第5話 タイムパラドックスと、ロボット工学
「自殺菌」
というものを考えていると、今度は、SFチックな話を考えるようになった。
それは、鬱状態から、バーナム謳歌のような、洗脳というものを考えるようになり、洗脳されることなどを考えていると、
「都合のいい」
ということが、何かの菌によるものだ。
というような発想になるということを考えるに至ったのだ。
そもそも、順平の頭の中は、一つのことから、いろいろ発想を巡らせていくことが多いのだが、それは、決して、放射線状に広がっていくものではない、
どちらかというと、
「放射線状に広がりかかるものを、一つに絞って、そちらの方向を見ることで、自分が向かっている方向の中に、都合のよさが見いだせれば、その道が間違っていないということを考えるようになり、そこから、また新たな発想が生まれてくる」
というものだった。
しかも、その発想が、
「都合のいい」
ということに気づいてからというもの、その先に出てくる発想は、完全に、自分の世界に入りこんでいるということで、無意識に、道しるべができたことで、無意識に、そして、自然に前に進んでいくのであった。
だから、ここまでくれば、発想は、豊かになっているのであって、
「たぶん、いつも忘れてはいるが、前にも同じような発想をした時と同じポケットに入ってきてるんだ」
と思えるのであった。
この発想は、
「まるで、夢を見ているようであり、だからこそ、必要以上に意識することはないのではないだろうか?」
と言えるのだった。
「バーナム効果」
で洗脳され、自分が、
「自殺菌」
にやられているのではないか?
と思うようになると、一つ自分が被害妄想に陥っているのを感じた。
その被害妄想というのが、どういうものなのかというと、
「カプグラ症候群」
と呼ばれるものであった。
これこそ、一種の、
「被害妄想の代表例」
のようなもので、
「自分のまわりにいる人が、全員敵に見えているというような現象で、それが不安から来るものなのか、そのあたりは難しい」
というところであった。
これは、SF小説や、SF映画などのネタに使われることの多いもので、
「よく見知った人物が、見知らぬ他人に入れ替わっている」
というものであった。
それは、今まで信頼していた人物が信頼できなくなるというもので、
「精神疾患の一種」
だと言われている。
これも、
「自分を自分自身で洗脳している」
と言えるのではないだろうか?
これは、どうも、
「夢の現象に似ている」
と考えることがあった。
というのも、
「夢というのは、怖い夢だけを覚えているものだ」
という意識があった、
「夢というものは、いつも怖い夢しか覚えていない」
という感覚から、
「夢というのは、見ている時と、見ていない時があり、圧倒的に夢を見ていない時が多いのではないか_-?」
と感じていた。
というのも、
「怖い夢しか覚えていないから」
ということで、理屈としては、
「怖い夢ばかり見ているということを感じたくない」
という意識から、
「夢のほとんどを忘れている」
つまりは、
「楽しい夢を忘れてしまうことで、怖い夢ばかり見ているわけではないと、自分に思わせたい」
ということである。
つまりは、自己暗示であり、
「都合よく感じさせたいという、無意識の意識がなせるわざと言えるのではないだろうか?」
と考えると、
「カプグラ症候群」
というのは、その裏返しなのではないかと思うのだ。
自己暗示をかけるということは、
「いい方に都合よく感じさせるため」
であり、それ以外は、
「洗脳という形で、逆に、自分に当て嵌まることで、安心感を感じるということが、理屈に合うという、逆の意味での、夢の現象」
と考えれば、
「都合という言葉をいかに使って、自分を信じ込ませるか?」
ということが、キーになるということであろうか?
