さようならしかない私たちは

さようならしかない私たちは




 夏に輝ける、という人はすごくきれいな人間なんだと思う。なんというか爽やかさが身にまとっている雰囲気があって、どこかきらきらとした輝きが広がっているような気がするから、そんなことを思った。


 如何せん、私はといえばそこまで夏に輝く、ということはできていない。そもそも、年を経るごとに温暖化のせいかなんなのか、だんだんと気温の熱が帯びてくる現代において、その夏を好きになるということもできないし、好きになろうということもない。結局、部屋でだらだらとMMORPGをやるだけの、なんとも堕落した生活しかおくれていないのが私の人生なのだ。


 その人生をきらきらと輝いている、というふうにいう人間がいたら、絶対に皮肉だと思ってしまう。


 世の中には一定の層に「楽しんでいれば勝ち」みたいなことを思うような人種がいるような気がする。よく友人(インターネットの)にはそんなことを言われるのだけれど、こういうのは、きっと自覚している不満点があるならば、その時点ですべてマイナスになるんじゃないか、って考えてしまう。それを踏まえたうえで真に楽しむことができていない、というのが正しいのかもしれない。


 つまり、きっと私が「楽しんでいれば勝ち」という言葉に皮肉を覚えてしまうのは、どこか自分の人生に不満点があるという自覚をしてしまうからに違いない。私は今のところ自覚はしていないし、これからも目をそらし続ける予定だけれども、それはそれとして、これからも私は灰色のままに生き続けようと思う。


 ──そんな時だった。


 堕落した空間に飛び込んでくる着信音。あまり鳴動することがないスマートフォンが動き出したことで、すこし心臓がびくんとする。


 ソーシャルゲーム以外で使ったためしがないスマホの画面を恐る恐る覗く。どうやら、着信がきたらしい。表示は電話番号のみで、誰からの着信音かはわからないから、出るに出られない。それでも、しばらく鳴動する音はやまないので、渋々ではあるものの、受話のボタンをタップした。


「……もしもし」


 ここ最近になって、あまり声を出す機会が減ったから、すごく掠れた声が出てしまう。


『…あれ、もしもし』


「はい」


 どこかで聞き覚えのある声。明るい雰囲気をまとっている好青年、というような声。思い当たる節はあるけれど、詳細にだれかということは思い出せない。


『…んー。あれ、間違えたかな』


「……」


 様子を見て黙ってしまう。実際は、話す言葉が見つからないというだけなのだけれど。


『えっと、榊さんの携帯ですかね?』


「…はい」


『あ、もしかしてお母様ですか』


「え」


 ……、私は今誰だと思われているのだろう。


『えと、すいません。美優さんって近くにいたりしますか?』


「……」


 ……、うむ。これは、そう、だな。言ったほうがいいのかもしれない。


「……私、ですけど」


『…へ?』


「…だから、私が美優ですけど」


『……嘘ですよね?』


 まるで嘘であってほしいかのように懇願する彼の声。そんな声色に少し腹が立って、


「そんな嘘をつく必要があるかー!」


 とかすれた声で荒く返事をしてしまった。


 


◇ 


 腐れ縁、というものを語らなければいけない。別に一緒にいたくていたわけでもないけれど、いつだって、なぜかどうしてそうなるのか、彼はいつも私と同じ空間にいた。


 本当に信じられない話で信じたくもない話はあるが、幼稚園、小学校、中学校、高校と、すべてが彼と同じクラスで、委員会やクラブ、部活動までもが彼と同じだった。数奇というものでは片付けられないほどに。


 そして家は隣同士。いまだに彼の家族とは関係が続いてはいるが、彼自身は地元の国立大学に進学後、上京をして、その勢いで就職している、と彼の母親から伝え聞いている。


 一方、私はというと、地元の大学に進学しようとするも不合格に落ち着き浪人。その一年後、入学を果たしたものの、人間関係がうまくいかずに中退。今は、家で無為な時間を過ごすばかり。時折、母から幼馴染との比較をされることがすごく心にくる。私でも彼との比較をしてしまうのだから、他者が比較をしない訳もないとは思う。それとは別にフラストレーションは確実に蓄積されるのだけれど。


『えーと、ごめんよ。本当にわからなかったから』


「ん、いいよ別に。私も自覚はしているから」


 彼が聞いた私の声は、どこかの老婆そのものだったらしく、その後、私が私であるということを説明しても、なかなか理解(というよりも納得)する様子を見せてはくれなかった。


 結局、彼と私しか知らない思い出の話をしたことをきっかけとして、彼自身も半ば折れた形で納得をしてくれて(折れるもなにも、私は私なのだが、という憤りを私に与えて)、そうして話は進んだ。


