第4話 菌とウイルス

「世界的なパンデミック」

 というのが、発生してから、今年で四年目となった。

 丸三年という期間、日本中、いや世界中で、

「未知のウイルス」

 と言われてきたものと戦うことを余儀なくされた時期だった。

 そのウイルスというのは、

「今までにない感染力と、致死率が結構高い」

 と呼ばれたもので、特に最初の一年間は、世界中の誰もが、

「何も分からない状態で、ただ怯えているという状態だった」

 ということもあり、

「政府の方針などが、各国の未来を決める」

 と言われていた。

 そういう意味では、日本は最悪で、世界の中でも、ひどい状態だった。

 すべてが後手後手に回ってしまい、まったく、何も成功することはなかった。

 そのせいもあってか、

「有事の際は、政府の支持率が上がる」

 ということで、世界各国で、実際に危なかった政府も、パンデミックのおかげで、延命に成功したところもあったくらいだ。

 しかし、世界の中で、数か国だけ支持率を下げた国があり、日本はその中に入っていたのだ。

 しかも、その他国の中では、支持率を下げるに明確な理由がある国がほとんどだったのだ。

 というのも、

「新型ウイルスは風邪と同じだ」

 などと発言し、一気に支持率を下げるという、ところばかりだったのだ。

 日本では、そんな明確な発言があったわけではない、純粋に、政府の政策に対しての評価だった。国民のシビアな状態に、当時のソーリは、病気と称して、病院に逃げ込むというのだから、とんでもないことであった。

 しかも、そこから政府の、

「暴走が始まった」

 といってもいいのでないだろうか?

