トンネルを抜ければ…

henopon

第1話

 朽ちたトンネルに入るのは誰でも怖いだろう。夏なのに底から冷えてくる空気、舗装済みなのに砂利や砂が溜まる道、生臭い水の臭い。

「でもさ、本当に幽霊がいたらどうする?おまえが襲われてさ」

「い、いるわけないよ」

 僕は答えた。たぶん声は震えていただろう。義理の兄が笑う。

「もう高校生だろ?こんなの怖がってるから笑われるんだよ」

 義兄は喉の奥から嫌な笑い声をたてる。それでもいないよりマシだった。声とスマホのライトが遠ざかる。そんなに速く行かないでくれと頼んだ。もちろん内心で。兄の腕を掴みたかった。これが義姉ならよかったのに。親が再婚してからずっとくそ意地の悪い兄だが、今はそんなことは言えない。どうしてこんなことになったのだろうか?そうだ。姉に笑われたからだ。普段はしとやかで、優しい姉だが、ときどき意地悪なことをしかけてきた。

「マコト、怖いの?」

「そんなことないよ。でも…でも岩とか落ちてくるから入らないようにってしてあるんだし…」

 ふ~んと、サンダルをプラプラさせながら、笑みを殺した。

「行くよ」

 と、言ったものの、途中で引き返してきた。


 それが今日、

「兄さん、お願いがある」

 田舎のトンネルまで連れて行ってほしい。僕は義理の兄に頼んだ。

「今がどういう状況かわかってるのか?」

「ああ」と、僕。他にいい言葉を探した。「トンネルを抜けたら美月さんがの意識が戻る気がするんだ」

「つまんねえこと…」

 彼は黙り込んでしまった僕に舌打ちをした。彼も思い出したのだ。数年前のことを。「かわいい弟を一人で行かせる気?」と、美月に言われたことを。彼は中学生で、僕は小学生。まだお互いに怖かったから、何とか必死で美月の挑戦から逃げようとして、笑われながらも逃げた。

「前もここまでは来たよな」

 拓也は呟いた。

「うん。僕はこのトンネルを抜けたら美月さんが帰ってくるような気がするんだ」

「つまんねえこと考えてるな」

「ごめん」

「謝るなよ」

「僕のせいだから」

 いきなり僕は胸ぐらをつかまれ、埃臭い壁に押し付けられた。

「てめえ、次にそんなこと言ったらぶち殺すからな」

 再婚し、それからずっと一緒に暮らしたが、近頃、僕がぼんやりしたしていたから、美月が学校へ送迎してくれるようになった。そして事故に巻き込まれた。対向車で追突事故が起き、跳ね飛ばされた車が彼女の運転席に飛び込んできた。

「もし僕が一人で学校へ行けていたら。電車に乗れれば…」

「もう黙ってろ!」

 拓也は早足になる。

 背中が遠ざかる。

「願掛けだ!信じろよ!信じないと意味ねえからな。神様も信じてくれねえと寝てるからな」

 僕も走る。

 わずかな光が見えてきた。

 剥がれ落ちたコンクリートにつまずきつつも、何とか光へ。

「頼むから帰ってきて」


 僕はサンダル履きの爪が剥がれそうに痛い。爪が割れたかも。

 柔らかな感覚。

 甘い、いつもの匂い。

 長い髪が頬を包む。

「美月さん…?」

「マコト、わたしはお父さんの再婚に反対した。でも小学生のあなたに会って考えが変わった。いつも一所懸命だったね…おうちでも気が休めない。わたしたちに嫌われないようにして、好かれようとして。ごめんなさい。そんなあなたに気付けなくて。家族なのに…ね。つらかったよね?凄く勉強して、合格して、そんなんじゃ心が壊れるよね」

「ここは…?」

「もっと前から抱きしめてあげられればよかったのにね。家族でも言わなきゃ伝わらないのに」

 顔を上げると、

「お別れ…?」

 涙が額に跳ねる。

 ぎゅっとしなやかな腕が背中で締め付けられる。

「ミツキさん?」

 一瞬にして、体が背後に引き寄せられた。ひざまずいた姉の姿が遠ざかる。僕の呼吸が浅くなる。

 あぁ…

 白い部屋、白い壁、心拍数を図る機械の単調の音。ベッドに横たわるのは、呼吸器とチューブに繋がれた姉の姿だった。 

 ここは病院?

