第3話
◇
予想していなかった声に私はびくりと体を震わせる。その声の方向に、スマートフォンのライトと視線を向けると、そこには……、一言でいえば頽廃的な男が、そこにはいた。
……俗にいう、不良という存在かもしれない。髪の色は、ライトの明かりのせいではなく、確実な金の色をしたもの。真夏に近い温度だというのに、不自然なまでに冬服を来ているその格好、そうして、よくよく見なくとも見えてしまう、首筋に描いてある、刺青のような何か。そんな男か、勉強椅子に適当な座り方をして、そこにいる。
そんな雰囲気に入ってしまったことを違う意味で後悔してしまう。関わると、なんだか、その頽廃的な雰囲気にこちらまで染まってしまいそうな、というよりは吸い取られてしまいそうな、淀んだ何かがそこにはあった。
学校の制服ボタンを少し外して着崩している男は、「そろそろ眩しいから、消してくんない?」と声を発する。昨日聞いた、喉の底から出るような……、というか、声が枯れているというようにも感じる、そんな声音。
しばらく立ち尽くして、呆然としていたけれど、私はようやくその言葉を咀嚼して、ライトを下げる。相手に光が当たらないようにスマートフォンを操作した。
目の前にいる男、どことなく不審にも感じるけれど、それでも幾分かの安心感が心の中で生まれていくのを感じる。きっと、噂の怪談話の正体がわかったからかもしれない。私はスマートフォンの操作を終えて、大きなため息をついた。
いたずらのようなものだったんだ。噂の怪談話では、顔がない幽霊が、ひたすらに声をかけてくる、というものだったけれど、目の前の男の顔はきちんと存在していたわけだし、そして明らかに死んでいる幽霊ではなく、生きている人間だ。……まあ、雰囲気的な意味で怖いといえば、それまでではあるが。
噂の所以を考えてしまう。この後、どう行動すればいいかわからなかったから、思索にふけってしまう。顔が見えない、とそんな噂をされたのはなぜなんだろう。端的に、暗くて顔が見えなかったから?……噂話なら、そんな程度かもしれない。
一応、男はそんな気風ではあるけれど、彼は指定の学校の制服を来ている。そこでどうしても引っかかってしまうのは、やはり真夏みたいな暑さの気候でどうして冬服でここに佇んでいるのか。
……異様だ。その異様さが、どこか心の中でわだかまりとして残っていく。
「よく来たね」
男は、どこか歓迎するような声音だ。顔は見えないけれど、にやけた声だな、となんとなくそう思った。
……いや、まあ、来てしまったは来てしまったけれど、怪談話の正体がわかると、なんか拍子抜けだ。これがその正体なら、事態は解決したということで帰ってしまいたい、という気持ちがだんだんと生まれてくる。
──待って。私はそんな風に、完全には聞こえていなかった言葉をとらえていたけれど、そんな言葉を、こんな男が発したのかも正直疑問だ。もしかしたら、違う言葉だったのかもしれない。……先入観が捨てられなくて、それ以外の言葉は思いつかないけれど。
「こっち来ないの?」
男は私にそう声をかける。ずっと立ち尽くしている私は、その声にハッとして、無意識的に声の方に歩いてしまった。帰ってしまいたいという気持ちがあったはずなのに。
言われるがままに声の方向へ。暗闇が大部分を占めていて、手探りに歩くことしかできない。ときどき、机にぶつかる感触に声をあげそうになるけれど、そこは気持ちで我慢をして、前に進む。
ゆっくりと歩みを進めるほどに、部屋の暗さについても視界は慣れ始めようとしている。そしてなんとなく、誘われた場所までたどりつくことができた。
座りなよ、と促されて、しぶしぶその声に従う。何か変なことをされないか、気になったけれど、もうここまで歩いてしまえば、どうしようもない。私は、視界に馴染んだ暗闇の片隅で、わずかに見えた椅子に座った。
「……いや、まさか本当に来てくれるとはね」
男は、しみじみというように言葉を呟いている。それは独り言なんじゃないか、と思うくらいにぼそっと言葉を吐いていて、いよいよ帰りたい気持ちが大部分を占める。なおさら嫌な想像が働いた。
「それで、なんで来てくれたの?」
「……え?」
私は、そんな声を返すことしかできない。
「だって、昨日来てくれた子……、でしょ? 声的に」
「……ええ。まあ」
答えに窮する。なんで来たのか、なんて問われて、私は彼に対して、なんていう話をすればいいのだろう。