 というのも、まずは、次にソーリになった男が、これまたひどく、

「こんな伝染病が猛威をふるっていた」

 という時期に、強引にオリンピックをしようということだったのだ。

 これまでの3年間の中で、一番、感染力の高さと、致死率の高さのバランスが、それぞれ高かったことから、

「医療崩壊なども起こり、一番最悪の時期だった」

 と言われている時期だったのだ。

「救急車を呼んでも、なかなか来ない」

 あるいは、

「救急車の乗り込んでも、受け入れ病院が見つからない」

 などということで、救急車の中で、数時間行き場がなくて、そのまま、

「帰らぬ人」

 になってしまったなどということは、ざらだったのだ。

 しかも、こんな状態において、政府は、何も対策を取っていない。

 それこそ、何をしていいのか分からないのだろう。

 そんな状態であれば、本当に何もしなければいいのに、それを、オリンピック開催という強硬手段に訴えたのだ。

 元々、パンデミック初年度が、ちょうど、日本開催のオリンピックだったのだが、パンデミックを理由に、1年延期となった。

 しかし、

「これ以上の延期はできない」

 ということで、選択肢は、

「開催か、中止か?」

 の実質二択しかなかったのだ。

 世論調査では、国民の8割近くが、

「反対」

 といっているのに、それでも、政府は強硬したのだ。

 しかも、そのスローガンとして、

「パンデミックに打ち勝った証」

 などという寝ぼけた内容で、それこそ、国民のほぼ全員が、白けてしまったに違いない。

 政府とすれば、

「始まってしまえば、それまでの反対意見も賛成に変わるだろう」

 という甘い見解であったが、そんなバカなこともなく、結局、

「オリンピック委員会や一部の特権階級が儲かるだけの、日本国民を犠牲にしようとした悪名高きイベント」

 となってしまったのだ。

「大体、オリンピックなど、最初から見ない」

 という人だってたくさんいるだろう。

 誰もが、

「スポーツが好きだ」

 などというのは、ただの幻にしかすぎないといってもいいだろう。

 それを政府は分かっていない。

 誰もが自分たちと同じ目線でいると思うのは、大きな間違いだ。

 そんなことも分からずに、

「よく政府などやっていられるものだ」

 ということで、オリンピックが終われば、さらに支持率を下げ、ちょうど、衆院解散という時期だったこともあり、

「この支持率では、政権交代にもなりかねない」

 ということで、党内からも、ソーリの交替論が噴出し、結局、総裁選立候補もできなくなったことで、必然的に、

「ソーリは交代」

 ということになったのだ。

 新しい総裁には、それまでの派閥とは違う人が総裁に選出された。

 国民のほとんどは、

「これでよくなる」

 ということになったのだが、それが大きな間違いだった。

 閣僚人事が、まるで、強いところに忖度した、自分の公約をいきなり破るような人事に、少なからずの不信感があったかも知れないが、

「新人ソーリなんだから、しょうがない。これからを見て行こう」

 といっていたが、その、

「これから」

 というものが最悪だったのだ。

 というのも、どんどんひどくなっていくのであって、

「海外で、戦争が起こった」

 ということになれば、片方の国を贔屓する形で、日本国内では、パンデミックのために冷え切った経済や、火の車の経営者を救うために使わなければいけない金を、

「人道協力のため」

 ということのようだが、実際には、

「その金で、戦争のための武器を買う」

 ということに使われることを知ってか知らずか、政府は惜しみなく送っているのだ。

 しかも、相手国に対しては、経済制裁である。

 これが、日本ではない他の国であればいいだろう。日本という国は、憲法に謳われているように、

「戦争放棄」

 をした国なのだ。

 専守防衛しかできず、先制攻撃もできないと憲法で決まっているのだから、他国で戦争がおこれば、どういう態度を取ればいいのかということは、選択の余地がないというものだ。