「それで? 用もなく電話でもかけてこないでしょ」


『あ、そうそう。そうなんすよ姉御』


「姉御言うな。それで?」


 彼はへへっ、とにやけた笑い声を響かせた後、話を続ける。


『美優って明日なんか予定ある?』


「……予定?」


 予定は、あるような気がする。というかあってほしい。


 彼がこういうときは、決まって私を外に連れ出すような用件だ。だから、予定はあったほうが都合がいい。私にとっては。


 適当にPCにあるブラウザーでブックマークに登録しているサイトを見てみる。


「明日、ゲリラでイベントあるみたいだから厳しいかも」


『げりら……?』


「うん」


 彼はゲリラという言葉に思い当たる節がないのか、『ちょっと調べてみる』といって、コツコツを、電話から音が聞こえてくる。携帯でタップでもして調べているのだろう。


『……戦争でもすんの?』


「君はどんな情報を見たのよ……」


 なんか、言い訳するのが面倒になってきた。


「嘘、嘘だよ。予定はこれまでもこれからも存在しないよ」


 皮肉めいて私はそういう。けど、彼はそんなことも厭う様子もなく、『それならよかった』とだけ呟いて笑う。


 私は、彼のこういうところが嫌いだった。


『それじゃ明日、美優の家に行くよ』


「……はいさ」


 彼のこういった勢いのよさも含めて。陽気な雰囲気を感じるから、そうして私を気遣うような優しさが嫌いだった。


「そういえば、仕事とかはないの?」


『……あ、お盆で休みなんすよ』


「なるほどね」


 世間話もそこそこにして、もろもろ時間とかを打ち合わせて会話を終わる。通話時間を見てみれば十数分ほど時間がたっている。とても久しぶりに会話というものをしたような気がした。


 久しぶりに会話した、ということは、私が社会に生きていないことを示しているような気がする。まさしくその通りではあるのだけれど。


 一応、彼と会う体面というのもある。明日までの猶予だから、女性として、それなりの身なりをしようと思った。 


 一階に下りると、当たり前のように母がいた。物珍しそうな顔で、なんでいるのかと聞きたそうな顔をしていたけど、私はそれを無視して洗面台に向かう。


 母との関係性は、今はあまりよくない。昔は相応に相談できるほどの中だったけれど、大学の中退を勝手に行ってしまったところから、関係がねじれにねじれて会話ができなくなってしまった。


 たまに、一階から聞こえてくる父との喧嘩の声。父からは私の存在を擁護する声が聞こえてくるけれど、母はそんな意見を反対するようにして会話をする。だから、私は今あの人が苦手だ。


 こうして一階に下りてきたことを、社会に対して前向きになったと捉えられたくはない。何かひとつ行動をすれば、私が前向きになったと勘違いされるから見つかりたくはなかったけれど、一つ屋根の下では難しい話だ。


 洗面台の鏡は少しほこりかぶっている。誰も使っていないことが容易に理解できた。どこかそのほこりがうっとうしくて、洗面台近くにあるタオルで拭き取ったけれど、今度は曇るだけに終わったから失敗したような気がする。


 鏡は見たくはないけれど、見ないわけにもいかない。きっと彼は、私が働かずにただのうのうと堕落していることを彼の母伝いに聞いてはいるだろうけれど、それはそれとして見栄というものが私にもあった。


 化粧というものに自信はないけれど、それなりの準備をしなければいけない。外に出る可能性が高いというのならなおさら。


 顔を洗って、その勢いで風呂に入った。体がかゆいから、より強く洗うと少し赤みがかかる。痛さがつらなっていやになるけれど、それでも私は明日のために準備をした。




◇ 


 昼夜逆転した生活を送っている私は、結局その日は起き続けることしかできなかった。寝てしまえば、夕方まで眠りこけてしまうかもしれないから、昔の私っぽい身なりになるように整えながら(どうしても難しい部分はあったものの)、彼が来るのを眠気交じりに待っていた。


 ピンポーン、と間延びしたようなチャイムの音。母が応対する声が下から聞こえてくる。「あら、久しぶりねぇ」「お久しぶりです」「大変だったわねぇ」なんて声が聞こえてきたから、彼が来たのだと理解して一階へと下りた。


「よっす」


 彼はにへらと笑って、私に声をかける。母は気まずそうに私のほうへ視線を向けると、少しびっくりした顔をして、その後納得したように視線を下げた。昨日の私の行動に合点がいったんだろうと思う。


