第6話 アリバイトリックと共犯者
元々、中学時代から、ミステリー小説というものには興味を持っていた。
というのも、ちょうどその頃、アニメでミステリーが流行っていて、主人公は、高校生という意味で、
「どこかで聞いたことがあるような」
そんな設定だった。
そのうちの一つに、
「昔の探偵小説に出てきた探偵の肉親」
というような設定があった。
そのおかげで、
「先祖の探偵さんが活躍したという時代も見てみよう」
ということで、当時はまだ、本屋に行けば、昔のオリジナル作家の本が、所せましと並んでいた。
今でこそ、一旦、ほとんどが廃刊のような形になったが、今ではそれを少しずつ売れそうなものから復刻のような形で売り出している。元々、百冊以上あったほどの、とんでもないほどの作品だったが、その中から、やっと三十作品くらいは復刻していた。
それも、本当に売れそうなものばかりで、オールドファンとしては、寂しい限りだったのだ。
実際に、それらの小説を読んでみると、懐かしさがあった。今の時代にはない設定で、何と言っても、まったく情景が違っていて、そんな時代背景を知る由もないのに、なぜかリアルに感じられるのはなぜだろう?
時代背景としては、戦後すぐくらいから、昭和30年代前半がほとんどで、逆にそれだけ短い間に百冊以上もの作品を生み出したというのだから、ものすごいものであった。
そういう意味で、順平は、
「もし、俺が作家だったら、質より量を選ぶかも知れないな」
と思うのだった。
質より量といっても、それなりの作品を生み出すことだろうとは思う。
要するに、
「一つの作品に長々と執着するわけではなく、一つが終われば、すぐに次に取り掛かるという意味で、その方が、下手なスランプに落ち込むことはないのではないか?」
という、勝手な、都合のいい解釈だったのだ。
実際に小説を読んでいると、
「どうにも、入り込むには時間が掛かる」
と思う。
それは、小説に限らず、ドラマやアニメに対してもそうだった。
「最初の方というのは、どうも、何かだるい気がする」
というもので、よほど、最初から入り込める内容でないと、続けて見ることができないような気がした。
だから、本にしてもそうであるが、元々重たいような内容の話は、最近では、最初から敬遠してしまうようになっていたのだ。
ドラマなどでも、
「刑事もの」
「医療モノ」
「政治家や政府ネタ」
というような、重たそうな内容のものは、最初から敬遠していた。
最近では、深夜ドラマで、30分程度のもので、
「何かをしながらでも、適当に見逃せるような番組」
が多かったりする。
だからといって、くだらない芸人が出ている、
「バラエティ」
なるものは、いくら、ながらでできるからといっても、見ようとは思わないのだ。
あの白々しい笑い声を聞いているだけで、いかにも
「やらせ」
という感覚が、もし違ったとしても、拭えないので、最初から、見る気にはならないのであった。
そんなテレビ番組を考えた時、一時期読書から離れていたので、本を読んでみたくなり、実際に、探偵小説を読みなおしてみた。
元々最初に読んだのは、中学に入ってすぐくらいの頃だったのだが、その頃というと、何が楽しかったのかというと、正直覚えていない。
その頃は、
「最初にドラマを見てから、本を読む」
というものだったのだ。
というのも、ちょうど、当時、半年くらいの間の1時間番組として、数作品をシリーズとしてドラマ化していたのだ。
だから、
「ドラマを見てから、小説を読む」
ということになったのだが、今から思えば、
「その方がずっと楽だった」
と言ってもよかったのだ。
というのも、
「小説を原作にしたドラマや映画などの映像作品があった場合、先に見てから本を読むのと、読んでから見るのとでは、天と地ほどの違いがある」
ということであった。
特に当時、別の映画のキャッチフレーズで、
「読んでから見るか? それとも、見てから読むか?」
