第2話 旅立ち

 こんなときでもよく眠れるものだと、僕は妙に感心した。家では眠れないことが多かったが、まったく知らないところで熟睡にも似た朝を迎えたのは不思議で、頭を蹴られて目を覚ました以外は快適だった。

 獣は柵の二段目から憎たらしいほど冷たく見ていた。もちろん起きても言葉はわからないままだ。朝もやに覆われた中、後ろ手に縛っていた縄が解かれた。深い山に囲まれた村だと気づいた。稜線から差し込んでくる光は神々しいくらいだ。眠れずに見るサッシ越しの光とは何が違うのかと考えていると、首に縄を掛けられた。騒がしく暴れなければ殴られることはないことを学んだ。

 膝で立ちの僕は一人の少年が近づいてくるのを見つめていた。丁度今の状態の僕と同じ背の高さだ。

 額の眼がない。

 表情もない。

 声もない。

 サンダル履きだが、少し上等の編み込みを施され、甲から膝下まで革が巻かれていた。

 肌は薄黒く、黒髪は耳の上で短く刈られ、顔立ちは整っていた。黒い瞳は僕を見つめていたが、映しているだけで、他の村人以上に死んでいた。どこかで見た気がした。

 僕と同じだ。

 少年は粗く織られたシャツの上から革のリュックを背負わされて革の外套をまとわされた。僕は棒きれて立つように命じられた。殴られないだけマシだど思い立ち上がると、不意に若者に脇腹を殴られた。若者は少年の拳を握らせて、うずくまった僕に殴るように教えた。たぶん人に言うことを聞かせるにはこうしろと教えているようだ。僕は力任せに頬をぶん殴られた。頭に来る前に情けなさと怖さで体が震えた。再び立たされて何度か若者に殴られ、ようやく解放された後、僕にも人の頭ほどの重さのリュックを担ぐように命じられた。肩から外套を巻くように言われ、わからないので殴られて巻き方を覚えた。少年は無表情で僕を見つめていたが、手には僕に繋がる編み込んだ革紐を持っていた。

 僕は家畜だな。

 老人が僕の肩に手を置いて何やら言いつつ微笑んだ末、手にしていた杖を腹に突き入れてきた。彼は転がる僕に情けなさそうに見た。

 次第に村も白んできて、光が村人の顔を染めた。僕は底意地の悪い笑みと暴力には、朝なのに煙すらない粗末な村がお似合いだと呟いた。

 少年と僕が村の出入口の橋を越えたところで、歓声が起きた。少年の旅立ちを見送る清々しい村だと思っていたが、後で捨てることへの後ろめたさの裏返しだと気づいた。

 しばらく僕たちは昨日僕が連れてこられた道を行き、やがて村が見えなくなるところで、不意に一際大きな樹が現れた。改めて見上げるた樹は荘厳の一言に尽きた。

 僕は少年に殴られるのではないかと心配しながら、帰れるかもしれないと樹に額を押しつけた。

 帰れるかもしれない。

 ぶつけてみた。

 蹴飛ばした。

「帰れないのかよ!」

 と叫んでいた。

 少年は一瞥して、革紐をグイッととした。もう行くぞとの合図だろうが、僕は抵抗した。僕はこんな扱いで言うことは聞かない。

「言葉で話してくれ」

 僕は自分の唇と耳を交互に指差して伝えようとしたが、少年は表情のないまま僕の脇をすり抜けた。

「これけらどこへ行く。僕はおまえの何だ。なぜおまえの額には眼がない」

 どんなにわめいても相手に響いている様子もなく、僕は諦めた。

 最後だ。

 僕が主(認めたくはないが誰がどう見てもそうだ)の額を撫でた。

 そのときだ少年の拳が僕の頬に食い込んだ。僕を睨んだ黒い瞳が見る見るうちに涙に沈んだ。

 あ、この子は女の子だ。

 僕は気づいた。

 悪いことをしたな。

 僕は少女の小さな背を見ながら歩いた。次第に重いリュックのベルトが肩に食い込んだ。

「ごめん」

 何度か繰り返したが、言葉は通じることはない。通じなくてもわかってくれるだろうと思うことにした。

 まだ空気が冷たい。


 やがて森を抜けた。

 僕はいつ拳が飛んでくるか恐れていた。腫れたところは初めこそは麻痺していたが、次第に痛みが増してきたし、倒れそうになるくらい熱を帯びていた。しかしここで倒れるわけにはいかなかった。意地でも何でもなく、僕には見知らぬ土地で捨てられて生きていく自信はない。

 視界一面が草原だった。

 背後の深い森が特別て、ここは基本的には低木の雑木林が点在する草原が広がる地域のようだ。

 青く澄んだ空には薄い雲が目に見える速さで流れ、草原は風のいるところを示すようにざわめいた。

 秋だな。

 秋なのか。

「ここの風は気持ちいい。何だか懐かしい気持ちになる」

 僕は両手を頭上で組むように伸びをした。僕が半泣きでトンネルを引き返した後、美月は手を繋いでくれたんだ。夕暮れの風が蘇る。風はどこにいても風なんだ。僕は自分に言い聞かせた。なぜ僕は今まであのときの風を忘れていたんだろうか。