夢を見ていると、どんな怖い夢が一番多かったのかというと、ある程度のパターンがあって、その中でも一番怖かった夢は、
「もう一人の自分」
というものを見た時であった。
「もう一人の自分」
それは、
「世の中には、自分に似た人が三人いる」
と言われているが、その。
「三人」
とは違うものである。
似ている人というのは、
「似て非なる者」
であり、決して、もう一人お自分ではないということである。
もう一人の自分というのは、あくまでも、自分なのである。同じ瞬間に存在しているにも関わらず、同じ人間である。いわゆる、
「タイムパラドックス」
では、ありえない考え方である。
それを、ドッペルゲンガーというが、ドッペルゲンガーという言葉を聞いたことのない人の方が珍しいくらいであろう。
ただ、名前を知っていても、それがどういうものであるかということは、証明が難しいと言われる。
よく言われるのが、
「ドッペルゲンガーというのは、その存在を見ると、近い将来に死ぬ」
と言われているものである。
それに関しては、昔からの著名人などで証明されているという言い伝えのような、都市伝説のようなものがあった。
実際に、自分のドッペルゲンガーを何度も見たことがあるという人だったり、その日に自分が狙われているということを予期していて、実際に暗殺された人もいたりした。
それらの代表的な例として、アブラハム・リンカーンであったり、芥川龍之介であったりしたのだ。
そんな、
「もう一人の自分」
という夢は定期的に見ている気がする。
最初に見たのは、小学生の頃だっただろうか? もちろん、そんな頃に、
「ドッペルゲンガー」
などという言葉を知るわけもなく、もちろん、
「ドッペルゲンガーなるものを見ると死ぬ」
などという都市伝説を知る由もない。
それでも、きっと、心の中で、
「もう一人の自分」
というものが存在してれば、これほど怖いものはない。
と感じるに違いない。
それがどれほどの恐怖なのか、実際に、
「覚えている夢というのが、もう一人の自分を見た夢だ」
という自覚があるのだから、それだけ、怖いものだということに変わりはないに違いない。
実際にドッペルゲンガーというものが、どのようなものなのかというというのを初めて知ったのは、高校生くらいの頃だっただろうか。
それまでは、
「ただ、自分がもう一人いれば、怖いだろうな」
という漠然としたものだったはず。
しかし、夢に出てきたもう一人の自分は、まるで、昔の。
「口裂け女」
のように、見てしまうと殺されてしまうという恐怖を味わっていたのかも知れない。
ひょっとすると、昔の小説にあった二重人格ものの、
「ジキルとハイド」
という話も、
「ドッペルゲンガー」
というものの発想が、原点になったのかも知れない。
そう思うと。子供の頃に漠然と怖いと思った、
「もう一人の自分」
というものの存在も、信憑性があるといっても過言ではないだろう。
大人になっていろいろ勉強してみると、
「夢というのは、実際には、睡眠時間中に、必ず見ているものだ」
と言われているということを知って、
「なるほど、自分の発想もまんざらでもない」
と、順平は感じるようになった。
それから、
「いい悪いは別にして、科学的に証明されていないことも、自分の考えた通りなのだろうという発想になってきた」
と思うのだった。
もちろん、それだけの信憑性は自分の頭の中には必要だが、それを感じるだけで、それだけのことが頭の中に芽生えてくることを知ったのだった。
そんな状態を考えていると、一つ気になっているものがあった。
それは、
「デジャブ」
という現象で、この言葉はほとんどの人が聞いたことがあるだろう。
ただ、
「どういうものなのかを説明しろ」
と言われて、安易に説明できるものではない。
というのも、何分曖昧だからで、実際に解明されていないというのも、
「現象自体が曖昧なことからではないか?」
と考えられるからではないだろうか?