という言葉があったくらいで、それだけ、映像と原作本との間には、難しい結界のようなものがあったといっても過言ではないだろう。
実際には、これは人によって感じ方が違うのかも知れないが、基本的には、
「見てから読む」
という方が、作品に対してがっかりすることがなくていいだろう。
もし、
「読んでから見る」
ということになると、
「読む時はいいのだが、実際に映像になると、何か想像していたものと違う」
と感じるようになるのだ。
それだけ、
「読書というものが、想像力を掻き立てるもので、映像になると、少しでも違ったイメージを持つと、見てしまったことを後悔したくないという思いから、少しでも違えば、自分の中で、想像を映像に合わせようとする、そんな感覚になってしまうのだろう。そうなってしまうと、最後まで見終わった瞬間に、総合的な評価を考えた時、打ち消してきた感覚が自分の中で理解できないことを言い訳にしようとするので、どうしても、制限した見方をしてしまうのだろう」
それによって、下手をすれば、
「見るんじゃなかった」
と感じることを、
「先に映像を見るんだった」
と感じようとするに違いない。
だから、逆に最近では、
「映像作品を、原作と同じ作品だとは思わないようにしよう」
とさえ思うようになった。
どうしても、原作が先で、映像作品が後の方での発表ということになるので、
「先に営巣を見る」
ということは難しいのだろうが、
「だったら、違う作品として見る」
というと、かなりの冒険であることに違いはないが、実際にやってみると、
「これほど面白くないことはない」
と思うのだった。
「同じ作品ではないと考えるということは、そもそも、映像作品を見る意味がなくなってしまう。まったく違う作品だと思うのであれば、本当のオリジナルならいいのだが、中途半端に同じ作品感を残されてしまうのだったら、最初から見ない方がいい」
と考えるのであった。
一つ言えるのが、
「トリックというものではないか」
ということであった。
今の時代のトリックではなく、昔の探偵小説におけるトリックである。今の時代のトリックは、昔のトリックをほとんど使えない。
何しろ、いろいろなところに防犯カメラが設置してあったりするので、アリバイ工作は難しい。
また、
「死体損壊トリック」
というのも、DNA鑑定などを行えば、被害者の身元を特定することなど、造作もないことであろう。
昔であれば、
「死体損壊トリック」
というと、首を切り取ったり、特徴のある部分を刃物で傷つけたり、さらには、指紋のある指を切り取ったりと、一種の、
「残虐性」
というものも絡んだ犯罪だったのだ。
昔であれば、顔であったり指紋などの、ハッキリとしたもの。あるいは、特徴のある部分と、どこかの医者に通っていれば分かるはずという、傷跡や手術混んなどでしか、手掛かりを得ることはできなかっただろう。
だからこそ、
「死体損壊トリック」
というものが存在するわけで、それなりの、
「法則」
のようなものもあったくらいであった、
その法則として有名ものは、
「被害者と加害者が入れ替わる」
というものであった。
これは、見つかった死体の身元が分からなくするための理由として、一番考えられることとして、
「被害者と加害者が入れ替わってしまえば、加害者は死んだことになる」
というものであった。
つまり、
「死んだことになってしまえば、昔であれば、時効は15年だったので、そこまで逃げおおせれば、時効が成立し、犯人だと分かっても、罪に問われることはない」
というからであった、
しかし、今の時代は、時効というものが撤廃され、未解決とは言いながら、犯人だと特定されると、逮捕される可能性は、まだまだ残るわけである。
「それくらいであれば」
ということで、策を弄するのであれば、捕まっても、罪に問われない方法を考える方が賢明かも知れない。
特に日本では、