 すると革紐がグイッとした。

 再び僕は彼女と歩いた。

 もし今が秋だとすれば、いずれ冬が来る。収穫や広葉樹の葉の具合からして秋と言える季節には違いないが、冬になる前に旅をしろ。収穫まで手伝わせてから旅に出された。

 捨てられたのか。

 少女は僕に革紐を引くと、遠くの白い岩を指差した。指から少女は懸命に働いていたことがわかった。

「あそこへ行くのか」

 言葉は通じない。

 少女は革紐で答えた。

 僕は彼女と主従関係など結んでなるものかと反抗した。奴隷でもなければ家畜でもない。せめて少女の言葉でもいいから、伝えてくれと訴えたものの何も変わらなかった。

 早く来い。

 はい。

 草原の中の道は遠くに見える岩から離れ、また近づいて、また離れを繰り返していた。このまま一直線に行けばいいのに。僕は革紐を掴んで抵抗し、直線方向を指差した。

 ようやく意思が通じた。

 顎で命じられた。

 顎か。

 僕は草原に踏み入れた。一歩目で諦めた。沼地だ。一歩目で膝まで沈んだ。これだけ沈めば一人では抜け出せない。少女は革紐を僕の脇に巻きつけて力任せに引き上げた。

 僕は泥塗れで歩いた。

 乾いた泥が落ちる頃、夕暮れが近づいてきた。ようやく一つの塊に見えていた岩が、いくつもの巨石が積まれているとわかった。これらは巨人が積んだのではないか。

 音が聞こえる。

 声がする。

 空に人の熱気が昇る。

 ここは町だ。

 かつては白かっただろう巨石に囲まれていた町だ。出入口から中央に向かって通りがあり、今でこそ崩れてはいるが、格子状の区画がある様子だ。しかしほとんどが野原だ。

「町かなあ」

 僕は彼女を覗き込んだ。彼女は一点を見たまま答えない。そのまま町には入らずに迂回し、草原と道と壁の外れで腰を降ろした。周囲に同じような身なりの連中がいた。同志よとはならない。なぜなら僕のように首輪があるのは、牛や馬のような奴らだけだ。皆四足や六足だ。

 まさかとは思わない。

「獣扱いじゃないか」

 少女は面倒そうに隣へ座るように地面を指差した。彼女は誰もいないくぼんだ場所を探していた。さすがに獣と寝るのは勘弁したい。糞尿の臭いと涎に塗れた地面で屁の音を聞きながら寝るのは一晩でいいと思いつつ覚悟もした。

 しかしこんな状況でも腹は減るんだなと思った。空腹なんていつ以来だろうか。食欲もなく睡眠欲もなかったことが遠い昔に思えた。

 少女は外套を地面に敷いて、僕にも同じようにしろと命じた。殴られる前に真似した。それから斜め掛けの鞄から出した一尺ほどの棒を小指ほどに食いちぎると、短い方を僕に渡してきた。

「そっちはそれ全部で」彼女と肉を交互に見つつ「これだけか」

 と言おうとしたら、彼女も同じだけを口に含み、残りは丁寧に鞄に戻した。少し恥ずかしかった。

 ずっとしがんでも、いつまでもなくならないし、味は初めからついていない。確かにわずかに塩味はついていたが、すぐ消えた。たぶん何かの肉だとは思うが、まるでゴムを噛んでいるようなとはこのことだ。

 僕は彼女のするようにずっとしがみ続けながら、壁際に降ろしたリュックを枕にして、二人で巨石の縁から見える星を眺めた。彼女はかれこれ一時間はしがんでいた。ついに彼女は上半身を起こすと、革製水筒にわずかに口をつけてから、肉片のときのように僕に差し出した。僕も同じように少しだけ飲んだ。肉の味が消えた。もちろんこんなもので腹は満たされない。あれこれ考えた。

 キャンプか。

 新しい家族と初めて行ったキャンプのことを思い出した。たいした出来事もなく済んだはずだ。僕は小学三年生だった気がする。よく覚えていない。緊張していた。義父は気を使ってくれた。すべて僕を初めにしてくれた。肉も焼きそばもおにぎりも飲み物もすべて。寝るときは同じ美月とテントに入れられた。これは忘れられない。一睡もできなかった。

 当時、中二の姉は、

「私も眠れなかったよ」

 と三年後にあっけらかんと笑っていた。他に寝ていたのは誰かいたような気がするが、気のせいか。

「美月さん」

 涙が目尻を流れた。うつらうつらしているうちにも腹の底が焼けるように熱くなる。ここで倒れれば捨てていかれる。口も唇も腫れて食べるどころではないはずなのに気合いでどうにかなるものだなと考えた。

 少女が見つめているような気がしたが、熱のせいで何も考えたくなくなっていた。手の平が頬に触れたときは体が緊張した。また殴られるのかと覚悟したが、腫れたところを何度か撫でられた。どこからかどこまで夢かもわからないが、深紅の星が流れて彼女の額に吸い込まれた。


 まだ暗い朝、少女の姿は消えていた。僕の心臓が跳ねた。捨てられたと冷や汗が流れた。僕は慌てて区画から這い出そうとして、殴られたところが動かなくて転げた。革紐に繋がれていることに気づいて、妙なことかもしれないが安心した。革紐をくくりつけた石ころを退けて軋む体で近くを探した。彼女は顔に壁から漏れてくる水を撫でつけていた。リュックから、これと同じもの(枝の先端を無数に裂いた歯ブラシ)を持ってくるように身振りで言われ、捨てられてはいけないと思いつつ、慌てて彼女を真似て歯を磨いた。

 唾が血塗れだ。

 彼女は僕を覗き込んだ。少しは心配してくれているのか。僕は人に心配はかけまいと生きてきた。心配してくれるのを認めたくない。

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