第10話

「こんばんは」

 僕は足場の上にいる人影に声をかけた。彼は一服していた。

「こんな夜にどうした」

 と、返ってきた。

「散歩でもしようかなと。夜も描くんですね」

「たまにな。こんな夜は風や石がいろんなことを囁やき合うんだ。昔はこんなことがあったとか、あちらではそんなことが起きているとか、もうすぐあんなことが待ち受けているとか。わしは耳を澄ましているだけだがな」

「昼ではダメなんですか?」

「昼はな、連中の呪術とやらがやたらにガジャガジャとやかましいんだよ。今のおまえさんが持ってる短剣のようにな」

「これ、邪魔しましたか?」

「気にするな。衛兵の術をかけたもんだろう。それがあれば階段なんてすぐ降りられるし、正門までひとっ飛びだ。敷地は好きに歩ける」

 僕は玄関ホールのど真ん中を歩きながら頭上の絵師と話した。

「いつもはどこに?」

「倉庫だな。どこかもわからんところだ。いくつもの倉庫がある。たいていは整理して過ごしておる。そしてたまにここに来て絵を描く。おまえさんは記憶を失っちゃいないのか?演技していたのか?」

「国ノ王殿」

 あのまやかしの巨大な階段を降りる前、僕は振り向いて、かかとを合わせた。姿勢を正した。わずかに頭を上げたところに絵師がいた。

「あなたが守ろうとしていたものは、こんなまがいものであふれた白亜の塔なんですか」

 僕は続けた。

「僕はね、守りたいものがあったんですよ。元の世界でね。そのために来ました。でもこの世界でも守りたいものができてしまいました」

「ほお。死ぬかもしれんぞ」

「死にませんよ」

「生意気なガキだな。では殺さなければならんぞ」

「何とかします」

 覚悟はしているつもりだが、いざとなればどうだろうか。言葉にすることでさえためらうのに。

「心もとないな」

 国ノ王は僕に石のカケラを投げてよこした。小指大の琥珀だ。僕は光に透かしてみた。

「それで世界全体は救えんが、人一人救うくらいはできるだろうて。どの世界でも通じるかどうかはわからんがな。救いたい人に捧げてみるんだな。石ころの力を見くびるなよ。この絵の具が証拠だ。なくさんように袋にでも入れて、首からぶら下げとけ」

「そうします。今のこの世界はあなたが話してくれた、夢のような世界とは違うみたいです。しばらくいましたけど、みんなに魂がない」

「わしは知らんよ」

 むくれたように答えた。嫌なことから目をそむけて、筆を持とうとする姿は、まるで子供のようだ。

「これからどうする気だ。石ころを持って、さっさと元の世界へ立ち去れ」

「お気を悪くしましたね」

「やかましいからな。すべての世界はつながっておる。この世界で騒動を起こせば、おまえさんの世界へも影響するぞ。それでもいいのか」

「どうしますかねえ」

「緊張感のない奴だな」

 僕は階段を降りた。あれほど遠かった正門の前にいた。カンパの呪術なんて、しょせん子供だましだということか。僕はハンドアックスを振り上げると、正門脇の詰め所を襲撃した。衛兵は肋が折れたかもしれないが、死にはしない。殺さなければならないか。屠殺場の日々が浮かんできた。声にならない声を出しながら死んだ獣たちを。

 格好つけて出たものの、

「普通に遠い…」

 と、思いながら街へ歩いた。

 二日かかった。

 街を抜けて、貧民街へと戻る頃には、すでにくたびれていた。こんなことなら山ごもりでもして体力をつけておけばよかった。


 僕は墓に向かった。遠くの山脈の雪は頂に残るだけで、近くの山はほとんど新緑に包まれていた。

 僕は背後、山脈の頂、東西南北を確かめて、何となくながら一つの墓穴を見つけた。たぶんここだ。まだ穴が空いていて、底の泥には緑の雑草が薄いピンクの小さな花をつけていた。しばらく墓を前にあぐらをかいていると、荷車の音と歌が聞こえてきた。朝日とともにビリケンさんと三つ編みさんが現れた。