「一度、どのような判決が行われたとしても、同じ内容のことを、間違えていたからといって、事件を最初から捜査しなおすということはないのだ」
つまりは、
「一度下った判決に対して、それが確定してしまった時点で、再審理されるというのは、ない」
ということである。
だから、わざと捕まるという人も中にはいたかも知れない。
しかし、それだとミステリー小説としては成り立たないから、自首するには、他の理由をつけるということがあるのかも知れないのだった。
今では、昔のような時効というものは、凶悪犯罪に関しては撤廃された。それだけ、昔に比べて犯罪も厳しくなっているということだろう。
たとえば、強姦罪のような、昔であれば、
「親告罪」
とことで、
「本人あるいは、法定代理人と呼ばれる人が告訴しないと、犯人が罰せられることはない」
というものも、どんどん撤廃されていっているではないか。
「今と昔と、どっちが、犯罪としてひどかったのか?」
と言われることもあるが、
「そもそも、犯罪に、ひどい、ひどくないという発想はどういうものなのか?」
ということである。
好きだった探偵小説の時代には、
「猟奇犯罪のようなものが多かった気がする」
今も猟奇犯罪と呼ばれるものは減っていないが、その質は違っているように思えてならないのだった。
昔の猟奇犯罪というものは、混迷した時代に合わせたような、
「暗い、ドロドロとした犯罪が多いような気がする」
というのも、
「当時の時代背景として、戦争に負けたことで、国土は焦土と化したまま、占領軍によって、統治されている」
街では、生きるための出店や闇市が横行していて、子供たちによる、
「かっぱらい」
などというのも結構あった。
これも生きるためである、
さらには、街には、ほとんど、占領軍と言われる進駐軍相手の、
「夜の商売」
が幅を利かせていて、
正直、完全な、
「無政府状態」
となっていて、
「何が起こってもおかしくない時代」
だったのだ。
だからこそ、あの時代の探偵小説と呼ばれるものは、結構いろいろあった。
しかも、トリックを駆使した話も多く、
「死体損壊トリック」
などが、全盛期だったのかも知れない。
そういう意味では、当時の混乱した時代の探偵小説では、トリックを駆使した
「本格探偵小説」
なるものも多く、逆に残虐さを取り入れたり、精神的に病んでいる人が起こす、本当の精神疾患からくる犯罪も描かれていた。
それを、
「変格探偵小説」
と読んだりしている。
というのも、当時の時代背景から、戦争に行っていた兵隊であったり、終戦間際における米軍による無差別爆撃などによって、日本人の精神が、
「死体などを見ても、何とも思わないという精神状態になっていることから、探偵小説の書き手であっても、読み手であっても、血や死体という者に対して感覚がマヒしていることから、小説の中で、血や死体なるものを、ゴロゴロと転がしてみるということをしていた」
のだった。
そういう意味での、猟奇犯罪というものがm探偵小説で描かれることも少なくない。
特に今ではあまり見なくなったが、明治時代の文豪の時代から、昭和初期くらいにまではあった、
「耽美主義」
と言われるジャンルも、探偵小説として描かれている時代があった、
「この耽美主義というのは、要するに、美というものをすべての優先順位の上に持ってきて、そこには、モラルや一般常識なものとは、一線を画したものであるというようなものである」
ということである。
だから、耽美主義も、今の時代から見ると、
「猟奇殺人というものの、最先端という考えになる」
というものであった。
そういう意味で、戦後の混乱期に、
「猟奇犯罪小説が流行る」
というのは、トリックを駆使するという意味での小説を合わせて、十分にあり得ることであった。
それに比べて、今では、現実の方が怖かったり、恐ろしいものが多いといってもいいかも知れない。
「事実は小説よりも奇なり」
と言われるが、まさにその通りといってもいいのではないだろうか?