 私も、彼に対して挨拶を返すと、とりあえず、気まずくなった家を出たくて、そそくさと彼の手を引っ張って外に出る。エアコンの冷気と外気の温度の差に触れながら。



 


「よし、出かけるぞー」


 と彼の家の車に乗ると、早速彼が勢いのままに車を走らせた。


「どこ行くの?」


「んー、遊園地とか?」


「……とか?決まってないの?」


「うん。ただ、遊びたいっていう感じだから」


 やはり、彼は勢いのままだ。


「……二人だけで遊園地って、なんかデートっぽくない?」


 私は、なんとなく思ったことを口にする。


「ん、デートでしょうね」


「デート、なんすか?」


「デートなんです」


 ……突っ込みは、面倒でやめた。


 デートとは本来恋人だとか、そういった関係が深い間柄の、とか、突っ込んだところで、彼はきっと『幼馴染だから』という理由だけで会話を終わらせてくる。だから、きっと突っ込みというものは野暮なのだ。


 しばらく車を走らせる。高速道路なんかも乗ったりして、そのころには車の空気も循環して、エアコンの冷たい風が回るようになる。少し寒さを覚えたりするけれど、そのタイミングで彼が調整してくれるから、そういう気が利くところにむかついたりして、時間は過ぎていく。


 車の中で会話はなかった。互いに互いの状況を見知っているから、そうしてそれ以外のことはもともと知っているから、きっと会話は必要なかった。


 居心地は、意外にも悪くはない。だから、無理にしゃべらなくていい空気は、私にとって都合がいい。


 彼も同じなのか、彼から口を開くことはない。時折、「のど渇いてない?」「暑い?」「トイレ行く?」とか、私を気遣っての声はかけてくる。でも、本当にそれくらいしか声をかけてこない。おそらく、声をかけてこないことさえも、私への気遣いのひとつなのだろう。


 数十分、景色を楽しみながら、そうして遊園地にたどり着く。大きな遊園地とはいえない場所。地方にあるような、少し寂れたような場所ではある。寂れているからこそ、なんとなく人は少ないような気がする。ところどころはがれた看板が、それをよりいっそう感じさせるのだ。


 遊園地に入場する。入場料は彼が払って、そうして遊園地の中に入る。気温は最高潮、という感じで嫌気が差した。そのおかげで眠気は抜けきったけれど。


 遊園地に入ると、目の前に広場、その奥のほうに地図のような看板があった。どこか来たことのあるような場所だ。きっと昔行ったことがあるような場所だと思う。


 よし、地図見て何乗るか決めようか、と彼に手を引かれて、地図を見渡す。


 来たことのある場所なんだろうけれど、過去の記憶はよみがえってこない。しいて言うなら観覧車くらいには乗った気がするけれど、だからといってしょっぱなから観覧車にのるというのも、なんか違うような気がする。


「それなら、ジェットコースターかな」


「お、いいね。それにしようか」


 彼は、私の声を聴くとうれしそうにして、地図を見ながら、歩む道筋を決める。ここがこうで、これがあれで、なんて声を出しながら、彼は私と手をつないで、その場所へと歩みを進めた。


 ……彼は、絶叫系のアトラクションは苦手ではなかっただろうか。


 大人になって変わったのだろうか、なんて思うけれど、どこか彼は私を楽しませようとしているようにも見えてくる。


 きっと、彼は無理をしているのだ。


 私を、少しでも社会に対して前向きになってもらうために。


 



 ジェットコースターを終えると、彼は青ざめた顔をしながら笑う。


 ジェットコースターは、人が少ないということもあってすぐに乗れてしまった。彼なりに心の準備をする時間を換算していたのだろうけれど、あまりにも人が少ないので、その換算も無駄になってしまったようだ。おそらく今彼の顔は、引きこもりだった私の顔よりも青白い。


「それじゃあ、次は……?」


 ぜえぜえと、少し息を含ませながら、彼は話す(というよりも呟く)。


 そんな彼に意地悪がしたくて、どんなものに乗ろうか、と考える。……私を前向きにさせる、ということを画策している様子を見ると、彼は今私の言うことなら、なんでも聞いてくれるような気がした。そこにつけこむのは悪いような気がしたけれど、私を前向きにさせようとするのがそもそも意地が悪いと思う。


「それじゃあ、お化け屋敷」


 げっ、と声が聞こえた、ような気がした。その後、ふう、っと息を吐いて


「……、それじゃ、行こうか」と呟いて、また私の手をつないで、その場所へと向かった。


 



