、鼻から下を薄汚れた布で隠していた。まだ子供のようにも思えた。しかしこの世界は小さな大人も多いので、棍棒を持った相手には油断はならない。

 ただ子供……だよなぁ。

「なぜこそこそしてる。俺たちさっきからずっと見てたんだ」

「まだ朝も早いのに凄いね」

「黙れ。何してるのかって聞いてるんだよ。いちいち屋敷跡を覗いていただろうが。おまえ、屋敷のお宝を盗もうとしてるんじゃねえだろな」

「誰が焼いたの?」

「知るか」

 はじめは誰が話しているかわからなかったが、後ろの奴が話しているのに気づいて、正対した。

「旅をしてて、こんな焼け野原は初めて見たからね。あ、僕が焼跡から何か盗むのを気にしてるんだね」

「警官だろ」

「違う。冬も越えた。旅にはいい季節が来たんだ。夏はあるのかな」

 僕は両腕を広げて外套の下を見せた。左右の腰にハンドアックスを差し、シャツの上に心臓を守る革の胸当てを袈裟懸けにしていた。

「腹に差してる短剣を見せろ」

 僕は西部劇よろしく颯爽と決めたつもりだったが、一瞬にして「まずいな」と後悔した。なかなかうまくできない。すっかりフィリの短剣のことを忘れていた。これはカンパのものとは違っていたし、それぞれが手に入れたものだろうが、見るからに庶民の持つものではない。

 相手がこちらに渡せという仕草をしたので、短剣を渡そうとしたときだった。背後から棍棒が打ち下ろされた。ただ僕の寸前の速さが功を奏した。打ち下ろされた棍棒は地面を叩き、乾いた音をたてて、僕が押し倒した相手は、焼跡に転げた。

 やはり子供だ。

 それにしてもマセガキだな。

 僕は逃げた。

 剣の訓練したが、結局逃げるのが性に合っているのだ。僕は内心笑いながら逃げていた。貴族街の反対の坂を下り、貧困街から街の出入口の付近までの川沿い、確か奴隷から逃げたときに通ったところだと思いながら歩いた。追跡はない。三人には追いかける余裕などなかった。倒したのは子供だった。ベーカー街少年団みたいなものかな。フィリの短剣を古道具屋へ持っていくことを閃いた。多少の金額にはなるはずだ。正式な道具屋ではなく、やたら疑わしいところで、銀貨一枚もくれたので、銅貨にしてもらった。「こんなものどこで手に入れた。貴族街の焼跡。たぶん術が施してある。構わんよ。消せばいい」といったやり取りだった。僕は露店でヒモムスを買ったが、他とは少し違う味がするようなら気もしながら市場の真ん中に丸太のベンチで腰を掛けた。

 白い芋虫、カブトムシの幼虫のようなものを大量に取り引きしているのを見かけたので、薄汚れた服を着た隣の子供に尋ねた。

「あれは何?」

「あんた食ってるじゃん」

「これ?」

 僕はつまんだヒモムスを見た。カリカリ、とろっとした揚げ物の正体が、あの蠢く虫だったとは。

「粉を付けて揚げるんだよ」彼は偉そうに言った。「教えたんだから少しくらい礼ないのかよ」

「しっかりしてんな」

 僕は袋を見せた。子供は鷲掴みにした。どこからか他の子供も集まってきたので、しようがない。僕は一粒だけ手にして、みんなで分けるように袋を渡した。幼い一人が、

「ありがとう」

 丁寧に頭を下げた。

「どういたまして」

 僕は微笑んでヒモムスを口に放り込んだ。早く食べないと、皆に食われるぞ。子供にうながした。その子は慌てて、ヒモムスをもらう群れに割り込んだ。それでもチラチラ見ていたので、この数じゃ足らないなと思った。手で招き寄せて、黒い粒を渡した。パンを買えるだけ買ってきてくれと頼んだ。どんなパン?好きなパンでいい。お兄さんには一つくれ。他は皆で食べろ。

「わかった」黒い瞳を輝かせた。「おじさんの分は一つだね!」

「あ、あぁ……」

 しばいたろかっ。

 僕は固い一つ受け取ると、市場を離れた。子供たちの群れを邪魔にする大人の視線に耐えられなくなったからだ。養うことなんてできないし、無責任だ。偽善もしないよりマシかもしれないが、そうして単純に気持ちを整理できるのが怖い。だからといって悩むのが偉いというわけでもない。頭で単純に処理してしまうよりは、この現実から目を逸らさないでいられるのがマシだ。それくらいの差だが、実際の差はどうなんだろうか。古びた道を指についた油と塩気を舐めながら歩いた。

 どうする。

 今さらレイに会う理由は?

「月影の姫か……」

 まさか彼女が義賊になっているとは思いもしなかった。少し考えてみれば、何もしないでいることの方が変だな。村へ帰っているのかもしれない。捨てられたとはいえ、彼女の意思でこの街に来たのだ。薪を割っているのか。待ってくれているような気がしていた。楽天的な考えもいい加減にしろと腹が立った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る