 というのは、

「中立の立場」

 というものを、鮮明にし、

「日本は、戦争に関わらない」

 という立場にしておかないと、もし、攻めこまれれば、言い訳ができない。

 攻めた国からすれば、

「日本が経済制裁をしてきたから」

 ということで、

「経済制裁を宣戦布告とみなす」

 とされてしまうと、果たして、どう言い訳をすればいいというのだろう。

 要するに、今の政府は、そんな簡単なことも分かっていないのだ。

 国連などの加盟国が、経済制裁をするといえば、

「右倣え」

 で従うしかない。

 しかも、別に戦争をしている国に対し、支援金を送る必要などないのに、

「日本人、つまり自国民と犠牲にして、しかも、税金という、国民の血税からお金を払うのだ」

 ということになる。

「だったら、自分たちのポケットマネーで払えばいいじゃないか?」

 と思うのだ。

「金額が全然足りない」

 というかも知れないが、何も大盤振る舞いをする必要はない。

 その国のできる範囲でいいものを、

「武器を買うための金を供与する」

 など。暴挙もいいところである。

 日本という国は、そんなに自国民を犠牲にしてまで金をやるということになり、これから、どんどん、他の国に舐められ、足元を見られ続けていくことは、目に見えている。

 それを最初にやったのが、今のソーリということgt、数年後には、

「亡国のはじまりは、あの時のソーリだったんだ」

 と、国民も気付くだろう。

 しかし、その時には、

「時すでに遅し」

 ということになる。

 何といっても、日本だって、周辺諸国に脅威を抱えていて、

「防衛費の増額」

 ということで、増税だなどと言っているのだ。

 肩や、戦争の武器を買うために金をやって、肩や、国民には増税を強いる。

「何か間違ってはいませんか?」

 ということなのだが、ソーリ自体が、

「諸外国にいい顔をしたい」

 というだけのことで後先考えずにやっているのだから、

「救いようがない」

 といっても、過言ではないだろう。

 それを思うと、

「史上最悪のソーリ」

 という呼び声が出てきたが、それも無理もない。

 しかも、もっとひどいのは、このソーリは、前ソーリの、

「悪しき伝統」

 も受け継いでしまったのである。

 というのも、

「国民のほとんどが反対している」

 ということを、強行突破してしまうという伝統である。

 これは、

「政治家が一番やってはいけないことだ」

 と言えるのではないだろうか。

 というのも、

「日本という国が、民主国家である」

 ということだからである。

 民主国家というのは、基本は多数決である。

 つまりは、

「国民の過半数の反対があればできない」

 というものではない。

 もっと厳しいもので、

「国民の過半数の賛成がなければ、やってはいけない」

 ということになるのだ。

 だから、反対が40%であっても、どちらでもないという人が20%いれば、賛成派40%ということになり、過半数にいかないのだ。

 だから、いくら反対が過半数に行かなくても、賛成が過半数を超えていなければ、政府の方針にはできないということであった。

 それを、政府は、賛成が過半数いるどころか、反対がほとんどのことであっても、強硬にやってしまう。それは、前のソーリの、

「オリンピック強硬」

 という政策が、悪しき伝統となって、受け継がれてしまったといってもいいだろう。

 それを思うと、

「日本という国は、もうすでに、亡国に向かってまっしぐらなのではないだろうか?」

 と言えるだろう。

 そんなことを考えていると、今のソーリがどれだけひどいものかということが、どんなにバカな国民でも分かってくるだろう。

 以前は支持率が60%近くあったものが、今では、その半分にも満たない。

「政権維持のデッドライン」

 というところまで来ているのだが、いかんせん、衆議院の任期が、まだかなり残っている。

 ということは、

「ソーリが解散命令でも出すか、野党から出た内閣不信任案が可決されるか」

 あるいは、党内部から、

「今の政権に賛成できない」

 という意見が膨れ上がってくると、政府の解散は実現もあるだろうが、あまりにも、今の時点では、非現実的だ。

 問題は、

「この選挙のない時期に、どれだけの暴挙に出るか?」

 ということである。

 どんなにバカなソーリでも、自分が次期もソーリの座にいられるわけはないということを自覚していることだろう。

 だとすれば、後は、

「名前を残したい」

 ということで、いろいろなことを打ち上げてくるだろう。

 そこには、

「国民のため」

 などという考えはかけらもなく、結果、

「自分の名を遺す」

 ということだけのために、

「政府の私物化」

 ということに走るに違いないのだ。

 今のソーリはそういう史上最悪のソーリなのだ。

 これを、亡国と言わずして何というか?

 ということであろう。

 そんな時代において、ウイルスというものを、今まで知らなかった人も少しは勉強するようになった。

 病気の中でも、

「ウイルス」

 と、

「菌」

 というものによる、伝染病というのが、いくつかあることも学んだ。

 大きく分けると、この二つであり、それぞれに違いはあるのだろう。一般的に、

「その構造上の違いから、細菌は細胞のようなもので、ウイルスは、物質に近いという、そういう意味で、ウイルスには、抗生物質は効かない」

 と言われている。

 病気をもたらすもので、

「ウイルス」

 というと、

「インフルエンザであったり、最近流行の新型コロナと呼ばれるもの」

「細菌」

 というと、

「結核であったり、コレラなどの伝染病」

 もあるが、細菌の場合は、

「すべてが悪いものだ」

 というわけではない。

 組織が、

「細胞」

 からできているのだから、身体にイイと言われる細菌だってあるのだ。

 たとえば、

「ビフィズス菌」

 などと言われるものもあり、キノコなどの胞子植物の中には、クスリとして使われるものもあったりする。

 ウイルスと呼ばれるものが、細菌は、猛威をふるっている。

 いわゆる、

「世界的なパンデミック」

 と言われるものが、

「新型コロナウイルス」

 であり、やっと、2年目くらいに、ワクチンなるものが、突貫で開発され、

「さまざまな副反応が起こる可能性がある」

 ということで、賛否両論で、いろいろ別れたが、基本的には、

「ワクチン効果か、それほど大事には至っていない」

 と国は発表しているが、本当であろうか?