 その後も、彼が苦手そうなアトラクションに乗り込んでみて、彼の反応を楽しむ。だんだんと乗っていると、さすがに可哀想だな、という気持ちも募ってきて、合間合間に彼が喜びそうなゆっくりとしたアトラクション(コーヒーカップ、スワンボート)に乗ったりした。昼ごはんを食べた後、またいろんなアトラクションを乗り回して、そうして夕刻を回る。そのころには、お互いに自然と笑顔が生まれていた。


 じゃあ、最後は観覧車ね、と私がそういうと、わかったよ、と声を返してくれる。いつの間にか日は暮れようとしていて、短く感じてしまった時間から、私がそこそこに楽しんで過ごしていることが少し悔しい。


 観覧車はそこそこに人が並んでいて、しばらく乗るまで時間がかかる。暑さの中で、彼に手汗が伝わるんじゃないかという嫌な不安もあったけれど、それに答えを返すかのように彼は私の手を握った。


 いよいよ目の前になり、流れてくる観覧車の扉が管理員によって開かれる。乗った瞬間に、ぎいと錆び付いた骨組みの音が鳴った。不安感がちらりと背中にまとわりつく感覚。


 彼も私の後に続いて乗って、少し揺れが起こるけれど、次第にそれもおさまって、夕焼けが低い視界からでも見ることができた。その夕焼けが、彼の白い肌を染めるから、すべてがオレンジに見えるような気がする。



 私は、はあ、と大きな息を吐いた。


 伝えなきゃいけないことがある。伝えちゃいけないことだけれど、彼を前にしたときから、ちゃんと伝えなきゃいけないと覚悟をしていた。


 改めて、もう一度大きく息を吐いて、私は言葉を呟いた。


「……私、あなたのことが嫌いだった」


 彼は、何も答えずに、うん、とうなずく様子を見せる。


「小学校、中学校、高校。どんなときにも一緒にいたから、きっと私はうっとうしくなって、あなたが嫌いだった」


「…うん」


 「クラブも、委員会も、部活動でさえも一緒だったから」


 「…うん」


 彼はそれ以外、何も答えない。


「あなたが進学して、私は落ちた。でも、私はそれを転機だと思った。一年浪人して、そうしてあなたなしでの大学生活を送って、順風満帆な生活を送るんだって」


「…うん」


「でも、そんなことにはならなかった」


 私は、自分の声が震えていることに気がついた。


 呼吸することもためらってしまう。けれど、この場で言わなければ、何もいえなくなってしまう。


「私は、私だけでは生きていけなかった」


「……」


 どんなにうっとうしいと彼を思っていても。


 そのうっとうしさの裏で彼に生かされているということに気づいてしまった。


「あなたにどんなときでも支えられてたってことに気づいて、私、どうしようもなくなっちゃった」


 私は彼が嫌いだ。でも、それは彼が悪いだけじゃなく、彼が優しさを持っているから。


 私は彼の優しさが嫌いだ。でもそれは彼が悪いわけじゃない。


 私が嫌いなのは、彼の優しさに甘えてしまう自分という存在である。


 それを自覚してからは、すべてを投げ出して、そうして今に至る。


「今日だって、きっとあなたはそんな私の状況を知って、私にどうにかなってほしくて、そうして引っ張り出して。あなたの、そんな優しさが、私は……」


 私は口ごもってしまう、どう言葉に表していいかわからなくて、声は小さく虚に消えた。


 ぎい、と観覧車が揺れる。風で揺れたのかわからない。でも、風景をみて、観覧車自体が止まっているということに気がついた。


 彼のほうへと、視線を向けると、彼はあざけるように笑った。


「確かに、そんな側面もあったけど」


 そうして彼は語る。


 ──僕はそこまで優しい人間じゃない、と。


 



 僕と彼女は似たもの同士だと思う。幼いころから彼女と一緒に過ごしてきて、どこか同じようなものがあると信じながら、成長してきた。


 彼女は人間関係が苦手だった。僕はそんなことはなかったけれど、次第に、僕と彼女とでは抱えているものが違うのだと理解することができた。けれど、それは抱えているものが違うだけで、きっと同じものではなく、互いに欠けたものが存在するのだと、そう理解した。


 彼女にできないことは僕が補うことにした。そうすることで、彼女は順風満帆に生活を送れるし、僕もそれによって自己肯定感を得られる。いわば互いに得をしているのだから、何一つ悪いところはない。僕は彼女を利用して、そうして自分という存在を確立した。


