第2話


 帰路について、理沙は少し震えながら笑っていた。


「ほ、本当にいるとはね~」


 軽くおどけるようにしてそう言っているけれど、私がさっき掴んだ手は、彼女から離れることもないし、私から離すこともない。ずっと握っているから、じわりと手汗が滲んでしまっていて、それが伝わらなければいいな、とそんなことを考えながら、彼女のことを考える。理沙がここまで動揺しているのは、初めてのことかもしれない。


 私は、先ほどのこととは関係ない話を無理矢理にする。昨日見たテレビ番組の内容だったり、ユーチューバーの話だったり、きっと何度も話したような、繰り返しの話題。飽きてしまって、出すこともしない話題を無理矢理に引き出して話をする。きっと、そうした方が彼女は落ち着くかもしれない、とそう思ったから。


 他愛のない会話、それを二人で不自然につむぎあいながら、少しずつ忘れたふり。


 二又に別れた帰り道で、さようならの挨拶をして、結局は一人の帰り道。


 これで、いいと思った。理沙も、明日にはきっと元気になると思う。


 ──そんな時によぎる、第二音楽室から聞こえた声。


 考えなくてもいいけれど、無駄に考えてしまう。長い帰路の中で、あの声が何を言っていたのか、なんとなく。


「──……って」


 どこか、聞き覚えのある言葉。


 ずっと使っていたような、そんな言葉。


 ああ、そうか。


「待って」って、そう言っていたのかな。





 翌日になって、理沙はいつも通りの雰囲気で話しかけてきて、私は心の底から安心した。昨日のことなんか、何もなかったというように。


 第二音楽室での話は、一切しない。彼女からも、私からも。彼女が触れない、というのなら、触れてあげない。それが優しさだと、そう思うから。


 でも、私はずっと、あの声が気になっていて、頭から離れない。


「待って」という声音。どこか聞き覚えのある言葉。


 ……いや、言い覚えのある言葉が。





「待って」という言葉を使っていたのは、いつも私の方だった。


 兄はわんぱくな性格をしていて、それでいてよく両親に反抗して、外に出かけていた。私もそれがうらやましくて、いつも兄の後ろについて回っていたのが幼少期のころ。具体的に何歳だったのかなんて、覚えていない。


 兄は足が速かった。私はそれに比べて遅いから、いつだって置いて行かれる。


「ついてくんなよ」と兄に言葉を吐かれても、それでもついていく。結局追いつくことはできなくて、兄は私を置いていく。知らないふりでもするように。


 そんな時には、いつも「待って」、という言葉を使う。でも、そんな声は、か細く吐いた声は、兄にも、誰かにも届くことはない。無理についてきたから、だんだんと帰るための道もわからなくなって、孤独になる。それがどうしようもない寂しさになって、唯一私にできたのは、大声でなく、というそんな行為。


 その後のことは覚えていない。誰かが私に話しかけた気もするし、誰にも話しかけられなかった気もする。きっと、話しかけられていたとしても、お母さんに知らない人にはついていかない、と口酸っぱく言われていたから、誰かに話しかけられても独りぼっち。


 次第に泣きつかれた後は、適当にふらふらして、見覚えのある公園で、喉が渇いたから蛇口のある場所に行って水を飲んだ。そうして、見覚えがあるままに、そのまま本能に任せて、そうして家に帰ることが出来た気がする。おぼつかない、記憶。


 帰れば、兄は家に帰っていて、兄よりも遅くなって帰ってしまったことを認識して、お父さんに怒られる、お母さんに怒られる、とそんなことしか考えられない。


 私が家の玄関を開ける音を聞いて、想像通りの怒り顔をしている母と、とても気まずそうにしている兄の顔。


 怒り顔の母に、私はこれでもかという怒声を覚悟したけれど、母は私に怒るでもなく、私の顔を見て、その矛先は兄に向いた。


 詳しくは覚えていない。


 思い出したくもない。


 そこから、私の大好きな兄は、私のことを嫌い始めていたように思うから。





「待って」の声に引きずられて、今日は一人で第二音楽室に向かうことにした。昨日のことで少しだけ恐怖があったから、一人で行くにはだいぶと勇気が必要だったけれど、理沙を誘う、ということはできなかった。きっと、誘えばそれでも来てくれると思うけれど、それは彼女の優しさに甘えているだけだから、やらない。


 時間帯は、放課後になってすぐだから、四時前頃。昨日よりも早い時間。


 私は第二音楽室の前に立って、昨日と同じような暗さを廊下から見つめている。まだ日はそんなに落ちていないと思うけれど、遮光カーテンが優秀なようで、やはりその空間に光が残る、ということはなさそうだった。


 昨日は電気がつかなかった。理沙がカチカチとずっとスイッチを押していた音を思い出す。


 よくよく考えればスマートフォンのライト機能で、空間を照らす、ということもできたはずだ。でも、それができなかったのは、状況に慌てていたし、焦っていたし、それが恐怖へと変わったから考えも及ばなかったから、仕方がない。これがゲームのキャラクターなら、行動できなくて、最初に消されてしまう登場人物だな、とあえてくだらないことを考えて、暗闇を見据える。


 スマートフォンの明かりを点灯させて、ゆっくりと、おずおずと侵入する。


 靴音が、嫌に耳に響く。こつん、こつんと、鳴らしたくないのに。鳴らしてしまえば、独りだということに気づいてしまうのに。


 そんな小さな怖さに対抗しながら、明かりで、空間を照らす。


 そんな時。


「うわ、眩し!」


 ──素っ頓狂な声が、第二音楽室に響いた。

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