待って、の声に引きずられてここまでやってきた、と話せばいいのだろうか?そんな言葉は私の幻想だったかもしれないのにあ・そして、その待ってに引きずられた理由も、話さなきゃいけないような気がして、なんか嫌だ。
「……なんとなくです。たぶん」
「……なんとなくね、それならしようがない」
男はくすりとにやけた笑い声を上げた。その言葉に付け足すように、「あ、敬語とかいいからね」とそう話す。……そう言われてすぐにため口で話せるような人間はそんなにいないとは思うけれど。
……。
……。
途方もない、沈黙が耳にこだまする。
気まずい。ここまでのことを男が誘ってきたのなら、男が会話を誘導するべき、という苛立ちも少し混じってしまう。本当に帰ってしまおうかという考えが大半を占めて、それでも、帰れない空気感に意識は支配されているから、どうしようもないんだけれど。私は座ったままで、何もできなかった。
「……それで、どうしてこんないたずらを?」
私は、気まずい空気を少しでも断ち切るために、わざとそんな話題を出したが、男は「ん?」と声を上げたっきりで、それから返事は返ってこない。まるで、何のことかわからない、というように。
「噂になってるの、知らないんですか?」
「噂?知らないね」
男はおどけて笑っている。「どんな噂なの?」とその言葉に付け足して返ってきたから、私は顔のない幽霊の話を、理沙から聞いた時のように話す。
「……幽霊? そんなのいるわけないじゃん」
男は、さらににやけた声で笑う。こっちは真剣に話しているのに、すべてが揶揄われているようで、どこか鬱陶しい。
「それじゃあなんでここにいるんですか」
割と怒気を孕ませながら、私はそう言った。
男は、すぐには答えない。数瞬、もしくは数秒ほどの、会話にしては大きな間を持たせてから「……家出?」と答える。なんで疑問形なんだ。
私のそんな態度を雰囲気で感じ取ったのか、「後ろ、見てみなよ」と男は促した。
暗闇に慣れてきた、とはいえ、それでも彼の後ろに何があるのか、という詳細な情報は視界でとらえることはできない。目を細くしたところで何も解決しないから、諦めてポケットからスマートフォンを取り出してライトをつける。電池が少し消耗しているのが気にかかった。
男の後ろには、荷物がある。荷物というか、鞄。鞄というには大きすぎる、旅行用のもの。修学旅行でしか見かけることないくらいに、大きな大きな鞄。
……不審だ。
「……え、じゃあ学校で暮らしているとでも言うんですか?」
「ああ。学校生活してる。風紀的だろ?」
男はいかにもな冗談めかして声を出す。お前のどこが風紀的なんだ、と心の中で突っ込んだ。
「この第二音楽室はさ、もともと電気設備の工事があった関係で、四月の初めからしばらくは使わない予定だったんだ。……でも、こんなご時世だろ? マスクだなんだ、感染症がなんだって。結局、工事も延期になってしまって、今じゃ誰もここに寄り付くことはない。生徒も、教師も。だから、都合がいいんだよ」
……第二音楽室のその情報は、去年担任だった教師に、進級する前に聞いたことがある気がする。どうでもいい話だったから、そんなに頭に入れていなかったけれど。
まあ、納得できる材料ではある。だからといって、学校という選択肢を家出に含むのはどうかと思うけれど。
でも、こんな外見ならば、家出をするのは、想像に難くない、というのが正直な感想だ。普通の家出、というのならば、きっと友人の家を渡り歩くとか、夜遊び(わからないけれど)とか、そんな風に家を躱して過ごしそうなものだけれど。
ふう、と私は大きくため息をついた。なんというか、話す気力がだんだんと削がれていく気がする。大半を占めていた帰巣本能といっていい気持ちに身体を動かして、その場を立ち上がる。椅子はぎぃっと摩擦で音を立てた。
「……もう、帰るのか?」
男は、そう呟いた。また独り言みたいな声で。
男の、もう、という言葉にどれだけの意味があるのだろう。私は気まずさによってだいぶと時間を引き伸ばされていたような感覚だったけれど、彼は違うのだろうか。
「帰ります、幽霊の正体もわかったことだしし」
「……そうか。それはなにより」
私は慣れてしまった暗闇を前に進む。さっきとは違って、机の存在を無視しながら、扉の方へと一直線へ。
扉の直前まで来て。
「また来なよ、俺は退屈してるんだ」
男はそう話す。
「……来れたら、来るかもしれないですね」
私は、ギャップのある明暗に目を眩ませながら、第二音楽室を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます