殺伐的ポニーテール

殺伐的ポニーテール

 朝が憂鬱になるのはいつものこと。朝に憂鬱になってしまうのは、朝の支度がとりわけ面倒に思ってしまうから。朝の支度が面倒に思ってしまうのは、これから起こるいつも通りの日常がどうしようもないほどに飽和しているからで、それを改善しようともしない自分に飽き飽きしているから、どうしようもない。


 目覚まし時計はいつも通りに起動しようとする。だけれど、その前から意識的に目覚めていた私は、鬱陶しい気持ちのままにその行動を抑制する。最近は寝つきが悪くて、そのくせ寝覚めがいい。これは別にいいことでもなくて、単純に寝ることにつかれているからだと思う。だから、私はこんな朝が嫌いだ。


 どれだけ面倒に思っていても、その朝を迎えて日常を送ることに対して、私は否定することができない。いつか日常を止めてしまえればいいと思うけれど、そんな勇気を生むくらいなら、その労力を日常に生かすだけ。

 それなら、やっぱり続けるしかない。こんな不貞腐れているような日常を。

 

 ┈┈┈┈┈

 

 髪の毛を束ねるのが面倒くさい。いっそのことなら、短髪に整えて活動すればいいのかもしれないけれど、私にも見た目を気にする要素はある。どれだけ自分がそうしたくても、そうできない理由はいつも、いくつでも見つかる。いつものようにポニーテール。そうして朝の支度をするのだ。


 鏡に映る自分を見る。いつも通りの私。少しばかり瞼の重みを感じているだらけた顔が見える。このままでは外には出れないかもしれない。世界の人間が、私が素顔のままで出てもどうでもいいかもしれないが、私という人物を知っている人間にはどうしても体裁というものがある。だから、言い訳をどれだけ思いついても行動しなければいけない。


 せめて、もう少し意識をはっきりと目覚めさせたい。


 排水溝に栓をして蛇口を捻る。少し角度をつけて捻ったようで、勢いよく出る水に少しぎょっとする。どちらかといえば、それによって撥ねた水の冷たさが身体に触れたからかもしれない。どうでもよかった。


 少し勢いを弱めて水を溜める。先ほど確かめた冷水の温度に覚悟をして、私は目の前のにある水面に顔を沈めた。



  

 朝の支度は終わった。メインは身支度ばかりだったけれど、サブである荷物についても忘れていない。学校用の革の鞄と部活動で使う道具が入っているスポーツバッグ。大した道具は入っていないけれど、学校用の鞄には入るものではないから、こうして二つの鞄を持つ必要がある。重くはないけど、やはり面倒だ。


 幸い、学校は近所といえる範囲にある。私は、心にくすぶる憂鬱を噛み切って、玄関を開いた。


 梅雨も終わり、いよいよ夏という季節が顔をのぞかせてくる。……そもそも、季節の変わり目のルールを無視して、春にも出張ってきていたような気がするが、いよいよそれも本番だと思うと、なんとなく気持ちが悪い。溜息が一つこぼれる。毎朝こんな感じ。本当に、いつも通りの繰り返し。




 仮面、というものがある。もしくはペルソナ、という言葉で言い換えた方がいいかもしれない。もしくはドラマともいえるかもしれない。生きる上で人間関係を営む私たちは、それぞれがもつキャラクターを演技する。それが仮面、もしくはペルソナとも言えて、ドラマなのだ。詳しい定義についてはよく知らない。調べる気にはならなかった。




 学校について、適当に靴を履き替える。登校中には誰とも遭遇することはない。いつものこと。でも、気を緩めていいのは、きっとここまで。ここから始まるのだ、私の『演技』が。


 ┈┈┈┈┈

  

「おっはよー」


 能天気な声をあげるのは、自分自身で信じられないけれど私である。


 教室の開いている引き戸から流れる冷房の冷たさが、少し体には寒く感じる。そんな物理的な寒気を覚えながら認識するのは、周囲の目。友好的な関係を結べている者からは安堵を感じる視線、そうでない者に関しては、特に興味もないような視線。一瞬、私と視線が重なると、軽く頭を下げて、またそっぽを向く。そんなものだろう。


 安堵の目を送ってくれた知人からは、おはよー、と間延びした声が聞こえてくる。私は返事が当たり前に帰ってくることを確認すると、とりあえずと、特に重くもないが手がふさがっていた原因である荷物を自席に移動して置く。重さはないけれど、手が不自由なのはストレスだったから、どこか軽くなる感覚。ふぅ、とひとつ息を吐くと、いつものように知人のそばに歩み寄っていく。そう、いつものように。


 歩みながら教室の出入口を視界に入れる。だんだんと登校してきた人間が入ってきて、私のように挨拶を絡めて入場するものがいたり、もしくは孤独を表す人間もいたり、様々だ。そして、その様々にいる人間も、私と同じように、みんなと同じように、すべてが同じように、いつも通りを演出するのだ。


 私は、それが嫌いだった。


 ┈┈┈┈┈



 私の内にあるもの、本性というそれを他人に表したことはない。小学校、中学校と至るまで、こんな風に人の顔を見ながら空気を作ることを意識していたから、今さら本性をさらけ出すことはしない。


 ……というか、できないのだ。


 内なる自分は存在するけれど、外なる自分は自分で存在する。これまでこの生活を営んできていたのは、主たるものは外なる自分であり、まるで自分の意志が分裂しているように行動することがある。だから、私がどれだけそうしたい、そうしたくないという意思を持っていても、外なる自分は私の意志にあまり影響を受けることなく、なすがままを送ることができる。……本当に嫌なことなら、流石に表現するように頑張るけれど。


 どちらにしても、どちらも私自身。どこか偽物じみているけれど、どちらも真。


 私は、そんな私が嫌いなんだ。


 ┈┈┈┈┈ 

 

「最近、無理してない?」


 知人はそんなことを言う。


 このクラスの中では私と友好的に話してくれる人間はそこそこにいるけれど、その中でも好感度が高そうなのは彼女である。


「ん? なんの話?」


 外の自分は特に何か思い当たることがないというように話す。内なる自分も、それについて何か答えるということはない。


 人なんて、信用できるに値はしない。きっと、他の人間だって、外なる自分と内なる自分を飼いならして、こうして全員ドラマを演じているに決まっている。だから、どれだけ友好的に接していたとしても、それが真となることはないのだ。


「……そう」


 彼女は、少しずれていたのかメガネの角度を指で調整する。その際に、彼女の目元が視界に映って気になるのは、隈があること。


 疲れているのは、そっちじゃないか。でも、私はそれにさえ触れてやらない。外なる自分は一応無邪気な鈍感という設定でやっているのだ。気づくことがあってはいけない、と思う。


 彼女は、諦めたような顔で笑って、「それなら、いいんだけどね」と一言呟いて、前にある黒板へと向き直る。いよいよ授業が始まる。

 

 ┈┈┈┈┈

 

 疲れているといえば、疲れているのかもしれない。自分自身が、内なるものとは違うものを演じていること、毎日が同じことの繰り返しで吐きそうになってしまうこと、一方的にとある人間に対して生理的嫌悪感がどうしようもなくぬぐえない時があってしまうこと。それらは、確かに私のストレスであり、どこかそれが疲れにつながっていると言われれば、私は納得することができるかもしれない。でも、他人に悟られることはどうしても許せないから、誰にも話してやらない。誰にも話してやらない。誰にも話してやらないんだから。


 ┈┈┈┈┈


 授業の日程すべてが終わり、いよいよショートホームルームからの下校、放課後になろうとしている。部活動に参加していないものは、各々で学校を過ごしたり、そのままに帰宅したり、様々だ。


 私は、朝に支度した通りに部活動に参加しなければならない。どれだけ面倒に思っても、入ってしまったのなら、それまでだ。身体を動かすことに対しては、活動後の疲労が身体にしみるのが面倒ではあるけれど、結果が嫌なだけで過程は嫌いではない。その時に内なる自分の思考が働くことは、そうもないから。


「それじゃ、またあとでね」


 鞄を持った知人は私にそう言う。彼女は別に部活に入っていないはずだったけれど、頭の中で思考を巡らせれば、そういえば彼女は図書当番として、今日は放課後も学校にいるんだな、とそう考えた。


「うん、後でね」


 私は、朝のように荷物二つを抱える。たまにこういう約束をして帰ることは珍しいことでもない。彼女は私に手を振って、うだる湿気が漂う外の空間へと出ていった。


 教室の冷房に慣れ切ったあとだから、外に出るのは気持ち的にはものすごくしんどいと思う。誰であっても。でも、行かなければいけないから行くだけなんだ、私たちは。


 ┈┈┈┈┈


 体育館では気休め程度に冷風扇が稼働している。本当に気休め程度で、遠くで活動していれば、冷風扇が湿気を運ぶような気持がして、全然涼しくは感じない。冷房は苦手ではあるけれど、流石に運動する上ではもうちょっと環境を改善した方がいいとも思う。……表出できないから、改善の案さえここには生まれないけれど。


 体育館は半分にネットを仕切っていて、更にステージ側の空間を、視覚的にではないが半分に区切っている。そこは卓球部とバドミントンが共有していて、卓球部に関してはまだしも、バドミントン部は、他人である私から見ても、少しばかり狭いような気がした。あれで練習になるのだろうか。


 私は、それに比べてはだいぶと大きく確保されているバレー部の場所で、活動をする。体育館で活動する部活としては、ほかにもバスケットボール部がいるけれど、毎日コートを交代しており、今日のバスケ部は外で活動している、と思われる。現場は見ていないから知らない。それでも、外で活動するだけで消費するエネルギー量は半端なものではないと思うが、これに関しては交互にやっていることだし、暑さに関してはどっちもどっちだ。明日はバレー部が外に出るのだから、気にする必要はないかもしれない。


 バレー部の監督はまだ来ていない。というか来なくていいと思う。この時点で、ふざけるような空気もなくバレー部の練習は始まっている。統率する必要もないほどと言えるだろう。割とこの部活に参加する人間はそれなりの熱量で参加しているから、それだけのクオリティがきちんと発揮される。だから、監督の存在なんて必要ない。


 体育館の中で広がる声の輪。ファイトー、と余韻がある大きな声に私も乗っかりながら参加をする。やらないと文句を言われるだろうから。


 私の声が空間に響いて、余韻が消え去りそうなくらいの時。


「お、やってるな」


 男の声が、聞こえてくるのだ。


 ┈┈┈┈┈


 吐き気がする。吐き気がする。吐き気がする。どうしようもないほどに嗚咽を重ねたくなる衝動がそこにはある。彼の声を聞いただけでこんなになってしまうのに、私は彼を視界に入れてしまったら、どうなってしまうのだろうか。


 気持ちが悪い、気持ちが悪い、考えないようにしなきゃいけない。外なる自分が何とかしてくれればいいと思う。けれども、どちらの自分も彼に対しての生理的嫌悪感は拭えなかった。


「集合ー!」


 監督が来たことを部長が認知すると、手をあげて監督前に集合することを呼びかける。彼女の顔を覗けば、あまり愉快そうな顔ではないのが正直わかる。それが彼に悟られているかどうかはわからないけれど、おそらく部員全員が同じ気持ちを共有しているのではないだろうか。


 薄くなっている髪、清潔感のない全体的ななにか、中肉中背。ほかにもいろんな言葉で彼を表現することはできるだろうけれど、二文字でまとめてしまえば、『無理』に集約する。


 にやにやとした面をぶらさげながら、蓋の開いている中途半端に入った牛乳瓶を飲んでいる。生臭さがうつる気がする。気持ちが悪い、気持ちが悪い、気持ちが悪い。視線が嫌に気持ちが悪い。自意識過剰であってほしいほどに、彼のすべてが気持ち悪く感じてしまう。その牛乳瓶で殴打したくなるほどの衝動的な気持ち悪さ。


(なんで女バレの監督がこんな男なんだろう。気持ちが悪い。別に男だから嫌だという話じゃない。それにしたって、なんでこんな男が。こんな人間が)


 一瞬の思考で駆け巡る彼への嫌悪感のすべて。それはずっと頭の中で反芻し続けて、口を押えたくなる。それでも、こらえて、こらえて、前を向いた。


 ┈┈┈┈┈


「おい、腰を落とせつってんだろうが。頭ついてんのか?」


 怒声として耳元に響く、嫌悪感のすべて。


「……ごめんなさい」


 言われれば、そういう風に返すしかない。しばりつけるような彼の指示に反抗するものなどいない。あれでも、一応、顧問として大会に参加した記録は複数あるらしい。暴力的言動としか感じられない指導も、部活外に存在する周囲の声は、スパルタではあれども実績を生むから、特にお咎めはなし。質が悪い話だ。頑張っているのは、私たち当人だけの話だというのに。