実際にいわれていることとして、
「一度も見たこともないはずのものを、以前にどこかで見たことがあるかのように錯覚すること」
というのが、一般的に言われていることである。
だが、実際に、デジャブというものを感じたことは、たぶん、誰にでも一度はあるだろう。
きっとそれに対して、人によっては、自分で勝手に解釈することで、自分なりに納得できるものとしている人もいれば、
「科学者や心理学者が解明できないことを、一般人である自分たちに解明できるはずなんかない」
と思っている人も多いだろう。
どっちが多いかと聞かれると、正直分からないが、どちらも、
「一定数はいるのではないか?」
と考えられるのであった、
順平は何となくであるが、自分なりの考え方を持っていた。
何となくというのは、ハッキリとした、学説というべきものではなく、ハッキリとしない曖昧なものだという意味で、発展途上と言えばいいのか、何かきっかけがあれば、結びつけることができるというようなもののように感じられた。
一言でいえば、
「辻褄合わせなのではないか?」
という考え方だった。
というのは、そもそも、デジャブ現象というものが、問題ではなく、
「人間の頭の中には、基本的に、初めて見るものには、初めて見るという根拠があるものだ」
と考えていた。
その根拠が見つからないということは、
「必ず、前にどこかで見たり聞いたりしたはずだ」
という、
「逆の発想から来るものが、デジャブという現象ではないか?」
と考えるようになると、
「辻褄合わせだ」
と考えることが、間違いではないと思うように感じるのだ。ある意味、
「減算法だ」
といってもいいのではないだろうか?
要するに、減算法だから、曖昧なのだ。
頭から発想を組み立てていくのであれば、原点が分かっているから、説明がつくというものだが、減算法でも、元が本当に完璧なものだったかどうかわからないのに、それをさらに減算するとなると、
「曖昧さがさらに曖昧になる」
と言えるのではないだろうか?
そんなデジャブ現象と同じようなものが、
「ドッペルゲンガー」
と言えるのではないだろうか?
ドッペルゲンガーというものも、いろいろと言われていて、その正体に迫るものもあるのあろうが、そのために、果たして、どこまでが、信憑性のあるものなのかと考えると、言い方は悪いが、
「寄せ集めとでもいうような発想」
が、形になっていくことで、実際のものとは、少しずつ離れていくということになりかけないか?
ということもあるのではないかと思うのだ。
実際に、著名人などでいろいろとリアルに言われてきたことで、
「実しやかに囁かれている」
ということが、それぞれのパターンに存在しているのだとすれば、それは、まるで、積み木を組み立てるかのようなのに、それぞれ形の違うものを組み立てているようだということにならないだろうか?
デジャブというものが、その組み立てたものを崩していっていると考えると、
「似て非なるもの」
と言われるものも、
「一つの理論を解明するに無理もないものではないか」
と考えられる気がするのであった。
しかも、それを、両方から見ることで、次第に、それぞれを何度も繰り返して発想することで、次第に見えてくるものがある。
「デジャブなどは、そうなのではないか?」
と考えるようにもなった。
デジャブとは、
「過去にあったことを、一度もないはずなのに、あったことのように思い出す」
という発想だとすると、
「同じような思いを、実際に何度もしているのではないか?」
と思うのだ。
つまり、一度ではなく、二度、三度と、デジャブだけを思い出す。
「その内容を思い出すというよりも、そのことをデジャブだと思ったということを思い出すくせに、意識としては、デジャブを思い出すのではなく、その時に感じたことをそのまま思い出す」
ということだ。
つまりは、
「意識することでの、マトリョシカ人形のようなものだ」
という考えである。
マトリョシカ人形」
というのは、ロシアの民芸品の一つで、
「人形が蓋のようになっていて、その蓋を開けると、中からまた、蓋になった人形が出てくる。さらにそれを開けると、また人形が……」
というようなものである。
つまりは、
「どんどん小さくなっていくが、小さくなっていくのだが、絶対にゼロになることはない。ましてや、マイナスなどという発想はありえない」
という数学的な発想にもつながってくる。
要するに、どんなに割ったとしても、
「限りなくゼロに近いもの」
になるというだけのことで、それが一種の、
「除算の限界」
というものなのではないだろうか?