 国の発表と、実際に罹った人の話では、

「天と地」

 ほどの差があると言われているので、どちらが信じられないかと言われれば、間違いなく、

「政府発表」

 ということになるであろう。

 実際に、ワクチンの接種率は、高齢者、基礎疾患がある人、医療従事者などは、かなりのものだが、40代以下ともなると、全滅に近いくらいである。

 要するに、政府発表に信憑性や、一貫性がないから、誰も政府を信用などしないのだ。

 まあ、もっとも、

「今のあの政府で、誰が信用などするというものであろうか?」

 ということなのである。

 実際に罹った人の話では、

「病院は、ほとんど何もしてくれない」

 という。

 以前、政府が、

「特効薬として飲み薬がある」

 といっていたが、医者は、

「高い」

 という理由で、使用しようとしない。

 完全に最初からないものと同じだ。

 しかも、

「特効薬があるから、もう大丈夫だ」

 と確か言っていたはずだったのだが、

「ないに等しい特効薬だ」

 ということを政府は分かっているのだろうか?

 いや、分かっていて、確信犯として、言っているだけではないかとも思える。そうなると、もう、誰も政府に対して、信頼を感じる人などいないだろう。

 要するに、

「政府は国民の命はどうなってもいい」

 という考えで、結局、

「自分の命は、自分で守らなければいけない」

 ということになるのだろう。

 そして、ウイルスの特徴としては、

「細胞形式ではないので、自分で細胞分裂をすることはできない」

 ということになり、ウイルスの恐ろしさは、

「自分で、変異をできる」

 ということであった。

 変異をしてしまうと、それ用に開発したワクチンが、効かなくなる可能性がある。

 ということになる。

 つまりは、

「変異してしまうと、まったく別のウイルス」

 ということになるのだ。

 今回の新型コロナの場合は、それが激しい。

「一年と言わず、変異を繰り返している」

 ということで、国内で何度となく起こった波であるが、三年間で、何と、

「第八波」

 までになっているのだった。

 そんなに変異を繰り返すということなので、本来なら、変異したウイルスに、今までのワクチンが有効かなのかということは、分かるはずもない。

 しかし、それでも政府は、

「有効だ」

 といって、打たせようとする。

 それが本当にいいことなのかどうか、実に問題なことだが、

「どうせ国は、何かあっても、因果関係を持ち出して、闇に葬り去ろうと考えているのかも知れない」

 と言えるだろう。

 そんな、

「世界的なパンデミック」

 と呼ばれる、

「コロナ騒動」

 も、強引に政府は終息させようとしている。

 まだまだ患者も多く、今後、どのような変異があるか分からないのに、政府が投げ出してしまうとすれば、国民はどうすればいいというのか。

 もっとも、それを待ち望んでいる、実に無責任な若い一部の連中は、

「俺はかからない」

「罹っても重症化しない」

 と思っているのかも知れないが、重症化しなくても、後遺症で、真剣に悩んでいる人がいるということを失念しているのではないだろうか?

「まあ、余計なことを考えてもしょうがない」

 と、今のところは、そういうことになるのではないだろうか?

 そんなウイルスとは違い、細菌の方は、

「いい菌、悪い菌」

 とそれぞれで分けて考えることもできるだろう。

 悪い菌は、身体を深刻にむざぼってしまい、

「新型コロナ」

 とは違った意味で、問題になるというものではないだろうか?

 そんな菌であるが、最近、問題になっているのは、

「人間の心理的な部分を貪る菌」

 というものの存在であった。

 その菌は、いくつかあり、ある研究者の論文の中には、

「心理学でいわれている症候群であったり、効果であったりというものは、その正体に、菌というものが関わっている」

 というものであった。

 たとえば、

「カプグラ症候群」

 であったり、

「サッチャー効果(錯視)」

 などと言われる、心理的な錯覚も含むところの状況に、菌というものが関わっているという考え方である。

「カプグラ症候群」

 というのは、

「自分の近親者、つまりは、肉親であったり、恋人であったりする人が、密かに悪の組織によって、別の生命体に則られていて、次第に自分の周りの環境から、変わっていっている」

 ということを感じるという、心理的効果のことをいうのだという。

「サッチャー効果(錯視)」

 というのは、

 目の前にある絵や写真をさかさまにして見た時、まったく違ったものに見えてくるという、

「視覚による錯覚」

 というものであった。

 それらのものも、最近によって、もたらされるということであれば、前章において出てきた、

「バーナム効果」

 などという、心理的錯覚を引き起こすものも、最近によるものだとすれば、いろいろ辻褄があってくるようなことも考えられたりするのだった。

「じゃあ、実際に、何か大きな問題となっている菌はないだろうか?」

 ということになると、順平の中で、一番大きなものが何であるかというと、

「自殺」

 というものではないか?

 ということを密かに考えていたのだった。

 この話は、前から考えられていたことではないかと思う。

 というのも、

「いつも自殺を考えている人がいて、手首には、ためらい傷がいつも残っているという、リストカットばかりを繰り返す女性がいたりする」

 そんな女性に、

「自殺菌がとりついたのだ」

 ということであれば、

「どこか、納得のいくところがある」

 と言えるのではないだろうか。

 自殺菌というものは、研究家と呼ばれる人たちの中で、今のところ、一番研究されているものだった。

 一番重要なきとで、

「一人でも死者をなくさないと」

 という問題に絡んでいることと、

 もっと身近な考えで、

「自殺菌を扱う方が楽なのだ」

 ということであった。

「自殺をしようとする人の精神状態に、細菌がいかに絡んでくるというのか」

 そして、

「自殺菌というものの実際の増殖を考えてみると、その成長が、ウイルスの変異とどこが違うのか?」

 という問題である。

「ウイルスは変異をするが、自殺菌も最近になって、ウイルスのように変異をする」

 という人もいて、

「自殺の場合だけは、菌ではなく、ウイルスなのではないだろうか?」

 と考える人もいる。

 つまり、

「菌というのは簡単に作ることはできないが、ウイルスに関しては作ることができるので、今回の新型コロナのように、自殺をする人間は、そんなウイルスの存在を分かっていないのだろう」

 と考えられる。

「菌だと思っていたものが、ウイルスだったということになれば、どこまで問題として追及すればいいのか?」

 と考えられるだろうか?

「自殺を試みる人にも、いくつかの方法がある」

 つまり、

「服毒」

「リストカット」

「飛び込み」

 などという死に方の種類である。

 自殺をする人は、どれを考えるのだろう?

 そこが、自殺菌というものの最初の関門ではないだろうか?

「一番楽な死に方」

 というものから入って、そして、

「確実に死ねるもの」

 に至る。

 しかし、ここで問題になるのは、

「死に損なった場合に、どうなってしまうのか?」

 ということである。

 それが、また、

「確実に死ねる方法」

 というところに戻ってくるのである。

 服毒の場合で考えると、

「確実に死ねるかどうかは難しい。摂取量を間違えると、下手に生き残ってしまい、それこそ後遺症が残るだろう」

 というもので、

「死ぬのも難しいが、後遺症が怖い」

 ということである。

「リストカット」

 の場合は、一番楽と言えば楽なのかも知れないが、

「ためらい傷が残る」

 という意味からも、確実に死ねるということからは、一番難しいこととなるだろう。

 では、

「飛び込み自殺というのはどうだろう?」

 飛び込み自殺も、確実に死ねるとは限らない。しかも、死に損なったら、実に悲惨な状態になる。

 忘れてはいけないのが、

「電車などの公共交通機関に飛び込んだ時は、確実に交通機関に対して営業妨害になるとうことだ」

 鉄道会社などは、運航の邪魔をした場合は、

「その賠償を邪魔をした相手に払わせる」

 ということで、多額の賠償金が課せられるということである。

 つまりは、もし、本人が死亡したりして、支払い能力がなくなったとしても、その支払いは、

「家族に委ねられる」

 ということで、

「保証人にもなっていないのに。いきなり数百万円という借金を負わされる」

 ということになるのだ。

 保険金も、

「飛び込み自殺では下りない」

 と考えるのが基本であろう。

 というのは、昔であれば、

「自殺では保険金は下りない」

 ということになっていたが、実際には、

「保険会社が認めれば下りる場合がある」

 という。

 その一つとして、

「自殺者が、判断能力のない場合での自殺」

 では下りることがある。

 また、

「保険金目的の自殺ではない」

 ということが前提だとすると、飛び込み自殺というのは、

「明らかにこれに当たる」

 というものである。

 ほとんどの人は、

「死亡保険」

 というものに入っている。

 自殺の理由にもよるのだろうが、

「借金を苦にしての自殺」

 ということであれば、明らかに、

「保険金目的だ」

 といっても過言ではない。

 そうなると、保険金は下りないといってもいい。

 だとすると、飛び込み自殺では、残された人に保険金が下りないどころか、元々の自殺の原因となった借金に、上乗せする形で、今度は、交通機関の賠償金が加算されることになり、下手をすると、家族が今度は、

「自殺をする」

 ということになるかも知れない。

 それを考えると、

「飛び込み自殺ほど、割に合わない死に方はない」

 と言えるのではないだろうか?

 それなのに、飛び込み自殺というものがまったく減らない。

 それどころか、近年のコロナによっての経済の冷え込みで、自殺者は増えているので、「余計に、飛び込みが比例して増えている」

 といってもいいだろう。

 それが、今の時代の、

「自殺というものの、現状だ」

 といってもいいのではないだろうか?

 ただ、ここで、一つ気になるのが、

「割に合わないはずの飛び込み自殺が、増えている」

 ということだ。

 確かに自殺を考える人には、

「冷静な判断能力がなくなってきている」

 と言えるのだろうが、少し冷静に考えれば、

「飛び込みが割に合わない」

 ということは分かるはずだ。

 それなのに、飛び込みに走るというのは、

「本人の考えに寄らない何かの力が働いているからだ」

 といってもいいのではないだろうか?

 つまりは、それが自殺菌というものの正体であり。自殺をするということが、どういうことなのかということを本人が理解していることも、難しいところである。

 そういう意味で、保険金の授受について、受け取れる理由であるところの、

「判断能力に欠けていた」

 ということであれば、保険金を貰えるということで、

「自殺菌なるものの存在が証明されれば、自殺した人は漏れなく、保険金がもらえるということになる」

 というものだ。

 しかし、この時、問題は、やはり、

「飛び込み」

 ということであろう。

「判断能力がない」

 ということが生きるのか、それとも、

「保険金目的ではない」

 ということが優先するのか、たいていは前者であろうが、保険会社は、当然、表からっ見た状況で、

「保険金目的だ」

 と判断するだろう。

 医者や精神科医が、

「判断能力がなかった」

 ということを証明でもしない限り、保険金を貰うことは難しいだろう。

 つまり、

「賠償金が絡む自殺は、保険金目的と疑われてしまう」

 ということになりかねない。

 逆にいえば、そんなことも分からないということで、

「判断能力のない犯罪」

 と言えなくもないということが、これほどの皮肉になるとは言えないのではないだろうか。

 しかし、自殺で保険金が下りるという発想は、基本的にはおかしいものである。だからこそ、昔から、

「自殺では保険は下りない」

 と言われていたのであり、今でも基本的にはそうなのだ。

 何と言っても、保険法という法律で決まっていることなので、後はその範囲内で、保険会社が、

「どのような内容の保険を作るか?」

 ということになってくるのであった。

 そのあたりを考えていると、

「自殺菌」

 というものの、信憑性も高くなっていくのではないだろうか?

 他の精神疾患であったり、心理的現象を、

「菌によるもの」

 と考えていくのであれば、

「死にたくなってしまう」

 という心境が、

「菌によるものだ」

 と考えるとするのであれば、それこそ、

「都合がいい」

 という考えになるのであろうが、そもそも、菌によって支配された人間というのは、ある意味、都合よく動くようになっているのかも知れない。


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