ただ、現代に多いというわけではなく、現在というものが、いわゆる、
「ブームの頂点」
というものではないかと思う。
つまり、
「猟奇殺人というのは、周期的な時代において引き起こされるもので、数十年に一度か、あるいは、数年に一度の割合くらいで、まるで世紀末を思わせるような犯罪が起こっている」
といってもいいだろう、
「80年代」
と呼ばれる時代には、
「老人を狙った詐欺犯罪」
あるいは、
「食品、おかしメーカーの社長を狙った誘拐に端を発した、青酸カリ入りの食品を売り場に混ぜるという、異形業務妨害、さらには、大量無差別殺人未遂と言った凶器のような犯罪」
というものが起こった時代だった。
さらに、90年代になると、
「宗教堕胎が、地下鉄で毒ガスを撒くというような、国家に対してのテロ行為」
であったり、
「中学生が、近所の子供をバラバラにして遺棄する」
などというとんでもない犯罪があった。
その後も、駅で、無差別に人の顔に硫酸をぶちまけるなどと言った、信じられないような凶悪犯が出てきたりした。
そういう意味でも、
「凶悪犯に対しての、時効の撤廃というのは、ありだったのではないか?」
と言えるだろう、
かといって、時効はなくなったかも知れないが、結果、未解決事件というものが増えただけで、一度捜査を打ち切ってしまえば、再度、有力な証拠でも出てこない限りは、
「お宮入りした事件」
ということになるだけのことだったのだ。
そんな時代が結果として、
「猟奇犯罪というのも、まるでブームのように、時代を繰り返しているといってもいいのではないか?」
と言われているのだった。
しかし、今の時代は、犯罪を犯すには、
「実にやりにくい時代になった」
といっても過言ではないだろう。
特に、今の時代は、防犯カメラなど、どこにでもあり、個人の車の中でも、
「ドライブレコーダー」
なるものが、普通にあってしかるべき時代になったということだろう。
というのも、最近では、
「あおり運転」
などというものが増えてきた。
ちょっとしたことでカッとなり、相手の車をせき止めておいて、車から降りるやいなや、それこそ、チンピラよろしく、相手の車にケリを入れたりと、感情に任させた行動をとる犯罪が増えている。
ドライブレコーダーは、犯人の特定だけではなく、
「映像を撮っている」
ということで、そんな理不尽な連中への抑止効果というものだという考えも出てくるというものであった。
それを考えると、ネットの普及によって増えてきた防犯カメラなどから、逃れて犯行に及び、
「アリバイトリック」
などを完成させようとするのは、不可能に違いことであろう。
それをもし完成させるとなるならば、そこには、最初からありきで考えるトリックでなければ難しいだろう。
かなりの知能犯でなければ通用しないか、あるいは、常識を覆すだけの、発想が必要なのではないかということである。
今の世の中。
「完全犯罪」
なるものはできないのだろうが、ある意味、戦後すぐくらいの時代よりも、今の方がもっと完全犯罪をしようと計画するならば、どちらかというと、完全犯罪というものができるのかも知れない。
戦後すぐでも、完全犯罪というのは、できたかも知れない。
ただ、完全犯罪というものは、意識すればするほど、ボロが出てくるもので。特に一つ考えている犯罪の一つに、
「諸刃の剣」
と言えるような犯罪がある。
というのは、
「成功すれば、これほど完璧な犯罪はない」
と、言えるものがあったのだ。
というのは、この犯罪は、
「アリバイを完璧にする」
というのが、ミソのトリックであるのだが、そのために、
「一番難しいハードルを越えなければいけない」
という意味も含まれている。
アリバイを完璧にするために、起こる現象が、リアルには、
「ありえないこと」
ということになってしまい、それが、シンプルな事件を、さらにシンプルにすることで、事件の形から逃げられなくなるといってもいい。
この犯罪は、
「成功すれば完全犯罪であるが、リアルでは、ありえない構成になっている」
といってもいいだろう。
ということは、
「この犯罪は、犯罪という一種のトリックが見破られた時点で、終わりなのだ」
と言えることである。
さらに、もう一ついえば、必ず、複数の犯罪を必要とするもので、最初の犯罪を行った時点で、リアルでは、その時点から、
「あり得ない事件」
となってしまうのだった。
物理的にあり得ないということでもあるが、もっといえば、
「心理的にありえない」
と言った方がいいだろう。
だが、完全犯罪という意味でいけば、
「アリバイは完璧である」
ということと、犯人にとって、
「自分が犯人であるということを見抜かれるということはない」
というものだ。
つまり、犯人として、容疑者自体に上がってこないのだから、警察から容疑者リスとに入ることはない。
だから当然、アリバイも完璧ということだから、
「警察の捜査線上に浮かんでくることはない」
という意味で、
「完全犯罪成立」
ということである。
しかし、これはあくまでも、
「完全犯罪の相手に対して、完全犯罪だ」
と言っているわけで、犯人側からすれば、こちらの方が諸刃の剣だということになる。
この場合の完全犯罪を成立させるためには、
「一人ではできない」
ということになる。
ここまで言えば、賢明な読者であれば、何が言いたいのかということが分かるというものではないだろうか?