「やあ」

 と、僕。

「おまえさん、言葉を話せるようになったのか」

 三つ編みさんが歌を止めて驚いた。

「少しね」

 僕は少し恥ずかしい。話せるのかと言われれば話せるという程度のものだが、通じるのはうれしい。

「友人を探している」

「月影の姫だな」

 と、ビリケンさんが懐からパイプを取り出しながら答えた。

「月影の姫?」

「義賊だな」

「ギゾク?」

「この春から、街の貴族を震え上がらせたんだ。奴隷商人と結託した貴族を広場に吊し上げた。貴族街の木の枝にな。もう枝もないが」

「奴らは捕まったんじゃ……」

「すぐ釈放だよ。冬に燃料や食料を買い占めた貴族もだ。他には屠殺場の奴隷を解放した。肉もな」

 僕はさすがに、

「何をしてるんだ」

 と、呆れた。ヤケクソになった彼女の姿が目に浮かんだ。暴走したら止められない性格なのか。

「奴隷を売り買いするのは好きにしろ!」突然、ビリケンさんが「だが己の命も賭けていると思え!」

「何?」

 三つ編みさんが、

「月影の姫の言葉だ」

 と、答えた。そう言ったか言わなかったか、本当のところはわからないということらしい。あのレイがそんな粋なことを言うのかな。

「会えるのかな」

「さあね」

 ビリケンさんは腰にぶら下げた種火からパイプに火を移した。

「誰も場所を教える奴はいねえからな。街にいるのかすら怪しい」

「広場のある貴族街は?」

「行ってみなよ」

 ニヤニヤ笑いながら、パイプを荷車の縁に叩いて灰を落とした。

「ありがとう」

「俺たちはいつもここにいる。死人が減ることはないから、一日や二日待てば、ここに来るよ」

「だから待ってたんだ」

「幸運を」

 二人は言った。

「お互いに」

 この街に来てからいちばん話しているのが、どういうわけかこの二人のアウトローなのは不思議だ。


 僕は貴族街の広場で立ち尽くしていた。あちらこちらに燃えた残骸が置かれ、広場は廃材置き場のようになっていた。やけに材木を運ぶ荷車や人足、坂道で荷車を手助けする立ちん坊が多いなと感じていた。

 貴族街は更地に近い。爆撃でもされたのか。一帯が火災に襲われたようだ。さすがにこれはやりすぎだ。もしレイの仕業にしても許していいものか迷うぞ。貴族が吊るされたとされる木も焼け焦げていた。

「やりすぎだろ」

 いろいろ考えながら通りを歩いていると、三人に囲まれた。特に殺気らしいものもない。もちろん僕が相手の殺気までわかるはずもないのかもしれない。三人とも同じような背格好で、鼻から下を薄汚れた布で隠していた。まだ子供のようにも思えた。しかしこの世界は小さな大人も多いので、棍棒を持った相手には油断はならない。

 ただ子供……だよなぁ。

「何か?」

「なぜこそこそしてる。俺たちさっきからずっと見てたんだ」

「まだ朝も早いのに凄いね。眠くないの?」

「黙れ。何してるのかって聞いてるんだよ!」

「歩いてるだけだ」

「いちいち屋敷跡を覗いていただろうが。おまえ、屋敷のお宝を盗もうとしてるんじゃねえだろな」

「誰が焼いたの?」

「知るか」

 はじめは誰が話しているかわからなかったが、後ろの奴が話しているのに気づいて、正対した。

「こんな焼け野原は久々に見たからね。そういうことか。僕が焼跡から何か盗むのを気にしてるんだね。それなら心配ない」

「じゃ、警官だろ」

「違うよ。旅をしている。もう冬も越えたからね。旅にはいい季節が来たんだ。夏はあるのかな」

 僕は両腕を広げて外套の中を見せた。左右の腰にハンドアックスを差し、シャツの上に心臓を守る革の胸当てを袈裟懸けにしていた。

「その腹に差してる短剣を見せろ」

 僕は西部劇よろしく颯爽と決めたつもりだったが、一瞬にして「まずいな」と後悔した。なかなかうまくできない。すっかりフィリの短剣のことを忘れていた。これはカンパのものとは違っていたし、それぞれが手に入れたものだろうが、見るからに庶民の持つものではない。

 相手がこちらに渡せという仕草をしたので、短剣を渡そうとしたときだった。背後から棍棒が打ち下ろされた。ただ僕の寸前の速さが功を奏した、打ち下ろされた棍棒は地面を叩き、乾いた音をたてて、僕が押し倒した相手は、焼跡に転げた。