「姉貴…」

 拓也が拳を握り締めた。

「マコト、呼んでやれよ。呼んでやってくれよ」

「美月さん…」僕は呟いた。

「違うだろうよっ!マコト、お姉さんて呼んでやってくれよっ!」

 僕は怖くて、後退り、病室から廊下へ逃げた。走った。そうだ。姉さんは交通事故に遭ったんだ。生と死の境をさまよっている。

 僕は逃げるの?

 僕は目を覚ました。大樹に背を預けて、木漏れ日が視野を揺らし、濃い影が覆いかぶさってきた。

 人だ。

 麦わら帽、首からタオルのようなもの、手には鎌を持っている。

「ここは?」

 僕は自分でもわかるほど小さな声で尋ねた。

 二人は顔を見合わせる。

 いきなりうつ伏せにされ、後ろ手に縛られ、奥襟を捕まれ、荷車に放り込まれた。

 え?え?

 首だけを上げると、前の牛の手綱をとる馭者が見えた。薄っすらと藁が散らばる荷車の中、さっきの二人は僕の背中越しに聞き取れない言葉で何やら話していた。僕は麦わら帽子の下、二人とも額にも目があることに気づいた。

 考えろ。

 考えてどうなる。

 捕まってる?

 あれ?

 段差を越えるたびに顎を打ち、意識がしっかりとし始めた。

 どこ?


 小さな川にかけられた木橋を渡ると、村の入口が見えてきた。細い丸太で囲われただけの敷地には、藁葺き屋根の粗末な家が密集していて、下流に向けても、また粗末な家が点在し、背後の山には小さな畑が段々に連なっていた。秋の様子だ。小麦のようなものが見える。首が痛くて、それ以上は覗けなかった。

 村人が集まり、聞いたことのない声が近づいては離れ、たまに顔を見ようとゴツゴツした手が顎をねじ上げた。皆、三つ目だ。一様に痩せていて、目だけが瑞々しい。

 僕は捨てられるように降ろされた。これではまるで荷物だ。いや、廃品回収の新聞紙扱いだ。

 サンダル履きの足が囲んだ。乾いて埃しかない土の上、僕は目だけを動かして、様子を伺った。どう考えても有効的な雰囲気ではないが、

「はじめまして」

 と、笑顔を上げた。

 長い柄でねじ伏せられた。

 何だか相談しているな。威勢の良い声がし、一斉に静まった後、皆が納得したような溜息をついた。

 引きずられ、翌朝まで、牛小屋(牛のようなもの)と一緒に寝た。我慢できずに漏らした小便がジーンズに広がるのを感じて、ようやく涙が出た。

 何だ、ここは。

 生贄? 

 殺されるの?


 翌朝、蹴り上げられて目が冷めた。牛のようなものは柵に顎を載せて、憎たらしいほど冷めた目を向けていた。逆ドナドナか。

 相変わらず言葉はわからない。

 しかし朝日はキレイだ。山際から漏れる光が、まるで神様が現れるときの絵のように思われた。

 小さな足が立った。

 サンダルだが、膝下まで少し上等の編み込みを施され、膝下まで革が巻かれていた。

 男の子?

 女の子?

 肌の薄黒く、整った顔立ちに、青い瞳をしていた。洗いざらしの黒髪は後ろで蔦で結われていた。

 革の外套姿だ。

 僕は縄を解かれた。

 たぶん立てと言ったのだろう、脇腹を蹴り上げられた。

 少女は僕を見上げた。

 そうしているうちに、僕は人の重さもあるほどの荷を背負わされ、頭から薄っぺらい革のポンチョをかぶせられ、フードの上から頭を叩かれた。次第に村が白んできた。粗末な建物の影が浮かんできた。朝なのに煙もない村だ。ほとんどが傾きかけていて、支えまでしてあるものもあるし、井戸も桶は捨てられるように置かれていた。僕は首輪をつけられて、その紐の先は少女?に握られていた。主と僕が歩き始め、村の出入り口から出ると、盛大な歓声が起きた。どうやら見送られているように思えたが、見捨てられたの間違いだったことに、後々気づく。