「そんなのは当たり前のことだ」
という人もいるだろうが、そう言い切れるのは、数学を学校の勉強として習っただけの人だろう。
学問として、見ることのできる人は、そんなことは言わない。
「数学という一つの学問だけではなく、学問全般を冒涜しているようなものだ」
といっても過言ではないからだった。
発想が膨らんでくるが、その元になった発想として、
「タイムパラドックス」
というものがあった。
これも、SFというものの発想の、
「一角を担っている」
と言われるもので、
いわゆる、
「矛盾」
と言われるものである。
このタイムパラドックスという発想で、よく言われているのが、
「親殺しのパラドックス」
という発想である。
つまり、タイムマシンなる装置に乗って、過去に出かけるとする。その過去というのは、自分が生まれる前の世界であり、そこには、自分の親がいたとする。
その時に、何らかの力によって、
「自分の親を殺してしまったら?」
という発想なのだ。
親を殺してしまうということは、
「自分が生まれてこない」
ということになる。
そして、自分が生まれてこないということは、自分が、タイムマシンに乗って過去に行くということはないということなので、
「自分の親を殺すことはない」
ということになる。
だが、そうなると、タイムマシンができてしまうことになり、
「親を殺しに行くことになる」
ということになるのだ。
そうなると、実に矛盾なのである。
それを解決するような考え方として、
「パラレルワールド」
という発想がある。
それは、
「並行世界」
「並行宇宙」
という発想であり、この発想は、
「タイムパラドックスの矛盾を証明するものだ」
ともいわれている。
というのは、
「タイムパラドックスの発想を支えるものとして、一つの時間軸は、未来に一つの結果しか表さないという考え方から当たり前のように言われていることであり、タイムパラドックスというものが矛盾であり、それを証明しようという考え方に立ってみると、パラレルワールドという概念が、それを証明してくれる」
ということが分かるというものだ。
つまりは、
「一つの時間軸に一つの未来しかない」
という考えに凝り固まるから、
「過去に行ってから、過去を変えれば、未来が変わる」
という発想になるのである。
だが、パラレルワールドというのは、
「タイムトラベルで行き着いた先は実際は現実に酷似したパラレルワールドであり、どの時間軸で歴史を変えようとしても自分がいた元の世界には影響しない」
という発想なのである。
そういう意味で、
「パラレルワールドは、タイムパラドックスの解決法としても、存在価値があるという発想なのだろう」
そう考えると、
「タイムパラドックスの証明がパラレルワールドの存在を証明していることになる」
と言えるのではないだろうか?
「今から半世紀前に、近未来を予想した中で、かなりのものが開発されてきたが、実際にいまだに暗礁に乗り上げているものがあるとすれば、2つではないか?」
と言われている。
その一つというのは、まず、今までの説明の中で出てきた、
「タイムパラドックス」
というものが絡んでいる、
「タイムトラベルもの」
である。
その中に、
「すべてを一般的なタイムトラベルと分けて考えるべき」
という発想があるのをご存じであろうか?
というのが、いわゆる、
「タイムリープ」
と呼ばれるものである。
一般的なタイムトラベルというのは、
「自分自身の意識や肉体のすべてが、時空を超える」
という発想であり、タイムリープというのは、そうではなく、
「自分自身の意識のみが、時空を移動し、過去や未来にいる自分の肉体に乗り移る」
という発想なのである。
だから、
「同一時空に同一人物が二人いる」
という、まるでドッペルゲンガーのような矛盾と言えるようなものも存在しない。
もっといえば、
「タイムパラドックスを否定できる」
というものである。
ただ、もっとも、このタイムリープの発想も曖昧なものなので、実際に、タイムパラドックスと同じ発想になるというSF作品も存在するというものであった。
ただ、昔からの発想は、あくまでも、タイムパラドックスありきということなので、
「タイムマシンの開発は、タイムパラドックスが解決できない限り、タブーなのではないだろうか?」
ということになるのだろう。
そして、この、
「タイムトラベル」
という発想とは別に、もう一つ、どうしても開発が進まないものとして、
「ロボット開発」
というものがある。
こちらにも、
「タイムパラドックス」
のような矛盾が存在する。
というのも、よく言われるのが、
「フランケンシュタイン症候群への挑戦」