 やはり子供だ。

 それにしてもマセガキだな。

 僕は一目散に逃げた。

 剣の訓練したが、結局、逃げるのが性に合っているのだ。僕は内心、笑いながら逃げていた。貴族街の反対の坂を下り、貧困街から街の出入口の付近までの川沿い、たしか奴隷から逃げたときに通ったところだと思いながら歩いた。はじめから追跡はない。三人には追いかける余裕などなかった。倒したのは、明らかに軽かったし、子供だった。ベーカー街少年団みたいなものかな。フィリの短剣を古道具屋へ持っていくことを閃いた。少しの金額にはなるはずだ。正式な道具屋ではなく、やたら疑わしいところで、銀貨一枚もくれたので、銅貨にしてもらった。「こんなものどこで手に入れた。貴族街の焼跡。たぶん術が施してある。構わんよ。消せばいい」といったやり取りだった。僕は露店でヒモムスを買ったが、他とは少し違う味がするようなら気もした。市場の真ん中に丸太のベンチで腰を下ろした。

 白い芋虫、カブトムシの幼虫のようなものを大量に取り引きしているのを見かけたので、薄汚れた服を着た隣の子供に尋ねた。

「あれは何?」

「あんた、食ってるじゃん」

「これ?」

 僕はつまんだヒモムスを見た。カリカリ、とろっとした揚げ物の正体が、あの蠢く虫だったとは。

「粉を付けて揚げるんだよ」子供は偉そうに言った。「教えたんだから少しくらい礼ないのかよ」

「しっかりしてんな」

 僕は袋を見せた。子供は鷲掴みにした。どこからか他の子供も集まってきたので、しようがない。僕は一粒だけ手にして、みんなで分けるように袋を渡した。幼い一人が、

「ありがとう」

 と、丁寧に頭を下げた。

「どういたまして」

 と、微笑んでヒモムスを口に放り込んだ。早く食べないと、皆に食われるぞ。子供にうながした。その子は慌てて、ヒモムスをもらう群れに割り込んだ。それでもチラチラ見ていたので、この数じゃ足らないなと思った。手で招き寄せて、黒い粒を渡した。パンを買えるだけ買ってきてくれと頼んだ。どんなパン?好きなパンでいい。お兄さんには一つくれ。他は皆で食べろ。

「わかった」黒い瞳を輝かせた。「おじさんの分は一つだね!」

「あ、あぁ…」

 しばいたろかっ。

 僕は固い一つ受け取ると、市場を離れた。子供たちの群れを邪魔にする大人の視線に耐えられなくなったからだ。養うことなんてできないし、無責任だ。偽善もしないよりマシかもしれないが、そうして単純に気持ちを整理できるのが怖い。だからといって悩むのが偉いというわけでもない。頭で単純に処理してしまうよりは、この現実から目を逸らさないでいられるのがマシだ。それくらいの差だが、実際の差はどうなんだろうか?古びた道を指についた油と塩気を舐めながら歩いた。

 どうする。

 今さらレイに会う理由は?

「月影の姫か…」

 まさか彼女が義賊になっているとは思いもしなかった。考えてみれば、何もしないでいることの方が変だな。何をしているのだろうかと考えていたが、深くはなかった。村へ帰っているのかもしれない。薪を割っているのか。待ってくれているような気がした。楽天的な考えもいい加減にしろと、自分に腹が立つ。

 あの子にはあの子の人生があるんだしな。僕も元の世界へ戻るかもしれない。あのときレイに即答できなかった。それにしても悪人になっているとは……いや、素地は見え隠れしていたな。善人ではないな。どうやって育てれば、あんな性格になるんだろうか。待てよ。一緒にやってきたのは誰だ。僕か?墓に埋めたのが間違いなのか。あれで性格が炎で燃やされたナイロンのようにねじれたんだ。違うな。その前からねじれていた。そもそも村でどんな暮らしをしていたんだ。こんなところで考えていてもはじまらない。

「捕まえるか」

 僕は川沿いの廃墟に残る束石に腰を掛けた。野宿にしよう。とにかく月影の姫とやらに挨拶しないといけないと考えたのだ。もしそれがレイならば、強盗、焼き討ち、吊し首はいただけない。それらが彼女の仕業ではないとは言いきれないところがもどかしい。もどかしい?自分にうそはいけない。半ば以上、ほぼレイが犯人だ。考えるのも面倒になってきたので、夕暮れまで寝た。


 そして起きた。

 鉄の棒をこすり合わせて火を起こし、焚き火の上で朝仕入れたパンを焼いた。乾燥肉も焼いて食べた。これは焼かない方がいい。口の中が炭の味しかしない。

 誰か来た。

 朝の子供だ。

「おじさん」と。

 しばくぞっ!