 しばらく小路を行き、村が見えなくなると、森の中でも一際大きな樹が現れた。僕も主もここに自分がいたことすら、少しして思い出したくらいだ。それほど荘厳だ。

 僕は幹に額を押し付けてみた。

 帰れるかもしれない。

 ぶつけてみた。

 叩きつけてみた。

 蹴飛ばした。

「帰れないのかよっ!」

 と、叫んでいた。

 主は一瞥して、紐をくいっとした。もう行くぞとの合図だ。

「話してくれ」

「……」

「通じないのか。どこへ行くの。僕はお前の何だ。なぜおまえの額に目がないの。他にはあるのに」

 最後は主(認めたくはないが誰がどう見てもそうだ)の額を撫でた。そのときである。拳が頬に食い込んだ。怒りで睨み据える主の目に涙が溜まっていた。あ、この子は女の子だと気付いた。僕は彼女の背を見ながら歩いた。クソ重い革袋のベルトが肩に食い込んで、そのまま肩が外れそうだ。

「こういうのは二人で持ち合うもんじゃないのか?」

 何度も繰り返した。


 森を抜けた。

 内心、また拳が飛んでこないかビクビクしていた。殴られるのはイヤだし、ここで捨てられても困る。それだけは避けなくてはならない。生きていける自信がない。

 視界が広がると、辺り一面が草原だった。背後の深い森が特別で、この地域は背の低い草原が広がる地域のようである。空には一つかみの雲が流れ、秋のさわやかな日差しが注いでいた。秋?この世界に季節などあるのだろうか。あるとすれば今は秋として、これから寒くなるのか。

 主は遠くの白い岩を指差した。

「あそこへ行くのか」

 紐で答えられた。

 主ではない。断固として、主従関係など結んでなるものか。現実の世界よりも扱いが悪いのは納得がいかない。

 草原の小路は遠くの岩から離れ、また近づいて、また離れを繰り返した。一直線に行けばいいのに。意外に遠い。というか、メチャクチャ遠い。ようやく辿り着いた頃には日が傾いていた。一塊に見えていたのだが、実際は巨人が積み木でもしたかのような巨大な岩が点在していた。明らかに誰かが積んだものだった。

 ん?

 音が聞こえる。

 声がする。

 空に人の熱気が昇る。

 街だ。かつては白かっただろう巨石に囲まれ、中央に大通りがあり、崩れてはいるが、放射状の区画のある様子だ。

「街?」

 僕は彼女を覗き込んだ。しかし彼女は一点を見たまま答えなかった。そしてそのまま街には入らずに迂回し、草原と道と壁の外れで腰を落ち着けた。そこには同じような身なりの連中がいたが、僕のように首輪をつけられているのは、牛や馬のような奴だけだった。 

 まさか…。

 僕は、

「ちょっと待て」

 さすがに焦った。

「家畜?」

 鬱陶しそうな顔をした彼女は、しばらく歩いて、自分の横へ座るように地面を指差した。誰もいないくぼんだ区画を見つけたのだった。奴らと寝るのは御免だ。糞尿と涎と屁の音に悩まされるのは一晩でいい。いや。一晩でも御免だ。

 しかし腹が減った。こんな状況でも腹は減るものなんだな。空腹というものを感じたことがない。いつも家には何か食べ物もあったし、暇なときには美月さんが冷蔵庫のもので作ってくれることもあった。

 彼女は一本の枝をだして、小指ほどの欠片に食いちぎると、僕に差し出した。

 短い方だ。

「そっちはそれ全部で」彼女と肉を交互に見つつ「僕はこれだけ?」

 と、言おうとしたら、彼女も同じだけを口に含み、残りは腰の袋に戻した。

 少し恥ずかしい。

 ずっとしがんでも、いつまでもなくならないし、味ははじめからない。たしかに塩味はついていたが、すぐ消えた。おそらく何かの肉ではないかと思うのだが、妙に脂臭いかった。彼女のするようにずっとしがみ続けながら、リュックを枕にして、二人巨石の縁から見える星を眺めた。彼女の口はかれこれ二時間はしがんでいた。彼女は上半身を起こすと、革でできた水筒にわずかに口をつけ、肉片のときのように、僕に差し出した。僕も同じように少しだけ飲んだ。

 野宿だ。

 キャンプ?

