第6話 空腹の男

 アーダルベルトは酷く腹を空かせていた。この二日間ほど、まともに食事が出来ていなかったからだ。それもこれも全ての原因は彼の両親にあった。

 数日前、彼は急に実家に呼び戻されたと思ったら、何故だかそこには見知らぬ女性が幾人もおり、その彼女達との見合いを強制され続けたのである。剣術、野営、狩りといったことにしか興味がない彼にとって、王都で流行りの菓子やファッション、歌劇等の内容しか話さない彼女達と過ごすことは、たったの二日でも耐え難い地獄だった。

 特に昼食と夕食は必ず彼女達と同席して食事を摂らねばならず、そんな彼女達が一堂に会すれば姦しいだけでなく、身に付けている様々な香水の匂いが集まるものだから臭くて堪らなかった。アーダルベルトが何を口に入れようともその香りが鼻につき、まるで石鹸を食べてるような気分になり、少しも食事を美味しく感じることが出来なくなった。元々は騎士団の同僚からお前が食事をしないことがあれば、それは死ぬ時だけだなと揶揄われるくらいに食欲旺盛であったというのにだ。

 アーダルベルトこの二日間、腹は減っているのに何を食べても美味しく感じることが出来ず、まさかの死期でもないのに食欲不振となって一気に生気がなくなってしまったのだ。


「ーー地獄、とにかく地獄だ」


 騎士団の中でもトラウマ級に辛いとされる雪中行軍が可愛く思えるくらいに、アーダルベルトは疲弊していた。今この場で雪中行軍に一週間参加するかわりに見合いを中止してやると言われたならば、彼はすぐにでも、それこそ飛び跳ねるようにして喜び勇み雪山に向かうことだろう。


「両親が俺を構うなと注告しても、誰も聞きやしない。特にアディソン伯爵家のローナとかいう女はなんだ。深夜に俺の部屋に侵入しようとするだなんて、頭がイカれてるんじゃないのか。確か評判の良い淑女だと噂を耳にしたことがあったが、何かの間違いじゃないのか」


 幼少より元気が取り柄の次男坊がみるみる弱っていく様子には、彼の家族だけでなく城の下働きさえも心配するほどで、流石にこれは失敗したと彼の両親も強引な手段に出たことを反省したのか、婚約者候補の女性陣に次男はしばらくそっとしておいてくれないかと伝えたのだが、健気というよりは厚かましいといえばいいのか、彼女達は衰弱するアーダルベルトのことなどお構いなく、いわゆる婚活市場の優良物件を逃すまいと彼にひっきりなしに迫り続けた。それこそ昼夜問わず、非常識な者は深夜に彼の自室を訪ね、強引に既成事実を作ろうするものだから、ついに耐え切れなくなったアーダルベルトは城を飛び出し、すぐ側にある林の中へと逃げ込んだのだった。


「ーー腹が減ったなあ。俺はとにかく美味いものを、ただ腹一杯に味わいたいだけなのに」


 辺境伯家の次男として生まれ育ったアーダルベルトは、十六歳で成人すると王都の騎士見習いとして出仕した。それから八年経った今では正騎士となり、第二騎士団の四つある隊の一つを任されるまでに出世していた。また腕っぷしの強さと部下の面倒見の良さから、将来の騎士団長候補の本命だと噂されるほどだ。加えて実家は隣国との国境警備の要として王族から覚えがめでたい。それだけでなく、アーダルベルトは母の実家であるグレンフェル伯爵家を継ぐことが決まっていた。彼の母は一人っ子だった為、嫁入りの際に次男を伯爵家の後継にすると予め取り決めがあったのだ。更にとどめとばかりにアーダルベルトは容姿に優れていた。髪と目は黒色でとりわけ優れているわけではないが、アーダルベルトの武人らしく鍛え上げられた屈強な体と精悍な顔立ちには、反ってその色味が魅力となっていた。

 実家が太く将来が有望な騎士であり、更に次期伯爵である色男。年齢も二十四歳と若いときたら、未婚の女性は何が何でも逃すまいと必死になるのも無理はない。無理はないのだが、いわゆる貴族らしい淑女といわれるような女性は、アーダルベルトの好みではなかった。ナヨナヨした人物は例え女性でも苦手で、どちらかといえば逞しい人の方が好きだった。

 しかし逞しいとはいっても、アディソン令嬢のようによろしくない方向に逞しい女性はもっと勘弁願いたい。彼が望む逞しい女性とは、いざとなれば自分で自分の食い扶持くらいは稼いでくるような人物のことだった。

 人生は何があるかわからない。どこかから戦争を仕掛けられ敗戦すれば、急に平民になることだってあるかもしれない。そんな時に身の回りのことは自分で出来るに越したことはないのである。


「美味い飯が食べたいなあ。焚き火でソーセージと目玉焼きを焼いて、それをパンに挟んで齧り付きたい。もうソースとか要らないから、塩胡椒でいい。結局簡素なものが一番美味いんだ」


 アーダルベルトは空腹のあまり朦朧としつつも、林の中にある丸太小屋へと歩を進めた。あの丸太小屋は十二歳の誕生日に両親から贈られた彼の秘密基地だった。このひと月は何か面倒な客が使うとかで、久しぶりに実家に帰ったというのにアーダルベルトは利用することが出来ずにいたのだ。おそらくひと月という期間からして、丸太小屋に滞在しているしている人物は婚約者候補の一人である可能性が大いに高いが、もう何だっていいやと自暴自棄になっていた彼は、何とかしてでも丸太小屋を明け渡してもらうよう説得する為にそこへ向かったのだった。大勢の面倒臭い女共より、一人の面倒臭い女を相手にする方がいくらかましに違いない。


「ーー何だろう。すごく美味そうな匂いがする」


 丸太小屋に近付くにつれ、何やら食欲をそそる香ばしい匂いが彼の鼻をくすぐった。まるで先ほど求めていたソーセージを焼いているような匂いだ。

 匂いを辿るようにして丸太小屋へ着いたアーダルベルトが目にしたのは、一人の女性が焚き火をしながらその火を利用し、フライパンでソーセージを美味そうに焼いている姿だった。


 ーーああ、何て美味そうなんだ。


 空腹に耐えかねたアーダルベルトは気が付くと女性に頭を下げ懇願していた。


「その美味そうなソーセージを俺にも分けてください!どうかお願いします!」


 もはや彼に貴族、騎士としての矜持なんてものは微塵も残っていなかった。あるのはソーセージに齧り付きたいという欲望のみだった。

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