「おじさん、王子様?」

「王子様はお城に住んでるんだ」

 おじさんが王子様なら、お姫様はおばさんになるな。

 女の子は僕の傍に来た。

「もう少し早かったらパンがあったのに」

 と、笑った。しかし彼女は笑わないで、僕の顔をマジマジと見た。

「おじさん、囲まれてるよ。わたしね、朝からずっと探してたの」

「僕を?」

 僕は少しピリつく喉の輪を撫でてみた。そういうことかと呟いた。

「お姫様はね、王子様がね、助けに来てくれるの、待ってるの。お話してくれたの。もう自分のこともお姫様のことも忘れてるかもしれないけど、それでも会いたいから待ち続けてるお話。待つのにも理由なんていらない。ただ会いたい。いつもわたしに話してくれるの。とても優しい王子様だから、わたしにも会わせてくれるんだって」

 必死で話した。それだけを伝えるために来てくれたのか。そのうちにも首の印の疼きが強まる。急がないといけない。この子を巻き込んではいけない。

「おじさん、泣いてるの?」

「そっか。きっと会えるよ。わざわざ報せに来てくれてありがとう」

「ど、どういたまして」

 彼女ははにかんだ。

「帰るところあるね。よし。急に動いたらいけない。来たように帰るんだよ。僕の言うようにして」

 乾燥肉を一本あげると、僕の言うように喜んだふりをして、子供は帰っていった。

 残った僕は、後ろから近づいてきた影に外套を投げつけて、ハンドアックスを脳天に打ち下ろした。

 剣ごと相手を粉砕したようだ。

 意外に罪悪感はない。考える暇はなかったのと、死体を見てないからかもな。そのまま死体を乗り越えて、水路沿いに下流へと走り抜ける。女の子と反対へ。木橋の下に滑り込むようにしてくぐり抜けて、勢いのまま水路の対岸へ駆け上がり、突いてきた剣をとっさに腋の下でかわして、その腕に二本のハンドアックスを打ちつけて、肩で突き倒した。左の一つを鞘に収めて、今度は上流へ走る。拾い上げた剣から手首を抜いた。すかさず追手の方へ踵を返すと、身を低くして剣でスネを薙いだ。倒れた相手の手首を剣で突き刺し、飛び越えて、もう二人と斬り結ぼうとすると見せかけた。

 すれ違うのもやっとの狭い路地へ逃げた。振り向き樣、剣を岩の壁に突き刺した。追手が一人首をを裂かれた。もうひとりにハンドアックスを投げつけた。投げつけるのは良くないとわかった。跳ね除けられたからだ。まだ息をしている追手から抜いた剣を相手に突き入れつつ、左手で抜いたハンドアックスを投げつけた。反省も何もない。至近距離で顔面に食らった追手は血飛沫を散らして倒れた。僕はハンドアックスを拾い上げて、まだ生きている兵士の脳天を砕いた。殺してしまったという気持ちよりも、こいつが生き返るかもしれない怖さの方が大きい。