そう、この犯罪というのは、
「共犯者を必要とする」
ということなのだが、この共犯者というのが、
「共犯者であって、共犯者ではない」
ということになる。
何が言いたいのかというと、
「二人で協力して犯行を行うという意味での共犯者ではない」
ということになるのだった。
「ということは、どういうことになるというのだろう?」
と、いろいろ考えられるが、このあたりの犯罪は、面白くて読んでいた、戦前戦後の探偵小説にあまり出てくるものではなかった。
実際に出てきたのが、いつ頃からなのか分からないが、元々概念はあったのかも知れない。
しかし、実際にリアルな殺時としては、あまり
「実用性がない」
ということからか、避けられていたのかも知れない。
そういう意味でも、
「小説ではありえても、現実にはなかなかありえない」
ということのゆえんなのかも知れない。
ここまでくれば、どういう殺人なのかということも分かってくることだろう。
そう、いわゆる、
「交換殺人」
である。
「お互いに、縁もゆかりもない人間を殺し合う。だから、相手に殺害させておいて、実際に恨みを持っている人間に、アリバイを作る」
ということを交互にするわけで、主犯と実行犯が、交互に入れ替わるという意味で、特殊ではあった。
だから、この事件は、一見、
「連続殺人」
でなければ成立しない。
だから、考え方によれば、最初の主犯の方が絶対に有利なのだ。
なぜかというと、最初の実行犯は、主犯に完璧なアリバイを作っておいて、確実に殺しさえすれば、主犯にとっては、その時点で、
「完全犯罪」
ということになるのだ。
だから、何も、その後に、いくら約束だからといって、自分が危険を犯して、次の殺人の実行犯になる必要はないのだ。
圧倒的に有利なのは、最初の主犯であり、
「自分は手を下していない。しかも、アリバイは完璧、実行犯は、動機がないといっても、実際に殺人を犯したことに違いはない」
「実行犯が犯人だ」
と警察にいえばどうなるか?
といって、実行犯を脅迫すれば、何も言えなくなるのは目に見えているわけだ。
しかも、アリバイを作る関係から、絶対に、同時に殺人を犯すわけにはいかない。つまり、犯行の順位がつく時点で、この犯行は、完全犯罪ではなくなるということだ。
しいていえば、最初の主犯にとって、完全犯罪ということなだけであって、全体的に見た、
「交換殺人」
という意味では、まったくの無意味になるのだ。
それを考えると、実行犯には、まったくのメリットはなく、すべては、主犯にあるということだ。
殺したい相手を殺してもらえずに、自分だけが犯人ということで警察に追われることになる。主犯には動機はあるが、その分、完璧なアリバイがあるので、それを動かすことはできない。
そもそも、そのアリバイ作りに自分も加担しているのだ。
何とも、
「お花畑にいたような気がして、苛立たしい」
ということになるだろう。
そう、
「完全犯罪などというものは、絵に描いた餅のようではないか」
と言える。
しかも、それを最初から分かっているからこそ、昔の人は発想はあったかも知れないが、小説として書かなかったのかも知れない。
「いや、本当に最初から、交換殺人というアイデアが出なかったのかも知れない」
どちらにしても、犯行を犯すということは、それだけのリスクがあるということで、
「完全犯罪など、あり得るわけがない」
ということになるのだ。
「やはり、犯罪というのは、心理的な部分が大きくかかわってくる」
ということの証拠となるのではないだろうか?
そんな、
「交換殺人」
であるが、
「完全犯罪」
としては実に不十分であった。
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