と呼ばれるものであった。
というのも、
「理想の人間をつくろうとして、怪物を作ってしまった」
というのが、フランケンシュタインの物語であった。
つまりは、ロボット開発というものが、
「人間にはできないことを、ロボットに担ってもらう」
ということから生まれたものだが、ロボットが人間と同じように、頭脳を持ち、ロボットの意思で動くとするならば、意思を持ってしまったロボットが、人間に奴隷のごとく使われるということに難色を示し、逆に人間を使おうと考えたとするならば、少なくとも人間にはない強靭な肉体を持っている相手に、勝てるはずがない。
それを考えると、
「ロボットに対して、人間は、自分たちを襲わない。人間を守るという発想を植え付けなければならない」
ということから生まれたのが、
「ロボット工学三原則」
というものだったのだ。
その三原則というものが、
「人間を傷つけてはいけない。そして、人間に危機が及べば、自分を犠牲にしてでも人間を助けなければいけない」
「ロボットは、人間のいうことを聞かなければならない」
「ロボットは自分の身は自分で守らなければならない」
という三原則である。
これは、前者から決定的な優先順位を持っていて、そこに少しでも矛盾は生じれば、ロボットはまったく動かなくなるというのが、今の人工知能に入れ込む発想であった。
また、もう一つの大きなネックとなる発想に、
「フレーム問題」
というものがある、
これは、ロボットに、何か一つのことを命令したとして、ロボットは、その命令を聴くためにいろいろと発想するだろう。
しかし、その発想が無限に存在しているので、瞬時に何をしていいのかという判断がつかず、まったく動こうとしないというものであった。
というのも、ロボットがまったく動かないという発想は、
「ロボットは次の瞬間に発生することを、この場に関係のないこともすべて考えてしまうのだ。つまり、無限の発想を考えてしまうことで、まったく動けない」
ということになるのだった。
しかし、実際にロボットが動かないことで、開発した科学者は考えた。
「それぞれの可能性を、パターン化して、ロボットが考えられるようにすればいい」
という、発想の細分化というものであったが、この発想もすぐに、
「実現不可能だ」
と考えたのだ。
つまり、これも、前述の、
「除算の限界」
というもので、
「無限なものをいくらパターン化するといっても、無限を何かで割ったとしても、数学的にも出てくる答えは、無限でしかない」
ということであった。
もっといえば、
「パターンだって、無限に存在しているかも知れない」
ということであれば、そもそも、パターン化するということが、不可能だといってもいいだろう。
そうなると、ロボットに何かを判断させるということは、不可能に近いといってもいいだろう。
この問題を、
「パターンをフレームに入れ込むという発想から、フレーム問題という」
ということであった。
ここで出てきた、
「ロボット工学三原則」
という問題と、さらに、人工知能の根本であるところのフレーム問題の二つが解決できない限り、
「自分の意思を持ち、その通りに行動するロボットの開発は、タブーだ」
ということになるのだろう。
それを考えると、
「人間が自分の意思で行動するということは、実に神秘的な発想ではないだろうか?」
と言える。
「タイムマシンの開発」
あるいは、
「ロボットの開発」
という二つが人間の限界だと考えることで、SF小説というジャンルが潤ってくるというのも、実に皮肉なことではないだろうか。
そういう意味では、
「宇宙開発」
などのスペースものでも、発想としてはいくらでも出てくるが、実際に宇宙に人間が行って、自由に行動するというのは、不可能に近いだろう。
今あるタブーが解決しないと、宇宙にも飛び出していけないということなのか?
逆に、宇宙開発というものが進むことで、タイムトラベル、ロボット関係の開発も一緒に進んでいくということなのか、
「ひょっとすると、これらの発想は、切っても切り離せないような関係にあるのではないだろうか?」
と言えるような気がしてきた。
ドッペルゲンガーや夢などの関係とも酷似なものがありのではないかと思うのも、無理もないことなのかも知れない。
順平は、そんなSF小説に興味を持った後に、今度興味を持ったのは、ミステリーだったのだ。
これも大学時代のことで、ミステリー小説というのを、
「探偵小説」
と呼ばれるものの、黎明期から読んでみることにしたのだった。
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