 ──気持ちが悪い。


 気持ちが悪い。気持ちが悪い。本当に、吐きそうになってくる気持ちがある。けれど、指導されている最中に逃げてしまえば、より、生理的嫌悪感が強くなるすべてのものが倍加して返ってくる。それも嫌だ。


 ……思考を捨てなければいけない。今は、何も考えずに、考えずに。


 ┈┈┈┈┈


「休憩!」と監督から号令がかかって、いち早く私は駆けていく。今このタイミングでしか、吐くことはできないかもしれない。


 みんなに見られてはいけない。体育館にいる人間には特に。私はそういったキャラクターなのだから、そのキャラクターにしたがって演技を繰り返さなければいけない。だめなのだ、演技をするという社会のルールから外れてしまうことは。


 体育館から学校に入って、すぐさま女子トイレに逃げて、ことを済ませる。涙が出た。これはこのバレー部に対してのものなのか、吐き気から来るものなのかはわからない。とめどなくあふれ続けたから。




 ──その後も練習は続き、最終下校時刻のチャイムがなり響く手前ごろで片付けが始まる。半分に仕切られていた体育館のネットはいつの間にかにまとまっていて、バドミントン部が気の毒そうな顔でこちらの部活動を見ているような気がする。自意識過剰であればいいと思った。


 監督から練習での注意点、連絡事項を話す。明日は体育館の横で壁当て練習やら、ランニングやら。注意点は筋が通っているような気がするから、気持ち悪さを抱いていても従わなければいけない。


 どれだけ彼を肯定的にとらえようとしても、この気持ち悪さはどうしようもないのだけれど。


 監督が話し終えたタイミングで綺麗にチャイムが幕を下ろす。その日のすべてが終えたことに安堵して、一瞬、目の前にある嫌悪感を無視することができた。解散となり、それぞれが帰路に就く。


 私は、知人と約束していたことを振り返りながら、知人がいつも待っている場所へと歩き出す。そして、やはり、彼女はいつも通りにそこにいた。


 ┈┈┈┈┈


「大丈夫?」


 彼女は一緒に歩きだして、開口一番にそんなことを言う。


「え? 何が?」


 私はそれはそれとして、すっとぼけるように返す。さも、意識していないような雰囲気で。


 ふふ、気にしすぎだよ、と外なる自分が演出する。これが正解なんだと思った。


「……そうかな」


 彼女はそれでもこちらをうかがうような声音で言葉を続ける。流石にしつこいと思う。日中も聞いてきて、こんな時間にまで。あまり思い出したくない気持ちがあるのだから、触れてほしくない気持ちの方が大半だ。でも、それを態度として出すわけにもいかない。


「なんのことかわかんないけど、そうなんじゃない?」


 これでいい。外なる私は何も考えないし、何もわからないんだ。だから、言動に不一致はないはずだ。


 だから……。


「……私、見たんだよ」


 息が、詰まる。


「──……なにを」


「泣いているところ」

 

 ┈┈┈┈┈

 

 誰だって、そうなんだ。


 すべての人がそうなのかはわからないけれど、いつだって仮面をかぶって、もしくはペルソナがあって、それぞれで演技をしている。そんな演技をする必要性とは、きっと自分自身の弱さを隠すために違いないと思う。私がそうであるというだけで、ほかの人がそうなのかはわからないけれど、私が少数ということもないとは思う。


 子どもの頃から、ずっと演出していたから、なんとなくわかること。


 他人から見ても厳しいと思える環境に暮らしていて、いつの間にかに他人の顔をうかがいながら行動する習慣がついた。それはおそらく、習慣という言葉で表すべきではないもので、悪癖と言えるのかもしれない。