 新しい家族とはじめて行ったキャンプを思い出した。僕は小学生三年で、緊張していた。義父は気を使ってくれた。すべて僕を優先してくれた。肉も焼きそばも飲み物も。姉弟は無言だったな。同じテントに入れられたとき、一睡もできなかった。当時、中二の姉は、

「私も眠れなかったよ」

 と、三年後に笑っていた。寝ていたのは不貞腐れていた、義理の兄だけだむたわけである。

「お姉…ちゃん…」

 涙が目尻を流れた。そう呼んだことがなかった。美月だ。

「ミツキさん…」

 病院で、

「こんなときくらいお姉ちゃんて呼んでやれよ!」

 と、義理の兄が叫んだ。

 ふと視線を感じて、頭を向けると、彼女がジッと見ていた。手の平が頬に触れた。また殴られるのかと思ったが、今度は腫れたところを二度、三度撫でた後、空を向いた。


 朝起きると、彼女はいなかった。僕は区画から這い出そうとして、石にくくられた紐につながれているのに気付いた。石ころを退けて、近くを探すと、彼女は街のどこかから漏れてくる水で顔を洗っているところだった。背のうから、これと同じもの(枝の先端を無数に裂いた歯ブラシ)を持ってくるように身振りで指示されたので、持って行くと、彼女の行動に習いつつ歯を磨いた。

 唾が血まみれになった。

 やけに早い。

 まだ空は暗い。

 星がチラチラしている。

 荷物を背負い、夜露に濡れた革の外套をまとい、僕は彼女の背中を見つつ歩き始めた。どうやら街の中には入る気はなさそうだ。道中、それなりの街や村はいくつかあったが、たいてい入らないで歩いた。

 たまに旅をしていそうな人にも会うかなと思っていたが、そうそう会わない。ムーミン谷のスナフキンみたいな人が、そんなにいるわけはなく、たいていは村の野良仕事の人や商人くらいだった。

 三日目にして、足に豆ができ、四日目にして膝が痛くなった。

 だいたいから何で一人で担いでなきゃならないんだ?二人のもんが入ってるなら、(もちろん家畜扱いのものは入っていないんだが)、せめて二人で交代交代に担いだらいいのに。と、子供に愚痴る。

 もうダメだ。

 僕は歩くのをやめた。

 こんなもんで山越えなんてムリだ。

 彼女は止まった僕を振り向いて溜息をついた。何も言わずにまた紐をクイクイと引っ張る。せっかく登ったのに、また降りるのか。止まったところで何も起きることはない。背負わせることもできないし。

 沢へ降りた。

 この匂い…。

 湯気。

 彼女は僕の外套の裾を上げて臭いを嗅いだ。そして自分の鼻をつまんだ。

 お前も同じだ。

 岩陰を覗くと、温泉があった。まさかこんなところに。明らかに人の手が加えられたところだ。誰かが流れの中、石で囲んでくれていた。途中、ところどころにこんなところがあった。ありがたい。入ろうとしたら、彼女が指差した。

 おまえはあっち。

 家畜用かよ。

 浅いし、ぬるいし、水飲み場のような気もするが、まだないよりはマシだ。

 極楽極楽だ。

 ああ、この際言うが、家畜扱いすら忘れていた。雲一つない空が遠い。

「痛っ」

 彼女の方から頭に四角い固形の脂が投げ込まれてきた。何だ?この獣臭い灰は。

 あ、石鹸か。

 木片が飛んできた。

「何だよ、これ!」

 叫ぶと、彼岩から女が顔を覗かせて腕を擦るような仕草を見せた。

 これで垢をこすれと。

 巾着が飛んできた。

 花の匂いだ。

 香水みたいなもんか。

「いちいち投げてくるな!初めから渡せ」

 さっぱりした後、自分の服を洗わされた。着替えは彼女の分だけ、もちろん家畜のはない。乾くまで岩に干した。彼女は枝に吊るしていた。

 じっと座って待つ。

 口は肉片のようなものを噛んでいる。さすがに真っ裸はつらいので外套をまとっていたが、他に客はいない様子なので楽にできた。

 しばらくして対岸の茂みから三人の女が現れた。こちらには気づいていない様子で、ワイワイと騒いでいた。かしましいとはこのことだが、茂みに覆われた川が華やいだ気がした。白い肌、黒い髪、そこそこの胸、歳は僕と同じくらいだろうか。

 彼女は三人の女が噂話でもしているのだろうか、笑いながら素早く脱いだ。手慣れたものだった。僕は見ていた。そして彼女たちは岩陰に隠れる。僕も疲れのせいか頭が回らず、上半身を伸ばして覗こうとしたようだった。みぞおちに肘が入った。突然のことに呼吸が止まる。

「えん罪だ」

 このスケベ野郎!ということらしい。異世界でも同じ常識もあるもんだ。人を家畜にするくせに。

 僕は半乾きのシャツとジーンズとトランクスを棒に吊るし、肩に担いで歩いていく。革の外套の下はスースーする。

 僕もこんな格好で歩きたくない。

 村を出てから、何日だろうか。僕は持っていた枝に印をつけておいたのだが、数えていると、もう三十日にもなる。三十日も何をしていたのかと思う反面、よく生きてこられたなとも感心した。

 樹の幹で焚き火をすることにした。寝るのは岩の上。彼女は石を擦り、集めてきた枯れ草から火を大きくした。爆ぜる音がする。

 ときどき出会う者はいる。数日前、牧草地の小路で、彼女は荷車を引いている犬のようなものを連れた老人と話していた。道を尋ねている様子だったが、僕には彼女の言葉の意味はわからない。トンボのようなものが飛んでいるのをボケっと眺めていると、外套を叩かれた。この前から紐は引っ張られなくなった。しかし三十日も経てば、秋のような季節も流れ、夜は冷えてきた。いつしか僕は彼女と同じ外套の中で寝るようになっていた。それでも寒いのは、彼女が二枚分を自分に巻きつけるからである。火を前にして、簀巻きにして捨ててやろうかと思うが、一人になるのは御免だ。ウトウトしながら、眠れるまでは地面に字を書いたりして考える。

 真…マコト…

 忠司…タダシ

 美月…ミツキ…おねえちゃん

 突然、どさっと木々が揺れたので眠気が飛んだ。何のことはない簀巻きの彼女が岩から落ちたのだ。

 まったく…

 起きてこない。

「まさか…」

 布のかき分けて彼女の寝顔を見た。褐色が薄れつつある。日焼けなのかもしれない。落ちたくせにスヤスヤ寝ていた。抱きかかえて火の近くに置いた。左の目から右目へ濡れていた。泣いてるのか。

 背ほどの高さの岩を見上げた。

 落ちたしな。

 どこへ行くんだろ。

 てか、帰られるのかな。

 しかしこれだけ言葉も話さないとイライラしてくる。歌でも歌うか。


 ♪おーるうえいずへぶん

 うぇすとばーじにあ

 ぶるーりっじまうんてん

 ふふふん〜


 忘れた。

 知らぬ間に寝ていた。

 寒っ…起きると外套をかぶせられていた。彼女は地面を見ていた。僕の書いた文字に興味があるらしい。

「マコトて読むんだよ」通じないよね。自分の胸を指して「名前さ」

 彼女は僕の首輪と紐を外してくれた。穏やかな目をした。ずっと力のある目をしていたのに、今の今、気持ちが通じたような新鮮な空気を味わえた。しかし彼女は自分の肩掛け鞄から新しい首輪を取り出し、僕にはめた。革ではなく少し冷たい金属で、蛇や蔦の装飾の施されたものだ。わかりあえてはないのね。

「マコト!」だけ聞こえた。

 は?

 チョイチョイと指で招く。何か底意地の悪そうな表情だ。

 拳をぐっと握った。

「ぐるじぃ…」

 首輪が締まる。顔が熱い。血圧が上がるところで緩まった。

 彼女は心なしか胸を反らせた。

 新しい首輪だ。


 

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