 それが習慣、──悪癖となり、高学年になってからはクラブや委員会、中学では部活動も一緒にして、彼女の選択する高校を見て進路を決めた。


 彼女は僕を優しい人間だといったけれど、それは見当違い、というものだ。きっとそれを優しさという言葉で表すよりかは、偽善であらわしたほうがまだ的確だろうと思う。


 そうして、高校卒業するまで続き、それはきっと大学、おそらくは社会にいたるまでずっと続くと考えられた。


 でも。


「共依存、だったんだよ」


 僕は、口を開く。


 大学になってから、人間関係は円滑にいったものの、それ以外ではうまくいかない日々が続く。どこか足りない、欠けた感覚が心の中にあって落ち着かない。


 彼女というものもできて、そうして上手な関係作りを行うこともできたけれど、美優に対する代償行為で得ようとしたものは結局破綻してしまい、すべてが地獄みたいな終わりを迎えた。その原因は言わずもがな僕の過ちでしかなく、その終わりさえも容易く受け入れることしかできなかった。


 就職活動を経て、就職をすることはできた。上場の企業で順風満帆な生活をおくれている自負があったけれど、僕にできるのは円滑な人間関係の営みだけであり、それ以上のことは何もできない。デスクワークではミスを繰り返し、そうして人間関係も徐々に破綻を迎えていく。


「ちゃんとやれよ「なんでこんなこともできないの?「相談してくれよ「チェックもできねえの?「無能がしゃしゃんな「へらへら笑うな「あーはいはいそうですね「ちゃんと聞いてる?「そんなんだからお前は「ほんとだめだな「お前だるいわ「謝れよ「迷惑だけはかけんなよ「ふざけるな「もういいよお前」


 心が、折れる、音がした。


 それから僕は、お盆を前に仕事をやめた。やめるのはとても容易なもので、そうして帰郷した。帰郷した際に、母から美優の状況を聞いて笑顔になってしまった自分がいた。彼女を支えることができる、ということが安心感につながったから。


 そうして、その関係が後ろめたくなった。


 僕は彼女を支えることに対して依存している。支えることを自己肯定感として、僕は生きている。


 彼女は僕の支えに対して依存している。だから、支えのないときに破滅したのだと、そう思った。


 そうして、彼女を外に連れ出して、遊園地に連れて行き、彼女と関わって、改めて理解した。


 僕たちは、共依存なんだと。


 それを認識して、自己肯定感は底辺さえもすりぬけて負荷へと入っていく。


 自己肯定感を欲するということは、もとより自己肯定感が存在しないも同義なのだ。ゼロさえ超えて、マイナスへと来たそれは、ひとつの結論へと行き着いた。


「僕は、もう、死にたいんだ」


 



「共依存、だったんだよ」


 と彼は語った。


 そうなんだ、と私は納得した。


「僕は、もう、死にたいんだ」


 と彼は語った。


 私は、彼と同じだと、そう思った。


 私は彼なしでは生きていけない。そのことが目の前に事実としてあることに、どうしても私の生きることに対しての執着に結びつかなくて、そうして私も死にたい、と思った。


 彼は、彼自身に自己肯定感がないと語った。


 私には、自己肯定感がありすぎる。だからこそ、彼がいないと生きていけない、という事実に、死にたいという感情が渦巻いている。


 私には、彼の支えで生きていくということに依存している事実が耐えられない。


 彼には、私を支えて生きていくということに依存している事実が耐えられない。


 きっと、私たちは同じなのだと、そう思う。


 だから、その先の展開は、きっと。


 ──観覧車は動き出した。


 



 夢見心地の気分だった。


 彼と心の底から会話ができたから、すべてについて納得することにつながったのだと思う。


 私が今まで部屋に引きこもっていたこと、そこから行動することができなかったこと。理解はしていたそのすべての原因が、ようやく納得できたから、私は今幸せだった。


 私と彼は、今日こそ本当にわかりあえたんだ、とそう思う。彼の心を覗くことはできないけれど、きっと彼も私と同じなのだろうって。そうでなくても、私はそう思っていたかった。


 世界は暗闇に包まれている。それ以上に光がともることはなく、鈴虫の鳴き声が。草、花、木々から聞こえてくる夏らしい自然の音。いつもならそんな音さえ嫌いだったけれど、それでもそれは私たちを歓迎する一つのファンファーレのようにも聞こえた。


「月が、きれいだね」なんて言ってみた。雲に隠れて月は一切見えないけれど、彼は笑って「そうだね」と返してくれる。


 私は、そんな彼の優しさが嫌いだ。それでも今だけは、このときだけは好きになれそうな気がした。


「さようなら」


 私は言葉を吐いた。


「うん、さようなら」


 彼もそう言葉を吐いた。


 そうして私たちは哂いあって、ゆっくり世界を後にした。

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