 他人の顔を見てからではないと行動できない、他人の顔を見てからではないとなにもできない、他人の顔を見てからではないと……。きりがない話だ。


 いつからか、他人の顔をうかがうことをデフォルトに生活を行っていて、他人が望むような行動を演技するようになってしまっていた。


 内なる自分、外なる自分。


 どれが本当の自分なのか混同してしまうほどに、世界に対して私は乖離し続けている。


 だから、もう、手遅れなのだ。


 どれだけ手を尽くしたとしても、このまま私は自分を見失い続けながら、生きるしかないのだ。


 ┈┈┈┈┈


「図書委員の仕事でね、職員室に用事があったときに、トイレに逃げるみたいに入っていったの、見たんだよ」


 彼女は言葉を続ける。


「なんか様子がおかしいって思って。……結構前からそんな感じに見えていたけれど、今日は特にひどいなって思って、覗いたら、ね」


 彼女は言葉を続けた。彼女は言葉を続けた。彼女は──。


 頭に入ってこない。音が頭をすり抜ける。なにも理解しようとしない。外なる自分は働かない。どこか頬が引き攣っている感覚がする。


「──……」


 何かしゃべらなきゃいけない。でも、外なる自分はどうしようもないほどに行動できていない。世界を放棄している。


 見られた、見られたとばかり考えている。なにか言い訳ができればそれでいいのに、そんなこともできやしない。


「──……」


 何かを話せ、言葉を吐け、何かしらで間を作れば、きっと何とかなるかもしれない。


 彼女のほうを見れば、口は閉じている。何の言葉を話していたかはわからないけれど、何か反応しなければ、よくないことになる。


 話せ、言葉を吐け。言葉を吐け。言葉を吐いてしまえ。


「──うるさいよ」


 内なる自分が、本当の自分が、きっとそこにはいる。


 ┈┈┈┈┈


「え」という言葉が彼女から漏れる。


 違う、こんな言葉を吐きたいわけではないけれど、外なる自分が消失している今、内なる自分が身体を支配してしまっている。


 彼女の動揺した声が、どうしようもないほどに耳元に響いている気がする。でも、衝動的に出てしまった言葉は、今さら取り繕ったところで意味もない。


「だ、大丈夫?」


 彼女はごまかすように笑ってそういう。彼女の優しさだろうと思う。たとえそれが偽物であったとしても、真似事だったとしても、本物に近い優しさだと思う。


 ここまでなら、きっと聞かないふりをして、また明日からの日常を送ってくれるかもしれない。外なる自分がまた明日からは演出して、いつも通りに。


 吐き気がするほどの、いつも通りに。

 

「大丈夫、じゃないよ」


 内なる自分がずっと身体を支配する。


 あんなに、いつも通りであることを嫌いで、吐き気を催すほどにすべてが嫌いなのに。そして、私は私じゃないことを演出することが嫌いなのに。


 そんな生活に戻りたいのか?戻ってどうするのか? 戻れば、きっと社会に生きる人間にまたなりきれるだろうけれど、だからなんだというのだろう?


「いつまでこんなことを続ければいい?いつまで私は私ではないものを演出すればいいの?


私はこんなんじゃない、と考えていても、どれが私なのかはわからないから、きっとそれも私なんだと考えて頭がおかしくなりそう!」


 言葉は、止まらない。


「気持ちが悪いの。すべてに対して。自分が自分じゃないみたいで、それをいつも続けることがどうしようもなく気持ちが悪い。自分のやりたいこと、やりたくないことを選びようがないのが気持ちが悪い! どうしようもないほどに、すべてが気持ちが悪い!」


 止まらない。


「大丈夫なんかじゃない! 女バレになんであんな気持ちが悪い男がいるの?実績があるからって、行動のすべてが許されていいの? たまに身体を密着させるとか論外に気持ちが悪い! 女子に対する視線がいつだって気持ちが悪い! いつも牛乳瓶を持ってきて、どことなく生臭さが鼻に響いて気持ちが悪い! 今日だってその牛乳瓶で頭をたたき割ってやりたい!」


 止まるはずもない。


 これまでせき止めていたすべてが、あふれ出る。


「私はどれだけ人の顔色を窺えばいい?どれだけ他人が望む自分であればいいの?お父さんにぶたれないために、私はどれだけの自分に嘘をつけばいいの?お母さんのヒステリックに、私はどれだけ都合のいい人間を演出すればいいの?気持ちが悪い……、気持ちが悪いんだよ……」