 路地を逃げた。そしてなだらかな石段へ出たところで、不意に聞き覚えのある声をかけられた。

 何人いるのか。

 松明が石段を照らし、下流に三人がいた。さすがに上まで回り込めなかったらしいが、十分だ。

「なかなかすばしっこいな。だがわたしたちから逃げられるか?」

 フィリだった。胴巻には術を施された短剣が控えていた。なるほどそういうことか。僕の命が銀一枚だったということだ。あの古道具屋はつながっていたのか。

「夜になるまで待ちくたびれたんじゃないか?」

 容易にフィリに近づいてはいけない。どこからでも飛び込んでくる一閃がある。

「おまえが三つ目に接触するかと待たされていた。クソ野郎にな」

 フィリは剣を抜いた。

「奴はね、前に三つ目をロストしたのよ。おまえと別れた後、三つ目は街から出た。そこで逃がした。怪しいわね。街を出たかも怪しい。尾行もできない間抜けだわ」

「だからあのときあんな悪態をついていたのか。でも白亜の塔みたいなぬるま湯にいたんじゃ、レイを捕まえるのは無理だね。どうせ三つ目を皆殺しにしようとでも企んだか?」

「カンパがな」

 フィリは近づいてきた。自信があるのだろう。僕のような素人とは実戦では違うのだろうか。それとも彼女自身も実戦経験はないのか。

 僕は片手のハンドアックスを鞘に収めて、左中段で剣を構えた。

「おまえには恥をかかされた」

 私怨?

 この前のことか。

「覚えてる?」

「当然だ」

 彼女は顔を真っ赤にした。ロウソクの揺らめきの表情と松明のときのそれとではまったく違った。

 灯は関係ないか。

「わたしは本気だった」

「え……」

 これはまずい。僕は踏み込むフリをして、上流へ走った。

 衝撃。

 また結界かよ。

 襲われる。

 とっさに剣で背後を払い除けたが、フィリはかかってきていなかった。僕を睨んだまま……いや、僕の頭上を睨んでいた。

「カンパ!」

 と、フィリ。

 結界の向こうで、カンパが乾燥肉を持った子供を抱えて、その喉に短剣を突き付けていた。彼の背後には屈強そうな剣士たちがいた。

「早くやれ」

 カンパが余裕の笑みを浮かべていた。抱えられた子供は瞼を食いしばっていた。自身に泣くな泣くなと言い聞かせているようだった。

 僕は剣で結界を斬り捨てた。

「武器を捨てろよ。この弱虫が。あのときみたいに泣きわめけよ。ママ!ママ!ってよ」

 僕は剣を捨てた。腰のものもだと言われて、ハンドアックスも地面に落とすように捨てた。

「フィリ、やれよ。おまえの手柄にしてやるよ。剣だけで取り立てられたおまえは、手柄くらいいる」

 一人でまくし立てた。

「どうした?女王様はこの世界を完全に征服するのだぞ。おまえは好きに暮らせる。富も栄誉も」

 フィリは表情を殺したまま近づいてきて、僕の首筋に剣を据えた。今にもカンパを斬り捨ててしまいそうな形相で彼を見たのち、そして僕に憐れみを帯びた目を向けた。

「おまえとはもっとまともに勝負したかったよ」

「悪かったね。この前は騙してごめんね。術で忘れてくれ」

「うるさい」

 フィリは剣を引いた。僕の首から血飛沫が舞い上がる。それらの粒が輝き、石段を照らした。

 カンパが子供の喉を割いた。

 僕はカンパに飛び込んで、子供を庇うように転げた。

 光の粒は一瞬にして矢に変化し、フィリやカンパを含めた、路地裏の兵士の体を貫いた。フィルは左腕の見えない盾と剣で防いだが、カンパはうろたえつつも結界で逃れた。

「てめえ、何をした!」

 カンパは尻餅をついて、這々の体で逃げながらわめいた。

「退け!」と、部下を庇いつつ撤退するフィリ。

 僕は血があふれる子供の喉を押さえた。頭上であらゆる怒号や悲鳴が聞こえる。しかしそんなことはどうでもいい。とにかく救いたい。

 集中するんだ。

 息を止める。じっとりとした汗が額に浮かんだ。全身の筋肉が軋んで、心臓は潰れそうで、みぞおちに重いものを感じて、体の内側から焼け焦げそうな気がした。首からかけた革袋から熱があふれ、淡い全身にまとまりつくように燃えた。

 喉からあふれる血が、僕の指の間から漏れ出てくる。血が止まるように、割けた傷が戻るように想像した。これから生きなければならないんだぞ。

 衝撃波が路地を薙ぎ払う。頭上や背後を大蛇がうねるようだった。

「お姫様はね……」

 子供が小さく笑う。

 口から血があふれる。

「静かに」

「王子様が迎えに来るのを待っているの。わたし、王子様に会えた」

「頼むから」

 治ってくれという気持ちを両手一杯にして喉に添えた。


 


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