 また、涙がとめどなく雫として落ちていく。


「私は、ほんとうにわたしなのかな」


 ┈┈┈┈┈


「……やっと、本音が出てくれたんだね」


 ……。


「ここで、私が『わかる』なんて言葉を使えば、貴女のすべてが軽薄になるから、そんなことは言わないであげる」


 ……彼女は、私の肩をさすりながら、言葉を続けている。


「平気なふり、って、みんな得意なんだよ」


 平気なふり。そうなのかもしれない。


「みんなが得意なことだから、なんだかんだみんなわかっちゃうんだよ。貴女が平気なふりをして、その裏で無理をしているのだって、なんとなくでわかるものなんだ」


 そうか、だからわかっていたんだ。


「私が私なのか、って聞いたよね。だから、ちゃんと答えるね」


 彼女は、ふぅ、と息を吐く。


「きっと、どれも自分じゃないんだと思う。本当の自分なんて存在しないんだよ」


 ……。


「どこにも自分なんてものは存在しないんだよ。みんながみんな、平気なふりをしている世界で、きっと本当の自分なんて見つけることができる人なんて、いないんだよ。存在しないんだもの」 


 ……。


「それなら、そんなことをするくらいなら、演技なんかそこそこにして、素直になれば、少しは楽になるんじゃないかな」


 


 ◇◇◇◇◇


 私が話し終えると、彼女の最後の涙の一滴は、静かに零れ落ちた。


 言葉を選びすぎたかもしれない。でも、ありきたりな言葉ではきっと納得できないと思った。


『自分とは、どんな側面であっても、その側面さえ自分自身』、本当はそんなものなのだろうけれど、それは彼女にとってはありきたりだ。きっと、これまでも彼女がたどり着いた思考の一つだろう。納得できるはずもない。


 限りなく正解ではなく、正解に近いもの。答えが存在しないものには、存在しないもので答えれば、きっと彼女は少しは救われる。


 これ以上の言葉はこれ以上は必要がない。だから、私は彼女の言葉を待った。


 そして。


「ばーか」


 そんな悪戯みたいな声で、彼女は呟いた。


 ┈┈┈┈┈


 あれから私はバレー部を辞めた。監督に会うのは気持ちが悪かったから、部長に言伝でなんとかしてもらって、退部届を学級の担任に提出してやった。部長は何か言いたげだったけれど、私は、一言感謝だけを伝えて、それ以降関わることをやめた。


 朝の支度は面倒だったから、一部手間が省けるようにある程度の髪を短くしてやった。手入れこそはかかさないが、短くするだけでもこれまでの手間はある程度消失される。洗顔するときに、長い髪に水が跳ねることはない、それだけでもだいぶ楽になった気がする。


「そっちの髪の方が正直バレー部っぽいけどね」


「うるさい」


 私が退部した翌日に髪を切った姿を見せると、彼女は笑いながらそういった。


 ──あれから、私たちの関係は変わったようで、変わっていない。


 意味のない問答だったね、と後から彼女は話したけれど、そんなことはないと内なる自分が告げているから、外なる自分も告げている。


 きっと、内なる自分も外なる自分も存在しない。彼女の言葉で、なんとなく納得することができる。


「ま、そっちの不貞腐れているほうが可愛げあって、私はいいと思うけどね」


「……クラスの人は、あんまりよく思ってないような気がするけど」


「いいんじゃない? ぶっちゃけ無邪気演出の方がぶりっこみたいで、ちょっときつかったし。いや、私はいいんだけどね?」


「ぶっちゃけすぎでしょ……」


 部活もなく、彼女の図書当番も今日はなく、ただ二人で過ごす放課後。家に帰れば、何も解決していない問題は山積みだけれど、学校にいる間だけは、少しは安心感が生まれた気がする。


 軽い雑談はしばらくそのまま続いて、ある程度したところで二又路。夏の日差しがいよいよ沈もうとして、道に私たちの影が伸びていく。


「それじゃ、また明日ね」


「うん、また」


 私がそう返すと、友人はそのまま手を振って別れを告げて道を行く。私はその姿を、そのまま立ち尽くして眺めている。


 何も問題は解決していないような気がしたけれど、それでも心に張り付く嫌悪感と気持ち悪さは薄くなってきている。


「これでいい」


 私は思ったことをそのまま誰にもいない空間に呟いて、そんな行動のおかしさに笑う。

 

 きっと、これからは、これがいつも通りの日常になるんだ。

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殺伐的ポニーテール @Hisagi1037

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